リモートでの合同練習を終え、棚田は一人空気を変えようと外に出た。
金曜のため、今日はアンダンテで演奏がある。
時間を確認しつつ、駅に向かった。
そこで見つけたのは印象的な雲のようなウェーブヘア。ヨーロッパのファンタジー映画にでも出てきそうな、明るいイエローのワンピースの女性――みやこだった。
彼女は花屋で薔薇を何本か見繕い、その場で花束にしてもらっている。
艶やかな姿はとろみの強いブランデーを連想だせる、かなり魅惑的な女性だ。
あの強烈な個性はどうやって育まれるのだろう?
彼女も棚田に気づいたらしく、目が合うとまろやかな笑みを浮かべて会釈した。
「昼下がりの浮気ってところかしらねぇ」
「まさかお茶に誘われるとは思いませんでした」
二人が入ったのは駅内のパン屋兼喫茶店だ。狭いテーブルに向き合って座っている。
「紗矢のお相手だから、お酒の入っていない時にお話したかったの。あなた完全に夜の人って感じ」
「暗いですか」
「暗いとか夜とか陰気って、悪い意味でとらえる人が多いけどそうじゃないの。分かるでしょ?」
みやこはあっさりそう言うと、紅茶のカップを持ち上げた。カップの向こうで濃い紅茶のような色をした瞳がじっと棚田を覗き込んでくる。
わかる、と言われてもどうしたものか。棚田は彼女の出す謎かけに首を横にふって応える。
「夜、暗い、陰気って、思慮深い、度量がある、優しい、そんな一面も持ってるの。そうね、たとえばベッドでは完全にその人自身が出るわね。夜の闇が適度に存在を包み隠してくれるから」
「そんな風に考えたことはなかったな。陰気だとかはよく言われますけど、嫌味だとしか」
「でもおつきあいの深い人からは信頼されるでしょう? そういうことなの。明るいものだけじゃ辛くなるわ。だから良いの」
「……紗矢はあなたのことを信頼してるようです」
「そうみたい、あたしたちって両想いなの。昔姉妹か何かだったのかもね」
棚田は背筋を伸ばし、腕を組んだ。
彼女はいわゆる「電波系」なのか。スピリチュアルとかいうやつなのか。
女性がそういった話を好むのは知っているが、マトモなそういう人に会ったことがない棚田は咄嗟に距離を取ったのだ。
ところがみやこは気にした様子がない。
「それでいいの。変に信じるより、無神論者の努力家の方がよっぽど素晴らしいから」
「無神論者、とはっきり言えるほどそういう世界を知らない。仏教も神社も嫌いじゃない。ただ頼りっぱなしは気持ちが悪い」
「あら、いいご意見ね。少なからずいる、信じるだけで何もしない、考えない、無責任な自称・信者に聞かせてやりたいわ」
みやこは三日月のように目を細めて微笑んだ。
「あたしが考えているのは自然科学なの。月や惑星の引力で地球は引っ張られて地震を引き起こすかも、ですって。でも月がなければ地球は潮の満ち引きもないのよね。月も地球がなければ宇宙に留まれないかも。人間同士も似たものかしらって思ったことがあるだけ。あたしのことを頭のおかしな女って思う人はいるけど、まあ、そうでしょうね。あたしも同意見だし」
みやこはカップを置いた。買ったクロワッサンを手で千切っている。
「棚田さん。あなた直感が鋭いタイプよね。観察眼というのかしら。そんなあなたが紗矢に惹かれた理由って一体何?」
「気になりますか?」
「気になる。紗矢ってああ見えて繊細だし、時々気持ちが迷子になるの。特に恋愛に関してはそうね。自信がない……単純な理由じゃなく。だからこそ、紗矢があなたに惹かれた理由は分かる」
棚田は構えを解いた。自分でもわからない、どうして惹かれるのか。どうして受け入れられたのか。
彼女は何を理解しているのだろう。
