土曜の夜にも棚田は演奏のためアンダンテに向かった。
紗矢は彼を見送り、ホテルで待った。
夜遅くになるだろう。帰りは翌日である。
ホテルでの生活はもう終わるのだ。紗矢は起きて彼を待つ。
造花をまとめてブーケにする。
カレントに納めるものだ。水色のリボンを結ぶと、急に気持ちが引き締まる。このままではいられない。カレントは居場所ではなくなった。
カーテンを開けると賑やかな繁華街の明かりが眼下に広がる。
小さな店に、無数の物語。
明かりが一つ一つ消えて、時間が過ぎ去ると別の場所に明かりが灯る。
ああ、もうすぐ帰ってくる。
そんな予感に振り返ると、ドアが開いた。
「お帰り」
「……ああ。ただいま」
彼はいつも、一瞬間をおいてから挨拶を返す。
そういえば「ただいま」を聞いたのは初めてだ。
「今日もお客さん、多かった?」
「いつも通りだ。9月ももう、下旬になるのか……」
「お店が閉まるんだね」
「ああ」
棚田はしっかりと頷いた。
「紗矢」
名を呼ばれ、顔をあげるとしっかりと抱きしめられる。
紗矢も手を彼の背にまわし、顔をあげた。
「今日で終わりだ」
朝になったら、このホテルを出て行く。その決まりだ。
「うん」
「昨日の続きを話すよ。俺は……紗矢に側にいて欲しい」
「……うん」
「どこへも行くなよ。俺から離れるな」
棚田の手に力がこもった。紗矢は唇を噛んで、彼を見つめた。その瞳はどんどん広がっている。
「夜にはきみを抱いていたい。朝には最初にきみを見たい。帰ってきた時……紗矢に迎え入れて欲しい。望むのはそれだけだ」
「わがままだね」
そう笑って言うと、棚田も笑った。
「そうだな。諦めないと誰かが悲しむ、なんてのは、俺の勝手な決めつけだった」
「うん。ねえ、お願いがあるの」
「ん?」
「もっと棚田さんの心を見せて」
棚田は困ったように眉を寄せ、紗矢を覗き込んだ。
「どういう意味だ?」
「そのままだよ。もっとわがままになってよ」
棚田は面食らったように口を開けた。まばたきをすると、紗矢の体を持ち上げる。
視線がぶつかり、紗矢が挑発的に見つめると棚田はふんと鼻を鳴らした。
「覚悟しろよ。ずっと我慢してたんだ」
「あはは! やっぱり色々あるんだ」
「あるさ」
棚田はそのまま紗矢をベッドに運んだ。
ぼふん、と布団と枕の空気が一気に抜ける。紗矢は覆い被さってくる棚田の腕に手を添えた。
「ねえ、よく考えたらプロポーズみたいだった」
「そうか? 思ったままを言っただけ……そうだな、いっそこのまま一緒に住むか」
「そうする? どっちの家?」
「どっちでも良いかな。思い立ったが吉日だ」
棚田は紗矢の脇に手をいれ、肘をつく。紗矢が両手を頭の上にあげる。
棚田はそれを追い、指先を絡め合うと唇を食むようにキスをした。
次の話へ→「黒豹とかたつむり」第19話 本心と本能 *官能シーンあり
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