青白い空の下を数台の牛車と馬車が山道を進んでいた。
先頭を行く幌車からは揺れる度に中の物がちらほら見えている。金細工で飾られた黒い箱、丸めた紙のようなものに、木の棒など。
山道はいつしか崖道にさしかかり、進む一行は速度を落とした。
飾りのついた馬車の窓が開き、男の顔が覗く。
長いまつげに縁取られた、黒を塗り込めたようなぬばたまの瞳がそれを捕らえた。
彼の瞳がうつしたのは、エメラルドグリーンの美しくも荒々しい大河であった。
***
オニキスは仮面舞踏会の招待状を両手でくるくると弄んでいた。
深紅の絨毯、黒木の窓枠、人よりも高さのある一枚ガラスの窓。
オニキスは出窓に緩く腰掛けたままガラス越しに夕陽を浴び、ブーツを脱いだ格好でシャツの前もはだけさせていた。
父親に見られたら「だらしない」と叱られるだろうが、彼は寝台に伏せっている。
従者の数は減り、邸内は人が少ない。誰にも咎められないことを良いことに、オニキスはゆったりとした格好で邸内を過ごしていた。
半年前まで暮らしていた留学先ではもっとゆったりとしていた。あの辺りは男女ともにローブのような格好をしている。
湿気が多く蒸し暑いため、ぴったりとした衣服は好まれないのだ。
オニキスは瞳と同じく黒々と輝くような豊かな髪を適当に三つ編みにして背中に流す。
この髪も瞳も、出逢う女性陣の頬を赤く染めるあやしげな美貌も母親譲りだ。
彼女は宮殿に仕えるオニキスの父と出会い、そして彼を産んだ。
父は宮殿に仕える掃除人の身だったが、皇帝陛下に見いだされ現在は内政に関わる大臣の一人である。爵位も得て、順風満帆……ところがこの頃の無理がたたったのか、寝込むことが増えた。
留学先から戻ったオニキスは名代をつとめ、そこで父が倒れた理由を知った。
貴族院はじめ、朝廷にいるのは無能か、あるいは足を掬うことに必死な連中ばかりだ。国の行く末や内政、外交に心を砕いている者達も多いが、一部の隙を見せればそれが身の破滅を招く。
ただでさえ国内にはあれこれと問題が起きては積み重なるのに。
「自己中な連中に気取られて、なすべきをなせない。意味不明だ」
招待状は白地に金の字で、父の名ではなくオニキス本人に来ている。印鑑は間違いなく皇帝のもの。
このアッシュ帝国の第14代皇帝その人の。
最後には「気になった相手に贈り物を渡すように」と書かれている。
断れないだろう。
しかし、仮面舞踏会とはどういう風の吹き回しだろうか。
春が近づく今の時期、豊作を願う祭りの一環?
年頃の皇女殿下の相手探し?
だが仮面である意味が分からない。
宮殿にあがれる身分は限られているのだから、その身分を隠すための仮面にどういった価値があるのだろうか。
姿を隠せるため、不埒な輩が紛れ込む可能性は高いのだ。危険だろうに。
「皇帝陛下の気が知れないな……」
数回会っただけだが、かなり気さくで好奇心旺盛な方、という印象だ。それに今上陛下の首都での評判はすこぶる良い。
父の話と重なるが、優秀な者には身分に関係なく地位を与え、功績によって褒美もとらせる。
首都にある学院は年々増築され、学業の分野も幅広くなっていった。
志ある者は皆一様に奮起し、競い、うかうかしているとあっという間に取り残される。
ひりつくようなレースの中、高い山のその頂きを皆が見上げている。
足下にある「もの」に気づかないまま。
彼なりの政策は今のところ成功している。
だがこれからどうなるだろうか? 自覚ある者はどれほどいるだろうか。
「全てはバランスだ。陛下もそれと知りながら、止まることは今出来ない。その時誰が尻を拭うのか……」
ある種の熱に浮かれたような首都を見ながら、留学先のウィローの地を思い出す。
柳の木が揺れる風情あるあの空気感。
栄えているとは言いにくい。至るまでの道路はガタガタで、学院はなく病院は小さい。農地は数年に一度虫の被害に遭い、遊ぶ店はあまりない。農業が成功しなければ食うに困る土地だ。
そんなウィローへ、オニキスは治水を現場で学ぶために留学していた。
山に入り、平地を歩き、川に親しむ。
