小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第16話 十字路の真ん中にいる

 朝食を一緒に摂る。
 前にもこうしたことがあるが、今はよっぽど落ち着いている。
 紗矢は自分自身にあった違和感を受け入れることで、その違和感を軽く出来ていた。
 これからも同性や異性を羨む日がきっと来るだろう、それでもいつか、自分はこれで良かったのだと思える日が来る気がしていた。
 淹れた緑茶を飲みながら、トーストをかじる棚田の長いまつげを見つめる。
 目が合うとつい頬が緩んだ。
「何だ」
「別に」
「ほっぺたにパンくずがついてるぞ」
「嘘っ」
 棚田の指摘に紗矢は慌てて右頬を押さえた。左に手を伸ばすと、その前に棚田の指先が触れてくる。
「嘘だよ」
「また? もう。じゃあもういいでしょ」
「まさか。そのまま」
 棚田の手が後頭部に伸び、顔が近づく。
 意図を察して目を閉じれば、ふっと鼻先をかすめて唇が触れあう。
 久しぶりに味わう暖かい感触に、唇がしびれる感じがした。
 唇が離れ目を開ければ、棚田が目を見つめている。
「どうかした……」
 紗矢が言い終わらぬうちにそのまぶたにも口づけが落とされる。
 手が頬に戻され、そっと撫でられると手と唇の両方が離れる。
「棚田さん?」
「拒まないのは、つまりそういうことか?」
「……ああ、うん、そうみたい……」
「参ったな、いつも確認するのは……」
「面倒? あはは。そうだよね」
 紗矢はぱっと思いつき、手をぽんと打った。
「こうしよう、なんかアクセサリーつける。女性モードの時はそれをつけてて、そうじゃない時はつけない。どう?」
「確かにわかりやすいな。そうするか」
「今手持ちがないけど……そうね、家に帰って……」
 棚田の手が伸びて、紗矢の手を取った。
「買いに行こう。明日は休みだろ?」
「ん……うん。そうだけど……」
 突然の提案に、紗矢は反応が鈍くなった。
 棚田は気まずそうに視線を外し、どうしたのか自身の首を撫でた。
「いや、悪い。焦りすぎた。気にしないでくれ」
「……?」

 いつも通り、カレントでケーキを焼いて盛り付ける。
 なぜか以前よりも小さく感じる喫茶店。
 若い人が増え、自分が異質な存在になった気さえする。
 夕方までの仕事を終え、電車に乗るとアンダンテにつま先を向けた。
 そこで見つけたのはみやこである。
「みやこちゃん?」
「紗矢」
 珍しくスーツ姿の彼女に、紗矢は興味をひかれた。
「どうしたの?」
「お仕事の話よ」
「へぇ。この辺でお店するの?」
「そうよ。その人の体調に合わせたお茶なんかをお出しするの」
「前のお店の延長みたいな店?」
「そうなるわね。でももう少し、あたしの出来ることを増やすのよ」
「ステップアップだ……」
「歩いてるからね。紗矢にもそういう時が来るわよ」
 みやこが向かうのは、そのままアンダンテである。紗矢は目を見開いて、「Close]の看板に無関係者であることに気づいて店の前で足を止める。
「どうしたの?」
 みやこが振り返った。
「私、もう関係ないから……」
「ああ、今はそうよね。なら、お店が開いたらまた来て」
「えっ、みやこちゃん。どういうこと……」
 みやこは微笑むと店の中に入っていく。紗矢は狐につままれたような気分になった。
 つまり、マスターが言っていた昼にも開けられるように、とはみやこのやる店のことだろうか。
 紗矢はホテルに戻り、造花でもやろうかと材料を取り出す。
 浴室で花びらをお茶に沈め、余計な部分を拭き取り、また沈め、を繰り返す。
 そうするうちに、棚田が戻ってきたのが足音で分かった。
 まだ陽は落ちていない。やはり時間は不規則なようだ。
 ドアが開くと顔を覗かせる。
 いつも通りの無表情、しかし顔色は良かった。
「お帰りなさい」
 声をかけると、棚田は一瞬呼吸を止めたようになって、それから返す。
「……ああ」
「すぐお風呂入る?」
「いや。何かやってんのか」
「造花を染めてるだけ」
「ふうん」
 棚田は浴室に顔を出し、薄紅に染まる花びらを見ると頷いた。
「綺麗に染まるもんだな」
「でしょう。カレントで見せたらラッピングに使いたいって……棚田さん、今日は早かったね」
「楽譜を出しただけだからな。後はリモートでも出来る」
「仕事早いね」
「慣れだな、こればっかりは」
 棚田は紗矢の両肩に手を置いた。振り返ると目が合う。
「晩飯、外で食うか」
 紗矢は頷く。