「そうね、あの子は人としてあなたを信頼してる。ううん、尊敬してるのね。自分という軸がしっかりしていて、だからこそ他者も受け入れられる。この場合、男だからとかじゃなく、人としてというのが重要みたい。紗矢って明るいでしょ? でも明るい中だけで生きていくには辛いところがあるの。たまには目隠しするというか……そんな時間が必要な子なの。半分見えない方が、却って心を解放出来る子なの。夜に属するあなたが、紗矢にとっては心地良いのね」
「よく分かりませんが……彼女はそこまで不安定には見えない」
「心を病んでるとかそういうことじゃない。難しいところだわ、あなたとならごまかさないでいられるって言ったら良いかしら」
みやこの言葉に棚田は一瞬視線を落とし、それから両手をすり合わせた。それなら何か腑に落ちる気がする。
「あたしの言葉ってややこしいでしょ? でもそうじゃなきゃお話するの無理みたい。それにあなたも自分を隠してる」
棚田はどきりとして顔をあげた。
「紗矢もそう。でも隠してるだけ。嘘はついてないの、お互いにね。そうね、探してる途中って感じがするわ。自分自身をね」
「誰だって自分のことが一番わからないでしょう」
「そうだと思うわ。だから鏡が見たいのよね」
みやこの言葉に棚田ははっとする。
彼女の言う「鏡」が、他ならぬ自分たちだということがすぐに理解出来た。
お互いをお互いの鏡として見ている。
埋まらない溝は、さらけ出せていない自分自身?
そうなら自分はなぜ紗矢に惹かれたのだろう。今までその理由は重要ではなかった。
単に綺麗だと思った、話すとその感触が心地よかった、それで充分だろう、と。
みやこはゆったりと紅茶を飲んでいたが、眉を寄せるとカップを置いた。
「うーん、まあまあかな……もっと酸素があれば良かったのに……」
と呟いている。
棚田は彼女に紗矢とのことを聞いてみたい気持ちになったが、ついブレーキをかける。
下唇を歯でこすり、顎を撫でるとカップを手に取る。かなり渋い紅茶になっていた。つい顔をしかめてしまう。
「コーヒーにすりゃあ良かった」
「こんな時もあるものよね……まあ、紗矢のことをよろしくね。きっといい出逢いだったとあたしは思うの。あの子も自分と向き合うキッカケになったみたい……これって大事よね」
「あなたも色々あったんですか?」
「どうかな。普通じゃないかしらね、みんな色々あるものだし。まあ、あなたにも良い出逢いだったならより良いことよね。適当にがんばって」
みやこはクロワッサンを食べ終わると席を立った。
棚田は一人残って、底の見えない紅茶をじっと見つめる。
適当に、と言ったのは自分も同じ。
なのにいつも完璧を求め、背伸びしてばかりだ
棚田は紅茶を飲み干し、苦さに眉をひそめる。
カップには細かな茶葉が残っていた。
***
月曜、アンダンテで送迎会が行われた。
紗矢の後輩である田中という男性が、浜野にさっそく絡まれている。見た目には浜野が年下のようだが、同い年だそうだ。
「今日で阿川さんが最終日となります。いやー、助かりました。アンダンテの可能性がかなり広がって、新しい客層もゲット。本当にありがとう。これまで以上にお客様がくつろげるお店作りを目指して、作成されたレシピを活かしていきましょう。で、田中くんがまた新作を発表してくれるのも期待しつつ……カンパーイ」
グラスが持ち上げられ、従業員の声が次々あがる。
クロヒョウのメンバーも参加し、紗矢と田中が作ったケーキをつまんでいた。
浜野は紗矢にくっついて、あれやこれや聞きながらメモを取っている。「タブレットの充電が切れる!」と言って、紙のメモも取り出した。
「まーた男ばっかのむさ苦しい店に……」