学院で学んだ後、すぐに政治に関わることを勧める者、誘う者もいたが、オニキスの興味はそちらにはなかった。
それよりももっと広い世界が見たい、と少年のような好奇心を満たしたかったのである。
ウィローには老人が多いが、たまにすれ違う女性のゆったりとした佇まいはひどく優美で、首都にいるような肉食獣を思わせる女性とは違う。
化粧の薄い頬は湿気のせいかなめらかで、涼を得るためにむき出しになったうなじに張り付く髪はなんとも官能的だった。
何よりも、整備された川の流れのように、ゆっくりと穏やかに時が過ぎてゆく。
何かに急かされるように何かを目指した結果、自分や周りを見失わないでいられるあの空間。
「そう考えると、ここの方がよほど苦しいのかもしれないな」
栄えた街並み。色鮮やかな衣服。並ぶ店、料理、花屋。肩をぶつけあいながら行き交う人々。安全の中で暮らす日々。
だが、楽しげな雰囲気の中漂う競争意識。
オニキスは考えるのをやめ、立ち上がるとシャツを整える。
夕餉の時間が迫っていた。
3日後。
舞踏会のために仕立屋が入り、オニキスの体になめらかな生地を当てて器用に針を刺していた。
「家紋は如何いたしましょう」
「今回は仮面舞踏会ということだ。ジャケットの内側に入れてくれ」
「かしこまりました」
仕立屋の白髪交じりの髪は丁寧に髪油で撫でつけられ、その甘い香りが漂う。
ここアッシュ帝国の、特に首都の者は彼と同じような亜麻色の髪が多い。もしくは金髪、白に近い髪色。
オニキスのような黒々とした髪色は珍しい方だ。東のウィローや、南へ行けば同じような髪色を見かけるが。
そのため仮面舞踏会であっても髪が露出していればすぐに誰と分かる。それを解決せねばならなかった。
生地と形を決め、仕立屋が下がっていった。オニキスはローブを着直しながら自身の髪を手で撫でつける。
「髪を隠すなら帽子が良いか」
隣に背を伸ばして立つ、従者のコーにそう話しかける。コーはぽってりとした腹を揺すってむき直した。
「かつらではなく?」
「ああ。髪をジャケットに隠し、帽子をかぶった方が自然だろ」
「確かにそうですね。では、帽子に付け毛も」
「そうするか。全く、金がかかる」
「仕方ありません。財力もある程度見せておかないと、なめられます」
こういった席で着飾ることは、見栄のためではないということぐらいオニキスも分かっている。
が、見栄のための連中が多いこともまた事実だ。
「面倒な連中だ」
「ご令嬢も集まりますからな」
「集団見合いのようだな」
「おそらくそうではないかと、お父上が」
「ふうん」
「若旦那様ももう良い年ですから。お相手を探しませんと」
「大きなお世話だ」
オニキスはフンと鼻をならした。そういうことなら、もしかしたら皇女達は参加しないのかもしれない。
「ウィローに過去あったという、歌垣と似たものを感じるが……」
「歌垣? 初耳ですな」
「集団見合いのようなものだよ」
気に入った相手と、肉体的にその場で契るのだ。
オニキスは対して興味もわかぬまま淡々と作業を再開。黒のジャケットに合わせた、黒の帽子を作るよう注文をつけ、この日の予定は終了。
まだ陽は高い。オニキスはつま先を馬場へ向けた。
舞踏会のその夜がやってきた。
満天の星がきらめく群青の空の下、縦横無尽に伸びる道には馬車が走っている。
いずれもゆったりとした速度。
オニキスは宮殿のベランダからそれを見ていたが、やがて城内に戻る。
春を楽しむかめか生花が壁いっぱいに飾られ、花の香りが鼻腔の奥にまで入り込んでくる。
それは良い。
問題はさっきから城内に満ちているやけに甘ったるい香りであった。
気合いの入った招待客の髪油の香りだろうと思っていたが、やけに強い。
酔った気分になるのだ。
すれ違う仮面をつけた男女も、どこか足取り重そうに、しかし楽しげにしている。
彼らの姿が後ろに消えた後、女の方から甲高い嬌声が聞こえてきてオニキスはいよいよまずい、と感じ取った。
皇帝は本気で集団見合いをさせるつもりか。
いや、仮面なのだから、結婚を前提としない?
