小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第10話 距離感

 この日アンダンテにやってきたのは誰あろう、美羽である。
 夏休みを利用し、一人暮らしの練習兼ねてマンスリーアパートに入ったという。
 バイトを探している途中で、せっかくだからとアンダンテに顔を出したのだという。
 生演奏の日ではないため、棚田には会えなかったが単純に挨拶がしたかったようだ。
 彼女の借りたアパートは紗矢の住むマンションの最寄り駅の近く。
 安全に気を遣った母親が一緒に選んだそうだ。
 駅の近くなら確かに明るく、交番もコンビニもある。
 紗矢は良い選択だ、と思いながら、近づく派遣の最終日にため息をついた。
 後1週間。
 紗矢のレシピを訓練した、喫茶店勤務の後輩パティシエが後を継ぐ。負担が一人にかかりきりにならないよう、交替だ。
 カレントに戻ることが嫌なわけではなく、ただアンダンテを離れることに一抹の寂しさを感じたのだ。
「お疲れ様だったね」
 マスターは穏やかに微笑んだ。
「お陰で女性客も増えたよ。スイーツも食べられるんだって」
「そう言ってもらえると嬉しいです。こちらこそすごく勉強になりました」
「浜野が寂しがるなぁ」
「浜野さんか。彼がいるなら交替もスムーズだと思います。後輩にも言っときますよ」
「しばらくキッチンのボスは彼だって?」
「ふふ。そうそれ。可愛い顔してけっこうしっかりしてるからねって」
「だよねえ」
 マスターは目尻に深い皺を刻んで笑った。
 若いころは相当美男だったのだろう。その片鱗が見え隠れしている。
「ところでみやこさんに会いに行ったよ。面白い店だね」
「えっ。お店に?」
 マスターの一言に紗矢は目を丸くした。
 いつの間にそんな仲になったのか。
「デートじゃないよ」
「ああ、いや、お似合いだと思って……」
「こんなおじいさんが相手じゃ嫌でしょう、彼女はまだ若いし、魅力的だし」
「みやこちゃんて年齢気にしなさそうなので……。デートじゃないんですか。ならどうして?」
「色々考えることがってね。店をちょっと……」
 マスターは不自然に言葉を切る。紗矢はそれに眉を寄せた。
「まあ、適当にね。引退とかじゃないけど。僕は働いてるのが好きだから」
「でも……何かあるんでしょう?」
「まぁ、そりゃ楽したいもの。多少はセーブするし、そのための準備もしないとね」
「……色々、変わっていく?」
「そうだね。仕方ない」
 マスターはゆったりと構えている。紗矢は彼の、物怖じせずに流れを受け止めるその余裕に憧れを抱いた。
 同時に、わずかに通っただけで寂しさを感じる自分自身の幼さに唇を噛む。
「色々ありがとうございました。まだ来ますけど」
「せっかくだし、送迎会でもしようか。日取りはいつが良い? 柊一とデートするならかぶったら嫌でしょ」
「は……え? 知ってたんですか?」
「まぁね。あいつの好みも知ってるから」
 紗矢は大きく目を見開いた。マスターはそれを見ていよいよ目尻の皺を深くする。
「気になる?」
「え、いや、どうかな……」
「あいつの女性関係、気にならないんだ?」
「気にはなりますけど……」
「却って心配になるかもねぇ。まあ柊一は大丈夫だよ。世間の女性はよく言うよね、『男は確実に浮気する』って。でもそうでもないよ、一途な男もいるから。女性の働きかけで一途な男にすることも出来る。本命がいる場合、浮気ってしたくてする奴はごく一部、ほとんどの人はしたくないんだよな。男も女も」
 マスターが突然語り出した。紗矢はつい興味をそそられ、彼をじっと見てしまう。
「自分のものになったって勘違いするとダメだよね。親しき仲にも礼儀ありって言うけど、その通りだと思うよ。君らはそういう感じじゃないな。お互いに寄りかかるんじゃなくて、お互いに支え合えるように見える」
「まだそんなに長く付き合っていないし……全部を見せ合ってるわけでもありません」
「柊一は信頼出来ない?」
「いえ……」
 紗矢は視線を落とした。知らず胸から何か吐き出すように深い息を吐き出す。
 マスターは何か勘づいたのか、表情を和らげるとスツールに腰掛け、ゆったりと手を組んだ。
「なるほど。受け入れられるのが怖いのか」
「え……」
 紗矢は驚いて顔をあげた。
 どういう意味だろうか。
「まあ、そのうちぶつかるだろうね。でもそれで良いんだよ」
 マスターはどこか楽しげに笑って、これまでとばかりに新聞を広げた。
 紗矢はしばらくマスターを見つめていたが、額をかいてキッチンに戻った。