伊藤がこっそり嘆いてみせる。吉野が棚田の背を軽く叩いた。
「なあ、うちの先輩に用って?」
吉野が言ったのは、先ほど棚田が事務所の先輩編曲家に相談がある、と連絡した件だ。同じ事務所に所属したため、吉野にも伝わったらしい。
「緒方さんのライブ、不安があったから相談しようかと」
「マジ?」
伊藤が細い目を大きく広げた。棚田はあまり誰かに相談するところを見せない。バンドのことも、アンダンテでの演奏曲目もぱぱっと決めてしまうからだ。
「リモートで、バンドも全員離れてる。前の音合わせで良いと思ってるけど客観的な意見がどうしても欲しくなった」
「そういうことか……初めてづくしだもんなぁ」
吉野はチーズケーキを片手に白ワインを飲んでいる。
今日は店は休み、夕方に始まったこともあって、どことなく緊張が抜けた店内は第二の家のようなゆったりした雰囲気となっていた。
紗矢はアンダンテの制服のまま、髪をおろしている。そのためかいつもより目元が柔らかく、女性らしい魅力を放っていた。
浜野の距離が近くないか、棚田は顎を撫でると立ち上がる。
「しっかり濾して、気泡を取る。そしたら舌触りがなめらかになるよ」
「おすすめの牛乳って……」
「失礼。ちょっと良いか」
棚田は紗矢を手招きする。浜野は棚田を見上げたが、ついと視線を逸らす。
その表情の一瞬の変化に棚田は気づき、悪いな、と独りごちると紗矢の手を取った。
そのままカウンターの奥へ移動する。
「どうかした?」
「別に。威嚇ってやつ」
「?」
紗矢がスツールに座ったので、マスターが声をかけた。
「寂しくなるね」
差し出されたのは日本酒のスパークリングだ。
「そうですね。お世話になりました」
「会えなくなるわけじゃないしね。良かったら店に顔出して」
「マスターも、カレントに来て下さいよ。でもこっちの味に慣れてたらびっくりするかも」
「かもしれないねえ」
二人は会話を楽しみはじめた。棚田はガトー・ショコラと焼酎を交互に味わう。
紗矢と一緒に帰る約束をした棚田は席を離れた。先ほどの先輩から連絡があったためだ。
勝手口から外に出て、駐車場で話し合う。
「動画を確認したけど、そうだな、配置自体は問題なし。良いと思うよ」
「ありがとうございます」
「気になる点が3つあって、まず1曲目の間奏からラストまでの流れ? あれが強すぎる。歌声が聞こえづらい可能性があるから」
「はい」
「それから緒方のマイクがさ、ノイズ入ってる。声出すと音割れするから、これは設備の問題だから、こっちから言っとくわ」
「はい。ありがとうございます」
「で……3つ目なんだけど……」
先輩からの助言を頭にたたき込んでいると、従業員通用口が開いたのが背中に聞こえる。
出てきたのは浜野、そして軽い靴音は紗矢のものだ。背中の毛が逆立った感じがして、振り向くと案の定、二人は何か作業するわけでもなく立っている。
棚田は思わず息をひそめた。
「どうしたの?」
紗矢の声が聞こえてくる。それほど距離は離れていないが、なんとか聞こえる程度だ。
「今日最後だから、やっぱ言っとこうって思って……」
「ほほう。なんでしょう」
「俺紗矢さんが好きです」
浜野の直球な一言に、ぴーん、と空気が止まった感じがした。
棚田は目を見開き、もはや通話の切れたスマホを耳に当てたままそれを聞いていた。
長く感じる沈黙が続き、それを破ったのも浜野だ。
「俺のこと、弟子じゃなく男として見てもらえませんか?」
「……ちょ、ちょっと待った」
紗矢がやっとのこと、といったかなり困った声を出している。彼女は頭を両手で押さえた。
「好き? 好きって、恋愛的なアレ?」
「他にないでしょう」
「いや、その、だって……ごめん、なんかびっくりして……いや、ちょっと待ってよ」