(陛下は一体、何を考えている)
壁沿いに歩き、窓を見つけるとそこで休憩する。それを繰り返していると、ひらりと翻る白いスカートが次のベランダに見えた。
オニキスは一人でいるらしい彼女の姿を追うように歩き、ベランダに至るとその後ろ姿を見た。
首都の人間らしい、白に近い髪は長く、腰まで届いている。
白い肩がむき出しで、そのドレスは数十年前に流行したデザインだ。腰が細く、大きなリボンが夜風に揺れている。
流行のドレスが今夜の舞踏会に埋め尽くされているためか、その古いドレスがやけに浮いて見える。
群青色の夜にとても映えていた。まるでおとぎ話に登場する妖精の女王のようである。
「で……我が君っ」
女性の声が聞こえ、彼女が振り向いた。オニキスは咄嗟に壁に隠れる。
彼女に呼びかけた女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってくる。
「こちらにいらっしゃいましたか」
「何かあったの?」
冷静な彼女の声が聞こえてくる。
「そろそろ始まるようです」
「そう。行きましょうか」
二人分のヒールの音が遠ざかってゆく。
オニキスはその背を見ていたが、やがて出席者が大広間に向かっていく流れに入る。
なるべく目立たぬよう、帽子を更に深くかぶりなおした。
大広間のドアが衛兵により開かれ、ぞろぞろとめかし込んだ若い男女が入ってゆく。
オニキスは大広間に入る瞬間の、一変する空気感が好きだった。
通路にはない開けた造りのそこは、高い天井はドーム状。
奥に造られている大階段は一段一段が低く、かなりの段数があるためかなり凝っている。
吊されたシャンデリアは部屋中の明かりをきらきら反射させ、壁に飾られている絵画を照らした。
「ようこそ、仮面舞踏会へ。今宵は身分を忘れて存分に楽しんでいってくれ」
そう階段上からよく通る声で言ったのは、獅子を思わせる髪の皇帝その人である。
彼はマントを翻して、階段の踊り場から桟敷へ移動する。扇で口元を隠した皇后がそれにならった。
楽団の演奏が始まり、男女交互に並んで、向き合う相手にお辞儀をする。
仮面越しに相手の様子を窺いながら、手を重ねるとそのまま踊り出した。
オニキスはチューリップのようなスカートのドレスを着る、おそらく10代の少女と向き合う形になった。彼女に恭しく礼をしてみせると、彼女は一瞬だけ顎をツンと持ち上げ、慣れた様子で礼をする。
なるほど、男を見下し慣れている。
手を取るとかなり小さく、見おろす格好になると、彼女は小ぶりなバストをかなり強調させるように持ち上げているのが分かった。
そこに銀細工のネックレスが垂れている。目線を誘導させたいのだろう。
そして彼女の視線は目の前のオニキスではなく、3メートルほど離れた緑のジャケットの青年に向いていた。
彼目当てのようだ。
「私が相手では不満なようで」
そう彼女にだけ聞こえるよう、耳元に囁くと、彼女ははっと顔をあげた。
「そういうつもりでは」
「そうでしょうか? 彼を見つめて5秒。私ではなく、彼に興味があるとしか思えませんよ」
「さきほど声をかけられたのです。それで、期待しただけですわ」
「焦らずとも今夜は長くなりそうだ。誘われたのなら脈があるということ。焦らしてみては?」
ほら、とオニキスは彼女の手を強く牽いて、大広間を大きく移動した。
彼女は小さく悲鳴をあげたが、仮面から覗く頬を赤くして必死についてくる。
周りの目が向いた。
「1、2、3。ほら」
「ど、どういうつもり……」
「楽しげにして。沈んだ顔では誰も惹きつけられない。今夜の主役になるつもりで」
「えっ? えっ?」
オニキスは彼女の腕を遠く押しのけ、かと思うと引き寄せる。