 帰路につくと、美羽の姿を見つけた。コンビニで色々見繕っているようだ。
 相変わらず可愛らしい服装、メイク。女の子らしい姿に感心していると視線に気づいたのか美羽が振り向いた。
 目が合うと自然と笑顔になった。

「紗矢さんの住んでるマンションが近いんだ~、心強いな」
「うん。何かあったら来なよ。そうだ、この辺案内しとこうか。スーパーとか病院とか、知っといた方が良いところ」
「良いですか!? 良かった。けっこう入り組んでますよね、ここ。地図見てたら混乱しそうになっちゃって」
「そうね、ここら辺は。元々商店街もあったし、公園とか色々開発で変わったから……」
 コンビニで買った食材、飲料を手に持ちながら、街灯の明るい道を歩く。
 美羽の笑顔は明るく、見ているとつられてしまう。紗矢は彼女を車道からかばうように歩き、アパートまでを送る。
「紗矢さんはどこまで?」
「この先だよ」
「マンション良いな。可愛い外観ですね」
「そうかもね」
「今度行きたいな。あ、そうだ。連絡先交換しません?」
「うーん。だね」
「わーい。ママも安心します」
 美羽と連絡先を交換し、アパートに入るのを見送って紗矢も道を歩いた。
 ふと夜空に目をやれば、都会の空気でも何とか見える夏の星。
 あれはなんという星だったか。確かベガ、アルタイル、デネブ……ベガとアルタイルは織り姫と彦星だ。
 宇宙の中、交わることのない星と星。だが星にも意思があるのだろうか?
 地球のように、何らかの脈動を持っているのかもしれない。
 それならあの星たちは本当に惹きつけ合っているのかもしれない。
 七夕の夜、鳥の力を借りてようやく会える……ではデネブのある白鳥座はいうなれば恋のキューピッド?
 祖母が語るには、日本では乙女が神を出迎える日だったか。
 その神と結ばれるために。
 紗矢はロマンチックな星座物語にもなぜかため息をもらす。
 今現在恋をしているはずなのに。
それに七夕はとっくに過ぎた。
 ちょうど棚田と出会ったあの日に。
「ああ、そうか。七夕だったのか……」
 紗矢はそれを思い出すと、まさしく夜空に心が吸い込まれていくような、途方もない感覚を味わった。
 中学生の時のことを思い出したのだ。
 制服は当たり前だがスカートであった。
 それが嫌なわけではなく、当然と思っていたのもつかの間、女子扱いされた時に激しく抵抗を感じたのだ。
 その時自分はもしかして体と心の性別を間違えたのだろうか、と思ったものだが、次の日には普通にスカートをはいて出かけていた。
 まるで自分のことが分からない。
 織り姫と彦星を文化祭の演劇でやろう、と決まった時、紗矢は他の男子が嫌がるため彦星役をやった。
 初めての男装。とても楽しかった覚えがある。
 友人達からも好評だった。
 織り姫役の同級生はとても女子らしい女子。
 手を取り合うシーンでは彼女の手の小ささにずいぶん緊張したものだ。
 もしかして自分は彼女に恋をしている? と思ったが、そういう好意ではないと気づいた。
 その彼女から恋愛の意味で好きと告げられたの時に。
 素直な好意を嬉しいと思う反面、ほっとしたことを覚えている。
 性別を間違えたわけではない、と。
 自分のことがわからないのは今でもそうだが、思えば中学生の時にそれを強く意識しはじめた。
 織り姫の彼女は今どうしているだろうか。
 明るく素直で、可愛らしい彼女。美羽と似ている気がする。
 紗矢は考えるのをやめ、息を吐き出すと視線を前に戻す。
 まずは家に帰ろう。

 この時、紗矢は大きな勘違いをしていた。
 今の暦と旧暦は違う日付なのである。
 旧暦7月7日は現在でいえば8月の中旬以降のいつかである。
 雨の続く日に織り姫と彦星は出会わない。銀河が見えない日に会うことはなく、7月7日の雨を織り姫の涙と言わない。
 旧暦と今の暦は違うのだ。
 織り姫と彦星の再会はまだである。

***

「ベースが近い。少し距離を取るように」
 棚田はリモートで指示出し中だった。
 緒方なつめのライブはリモートで、生配信。先に楽器の音だけ録音するという話もあったが、緒方は全部の呼吸をその時間に合わせたいと熱望した。普通のチケットよりは格安だが、だからといって手を抜いていいわけがない。
 楽器の音の距離を計るため、合同練習中だった。
 今回編曲も担当している棚田は、細かくそれぞれのマイク、もしくは立ち位置を調整している。
「キーボードはそのまま。緒方さんはその時その時で判断して下さい」
「あたし動き回るけど、大丈夫ですかね?」
「緒方さんの感覚を信じてますから」