 繁華街の創作和食の店に入り、レンコンまんじゅう、京風餃子、焼き魚に豚汁を注文する。
 棚田の態度はかなりくだけてきている。
 紗矢はそれにほっとしていた。
 好きだと言っていた焼酎の、彼の気に入りの銘柄を店で飲む。
 甘さの中にするどい苦みがあった。
 喉が焼けそうだと、緩く酔いながらそんなことを言った気がする。
 ベッドに入った後、棚田に手を伸ばすと握り返してくれた。
 ねえ、棚田さんの心を見せて。
 そう言いたいのに、まぶたが重くなってそのまま意識を手放せば、不思議なほど深く眠りに落ちる。

***

 紗矢の細い指が棚田の指を握っている。
 もう眠ってしまったようだから、ほどこうと思えばいつでもほどけるだろう。
 穏やかな寝顔を見つめ、その隣に腰掛ける。
 自分の中にあった、底が見えない黒々した沼が、どんどん浅い水たまりになっていく。
 太陽光を反射する水たまりを覗き込むのは一体誰か。
 棚田は心が軽くなるのを感じていた。
 何かが変わる。終わる。
 夜も紗矢も穏やかに、しかしその中では嵐が吹き荒れていたのだろうか。
 今まで無視していたという自分と向き合うのは、大きな痛みがあったはず。混乱の結果が別れ話だったのだから。
 自分はどうだろうか、と棚田は思った。
 このまま軽くなった心は、その嵐に耐えられるのだろうか。
 こんな予感はあったはずだ、アンダンテが閉まり、自分もまた変わってゆくと。
 彼女と出逢う前に、すでに。
 何か寂しい。
 その寂しさすら愛しい。
 彼女の細い指を一度だけ握り返し、部屋を出た。
 喫煙所でタバコに火をつけると、立ち上っていく煙を目で追いかける。
 色んなものにコンタクトを取るから、気をつけて、の意味は未だにわからない。みやこは何を言いたかったのだろうか? だが確かにタバコをやった後は体が重く、やらない時は軽い。
 肺の問題だろう、棚田はふーっと吐き出し、いつもと味が違うことに気づいて消した。
 いつもと同じもののはず。確認のため新しい1本を吸ったが、やはり味が違う。
 ずいぶん不味い。
 眉間に皺を寄せるとタバコを箱ごと捨てた。
 部屋に戻り、着替える。
 ライターを取り出そうとポケットを探り――「ない」ことに気づいた。
 喫煙所までの道を戻り、入念に探すが見つからない。清掃員が通っただろうか?
 いや、物音は聞こえなかった。
 他の客は?
 いなかったはずだ。
 棚田は再び喫煙所を探したが、やはりライターは出てこなかった。
 その場に座り込み、左膝を抱える。
 深夜、重い息を吐き出し、何をやっているのかと項垂れる。
 いつまでそうしていたか分からないが、足音がして顔をあげた。
 心配そうに眉をひそめる、紗矢がそこにいた。
 カーディガンの前を寄せ、棚田の隣にしゃがみ込む。
「……何かあったの?」
 寝起きらしい彼女の青白い顔。
 棚田は自身の前髪をかきあげると首を横にふる。
「なくした」
「何を? 一緒に探すよ」
「……いや、いいんだ」
「いいって……大事なものなんでしょ? こんな時間に探すなら……」
「……どうかな。多分、そうでもない」
 バーで稼いだ金で買ったものだ。気に入って仕方がないとか、思い入れが強いとか、そういうものじゃない。
 ただ気づけばいつも持ち歩いて、使っていたもの。愛着はあった。
 だがそれはあくまでも物でしかない。
 いつか壊れる物でもあった。
「……」
 沈黙の後、紗矢は床に手をついて、タバコの販売機の下を覗いた。棚田は慌ててそれをやめさせる。
「汚れるだろ。いいから、もう寝ろ」
「でも、気になるよ。何をなくしたの?」
「ただのライターだ。大したもんじゃない」
「ライターって、いつも持ってたやつ? ならお気に入りでしょ?」
「紗矢」
 棚田は紗矢の両腕を掴む。
 頭が重い、つい項垂れた格好のまま、続けた。
「もういいんだ」
「でも……」
「あれはもう、必要なくなっただけだ」
 そう言葉にすると腑に落ちる。長く息を吐き出すと、紗矢の手が伸びて棚田の髪に触れた。
 はっとして顔をあげると、紗矢は手を引っ込める。
 目が合うと自分でも驚くほど強烈に、彼女が欲しくなった。
 細い手首をひいてかき抱く。紗矢が体を強ばらせたがお構いなしにキスをした。
「んん……!」
 紗矢が胸を叩き、棚田は力を込めて抱きしめた。
 薄く目を開くと彼女の指が震えているのが見える。流石に目が覚め、力を緩めた。
「た、棚田さん?」
「…………」
 咎める風でもない彼女の目から逃れるように頭をかいて、悪かった、と謝るとその場を去る。
「ねえ?」
 戸惑うような紗矢の声が背中にぶつかる。
 棚田は振り返らずに、そのままホテルを出た。

