再び村に足を踏み入れれば、前と同じ気配の漂うそこにセレストは警戒を強めた。
何も変わらない。
「おお、軍人さん……」
声をかけてきたのは農夫だった。
「戻ってきたので?」
「はい」
「例の怪物は厄介ですなぁ。案内出来るものがおれば良いのですが」
セレストは曖昧に笑うと、腰のベルトを軽く叩いて彼にむき直す。
「あの怪物をどこでご覧に?」
そう聞けば、農夫は軽く顎をしゃくって上を見た。
「どこで……? ただ、時々林道に出てくる影を見ただけなのです。皆も見たことはあるのですが、バラバラで」
「山に棲んでいるというのは……」
「そこへ帰るんですよ。まあ……陽が落ちる前には、必ず」
「陽が落ちる前に……犠牲者はいるのですか?」
「いいや。軍人さん、遠くから来て大変でしょう。今日はゆっくりしなさい」
セレストは村を見回り、夜には宿へ行くと告げると村を歩き出した。
水車がゆっくりと回り、トタン、トタン、と小気味良い音を立てている。
育つ野菜は清流でしか育たないと言われているハーブだ。
川の流れに沿って造られた段々の菜園は手が行き届いており、青々しい緑の芽を出している。まるで動く絵画のようだ。
あまりに美しい山ではないか?
怪物の気配などまるで感じない……そう思っていると、のっそりとした空気が頭上を漂う。
はっと顔をあげれば、樹の枝にいたのは蛇だった。
セレストの腕ほどある太さで、白い鱗は木漏れ日で光り輝くようである。
蛇はセレストの匂いを嗅ぐように顔を近づけ、舌を出してしばらく顔を見ると、さっと枝に戻ってしまった。
そのまま蛇は姿を消してしまう。
「……蛇か……」
そういえば、ウィローには蛇王なる者がいる、とコネクションの者が語っていた。
何でも若返りの秘薬を授けるとか。
魔女マグノリアに巨大鷲の卵と引き替えにそれを授け、命を救ったという。
それ以来蛇王の秘薬は、コネクションの者達にとって半ば憧れとなっていた。
セレストは山の入り口までを歩いたが、この時怪物を見つけることはなかった。
陽が落ちると約束通りに宿へ向かう――星が見える村の真ん中まで出ると、村人が集まっているのが見えた。
かがり火が焚かれ、村人は火の粉を浴びながら同じ方向を見ている。
セレストは見下ろせるよう山道を登り、村民の視線の先を追った――そこには小さな祠があり、そこにいたのは、火のため白く浮いて見える衣をまとったあの女性であった。
村民達と一緒に何やら祈った後、彼女は村民に何か配り始めた。
それを見ていると、セレストは宿屋の女将に声をかけられた。
「戻ってきたのね。丁度良いわ、巫女様からお守りをいただいたらどう?」
「いや、私は……」
断ろうとしたが、女将の手はセレストの腕を掴み、放してくれそうにない。
結局セレストは列に並ぶことになり、彼女の前に来ると気まずくなり目をそらした。
「……なかなかしつこいのね」
と、いきなり嫌味を浴びせられ、セレストは眉間に皺をよせた。
「私は……よそ人だ」
「だから何? 薬草ならあるわ。持っていくのは結構よ」
巫女はセレストの手にお守りを乗せる。細い指先が軽くふれ、セレストは火傷でもしたかのように引っ込めたが、彼女にむき直す。
「話がしたい。あの怪物は一体何なんだ?」
「今はだめ」
巫女はセレストの後ろの行列を示す。
「後でなら良いわ」
そういう彼女にセレストは頷いた。
村民もそれぞれ帰宅した後、セレストは巫女の後を歩き、村外れまで出た。
彼女はそこから先へは行かず、ぴたりと止まる。
「……あの薬草は効いた。まるで傷の痕もない」
「そう」
「巫女様はどこに住んでいるんだ?」
「あの山よ」
巫女は怪物と戦ったあの山を指さす。
「真剣な話だ」
「冗談に聞こえるの?」
「……あんな怪物がいる山で?」
「危険そう? 心配してるの?」
「……からかわないでくれ。とにかく、あの怪物は一体なんなんだ?」
「放って置いても害はないんじゃない? 滅多に山を下りないのだし」
「だが目撃情報はあって、水源を塞いでいると……」
「去年の雪は少なかったわね」
巫女の指摘にセレストは眉を軽く持ちあげた。
「……犠牲者は出ていないと聞いた」
「でしょう。軍人さんが出る幕はないわよ」
「……それでも帰れないが。とにかく、調査はしたい」
「無理よ」
「常人では、というやつか。なら誰なら入れるんだ?」
巫女はセレストを振り返った。濃いくらいの紫の目がセレストを捕らえる。
「竜の資格あるもの……なんてね」
山へ帰るという巫女を送ると、巫女の目がセレストの佩いていた剣に伸びた。
正確には、鞘を。
「ずいぶん汚れているわね」
「これか? 父上から頂いたものだ」
セレストは鞘ごと持ちあげる。
そういえば、黒々とした部分が増えている?