紗矢は混乱を隠さない、何度か頭を抱え、つっかえながら話す。
「む、無理だよ。いや、浜野さんのことは嫌いじゃないよ、いい人だなあと思うしね」
「じゃあ好きになって下さい」
浜野は押せ押せだ。棚田は苛立ちを感じつつも、今この場に踏みいることも出来ない。するべきじゃない、と思った。
「いやでも、ねえ。変な話、私浜野さんに異性を感じないよ」
「童顔だから?」
「顔は関係ない。なんというか……なんていうか……一緒にいてもさ、兄弟みたいっていうのかな……」
「年齢はもっと関係ないじゃないですか?」
「いや、あるよ。これはもっと年行ったら思い知るよ。じゃない、そこじゃない。それが問題じゃないの。私……だから浜野さんとは無理だよ。なんか本当に兄弟みたいにしか思えない」
紗矢の返事は明らかで、浜野は今度こそ何も言わなくなった。が、顔をあげ、
「何がダメなんですか?」
まさかそれを聞くのか、と棚田は思った。が、浜野の声は本気で、紗矢も息を吐き出すと言葉を考えるように上を見た。
「何が……そうね、私にとっては……私ってそっちのアンテナおかしいんだ。感度がまるで良くないっていうか。好きだな、と思う異性の範囲が異常に狭いの。その狭い中でももっと狭くなる時がある。贅沢だなーと自分でも思うけど、どうやら私、そもそも恋愛に対しての情熱がない。結婚願望もナシ。ねえ、何がダメって言っても、それって人によって違うじゃない? 自分じゃ欠点だって思ってた部分が、人によっては魅力だったり……私にとって浜野さんって、そりゃあ”いいね”って思う人だけど、でも恋愛じゃないんだ。ごめん、恋は出来ない」
「……」
浜野は肩を落とし、黙り込んだ。
「……浜野さん」
「はい。……すいません。せっかくの送迎会なのに、空気壊して」
「それは良いから。好意は嬉しいよ、浜野さんの頑張りも素直に応援したくなる。だから、ねえ、何がダメとかは考えないで」
「はい」
浜野は頷いた。「先に戻って良いですか」と紗矢にことわり、店に戻っていく。
紗矢は心配なのか彼を見送っていたが、やはり気まずいのかその場で姿勢を崩した。
「……はあ」
彼女の口から重いため息が出る。
棚田はどうしたものか、と前髪をかきあげるようにして頭をかき、結局紗矢に声をかけることにした。
「……紗矢」
「うわ! びっくりした!」
紗矢は飛び上がらん勢いで後ずさり、その場にしゃがみ込む。
「悪い、聞こえてた……」
「えー、本当に……? タイミングが良いのか悪いのか……」
「微妙だな……浜野も言うことは言うんだな」
「そうだよね。でも、なんで私? 分からないよ。もっといい人いっぱいいるだろうに」
そう言ってから、紗矢は棚田を見上げた。
――ああ見えて繊細。恋愛に関しては特に自信がない。単純な理由じゃなく。
棚田はみやこが言っていたことを思い出し、彼女に合わせてしゃがみこむとその両の頬を片手で掴む。
唇が突き出る形になり、紗矢は文句が言えない。
「気さくで、人を偏見じゃなくちゃんと見てる。仕事では努力を惜しまず、誠実に……まあそんなところだろうな」
「ふぁひふふ……」
彼女は何か言ったが、まるで言葉になっていない。棚田はそのまま紗矢に口づけた。
彼女は半眼で睨んでくる。照れ隠しだろう。
「あんたのどこが良いか、じっくり教えてやる」
手を離し、棚田は一人立ち上がると店に戻った。クロヒョウのメンバーと目が合う。
「棚ちゃん、どうって?」
「何が?」
「はあ? 先輩からのアドバイスぅ!」
「ああ、そうか。3つもらったよ」
そう答えながら浜野を視界の端にとらえる。彼は笑顔を作って、バーテンダーと話していた。