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小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第17話 決意

 紗矢はカレントのキッチンでケーキを作っていた。
 バニラビーンズを取り出し、クリームに混ぜる。こっくりとした甘い香りに独特のクセ。
 狭く、どうしてか薄く感じるカレントのキッチンは太陽光がよく差し込み、植物の影が窓にうつってとても開放的である。
 このまま心まで解放して、行きたい所へ行きたい。
 どうしてかカレントにずっと違和感がある。落ち着かない。ここは居場所じゃない。
 紗矢は人知れずため息をつき、甘い香りのバニラを思い切り吸い込んだ。
 気分を紛らわせ、目をしっかり開くとタルト生地を仕上げる。

 ホテルに向かうと、ちょうど棚田を見かけた。
 仕事帰りらしく珍しくビジネスバッグを持っていた。夕陽に照らされ、髪が黄金色に染まっている。
「お疲れさま」
 声をかけると、棚田は穏やかな視線を向ける。
「ああ。お疲れ」
「一緒に帰る?」
「そうだな。それは?」
「お土産」
 ホテルの部屋に、すっかり二人の気配が染みついている。
 棚田はジャケットを脱いで、くつろいだ様子で紗矢の淹れた緑茶を飲んだ。
「美味い。昨日とは香りが違うな」
「流石~。分かるんだね。昨日のは知覧茶、これは静岡茶」
「こんなに違うのか……」
 棚田は感心したように言うが、紗矢の方がよほど感心している。緑茶の違いがはっきり分かるとは。
 棚田を見つめていると、彼は紗矢の手を取った。鼻を動かす。
「バニラの匂いがする」
「今日触ったから」
「いい匂いだ」
 棚田はそのまま指先を口内に入れた。
 肌の表面を歯が撫で、温かい舌が匂いのもとを取り去るように蠢く。指先があやうい感覚を腰に運び始める。
 紗矢は顔も体も硬直させ、まさに顔から火が出そうなほど熱を高めた。
「お、おやつあるよ。ちゃんとした。さっきのお土産」
「ちゃんとした? どういう意味?」
 棚田はそううそぶきながら、手のひらにも口づけた。目の奥が笑っている。紗矢は昨日されたように、彼の鼻をつまむ。
 ようやく自由になった紗矢はケーキの箱を開き、タルトを取り出した。訳あり品ではなく、ちゃんとお金を出したものだ。見た目も問題なく美しい。
「ケーキと緑茶を合わせるのか?」
「うん。緑茶が一番邪魔しない……って私は思うの。すっきりするし、美味しいでしょ」
 他愛もない会話だった。
 西日が部屋に差し込む。
 部屋の電気は消しているから、太陽光だけが部屋を照らしていた。
 時折風が吹いて、カーテンを揺らす。
 時間が止まったかのような一時。
 棚田の目元に落ちるまつげの影が、とても美しかった。
 彼の手がいたずらに太ももに伸び、顎をくすぐるように撫でる。
 確認するような視線に紗矢は頷いてキスをした。棚田に抱きよせられるまま体を密着させ、そのまま抱きしめ合う。
「……俺が勝手に惚れてるだけだ」
 棚田の声が落ちてくる。
 紗矢が顔をあげると、黒目がちの瞳が、その色を濃くしていた。
「だから……紗矢が変わっても、俺が咎めることはない。両方あって、紗矢なんだろ?」
「……うん、そうだね。遠慮しても、しょうがない。ちょっとわがままになるよ」
「わがまま?」
「棚田さんが好き。覚悟しといてね」
「……わかった」
 棚田の手が肩甲骨の間あたりを支えた。紗矢はそれに促されるまま体を起こし、彼の頬を包むようにすると口づける。
「今日は演奏がある」
 金曜なのだ。棚田はアンダンテに行き、帰りは深夜になる。
「うん」
「あの店は終わるけど、あの店であったことは消えるわけじゃない」
「……うん」
「ちゃんと活かすさ。そうすれば、どこまで歩いて行ってもちゃんと存在し続ける」
 紗矢は目の奥が熱くなるのを感じた。唇を噛んで棚田の肩に顔を埋める。
「……今日、一緒に行くか?」
 今日、アンダンテはかつての従業員たちを招いてちょっとしたパーティーをする。演奏家たちも集まるのだが、普通の客は入れない。
 紗矢は棚田の誘いに特別な意味があると知っていた。
「ふふ。……招待してくれるの?」
「ああ」
 棚田が力強く頷き、紗矢の頭を撫でて顔をあげるよう促す。
 棚田に頬を撫でられ、紗矢は目を閉じた。
 唇が触れあい、もっと、と深く唇を求め合う。
 甘いバニラの味がした。