「……泥に落ちたわけでもないのに……」
「気になるなら鞘を洗えば良いわ」
巫女は草についていた露を鞘に落とした。
ぽた、と落ちた部分だけが黒いススのような汚れを落とす。
「……こういった物をよく見てきた」
「そう? けっこう驚かれるのに」
「私は……各国の美術品や曰く付きのものに囲まれて育ったから」
「貴族か何かだったの?」
「いいや。しいて言うなら、それを貴族に売る仕事を手伝っていた」
「美術商なの」
「ああ」
巫女は鞘に触れようとし、寸前で手を止めるときびすを返そうとした――その瞬間、がくんと膝から崩れ落ちる。
セレストは慌てて彼女を支え、手を取ると彼女を立たせた。
「どうしたんだ?」
「ちょっと痛めて……」
「あの薬草は?」
「使ったけど、まだ完全に治ったわけでは……」
巫女が顔をあげた。
至近距離で目が合う。紫色の目に、大きく開いた瞳孔。そこにセレスト自身が映り込んでいた。
「……」
「……」
セレストが握る彼女の手はこれ以上力を入れれば折れそうなほど、か細い。
か細いのに、温かい。
手も、腰も。
ヤナギのようである。
「……もう大丈夫よ」
「……あ、ああ。うん。すまない」
手を離すと、温かかった手に風が入り込んで体温を奪ってしまう。
名残惜しい気分になったが、セレストは山道へ行く彼女をそのまま見送る。
「……そんなに必死にならないで。怪物なんてこだわらなくても、他で功名を立てれば?」
「……問題がないなら、そうするつもりだ。だけど……養父が言うなら、何かあるということなんだ。それを確かめるまでは、諦められない」
「……そう」
巫女は小さく言うと、首を横にふる。
そのまま振り返らずに山へ登っていった。
(そういえば)
セレストはふと気づいた。
彼女の名前を聞いていない――
翌朝目覚めると、すぐに山へ向かう。
水の流れに沿って登るが、どこもかしこも空気は澄み切っている。
害のない怪物。
そんなイメージがわいてきた。
ごまかすように笑みを浮かべ、歩を進める。
養父が言い、さらに傷を治す薬草がある。
やはりこの山には何かあるのだ。
それが得られれば、帝国による支配から民を救える。
……本当に?
「本当に、帝国は支配しているか……?」
街道は整備され、道行く人々は朗らかな笑顔を浮かべている。
セレストは各王国を巡り、貧窮している者達をよく見てきた。
――ああ、帝国による被害者だ。哀れな者達を救わねば。
養父・デラバイの言葉が胸のあたりから蘇る。
「でも、なら、帝国の法がなくなったら?」
セレストが呟くと、風が答えるように木々を揺らした。
さあ―……という音が耳を洗っていくようである。 つられてセレストは葉陰を見上げた。
「……無法地帯だ。そうなったら、コネクションが彼らを統治する?」
そう言った瞬間、背筋にぞっとしたものが走った。
ゾウのように、あの女のように、皆が虐げられて若くして死を望むことになるのか。
(なぜこんなことを考えるんだ)
セレストは、自分の中に芽生えた想像に確信めいたものを感じたが、急いで頭の中から追い出す。
「父上が間違えるはずがない……あの女は秘薬に手を出したせいだ、とおっしゃっていた」
罪の裁きだ。
さくさくと草を踏み歩き、喉の渇きを感じて川へ向かう。
膝をつくと、鞘が石に当たってコンとなった。
見れば、昨日きれいになったはずの部分がまたどす黒くなっている。
「……どういうことなんだ」
川の水を掬い、鞘に流すとそれはたちまちきれいになっていく。
ますます意味がわからない。
衣服にもどこにも黒い汚れは移っていないのだ。
鞘を取り、川に直接ひたした。
あっという間に黒々とした汚れは落ち、目に鮮やかな装飾が現れる。
丹の縁取り、金銀の彫金細工、黒光りする大部分は汚れと違って美しい。確か、漆と呼ばれる樹脂だ。
一部欠けてはいるが、珍獣の彫られた丹の部分。
まるでこの鞘自体が美術品である。
「……こんなに美しかったなんて」
思わず見入っていると、上流に気配があった。
