小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第14話 一週間の約束

 9月半ばというのにまだまだ暑い。
 夏休みが終わり、実家に戻ると言った美羽を見送ったのは数日前。
 彼女の擦れたように赤い目元が気になったが、気づかないふりをした。ごまかすように厚化粧していたのが分かったからだ。
 以前のきらきらしたまなざしに影がさしていた。
 良いのだ、蝶になる前は皆サナギなのだ。
 紗矢が染めた造花の小さな花束を受け取り、エッセンシャルオイルをごく少量仕込んだため香りがあるのに気づき、彼女はようやく笑顔を見せた。
 作り笑顔かもしれない。
 そして美羽は、電車の中で花束に顔を埋め、肩を震わせた。
 紗矢には彼女が「女の子」でいることが、この上なく気高くて、まぶしいものに見える。
 羨ましいような、切ないような、複雑な痛みだけが残った。

 それから一週間後。
 アンダンテが閉店する、と店長から聞かされた紗矢は、その日のうちに店に顔を出した。
 マスターは穏やかに微笑んで、紗矢に座るよう言った。スツールに腰掛け、どういうことかと訊けば、彼の返答はあっさりしたものだった。
「そういうタイミングだよ」
「タイミングって……でも、働きたいっておっしゃってたじゃないですか?」
「そうだよ。でも色々変わらないとね、それは続けられそうにないんだ。それだけだよ」
「あの、詳しく……」
「今は無理だよ。お客様がいらっしゃるから」
 マスターは人差し指を口元にあて、しーっと沈黙を促す。
 紗矢は息を整え、手元に視線を落とした。
 何かが変わっていく。
 すきま風のようなものがどこからか入り、それが思ったよりも強くきつく吹くものだから、油断した心にはひりひり痛い。
「大丈夫だよ。良い方に流れようと思えば、そうなるものだから」
 マスターは髭を持ち上げて笑って見せた。
 紗矢は眉を顰め、何か言おうと口を開けたが拍手の音に言葉を失う。
 生演奏の日だ、いつものメンバーが集まるステージにスポットライトが当たる。
 紗矢は思わず棚田を見た。
 視線をそらそう、そう思ったのに、棚田の視線に射貫かれたようになり、身動きが出来ない。
 頬を拭ったのは何かが流れたから。