***

「お聞き及びの方も多いかと思いますが、当店は9月末で閉店となります。今まで色んな方達に支えられ、ここまでやってくることが出来ました。本当にありがとうございました」
 マスターがそう挨拶をした。
 店が終わると言っても、マスターが現役を退くわけではない。
 が、一つの時代の象徴がなくなっていくことに、あらがえない時間の流れになんとも言えない寂しさを湛えている。
「まあ、昔から色んな音楽家の人が来たよね。プロだった人も、プロになった人も、趣味の人もいてさ、この店もずいぶんバラエティー豊富だったな~なんて思います。サックスのさ、本場の音なんかかっこよかったよねぇ」
 大柄な黒人男性が手を挙げた。にっこり笑うと白い歯が際立ち、その目尻には深い笑いじわ。周囲の客が彼に拍手を送った。
「学生のピアニストとか、バイオリニストとか。今何やってるの?」
「企業戦士です」
「小さい楽団に入りました」
 マスターは店での演奏経験者に声をかけた。
 やがてステージが解放され、自由に演奏が始まる。
 演奏を楽しみにやってくる客が自然と彼らを囲うように移動した。
 紗矢はカウンターの端に座る。久しぶりに浜野と顔を合わせ、どうしようかと思ったが浜野から声をかけてきた。
「お久しぶりです」
「うん、久しぶり……どう? 調子は」
「順調です。田中とも息が合ってきたとこなんですけど、閉まることになっちゃって」
「急だったよね?」
「はい。でも、なんかマスターは準備してたみたいです。新規客を取り入れたいっていうのも、スイーツ提供もその一環だったみたいで……あ、その、……ボスこそどうですか? 棚田さんとは」
「あー……そうねぇ。悪くない……です」
「遠回し~」
 浜野はわざとらしく笑って、田中に呼ばれてキッチンへ入っていった。その背中を見送り、視線がずれると視界に入ったのは飯塚の姿。
 薄紫色のシアーシャツに長い黒髪が映える、清楚な雰囲気の女性と一緒だった。
 外見だけならちぐはぐな感じがするが、二人でいるのがとても自然である。彼女が遠距離の恋人、というのがすぐにわかった。飯塚が目元を和らげて彼女を見つめている。
 頬を緩めてそれを見ていると、伊藤と吉野が二人でやってきた。
 伊藤は黙って手を出している。
「……何ですか?」
「え? おやつちょうだい」
「ええ~? なんで私に言うの?」
「浜野が『ボスが良いって言ったらあげます』なんて言うからよぉ。お願いします!」
「ごめん、阿川さん。本当はそれ目当てじゃないから」
 吉野が伊藤をなだめつつ前に出た。
 あまり話さない吉野だが、確か彼は裏番長。紗矢は思わず緊張した。
「棚田、最近タバコの量が減った。それに、前は眉間にこーんな皺よってたんだけど」
 吉野は自身の眉間を指さし、ぐーっと眉を寄せてみせる。
「この頃そうでもない。目も楽になったのか、前ほど疲れ目を気にしてない気がする。阿川さんのおかげだなーっと思って」
「何もしてないけど……」
「一緒にいるだけで良いってやつ。まあ、良かったら今後もよろしくしてやってよ」
 紗矢は吉野に肩をすくめて見せたが、頷いて浜野を呼んだ。
「伊藤さんと吉野さんにおやつ出してあげて」
「え? 良いんですか?」
「うん。棚田さんのおごりで」
「それ、良いんですかぁ?」
 そう言いつつ浜野はにやにや笑った。
 伊藤と吉野もぶっと吹き出す。
「良いの、良いの。こっそりやって」
「聞こえてるけど」
 棚田の声が降ってきた、と思ったら目を覆われた。
「えええ~」
 吉野と伊藤が笑ったのはこういうことか、と紗矢は悟ったが、もう遅い。棚田は「別にいいけど」と浜野を促すと紗矢を解放して隣に座った。
「いるなら言ってよ」
「話し込んでるようだったから。で? 餌付けされた二人は何を話してたんだ?」
「いや別に」
「良いよなぁ。メンバーのうち二人が春を謳歌しててさ……」
 吉野はカウンターに肘をついてため息をつく。運ばれてきたガトー・ショコラにフォークを突き刺し、口に運んだ。
「チョコレート食べると恋愛脳になりますよ」
 紗矢がそう言うと、吉野の目が変わる。
「ま、マジで?」
「はあ。そうらしいです。女の子を口説きたいなら、お食事の最後にチョコレートを出すといいとか」
「マジで……! 良いわ、それ参考にする」
「口説きたい相手がいないんだろ」
 棚田が冷静に突っ込めば、吉野は笑顔をひきつらせた。
「ねえ! なんで水さすの! 図星って痛いんだぜ!」
「欲しい欲しいばっかりで何が欲しいか言わないからだろ」
「うわ、追い打ち」
 伊藤はくつくつ笑った。
 吉野が伊藤を睨んでいる。
 紗矢は彼らを見て、ぽつりと言った。
「仲良いよね」
「どこが!」