手のひらが触れあい、流石によそ見は出来ない、と彼女の視線はオニキスに釘付けになった。
スカートがふわりと浮いて、細い足首が覗く。赤い靴が可愛らしかった。
「ちょっ、ちょっとっ」
慌てながらついてくる彼女の腰を抱き、頬に手を滑らせる。髪がはらりと一房、ほどけてしまった。
仮面の向こうで青い瞳がオニキスをまっすぐに見つめてくる。
ひそひそと何やら話し声が聞こえ、演奏のリズムが変わるとオニキスは肩を叩かれた。
亜麻色の髪をきっちり結わえあげ、薔薇を耳元に挿した女性。オニキスは女性の手をとり、さきほどの少女を解放する。
少女は紅潮させた頬を押さえ、息を整えるようにしたが、やがてお目当ての彼に導かれて行った。
「大胆な方ね。あのご令嬢、財務大臣の次女よ」
薔薇の女性はオニキスの耳元で、声を低めて言った。彼女の手は先ほどからオニキスの腕を撫でて、脚をすり寄せてくる。
誘っているのは明白だ。
「ご存じなので?」
「声を聞けばすぐに分かったわ。まだ15歳よ、夜会デビューがこんな集まりなんて、かわいそう」
「本人は期待しているようでしたが。彼なら年齢も釣り合うのでは?」
「あなたは興味ない? 若くて可愛いお顔立ちをしているわよ」
彼女もまた遠慮のない話し方だ。先ほどの少女と知り合いのようなら、大臣の娘か、貴族の娘か。
オニキスはふとわいたいたずら心から、緩く首を横にふってみせる。
「私は結婚に不向きですから」
――それよりは、理解力のある女性の方が良い。
そう彼女の耳元に囁くと、彼女の首筋がカっと赤く染まる。
「だが、この夜会で誰かを求めるつもりはない」
彼女の首筋から赤がさっと引いてゆく。
「……興ざめだわ」
「失礼を」
彼女はぱっと体を離し、スタスタと歩き去って行く。
演奏の途中だが、オニキスは一人になったことで広間の壁に寄る。給仕がやってきて、シャンパンを差し出した。
オニキスはそれを受け取ると、首元をわずかに緩めて一息に流し込む。
ふと視線を巡らせれば、先ほどの流行遅れのドレスを着た女性がきょろきょろと辺りを見渡しているのが目に入った。
パートナーはおらず、一人でいる。
そうと見かねたのか男性が一人声をかけ、彼女の手を取って踊り始める。
ステップは優雅。良くも悪くも規則正しい。
どことなく愛想のない雰囲気があった。
一通り踊り終わると、彼女は男性と離れる。
シャンパンのお代わりを、と思い振り返ったその時、腕に柔らかな感触が絡みつくのを感じて視線を向ける。
チューリップのあの少女だ。
彼女はオニキスの腕をしっかりと抱き、頬をすり寄せてくる。
「ねえ、踊りすぎて熱くなりました。どこか涼しい場所で介抱して下さる?」
ぎゅう、と胸を押しつけてくる。
オニキスは給仕からシャンパンを受け取ると口にする。
少女は唇を尖らせて見上げてきた。
「ねえ」
「先ほどの彼は?」
「ああ、踊ってみたらつまらなかったのです。もっと刺激が欲しくなりました」
「あまり好ましい発言ではありませんな」
「あなたがそうさせたんでしょう?」
「私のせいだと? 困ったな。私は私の好きにしただけですよ」
「ならそうして?」
彼女はオニキスの腕をぐいぐい引っ張る。二人になりたいのだろう。
オニキスは口元にだけ笑みを作り、空いたグラスを給仕に手渡した。
「ずいぶん酔っておいでだ」
そう付け加えると、給仕は少女の手を取ってエスコートを始める。
「ねえ!」
「お静かに。ソファにご案内いたします」
「何、私に恥をかかせるつもりなの!」
「お嬢様。騒げば騒ぐほど、注目を浴びますよ」
オニキスは静かに、と口元に人差し指を当てた。少女の頬がみるみる赤くなっていく。
もちろん、怒りのためだろう。