 そんな紗矢を、棚田は一度も目を離さずに見ていた。

 演奏が終わるとすぐに帰るつもりで鞄を肩にかけ、紗矢は席を立つ。支払いを済ませ、ドアを開けて、階段を昇り――ヒールが折れた。
 膝ががくりと力をなくし、壁に手をやって何とか転ばないよう姿勢を整える。
 と、照明で出来た人影が紗矢を通りこして伸びた。
 紗矢が振り返ると、棚田が手ぶらのまま立っていた。見上げられる目の強さはいつも以上に鋭い。紗矢は肩を震わせると息を止めた。
 黒豹に狙い定められたらこうやって体が固まるだろうか、などと考えながら。
「どうしたんだ」
 彼の声は落ち着いていた。感情が見えない。怒ってくれた方がマシだったかもしれない。
 だがそれを求めるのは間違いなのだろう、別れ話の時ですら、彼は感情を見せなかった。
「何でもない。ヒールが折れただけ」
「店に来たのは、ここが閉まると聞いたから?」
「……そう。どうしてかと思って……」
「だったら逃げずに理由を聞けばいい」
「……そうだね」
 紗矢は階段に座り、パンプスを脱いだ。見事に根元から折れており、表面の人工合皮一枚でかろうじて繋がっている。
 紗矢は壁に手をやって階段を降りた。棚田が手を出し、それを見たが目をそらす。
 棚田もその手をすぐに下ろした。
 カウンターに戻ると、マスターが頷いて口を開いた。
「なんというか、喫茶兼バー、という形にするんだよ。昼は喫茶、夜はバーってね。僕はマスターじゃなくてただのバーテンダーに戻る。ちょっと休みが欲しいしね」
「アンダンテが閉店するというのは……」
「店の名前も変わるし、そうなった。まあ、がらっと変わるわけじゃないから、そんなに驚かないで」
 説明を聞くと、紗矢はほっと胸をなで下ろす。
「そうなんですか……てっきり全部なくなるのかと思って」
「年寄りの道楽を勝手になくしちゃいけないな」
「年寄りだなんて」
「いや、老害かな?」
 マスターがそう茶化して言うと、棚田が返す。
「老害なんてありません。若いのだけじゃ、暴走するのは目に見えてる。年を重ねたからこその知恵をもっと活かして欲しい」
「おや、柊一はずいぶん買いかぶりだよね。僕だってそんな大した人物じゃないのに。情けない老人はけっこう多いよね、まあ、それも反面教師かな」
「でも、実際にマスターのもとで育った人が多いじゃないですか」
 紗矢が言うと、マスターは肩をすくめた。
「僕子供いないし、そうなら嬉しいけど。てか、君たちどうしたの? なんか険悪?」
 マスターに指摘され、紗矢は棚田を振り返った。彼は無表情に足を組み替えるのみだ。
「ははーん、ついにぶつかったんだ? いいねえ」
「楽しまないで下さい」
「そう? いいんだよ、ぶつからなきゃ。そうじゃなきゃ本当の自分にも本当の相手にも会えないから」
 紗矢はどきりとして目を見開いた。
 本当の自分?
 棚田も同じようにして顔をあげている。
「柊一って悟ったとこあるけど、そうじゃないとこもあるから。ドラム聞いてたら分かるでしょ? 感じるっていうか……ま、これは僕が言うことじゃないよね。下手なんだよね、色々」
「マスター」
「阿川さん、もうちょっとこいつと付き合ってやってよ。もうちょっとで良い。僕の為と思ってさ、一週間くらい一緒にいてやってよ。後はどうでも好きにしたら良いから」
「一週間……って」
「きみの時間を下さい。あ、なんならお給料出すよ」
「いや、それは違う気が……しますけど」
 急な話の展開に、紗矢は戸惑って棚田を見た。
 彼は彼で口をぽかんと開けていたが、眉を寄せると珍しくマスターに食ってかかった。
「何を考えてるんですか」
「何って? 年を重ねたからこその知恵を活かそうと思ったんだよ」
 棚田の台詞を引用し、マスターはふふんと笑った。
「冗談じゃねぇ。なんでフラれた相手と一緒にいろって言うんだ」
 独り言のような声をまるっと無視し、マスターは紗矢を向いた。
「ホテルで良いよね? どっちかの家とかじゃなく。ちょっとしたボーナスだと思って僕がホテル代を出す。駅前が良いかな」
「無視する気ですか」
「人聞き悪いな。良いじゃないか、試してみるだけ試してみれば。阿川さんはどう?」
 マスターが紗矢を見た。
 紗矢は薄い茶色の彼の目を見て、どうしてなのか拒否出来ずにいる。
「おい」
 棚田が横目で睨むようにしてきた。
 断れ、と言外に言っている。
 それを見ていると、何やらむかむかしてくる。
 どうしてそっちの言うことを聞かなきゃならない?
「やります」
「な……おい、なんだって?」
「やる! ホテルで一週間も過ごせる、料理も掃除もしなくていい! こんないい暮らしが出来るなら、多少のマイナスは受け入れます!」
「マイナス……?」
「よし来た。女の子は覚悟が決まると早いね。柊一はどうする? 無理強いは出来ないけど、でも逃がすつもりはないな」
「逃げたのは俺じゃない。こっち」
 棚田は紗矢を指さした。紗矢は噛みつくふりをする。
「逃げた側が腹くくった。棚田さんはどうなの?」
「どう? ずいぶん挑発するな。後悔しても知らねぇぞ」
「そっちこそ。逃げてくれて良かったって心の底から思わせてやる」
 火花が散るほどににらみ合う二人を、マスターはゆったり微笑んで見守っていた。