***

 棚田は戻ってこず、紗矢は一人で夜を過ごした。
 翌朝も一人で朝食を摂る。
 彼は戻ってくるだろうか。連絡をするべきか悩み、スマホをいじる。
 最後に見た背中を思い出すと、なぜか連絡をすべきでない気がする。
 造花はしっかりと色づき、紅色に染まった薔薇が浴室に咲いていた。
 何度目か分からないため息をつき、紗矢は重い腰をあげる。
 明日は金曜だ、バンドの生演奏がある。アンダンテに行けば会えるかも知れない。
 いや、今日行けば、あるいは棚田を知っている人がいるかもしれない。
 紗矢は部屋に書き置きを残し、ホテルを出た。
 もう秋だというのにしつこい暑さである。
 車が何台も走ってゆく。紗矢は信号待ちをし、汗で首にはりついた髪を取る。
 一台の車が近づき、どうしたのかと目をこらすと運転席にいた人物が紗矢に向かって会釈した。
「暑いねえ」
 赤煉瓦色のVネックの上衣に、マットゴールドのフレームの眼鏡。
 穏やかな口ぶりは知っている人のもの。
 カウンターの奥でシェイカーを構えている男性のものだ。
「マスター?」
「そうだよ。良かったら乗ってく?」
「え、どうしよう。あのですね、昨日から棚田さん、戻ってこなくて」
「ああ、そうなの? まあいいや、乗って」
 紗矢は促されるまま助手席に乗る。
 シートベルトを締めながら、運転するマスターに話を続けた。
「連絡、しない方がいいかなって思って……」
「まあ、男が出てったらその方が良いよね。しばらく放っておけば良いよ」
「本当ですか? あの、居場所とかご存じですか?」
「知らない。大丈夫だよ、心配はいらない。でも信頼は欲しいかな」
 紗矢は唇を噛みながら頷く。
 難しい話だが、マスターの言うとおりかもしれない。マスターも頷くと口を開いた。
「何かあったの?」
「あの、何か……そうですね、彼がなくし物をして……それで、探して……出てこなくて。もう必要ないって言って……」
「諦めるってこと? あいつが言った?」
「はい」
「ふうん、そっか。あいつ、あれで寂しがりなとこあるからねぇ。諦めるってのは本心じゃないのかもしれないな」
「やっぱり? わかった、じゃあ私、ホテルに戻って……」
「待った待った。このまま僕とデートしよう」
「……へ!?」
「決まり。お昼でも食べに行こうか」
 マスターはそう決めてしまうと、目的地を告げずにそのまま走った。
 着いた場所は古い蕎麦屋である。
 並べられるざるそばに、紗矢は目を丸くしながらも手を合わせた。
「いただきます」
「はーい、いただきます。ここのは美味いよ。水が良いからね」
「腕が良いって言って」
 厨房から明るい声が届いた。
 マスターは笑って返し、紗矢はそれどころじゃない、と気が気でない。
「マスター。私、ライターを探したいんですが……」
「良いんだよ。なくなったならそれで。出てくれば儲けもんだし」
「でも、大事なものみたいだし」
「物は物なんだよ。……柊一はね、実家から出て、仕送りするから夢を追うより仕事を選んだの。でも諦めきれなくてうちで副業。ドラムに触れてる時だけ、あいつはあいつでいられる」
 突然の話に紗矢の手が止まった。
「でもさ、それだけでもいられなかった。やっぱり夢があいつをほっとかなかったわけだよ。才能があって、チャンスがあって、それを掴む度胸も備わったら、やるしかないよねぇ」
「彼が彼でいられるっていうのは?」
「無口だけど、ドラムやってる時は饒舌でしょ? 感情的だし。普段、色々ため込んでるんだろうな~って思うよなぁ。それが味でもあるんだけど……それが仕事になるとさ、また自制を求められる。いや、それで良いんだけどね、あいつもそれは受け入れてるから。好き勝手にしたいだけじゃないだろうし。で、そんな時君に出逢ったわけだ」
 マスターは眼鏡をずらし、裸眼で紗矢を見つめる。紗矢はぽかんと口を開ける。
「私?」
「そうだよ。色んなものが変わっていってさ、僕だってそりゃ寂しいよ。あいつも寂しいんだと思う。まあ、正直に顔に出すわけにはいかないからさ、これでも踏んばってるわけです」
「アンダンテが終わるのは、私も寂しいと思いましたし……でも、それで、何が……」
 どう質問すればいいのか分からない、紗矢は首をふると視線を下に落とした。
 マスターはそれを察したのか、紗矢の肩をぽんぽん叩いた。紗矢は顔をあげる。
「で、君にもそっぽ向かれた。理由は聞かないから安心して。けっこうダメージあったんじゃないかな。でも、まあ、良い薬だとも思ったけど」
「マスター」
「良いんだよ。それを乗り越えようって思えない相手なら別にそれで。ま、色々変わっていってさ、手放さなきゃならないものが増えて、でも手放しちゃいけないものもある。今はそれのふるいなんだよ。諦めるべきかどうかの。物はただの、何かの象徴。それが無くなって、そして君は側にいる。一時的かもしれないけど、大事な一時的だよ」
「あの……」
「良いかい、君はもう向き合うと決めたんだ。一週間を一緒に過ごすって。だったら覚えておいて欲しいな。自分に素直になれってことを」
「え……」
「それだけで良いんだよ。するべき? しないべき? そういうんじゃなく、君がさっき言ったように、連絡もしない方が良いと思うんならそうして。それと同時に、柊一のこと信頼してやって。そしてあいつも、乗り越えられないならそこまでの男だってことだ。約束の一週間を過ぎたら捨てていいし」
 紗矢はテーブルに視線を落としながら、棚田のことを思い浮かべた。
 今何をしてるんだろう。
 気になって仕方ないが、聞いてはいけない気がした。
「……はい」
「うん、よし。じゃあ、食べようか」
 蕎麦をすする音がやけにはっきり聞こえる。
 会話もなく昼食を終えると、何か清々しい気分になった。

