日曜の夜は土曜と違い、落ち着いた雰囲気である。明日への活力を求めて、私生活と社会の場への中間で一休みといった所だろうか。
元々アンダンテの持つ雰囲気は深く落ち着くものであったため、日曜を好む常連客が多かった。
「デザートも良いけど、ご新規さんが増えちゃったからさぁ」
「今までと空気変わったよね」
「店閉まるんだって?」
「マスター、どうするの?」
「寂しくなるなあ」
そんな会話が聞こえてくる。
出番の後、棚田はそのままカウンターに腰掛けた。
ホテルに帰れば彼女がいる。
浜野に声をかけられた。
「棚田さん、あれからどうなったんですか?」
彼にしては珍しく、表情が固い。
失恋のために何かが彼の中で変わったのか、あるいは芽吹いたのか。かすかに漂う男っぽさに棚田は真剣に向き合わねば、という気持ちになった。
「何の話だ?」
「紗矢さん……すいません。ボスとのこと」
わざわざ言い直したのは、彼なりの配慮からだろう。恋人を他の男に下の名前で呼ばれて、いい気になる男がいるだろうか。
彼は知っていたのだ、彼女との関係を。
「……」
棚田は浜野の目を見ながら、押し黙る。
どう説明すればいいのだろうか。
「俺には知る権利ないけど」
そう視線を落とす浜野に慌てて声をかけた。
「そうじゃない。権利とかはどうでもいい」
浜野は顔をあげ、そっと上目遣いに棚田を見た。
「……一度フラれた。で、今ホテルに一緒にいる」
「は?」
「だよな。俺もなんでこうなったのか……なんというか、まあ、流れで」
「……大丈夫なんすか?」
「……ヤバかったら出るさ」
「かばわなくて良いよ、柊一。僕が命令した形。阿川さんと一週間くらい一緒にいろって」
マスターが浜野の隣に立つ。彼と一緒にいたのはみやこだった。
まさしく紳士淑女な取り合わせ。このまま絵画に出来そうだな、と棚田はぼんやり思った。
「なんでまた……」
浜野が大きな目を丸くする。みやこは面白そう、とばかりに笑った。
「いい考えですね」
「でしょう。やっぱり君とは気が合うね」
マスターとみやこは互いの顔を見合わせている。年が離れているが、棚田の目には熟年夫婦にうつった。彼女の余裕めいた笑顔に棚田は額をかく。
「みやこさん、紗矢の友人でしょう。心配じゃないんですか?」
「紗矢は自分で決めたんでしょ? あなたと向き合うって。何を心配するの?」
「ホテル暮らしで楽したいようだけど」
「口実に決まってるじゃない、あなただって分かってるでしょ。そんなにあまのじゃくにならないで、素直になったら?」
棚田は眉を寄せて首を捻った。
素直になれ?
みやこは奥の席に向かった。常連客が彼女の後ろ姿をこっそり目で追いかける。
「誰なの?」
「綺麗だねぇ」
そんなことを言い合いながら。
「俺応援してます。ボスと幸せになって下さい」
浜野が身を乗り出した。力強い目だ。
棚田は子犬のようだった彼の、思わぬ成長ぶりに目を見張った。
「……わかったよ」
グラスに残っていたブランデーを一気に飲み干し、店を出る。
しっとりとしたオレンジのようなピンクのような色の照明が足下を照らしている。
もう夜も遅いこともあって、ホテルは只でさえ人が少ないのに更に静けさが増していた。
廊下を歩くのは棚田一人、すれ違う従業員の姿もなく、クセになった自問自答が靴音に合わせて脳内で巻き起こる。
素直になったら?
何を?
別れを告げたのは彼女。
本気で好きになったからと言っていた。
裏切るとは何のことだ?
さらけ出せていない自分とは?
――諦めなければ誰かが悲しむんだ
突然、自分の中からそんな声が溢れてきた。
誰かが悲しむ。
それはかつては父だった、母だった、兄だった。
今は?