「あんた、その態度はどうなんだ」
背中に野太い男の声がかかる。
振り返ると、武人であろう筋肉質な体躯に、シンプルな紺色のジャケット。下は白のズボン、ブーツは動きやすそうだ。
「その態度?」
「さっきから女性を振り回していないか」
「さあ。向こうから来て、勝手に怒って去っていく。それだけだが」
「慇懃無礼という奴だろ」
「なら彼女らの期待に応えろと? 体がいくつあっても足りないな」
オニキスがフンと鼻をならす。武人らしい男は仮面の下の頬を赤くして言った。
「嫌味な奴だ」
「それが事実でね」
仮面抜きでもオニキスは女性の目を惹いていた。
言動にクセがあるせいだ。姿勢の良さもあるかもしれない。
オニキスは彼をざっと見ると口を開く。
「ナイト気取りはけっこう。私に構う暇があるなら、どなたか誘えばよろしい」
「あんたの視線が気に入らない」
「視線? なんのことだ」
男はフーッと息を吐き出した。
その時、ヒールの音が近づいてきて声がかかる。落ち着いた冷静な声だ。
「何事?」
オニキスが振り向くと、さきほどベランダで見かけた妖精の女王。
細い首筋に浮いた鎖骨、どこか場違いな印象を与える女性だった。
「我が君。お目汚しを……」
「何があったかと訊いているの」
若そうだが威圧的な態度だ。彼女の仮面越しの視線に、男は急速に勢いを弱めた。
「あなたは彼の主か」
オニキスがそう訊けば、彼女は頷く。
「そうです。彼が失礼をいたしましたか」
「お説教を頂いただけです。だが、いかに正義感が強くても主がいるなら場はわきまえるべきだ。主の顔に泥をぬることになる。いや、あなたの指導不足かな」
そこまで言うと、男ははっと息をのんでオニキスを見た。仮面の下で睨みつけていることだろう。拳がぶるぶる震えていた。
「それは事実なの?」
冷静な声が男に向けられる。有無を言わさぬ芯のこもった声だった。
「は、はい」
「まあ。大変ご無礼を」
ずいぶん素直な態度を見せる彼女に、オニキスは腕を組んで言う。
「すぐに謝らない方が良いでしょう。あなたは真実をご存じでない」
「そうですか? では何が真実だと?」
「私が女性に対し、不遜な態度で恥をかかせたのを、彼が諫めたのです。良い部下をお持ちでいらっしゃる」
「あら、言う事がころころ変わるのね」
彼女はふふふ、と笑うと側にあったソファに座る。ゆったりと肘をつく彼女は、まるでこの空間の主かのような自然な威圧感をまとっている。
オニキスは興味をひかれた。
その隣に当然といったように座ると、彼女の目がこちらを向いた。
目の色までは分からない。だがまじまじと見つめてくるその態度は、踊った女性達のような見下すものと違う。
皇帝や皇后のそれとどこか似ている。
「良いご趣味だこと」
彼女が褒めたのは帽子だ。黒に縁取りの銀糸。それだけのシンプルなものだ。だが細かい刺繍は品が良い。樹木の葉の模様はオニキスも気に入っている。
「首都でも指折りの職人が仕立てたものです」
「そうなの。首都へ来るのは2年ぶりよ。色々見て回ったけど、そこまでの細工は見つけられなかった」
「近づいてご覧になりますか?」
「いいえ、けっこう」
「貴女のドレスは年代物ですね。細工が見事だ。状態も素晴らしい」
「そう言われれば救われるわ。急ごしらえで、祖母のものを借りたの」
「急?」
「舞踏会の招待が届いたのが急でしたの。このドレスのおかげで、ずいぶん浮いて見えるでしょう」
「ええ」
オニキスがはっきりと頷くと、男がはっと睨んできた。
彼女もオニキスを見据える。
「とても。絵本に描かれる妖精の女王のようだ。他の誰にもない魅力がある」
そう言うと彼女は扇を持ち上げまた微笑む。が、すぐに扇をふった。