ヘドロをまとわせた、あの緑の怪物である。
「……出たな」
びたん、と水かきを岩にぶつけながら近づいてくる。が、どうにも様子がおかしい。
目は怯える子犬のように上目遣いで、それ以上出てこようとしない。
それどころか、引き下がっていくではないか。
「……どうしたんだ? 待て!」
怪物ははいよいよ背を向け、蛙のように跳んで逃げてしまった。
意外に素早い動きにセレストはついていけない。
姿を見失ったが、濡れた跡がある。
それを追っていくと、一際大きな樹の「うろ」に怪物は隠れていた。
「……」
セレストに気づいていないのか、怪物は辺りを警戒しているようではあるが、すぐに頭を引っ込めてしまう。
かなり弱々しく見えた。
それに、怪物の足には傷痕があった。
セレストが刺したものだ。まだ生々しくその部分が盛り上がっている。
セレストは思わず眉を寄せた。
肩の力を抜いて、音を立てて姿を見せる。
怪物はのっそりと顔をあげた。
紫色の目がセレストを捕らえ、一瞬大きく見開かれると、すぐに逃げようと体を翻す。
「いや、待て。戦う気はない」
セレストが声をかけると、怪物は振り返る。
セレストは剣をその場に起き、一歩下がった。
「……そんな様子のお前と戦っても、気分が悪くなる。なあ、皆お前を水源を塞ぐ邪悪だと思っている」
怪物は何も言わないが、セレストの話に耳を傾けているように見えた。
セレストはそれを見ると、続けた。
「だが誰も被害にはあっていないんだ。もし、お前が、邪悪ではないのなら……そのままどこか違う場所へ逃げた方が良いのではないか」
怪物は二度まばたきすると、ふいと顔を背けてしまった。
「それが互いのためだろう。水源がふさがって、村民は困っている。だが、お前に邪な考えがないなら……」
怪物は一度振り返り、喉をならすように唸った。
「それは出来ないということか? 何が目的なんだ? あっ……」
怪物は話はここまで、と言わんばかりに跳んでいってしまった。
追いかけねば、と足を踏み出した瞬間、背中に何か当たり振り返る。
飛んできたのは石だ。
もう一つ飛んでくる。
明らかに人為的だ。
「誰だ?!」
剣を抜いて構えると、一羽のカラスが翼を広げてやってきた。
目元には傷。
剣に構わず飛びかかってくる――セレストが思わず目をつむると、それは幻影だったと知る。
彼のものだ。
「カラスの旦那……」
彼はセレストにはこうやって伝えたいことを伝えてくる。
一体どうやっているのかは知らないが、セレストはとにかく山を降りる――そこにいたのは、えんじ色のジャケットを身に纏う、老紳士の出で立ちに戻ったカラスの男がいた。
名前は知らない。ただカラスの姿になったりすることから、「カラス」「カラスの男」「カラスの旦那」と呼ばれている。
額から右目に爪で引っかかれたような傷痕があり、色の白い肌は北国の男を思わせた。
カラスの時とは正反対の色だ。
「おいでだったのですか」
カラスはコネクションの「客人」であり、相談役でもある。
スピネルは彼を嫌っていたが、デラバイ始め幹部達は彼を必要としていた。
「君の働きに興味があった。さっきは何をしていた?」
「例の怪物を追っていたのです」
「そうか。しかし、争っているようではなかったな」
「……」
セレストは言い合うのが得意ではない。
それに、彼は何を考えているのかわからないところがある。
下手に答えればどうなるだろうか。
「あの怪物とやらはどうでも良いんだ。君の様子が気になったので見に来ただけだ……俺はね」
カラスの男はセレストに思わせぶりに笑みを見せ、後ろを顎で示す。
そこにはデラバイがいた。
心臓がじくりと痛む。
セレストは一瞬息を忘れ、すぐに表情を取り繕った。
「父上」
「何をしている? この村を救うのではなかったか?」
「奴を追っていましたが、思うより足が早く……」
「言い訳はいらぬ。早くしろ。これで村民は救われ、ウィローを帝国から解放する手立てを得られるのだぞ」