好意を持ってくれた女性達。
友人は少なく、彼らとは距離がある。友人だから、一定のラインを超えることはない。飯塚達も同じだ、仲間であって、家族じゃない。
では悲しむのは距離の近い人か。
部屋の前についた。
カードキーを差し込もうとし、近い人ほど悲しませる、と気づいた瞬間に手が止まる。
また悲しませるのか、今度は紗矢を、もう一度。
このまま去ろう。そうすればお互い、苦しまずに済む。
そう決めたはずなのに足が縫い付けられたかのように動かない。
キーを差し込みたくて仕方なく、しかしそれも出来ない。
その時、ドアが開かれた。
紗矢が隙間から顔を覗かせ、棚田の姿を認めると目元を和らげた。
「お帰りなさい」
その一言が体に染み込むように広がり、自然と足が動く。
ドアの向こうへ入れば、カーテンの向こうに夜景が見えた。
「カードキー無くしたかと思った」
「いや。どうしようかと思っただけだ」
「家に帰ろうかなって?」
「……ああ」
「でもこっちに帰ってきたんだ?」
「仕方ない」
「棚田さん、律儀だもんね」
「起きてたのか?」
「たまたま。雑誌読んでたらこうなった」
棚田は手も顔も洗って、鏡に自身をうつした。
前髪が濡れて、かき上げると目がはっきりと見える。
よく見ると黒目がちで、まつげが長い。
――棚田さんの目って綺麗
紗矢にそんなことを言われた。
「お風呂先に入ったから」
紗矢がそう声をかけてきた。
広々とした浴槽に一人で入る。照明を限りなく落とし、カーテンを開けたまま。
LEDの白い光がビル群に浮いている。
天井を仰いでふーっと息を吐き出す。どことなくさっぱりする香りは気のせいだろうか?
深く呼吸が出来る。
***
ベッドに横になり、棚田の方に背中を向ける。
浴室のドアが開いて、ドライヤーの音がして、足音がして。
隣のベッドがきしむ音がした。
そこにいるのか、と思うと背中がそわそわし始める。
(寝れない……)
寝酒でも飲めば良かった、と今更ながら考え、そのまま寝たふりを続ける。
視線を感じるのは気のせいだろうか。
「風呂場が何か香る」
突然声をかけられ、紗矢は驚いて飛び起きた。
「そんなに驚くことか?」
「いや、その……いきなりだから」
「いきなりじゃなくどうやって声をかけるっていうんだ」
「確かに……えーと? 香り?」
「ああ。何か、花みたいな」
紗矢はあっと声をあげる。そのまま棚田に両手を合わせて謝った。
「ごめん。あれ、エッセンシャルオイルだ。充分流したつもりだったんだけど」
マッサージのために使っているものだ。その後シャワーで体を流したから、香りが浴室に残ったのかもしれない。
「ああ、そうか……それでか。いい香りがする」
「あれっ、気に入った?」
「……ああ」
棚田は紗矢に背を向ける。
今度は紗矢が彼の背中を見つめる番だった。
「今日、どうだった?」
「今日? ああ、みやこさんが来てた」
「へー、みやこちゃん。気に入ったのかな」
「さぁ。マスターと話だそうだ」
「ふぅん。最近会ってない……お店閉まっちゃったもんな、何か忙しそうだし……」
「元気そうだった」
「そっか。良かった」
紗矢は何となく手を伸ばす。互いが手を伸ばせば触れられるだろう距離で、当然届かない。
何がしたいわけではない。紗矢は手を戻すと仰向けになった。
「ねぇ、棚田さん」
「まだ寝ないのか」
「ごめん、眠い?」
「……さぁ。気づいたら寝てるタイプだから」
「良いな、それ。私寝付くの遅いタイプ」
「それでアロマ……テラピー?」
「うん。けっこう楽しい」
「もしかして疲れてるんじゃないのか」
棚田の指摘に紗矢は目を丸くした。疲れると意味なくおしゃべりになるのだ。そのクセをなぜ知ってる?
「水族館の前で言ってただろ」
そんなに前の話を、覚えていたのか。紗矢はかけ布団を握って胸元に抱いた。
「ああ、そうね……覚えてたの?」
「一応。深呼吸してみろ、脳に酸素を届けるつもりで」
「深呼吸?」
「自分の呼吸音を聞くんだ」
棚田の言うとおり、紗矢は脳に酸素を送り届けるイメージをし、その呼吸音を聞いた。
徐々に冴えていた頭が解れていくような感じがし、まぶたがとろんと重くなる。
「いい子だ」
「そんな子供じゃない……」
返す言葉はゆっくりになっている。
「息を吐くときに脱力」
「ん……これ、気持ちいいね」
「そのまま……」
紗矢は目を閉じ、そのまま眠くなるのに身を任せた。
目が覚めるとまだ暗く、時計を確認すれば6時半。
起きるには良い頃だ、紗矢は起き上がり、カーテンを開けようとして手を止めた。
振り返ると、棚田はまだベッドの上で眠っていた。
紗矢は朝の支度を終えると朝食を食べに行った。
半熟卵のオムレツ、人参サラダ、トーストにバター、タマネギスープと非常に健康的な朝食に体が納得する。
(これ作れたらいいけど)
毎朝は辛い。寝ぼけ眼をこすって、タマネギスープをすすっていると隣の椅子がひかれた。
座ったのは棚田である。
「おはよう」
「……ああ」
「よく眠れた?」
「それなりに。そっちは?」
「うん。あれすごいね、深呼吸。ありがとう」
「適当にそれっぽく言っただけだけどな。本当に効くのか」
「えっ。そうなの?」
紗矢が眉を持ち上げると、棚田は口の端を持ち上げて笑う。
「まただまされたな」
「……もぉぉ~。なんで~?」
「つい。反応がいいから」
紗矢は目元を赤くしながらそっぽを向いた。
そのままフォークと皿が触れる音が続き、二人とも食べ終わると部屋に戻る。
今日は仕事だ。
紗矢は支度するとホテルを出る。
今日も彼はホテルに戻ってくるだろうか?