「先ほどの話は私の部下が正しかったようね? 誰をもそうやって期待させて、そして恥をかかせているの?」
「どうでしょうか。一人目は別にお目当てがいたようだし、次の女性は向こうから声をかけて来られた。誰が聞いているかも分からない空間で静かに話そうと思えば、自然と耳元で話すしかありません」
「それもそうね。それに、私を褒めたのではなく、ドレスを褒めたのでしょう? ふふふ。”食えない奴”というのは貴方のような人を言うのでしょうね。解釈は何通りあるの?」
「それは人の数だけでしょう。宮殿に出入りすればこそ身につけなければならないもう一つの舌です」
「品行方正にしていれば、そんな舌は必要ないだろう」
男がそう横やりを入れ、オニキスはようやく肩の力を抜いて笑みを浮かべた。
「かもしれないな。だが私の性格上、この方が楽でね」
「敵を作るだけだ」
「どのみち政治には興味がない。敵とやらもいつか縁遠くなるさ。それに、相手の嘘を見抜きたいなら多少の嘘も理解せねば。あっさり飲み込まれる」
「その通り。純粋すぎると染まるのも早いのよね。貴方、とても興味深いわ。良ければお話を……と言いたい所だけど、逃げられてしまうのでしょうね」
「どうでしょう。今はここにおります」
「つまり今口説いてみせろと? 難しいわね」
彼女は扇をぱたぱたを仰いだ。古いドレスは胸元を強調することなく、優雅な曲線を描いて鎖骨を綺麗に見せている。
首元のチョーカーにつけられたダイヤモンドがちらちら光って、彼女の肌をより一層ひきたてていた。
なめらかそうな白い肌だ。
形の良い唇が開かれ、オニキスの耳をくすぐる声が発せられる。
「貴方、ここの誰よりもここを理解しているみたい。一体なぜ?」
「近すぎると見えないものは、一歩引けば良いのです。だが距離を取り過ぎれば掴めなくなります。私は留学をしておりましたから、自然とそう出来たのでしょう」
「留学をすれば心が離れるものかしら。そもそも興味がなかったのでは?」
「かもしれない。宮殿は、まるで檻のように感じます。獅子も鷹も、元は広い世界で生きていたはず。今はどうなのでしょう」
「今は求められることをこなすばかり。ええ、その家に産まれた宿命といえばそうでしょう」
「宿命ね。初代は家の宿命を受けていましたか?」
オニキスの質問に、彼女がゆったりと首を傾けて見据えてきた。
「自由がお好きなのね」
「自由には自己責任が伴う。私は自分勝手な男ですから、それは違うのかもしれません」
「逃げるのがお上手ね……」
彼女ははっと息を飲み、ソファから立ち上がるとその場で片手を胸元に当てたまま礼をする。
臣下の礼だ。
オニキスも、彼女の部下もそれにならう。
頭上から落ちてくる影は獅子のもの。
「おう、楽しんでおるか」
腹の底に響くような声は、楽しげだが底が知れない。
「はい、陛下」
彼女が返事し、皇帝の影がうんうんと頷く。
「それは何より。存分に今を味わえよ。それと、良い品であった」
「もったいないお言葉。ありがたく存じます」
「ははは。オニキス。お前、仮面があってもなくても同じだな。いっそ外してしまえよ」
突然話題の矛先が向いて、オニキスはつい額を押さえる。
「ご冗談を」
そう返すと、皇帝は隣の彼女の手を取ると歩き出した。
「陛下」
「相手をせよ」
いよいよ存在が遠くなり、オニキスが顔をあげるとシャンデリアの下に立つ二人の姿が目に入る。
流石に誰も皇帝の立つ場に割り込まない。静かに壁によって見つめるばかりだ。
憧れに似たまなざしが多い中、ある者は隣に立つ者に耳打ちし、ある者はつまらなさそうに。
あの女性は誰?
そんなひそひそとした声が聞こえてきた。