 紗矢がホテルに戻ると、従業員が包みを手渡してきた。
 真ん中がひしゃげたライター。幾何学模様の入ったそれは、間違いなく棚田のものである。
 紗矢は礼を言って部屋に戻り、それをテーブルの上においてぼーっと見つめていた。
 やがてドアが開く。
 振り返ると、無表情なままにライターを見つめる棚田の姿があった。
「……お帰りなさい」
「……見つかったのか」
「うん。従業員さんが見つけたって」
「……そうか」
 棚田は一度だけライターを手に取り、感触を確かめるとテーブルに置き直す。
 紗矢はそれを見ていたが、何も言わないまま棚田の手を取った。
 ほとんど無意識の行動だった。
 棚田が目を見開いて見つめてくる。
 紗矢は彼の頬を撫でた。
「……何だよ」
「ううん。触りたくなっただけ」
「……面白いか?」
「というより、心地良い。あったかい」
「……あんたの手は冷えてるな」
「そう?」
「ああ……」
 棚田は紗矢のその手を取ると、指先に、手の甲に、手のひらに口づける。じわじわと熱を刻むように。
 紗矢は棚田のその姿に、なぜか泣きたくなった。
 代わりに彼の首に腕をまわし、抱きしめる。
「どうしたんだ」
「何でもない。棚田さんが帰ってきて、良かったと思って」
「寂しかったのか」
「わかんない」
 紗矢は鼻を頭が熱くなるのを感じた。目をぱちぱちさせて熱を逃がし、涙をこらえると手を離す。
「一緒にお風呂でも入ろう」
 そう誘うと、棚田は紗矢の鼻をつまんだ。赤くなっていたのだ。
「大胆だな。どこに行ってたとか、訊かないのかよ」
「無事なら良いの。言いたくなったら言って」
「……心配かけて、悪かった。頭を冷やしたかっただけだ」
 棚田は素直に謝った。紗矢は結局目元を一度だけこする。何度も頷くと彼の手を取った。

 

次の話へ→「黒豹とかたつむり」第17話 決意

 

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