 日曜日、二人のホテル生活が始まった。
 駅前のビジネスホテルは流石にもてなしも良く、一週間の連泊ということで良い部屋に案内された。繁忙期ではないのも幸いしたのだろうが。
 窓が広く、足下までガラス張り。5階の角部屋ということで見晴らしは上々、空室が多く、気兼ねせずに済みそうだった。
 ツインベッドは距離があり、間の小さな棚の上に手元を柔らかく照らすスズラン型のランプ。
 紗矢はあれやこれや興味を持ったものを一つ一つ見て回った。
 洗面所にあるシャンプーは、使い切りの少量とはいえ高級サロンで使われるもの。香水も置いてあり、シュッと吹きかけると、花を漬け込んだお酒のような甘く重みのある香りが広がった。
 浴室を開ける。
 窓ガラスの向こうは見慣れたはずの街並み。夜になればあのビル群がきらめく。
 そして――
「ああ、すごい。お風呂が……」
「広いな」
「広いね。お風呂で寝転がれそう」
「寝たら溺れるぞ」
「寝ないったら」
 紗矢がむくれて言うと、棚田は視線を逸らした。サングラス越しでもそれが見える。
(くそう。このサングラス、邪魔だわ)
 紗矢は取ってやりたい気持ちになったが、カーテンはどこも開かれており、晴れ晴れとした天気、太陽光がきつくビルの影もない。これでサングラスを外すなど、彼にとっては拷問だろう。とても実行出来ない。
 紗矢が一人そんなことを考えていると、棚田の手が腰に伸びた。
「ひえっ」
 反射的に声が出て飛び上がれば、棚田はやすやすと紗矢抱きよせる。
「何するのっ」
「男女が同じ部屋に泊まるんだ。これくらい、覚悟してるんだろ?」
 棚田は腰を紗矢にすり寄せた。綿のズボン越しに触れるアレの感触に腰が熱を帯びる。
 紗矢は棚田の胸元を押して腕を突っ張った。
「やめてよ」
「後悔させてやる。そしたらこれから一週間、一人で悠々と過ごせるわけだからな」
 棚田は紗矢をぐいっとひきよせ、腰からお尻をなで始めた。
 腕力でかなうはずがない。紗矢は顔を胸板に押さえつけられたまま、どんどん高くなる自身の体温に軽くため息をついた。
 はじめは乱暴ななで方だったが、気づくとしっとりと慰めるような手つきになっている。
 それに、棚田の鼓動が早い。
 目を閉じてそれを聞いていると、自分自身の鼓動と重なって、体の境界線がなくなりそうだった。
(気持ちいい)
 このまま深く眠ったら、幸せだろう。そんなことを考えた自分に気づき、紗矢は棚田の服の裾を引っ張った。
「わ、分かったから。でも一泊はしたい」
「一泊? ずいぶん弱気だな」
 棚田は紗矢の襟を開き、鎖骨を露わにするとゆるく歯をたてた。
「ダメだってば!」
 紗矢が声を張り上げたためか、棚田はぱっと顔を離した。
「『ダメ』? せめて”嫌”って言えよ」
 棚田は手を伸ばして浴室の照明を消した。影が出来、ようやくサングラスを外す。
 伸びた前髪の向こうで、棚田の目がぎらぎら輝いている。
 紗矢は背筋を駆け上る熱に体を震わせながら、その目を見据える。
「嫌じゃない。でも、ダメ」
「理由は?」
「今流されたら後悔する」
 紗矢がそうはっきりと言うと、棚田は手を離す。体がふっと楽になったが、紗矢は自ら棚田の腰に手を当てた。
 棚田は紗矢から目を離さず、冷静にじっと見ている。何か探るように。
「話がしたい。前は、心の準備が出来てなかったから、まともに話せてない」
「心の準備?」
「自分のことを受け入れる準備。ずっと自分をごまかして生きてきた。でも、もう出来ないし、したくない。棚田さんに本当じゃない自分を見せて、好きになってもらっても意味がない」
 棚田の瞳が揺れた。さまようにように、一瞬だけ。
 紗矢はようやく、自分の中にあった高い壁がぼろぼろ崩れていく気がした。
 そのきっかけになってくれたのは棚田だ。
 手を伸ばして彼の顎に触れた。彼が拒まないので、そのまま唇に、頬に、まつげに、まぶたに触れる。
 きっかけがまるで分からないのに、いつの間にか彼を愛している。
 ずっと彼を探していたような気さえした。
 紗矢は手をおろす。棚田もそれを追うことはしなかった。
「だから、今は……嫌」
「……」
 棚田は下唇を噛むと視線を巡らせ、息を吐き出すと紗矢の肩をぽんと叩いてその場を去る。
 浴室に一人残された紗矢は、その場にへたり込む。
 手足が震えていた。

 

次の話へ→「黒豹とかたつむり」第15話 一つの壁

 

 

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