冷たい声にセレストは関節がギイッ、となるのを感じた。
怒りをたたえたデラバイはこうして口数少なく人を追い詰めるのだ。セレストは何も言わずに怪物を追う――来た道を戻り、足跡を辿って。
一度だけ振り返ったが、カラスの男もデラバイも後を追う様子はない。
(なぜなんだろう……)
巫女は常人は山に入れないと言っていた。
山頂を目指し、深くなる木々を縫って行く。
濃くなる木々の匂いと澄んだ川の流れる音。
あまりに美しい山ではないか……そろそろ、という音に振り向けば、白蛇が舌を出してセレストを見ていた。
山を行くほどに蛇の数は増えていく。
樹の影がセレストの姿を覆っていった、その時、ヘドロの絡みついたような、あの緑の巨体が見えた。
こちらに気づいていない……セレストはその足を、剣で、貫いた。
その瞬間。
キーン、とあまりに高い悲鳴がセレストの脳に直接響き渡った。
どうやら聴覚に優れるセレストにはうるさいくらいだが、山はまるで平穏なまま。何の音もなっていないように静まりかえっている。
「うぅっ……」
セレストはその声に、顔を歪めるほどだ。剣を取りこぼし、耳を押さえるが頭の中にまで響く悲鳴は止まない。
セレストはバランスを失い、その場に膝をついた。
このままでは吐きそうなほどの苦痛である。
悲鳴をあげているのはあの怪物だ。
剣が刺さった部分から赤い血が流れ、木々の根を濡らしていく。
ずるずると怪物は体を引きずり、セレストに構う余裕もなく奥へ逃げ込んでいく。
セレストはそれに気づき、剣を拾うと身を這うようにして後を追った。
岩の間にある、小さな隙間。
その中は見えないが、怪物はそこに入っていく。
セレストは耳を押さえたまま隙間に身を投じた。
体は下へ、滑り落ちていく。
土はやがてなめらかな表面に変わっていく――まるで鍾乳洞のような。
空は見えず、ただ暗い。
怪物が下に着いたのだろうか、ドスン、と大きな音を立てた。
音から察するに、地面まではあと3メートル……2メートル……1メートル。
セレストは頭を守るようにし、着地を待ったが、衝撃はなかった。
下にいた怪物の胴体が、セレストを受け止めたのである。
その体はかなり熱い。
火傷しそうなほどだ。
「お前……」
怪物はのっそりと体を起こす。その目は虚ろだ、セレストはあのゾウと女を思い出す。
心臓がじくじく痛い。
怪物の目がセレストを捉えた。
どこに光源があるのか、しかし濡れたような目は光を集め、鏡のようにセレストを写している。
「……お前、私を助けたのか?」
ヘドロのように思われた皮膚だが、手が汚れた感覚はない。ぴた、と張り付くような感じだ。
怪物は答えないまま巨体を揺り動かし、迷うことなく進んでいく。
その目はやはりどこからか光を集めていた。
セレストはそれを追うようにし、途中足を滑らせそうになり気づく。
(傷を与えたのは私だ……)
してはいけないことをした、と直感が告げている。
手当が出来ないかと考えるが、この場で一体何が出来るというのか。セレストはただ怪物の後を着いていくことしか出来ない。
熱い体に手を当て、そのまま進むと、光が乱反射して広がる空間に出た。
鏡だらけの空間――というより、部屋だ。
タンスに机に寝台もあり、化粧台まで置かれている。生活感の漂うそこは掃除もされ、まだ誰かが使っている気配で満ちていた。
だがそれらを囲うように置かれた鏡の数。
マグノリアも鏡を愛用していたが、彼女の使うものと違って質素な雰囲気だった。
セレストは口があいているのにも気づかないまま、明るくなった部屋の中をつぶさに見る……すると、そこに黒髪の女の姿を見つけた。
「巫女?」
その場に彼女は素裸のままに倒れていた。
「巫女!」
声をかけ、駆け寄る。
抱き起こそうとしたが体に手は触れない。
鏡の中にいるのだ――セレストが実物がいる方へ振り返ると、そこにいたのはあの怪物であった。
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