 ある程度の立ち位置が決まり、音合わせをすると全員からOKサインが出る。
 棚田は知らず知らずのうちに肩に力が入っていたらしく、リモートを切るとがっくりと頭を下げた。
 何かが違う。
 そんな不満があり、しかし何が違うのが分からない。
 スタッフ達は「良いんじゃない」と認めてくれているが、「これが良い」という反応とは違うのだ。
 深々と息を吐き出す。
 喉の渇きに気づいて、パソコンデスクに置いていた水を手に取る。
 常温になっていたそれは、喉を潤すどころかますます喉が乾く。呼び水になってしまったらしい、棚田は首の後ろを支えて上を向き、立ち上がってリビングに向かった。
 部屋のカーテンを閉めていたため、時間感覚がなくなりかけていたがまだ昼間だ。明るい太陽光が、照明をつけていないリビングを柔らかく照らしている。
 飯塚は仕事に行っており、現在棚田一人である。
 都会だというのに静かでのどかな場所。
 棚田は風の通る音に、余計なプレッシャーなど感じなくて良いと慰められる気がした。
「俺も引っ越すか」
 そう呟き、思い出すのは紗矢と迎えた朝のことだ。
 隣にいるのが自然、そう感じる一方、まだ見えない部分に遠ざけられ、慰められる。
 彼女自身にそういった仮面を感じるわけではないのに。

 水曜に紗矢と会えば、彼女は鮮やかな海の色のワンピースを着ていた。足首、ふくらはぎがちらちらのぞき、細いヒールがどことなく危うげでつい目が行ってしまう。
 ランチに洋食屋でもどうか、と誘い、換気扇に汚れのしみついた老舗の店に入った。
 棚田の気に入りの店である。
 赤レンガ調の壁紙に橙色の電気。カーテンは分厚い緑の遮光で、年季の入ったメニューは端が黒ずんだボルドー。
 何よりも料理が美味である。
「ここって何料理屋さん?」
 紗矢はメニューを開くと、目を大きくしていた。
「多分洋食……のはず。オリジナルも多い」
「ハリラスープとかあるの。オムライスもあるけど……どうしよう、迷うな……」
 紗矢が言ったのはモロッコのスープだ。多国籍料理屋と言った方が正しいかもしれない。
「ハリラスープと、タマネギソースのもも肉ソテーにしようかな。棚田さんは?」
「卵スープにガーリックフランス、後はオムライスだな」
 注文を終えると、紗矢がメニューを楽しげに見ながら口を開いた。
「どれも美味しそうだなぁ。あ、デザートもある。でも食べきれるかな……」
 紗矢はお腹を撫でながら口を尖らせた。棚田は水を飲みながら言った。
「持ち帰りがある」
「あ、本当だ。ならそうしようかな」
「じゃあ……」
 棚田が店員を呼ぼうとした時、紗矢がそれを止めた。
「いいの、これ研究みたいなものだから。自分で出す。レジでも受付あるみたいだし」
 デートでは棚田が食事代を払うことになっているため、紗矢はわざわざ説明したのだろう。
「公私混同はしない?」
「一応ね。そこらへんはちゃんとしておきたいなと思ってる。ねえ、ところでちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「寝てる?」
「寝てる。心配か?」
「そりゃあ、まあ、ね」
 紗矢は明後日の方向を見て頬をかいた。頬がじんわり赤く見えるのはチークのせいではないはず。
 棚田は少しだけ身を乗り出し、彼女の目を覗き込んだ。
 目が合うと、紗矢はむっと唇を突き出し見つめ返してくる。しばらくそうやっていると、どちらからともなく笑ってしまった。
 運ばれてくる料理をそれぞれ楽しみ、紗矢は帰り際にティラミスとバクラワという聞き慣れない――モロッコのデザート――を買った。
 顔見知りの店長が棚田に耳打ちする。
「通な彼女だね」
「パティシエなんです」
「あ~、なるほど。お似合いだよ」
「どうも」
 店を出て、しばらく通りをぶらぶらする。
 民家が多いからか物静かで、雑貨店がちらほらあり意外にも楽しめる。
 紗矢は花が気になったらしく、白い外壁の店に足を踏み入れた。
 棚田は一人なら確実に入らない、女性受けのしそうな店だ。所狭しと造花にドライフラワー、生花もあり、ブローチなどのアクセサリーも売っている。
 紗矢は真っ白なガーベラの造花を手にしていた。それから白い、かすみ草。
 造花をまとめる彼女の横顔が西日に照らされる。写真家ではないが、カメラを持っていれば撮っていただろう。思わず惹きつけられる。
「俺が買うよ」
 そう言うと、紗矢は目を丸くした。
「ううん」
 そう首を横にふりつつ、嬉しそうに笑った。
「遠慮しいだな」
「そうかな」
「そうだろ」
棚田は紗矢の手からそれらを受け取り、色のないのに気づいて首を傾げた。
「カラフルなものにしないのか?」
「家で染めるから、白い方が良いの。ローズヒップティー余っちゃってて、このままダメにするよりは染料にしようかなーって」
「器用だな」
「けっこう綺麗に染まるの。それに本物の花の色が移るから、生っぽくなる」
「へえ……」
 棚田は分からないままに頷き、レジに行くとキーホルダーを見つける。
 彫金細工で、薔薇に触れる猫の姿のもの。アンティークな色合いが美しかった。
 そういえば紗矢は猫が好きなのだったか。
 棚田はそれを手に取り、店員に渡した。