話がしたいと言いながら、まだ何も話せていない。棚田の様子がいつも通りなので、つい甘えている気がする。
夕方に仕事を終え、お土産を持ちながら駅前に行くと花屋でみやこを見かけた。
声をかけると彼女はゆったりと笑う。
「ずいぶん面白そうなことしてるじゃない」
「何のこと?」
「棚田さんとホテル暮らしでしょ? それに、一度フッたんですって? 詳しく聞かせてよ」
みやこはいたずらっぽく笑って顔を寄せた。肩が触れあい、紗矢は口を尖らせる。
「フッたのは、何ていうか……私じゃ悪いなって気がした」
「何が?」
「前に言った通り。ずっと女でいられるわけじゃないのに、こんなで棚田さんと一緒にいるの、申し訳ない……」
「つまり彼のことが好きだからでしょ?」
「つまりそう。だから」
「そう。あたしが何か言うことじゃないしね、もう紗矢は向き合う覚悟が出来たんだから。でも棚田さんはどうなのかしらね」
「棚田さん、本心を隠すのが上手い。前に私にそんなこと言ったけど、あれって彼のことでもあるんじゃないかな」
「うーん、なるほど。あなたがそれと感じるなら、そうなのかも」
みやこは紗矢の肩を指先でついた。
「心に素直になりたいけど、なれない。なることすら忘れた。あなたたちってやっぱり鏡みたい。でも紗矢がもう自分をごまかさない、自分を見つけたなら大丈夫」
「本当にそう思う?」
「鏡だもの。お互いを必死にうつしてる。かつては彼が。今はあなたが」
紗矢は彼女をまっすぐ見つめると頷いた。
バスに乗って出かけるという彼女を見送り、紗矢はホテルに戻る。
***
棚田は仕事の打ち合わせがあり、やはり長時間事務所にいることになった。
時計を見れば夜9時半。
今ホテルに戻れば10時を超える。
編曲の注文が多く、やりがいはあってもドラムほどではない。
棚田は楽譜のコピーを持つと帰り支度を始めた。
すでに夜11時前になっていた。彼女に何の連絡もしていない。気にしているだろうか。
バス停に走るとホテル直行バスに間に合い、それに乗ると目頭を強く揉む。
やがてホテルに着き、棚田は膝を叩いて立ち上がる。
帰宅時間はいつも不規則で、疲れが体に溜まっているのか重い感じがする。
今日は昨日ほどの迷いはなく、カードキーを差すとドアを開けた。
電気はいつも暗め、足下を照らす間接照明がありがたかった。
紗矢はいないようだ、あたりを見渡すが物音一つしない。
棚田は一人がけソファに座って、目元を覆うようにして肘をつく。
誰かが待っている。
待たせていることがこれほど心苦しいとは知らなかった。
それにしても紗矢はどこへ行ったのだろう。
棚田がそのまま右膝を持ち上げて抱えるようにしていると、ドアが開いてそちらに視線が向く。
紗矢だ。
「あ、帰ってたんだ。お疲れ様」
「……逃げたかと」
「ああ、私? ううん、残念でした。飲み物買いに行ってた。どれにする?」
紗矢はコンビニに行ってたらしい。カフェオレや紅茶類、カップのコーンスープなどがあり、商品名の見えない袋もあった。棚田はそれが気になって手に取る。
「お茶っ葉だな」
「インスタントばっかりだと体が辛くて。せめて飲み物は自分で淹れようかと。飲む?」
「ああ。喉が乾いた」
「今? これカフェインあるよ」
「今欲しい」
棚田が素直に言うと、紗矢は頷く。
「前に淹れるって約束したしね」
「ああ」
紗矢が持ち帰ったチーズケーキと、淹れたての緑茶が小さなテーブルに並ぶ。
夜0時を過ぎたお茶会に、わずかな背徳感。
たまにはいいか、と床にそのまま座ってフォークを操る。
お茶を飲めば、まろやかな甘みと苦み、コクがあって棚田は驚いた。
「美味いな」
単に渋く、少し酸っぱいだけの飲み物だと思っていたのに。
「そうでしょ? 温度と茶葉の量に気をつければ美味しくなるの。……今日、どうかした? すごく遅かったけど」
「打ち合わせが長引いた」
「……時間っていつもバラバラ?」
「ああ。家で作業することも多い」
「だから休みつつ、体力つけつつ、なの?」
「そうだな。どこでもやれるように……」
棚田はポケットを探り、ライターを取り出すとタバコを咥える。
「ちょっと吸ってくる」
「ここでいいよ。あんまり気を遣わないで」
「いい。せっかくいい匂いがするのに」
「え?」
紗矢が振り向くのに気づきながらそれに背を向ける。
話を、と考えているのに時間が時間だ。
大股で部屋を出て、喫煙所で一本吸うと息を吐き出す。
(誰か教えてくれ、何をどうすればいい?)