 飯塚がピアノを奏で、隣で先ほどのサックス奏者がアドリブを重ねる。
 手拍子に、バイオリンのピチカート、棚田もジャンべという打楽器を即席で合わせていた。
 ジャンルも関係ない、この時だけの音楽。
 マスターもこの日、いつもよりも目を輝かせ、少年のように笑っていた。
 紗矢はキッチンに入り、手伝うと言うと三人でケーキを造り上げる。
 深夜、この日だけはと皆大らかな気分でお酒を飲みながらケーキをつまみ、また音楽を楽しんで、と感傷のなかで笑って過ごした。

***

「ここで育ったよ」
 夜気の清々しい中、マスターがそんなことを言った。
「店を初めて、波にのって調子にのってさ、初めはこんなもんかな~なんて思ってた。でもここに集まる音楽家の情熱や、挫折や、成功なんかを見てさ、こんなもんかな、に留まっちゃいけないって分かったんだよね。背伸びするとかじゃなくて、可能性を否定しちゃいけない、型に甘えちゃいけないって。自分なんてまだまだでしょって」
 店を閉めた後、片付けのために残った棚田はそれに耳を傾ける。
「君はさ、どこにも行かないって言ったけど、それじゃダメなのも分かってるんじゃない?」
 棚田はマスターの目をまっすぐに受け入れて頷いた。
「はい」
「だよね。道が伸びている。それを知ったんだろ? その先に行きたくなったんだろ?」
「……自分でも驚いてます。諦めてたつもりなのに、気づいたらそっちに進んでる。これで良いのかどうか、迷ってしまった」
「良いんだよ。君を縛る物はもうないはず。背負うものもね」
 その一言に、棚田はせりあがる何かを感じ、額を押さえた。
 少年時代に抱えた色んなものが、突然色鮮やかに心の中を駆け巡る。
 虚しいと思っていた思い出が今になって棚田を許した。
「帰る場所はさ、過去じゃなくて未来にある。柊一は聡いから、わざわざ言う必要ないよな」
 マスターは棚田の背を叩くと、エプロンを取りながら立ち去った。
 ――諦めなければ誰かが悲しむ。
 本当にそうだっただろうか。
 あのライターは手元に戻り、紗矢も側にいる。
 それになにより、諦められなかった夢が棚田自身を導いてくれたのではないか。
 棚田は両手を顔の前に持ち上げ、熱のたまる目頭を押さえると息を吐き出した。
 帰り支度を整えてホールに戻ると、紗矢が浜野と田中のレシピを見ながら何か話していた。
 棚田に気づいた紗矢が振り向き、笑みを見せた。
「片付け終わった?」
「ああ」
 ほとんど人のいなくなった店は濃い気配を失い、洗われた後のようにすっきりしていた。
「……帰ろうか」
 そう言って紗矢に手を伸ばす。
 紗矢は頷いてその手を取った。
 今更ながら小さな手だ、と感じ、しっかり伝わる体温に全身が温かくなった。
 皆が見て見ぬふりなのか、冷やかす声もないまま二人を見送る。
 外に出ると新鮮な空気が吹き抜けた。時間が時間だからか、人けは少なく、車も少ない。
 空には珍しく無数の星が光って見えた。
「ねえ、星って好き?」
「ああ、まあ」
「星座って何が好き?」
「白鳥座かな……紗矢は?」
「ああ、一緒。なんか見守られてる感じする。棚田さんはなんで白鳥座が好きなの?」
「色が綺麗だ」
「へえー。色?」
「白いだろ、光が」
 駅前までの道がとても短い。棚田は歩調を緩め、空を見上げた。紗矢は何も訊かないまま、それに付き合っている。
「今日はよく見えるね」
「車が少ないからな。……紗矢、一つ言っておきたい」
「うん。何?」
「……今日はやめとく」
「ええー!? 気になるよ」
「明日になったらな」
「もったいぶって……それって楽しみにしてていいこと?」
「俺にとっては」
 紗矢は口を尖らせたが、不承不承頷いた。
 ホテルに着き、全身にまとわりつく緩い疲れに身を任せる。
 シングルベッドに二人で抱き合って横になれば、紗矢の寝顔がすぐに見られた。
 それを見つめ、指に髪を絡める。するすると流れ落ちるその感触を味わい、目を閉じるとすぐに穏やかな夜気に包まれた。

 

次の話へ→「黒豹とかたつむり」第18話 望むこと

 

 

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