紗矢といるのが苦痛なのではなく、ただ戸惑っている。
彼女が何を考えているのか?
知りたいはずなのに、どうすればいいのか。
部屋に戻ると紗矢はパジャマに着替えているところだった。
背中に手を回し、ブラのホックを外している。
腰のくびれがやけに艶めかしい。棚田に気づいていないようで、ドアが閉まる音に紗矢はようやく振り向いた。
目が合うと紗矢は慌てて胸元にパジャマをたぐり寄せた。
「戻ってたの」
「ああ」
棚田も歩きながら服を脱いで、浴室に向かう。
ドアを開けるが、昨日の香りはない。
彼女の気配がないような感じがして、何か物足りない。
シャワーを浴びるだけに留め部屋に戻れば、紗矢はベッドの上で座っていた。
こちらを見ている。だが誘うようなそぶりは見せない。
先ほど見えたくびれが思い出され、腰が重くなったが無視する。
「棚田さん。話せない?」
「今?」
「少しでいいから。ねえ、棚田さんに私って、どう見えてる?」
「どうって……」
棚田は首を撫で、疲れたと言わんばかりに息を吐き出す。
答えられない。
なぜだろうか、顔を思い出せないと兄に言った時と似ている。
なぜ答えが出ない? 一目惚れだった、でも明確な理由はない。
「わからない」
「どうして誘ったの?」
「良いな、と思った。それしか……。理由を後付けするのはいくらでも出来る。でも、それは真実じゃない」
「……わかった。今は、どう?」
「……今が一番、わからない。霧の中にいるみたいだ、きみが見えない。きみだけ見えない」
棚田の言った事に、紗矢は息を吸い込んで止めた。ようやく吐き出された息は重い。
意味のわからない、それも存在を否定するかのような言葉を彼女はどう思うのだろう。
兄は彼女に本気だから、と言ったが、棚田にはそれすら理解出来ずにいる。
自分のことがまるでわからない。
紗矢は視線を巡らせると口を開いた。
「それは、見たくないから?」
「いや、違う。……見たいんだ、全部。一番知りたい。なのに近づくほど見えなくなる」
「……私……ずっと自分を無視してた。そのせいかな」
「そうだったのか?」
「そう」
紗矢はベッドに潜り込んだ。目がきらめいて見えたが、彼女は顔半分までかけ布団をかぶって顔を隠してしまう。
「……本心を隠すのがうまいって、私に言ったでしょ? でも隠すっていうより、無視してた。ごまかしてたっていうか……でも、棚田さんのお陰で自分を知ることが出来た……そう思ってる」
「なのにフッたのか?」
「うん。あの時、まだ……混乱してたから。けど……今でも同じ選択をする」
紗矢の重い声に棚田はぐっと眉を寄せる。
「それの意味が、まるでわからない。本気で好きになったなら、なんで別れるんだ?」
「私、心に両方の性別があるんですって」
彼女が言ったことがすぐには理解出来ない、棚田は何も言えずに彼女を見つめた。
「シーソーみたいに、男女の性が行ったり来たりする。性同一性障害とかじゃなくて、どっちかになりたいとかじゃなくて、どっちでもあってどっちでもない。アンダンテで男性ばっかりなのに馴染めたのはそういうこと。同性化してたみたい。でもそっちになりきることも出来ない」
「……恋愛は?」
「男性にしか興味ない。女の子にときめいたことはないから……でもゲイじゃない。同性だと思ってるとき、スキンシップは無理になる」
棚田は以前、彼女を求めて拒まれたことを思い出した。
自分が焦ったせいか、と思ったが、そうではないのか。
確かに彼女は中性的な感じがする。時折はっとするほど女性らしくも感じる。説明に納得するところはあるが、腑に落ちない。
「ごめん。付き合ってた時、そうって知らなかった。なんかはっきりしないから、自覚してる人も少ないらしくて……。棚田さんと一緒にいて、私、やっと女になれるって思った。戻りたいって思った。でも無理だった。そうじゃない自分が出てくる。こんな中途半端で、棚田さんを受け入れられなくなるのに、一緒にいる資格がない」
「資格って……」
「両方の気持ちがあるなんて、意味不明でしょ? でもちゃんと女性になれない。もうごまかせない」
紗矢は苦しげに声を震わせ、目を閉じた。
棚田は何と言えば良いのかもわからないまま、ベッドに腰掛ける。
「疲れてるのにごめんね、こんな話して。それと、出会う前に知ってたら中途半端に付き合わなかった。振り回した感じになっちゃって、それも……」
「謝らなくていい。紗矢が悪いんじゃない」
やっとそれだけを言うと、棚田もベッドに横になる。
隣の紗矢と目が合う。
みやこが言ったことを思い出した。
人としてというのが重要だ、と。
「……それが理由で嫌いにはなれねぇな」
棚田は自分の言葉に納得するように頷いた。ほとんど独り言のようなもの、紗矢は聞こえなかったようで、肩をすくめる。
「何か言った?」
「いや。なあ、どっちもあって、……何を訊けばいいんだ、これは……とにかく、今、そっちに行って良いか?」
「え?」
戸惑う紗矢を尻目に、棚田は起き上がると彼女のベッドに入る。
紗矢は大きく開いた目で棚田の行動をじっと追いかけていたが、流石に体を持ち上げられると抵抗を見せた。
「ちょっと」
「俺が嫌いなんじゃないだろ」
「そうだけど……えっ、ねえ?」
シングルベッドに二人で、互いを向き合ったまま。流石に狭いな、と棚田は思ったが、彼女の体温が間近に感じられて心地よかった。
髪に触れると、紗矢は体を小さくする。
「あの……なんで?」
「さぁ。こうしたくなった」
紗矢の背中に手を回し、抱きよせる。
「棚田さん?」
「ああ、うん。やっぱり良いな。ちょうどだ」
「何が?」
「抱き心地。しっくり来る。そうだな、謝るくらいなら今夜は抱き枕の代わりになれ」
「いやいやいや、人の話聞いてた? 私みたいな男おんな、嫌でしょ?」
「どうかな。わからない」
「ねえ、わからないばっかりじゃない」
「仕方ねえだろ、わからないから。ただ、それが原因で紗矢を嫌うことはない」
「やめてよ。期待するから……」
「期待って?」
「……受け入れてもらえるのかもって……。ねえ、やっぱりダメだ。そうなったら私、自分を嫌いになりそう」
紗矢は棚田の胸を押した。棚田はあっさり手を離す。代わりに彼女の目を見た。
「嫌いになる?」
「だって、棚田さんを受け入れられなくなるのよ。そうなったら、ああ私じゃこの人を幸せに出来なくなるんだって……そう思ってしまう」
「それは俺を好きって意味だな」
あっけらかんと言うと、紗矢は口をぽかんと開けた。
「俺は自分で幸せになる。誰かに任せるつもりはないから、そんなことまで考えなくていい。俺が好きなら、嫌いじゃないなら、離れるなよ」
「……」
紗矢は視線を巡らせた。棚田は返事を待つつもりはなく、再び手を伸ばして彼女を抱きしめる。
すっきりとして爽やかで、それでいて咲き始める花のような甘い香りがする。
鼻腔に親しんだ彼女の匂いに、疲れがとろけていくようだった。
「そうしてれば、一人じゃない」
そう呟くように言うと、紗矢はもぞもぞと頭を動かして見上げてきた。
至近距離で目が合う。
紗矢の瞳が揺れていた。そっと彼女の手が伸び、髪に触れてきた。
くすぐったさに目を細め、手が離れると物足りなくなって唇を舐める。
「うん。……わかった。でも、ねえ、恋人に戻るとか……それは……」
紗矢は言葉を探し、結局見つからなかったのか息を吐くと棚田の胸元に顔を埋める。
「流れに任せれば良い」
棚田がそう言うと、紗矢は頷いて、安心したのか体の力を抜いた。
しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてくる。
棚田は紗矢の背を撫で、髪に鼻先を埋めた。
彼女の苦しみは分からない。
分かっているのは、それが理由で手放せる相手ではないということだ。
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