 いつも通り、彼女の家の近くに車を停める。
 まだ夕陽が影を長く伸ばす時間帯で、わかれるにはまだ早い。
 そう思ったが、彼女はアンダンテで後輩を指導中、棚田もライブに向けて調整中だ。無理は出来ない。
 紗矢のマンション近くまで歩いて送り、彼女が指さすマンションを見つけると棚田は先ほど買った花束を渡した。
「ありがとう。今までで一番、綺麗に染めるね」
「そうしてくれ。せっかくだから、完成したら見せて欲しい」
「うん。あ、ねぇ。これ」
 紗矢はケーキの箱を棚田に持たせた。ランチを楽しんだ店のロゴが入っている。
「研究用だろ?」
「自分用はこれ。飯塚さんと二人でしょ? 一応2個入ってる」
 棚田は渡されるまま受け取り、頷くとしっかり握った。
「わかった。ありがとう」
「うん」
 棚田が見送る、と言うと、紗矢は振り返りながらマンションへ向かってゆく。何度か手を振り、黄金色に染まる豊かな髪を見つめる。
(もう一歩、先に進みたい)
 そう思うが、そう出来ない。
 まだその時じゃない、と自分の中の何かが訴えていた。

***

 紗矢がコンビニに入ると、美羽と鉢合わせた。
「紗矢さーん。今日すっごく綺麗」
 美羽は紗矢のワンピース姿を素直に褒めた。
 彼女は膝の出る台形のスカートで、足下のレースの靴下がなんとも可愛らしい。
「デートですか?」
「まあそんなところ。美羽ちゃんは?」
「バイトの面接です。雑貨屋さんに行ってきました」
「手応えは?」
「んー、わかんないですね。夏休みの間だけって言ったら、ちょっと厳しい顔されました」
「そっか。まあ、このへん学生街じゃないしね」
「やっぱりですか? うーん、どうしよう。水着売り場とか、そういう季節関係にすれば良かったかな」
「まだ落ちたわけじゃないんでしょ?」
「そうですけど……なんか滑り止めっていうか。あ、綺麗な花束」
 紗矢は美羽の言葉に頬をひきつらせた。
 棚田が贈ってくれたものである。
 彼のファンで、会うためにバーまでやってきた彼女に、何をどう説明したものだろうか?
 まさかおつきあいしている、と?
 ふと紗矢は心に穴が空いたような感覚を得る。
 誰にも言っていない。
 口止めされたわけでもない。
 だがたとえば言いふらして、棚田に迷惑がかかるのではないか?
 彼も多少は名の知れた人物なのだ。
「……造花を染めるのが趣味なの」
「へー! おしゃれ! すごいなあ」
「まあ、職場の喫茶店がけっこう気を遣ってて、感化された感じ? 花屋さんも近いし」
「あー、そうなんだ。いいな、女子力って感じですね」
 どうかな、と紗矢は頭をかいた。
 美羽とわかれ、一人マンションに帰る。
 荷物を置いて花束を出し、小さな紙袋に気づいてそれを見つめる。
 これは何だろうか。
 棚田の買い物かもしれない、間違えて入ったままなら、言わなければ。
 紗矢が連絡すると、彼はすぐに電話に出た。
「もしもし、棚田さん?」
「……ああ」
「無事帰った?」
「今帰ったとこ……何かあったか?」
「あの、えーとね。雑貨店で造花を買ってもらったけど、その中に小さい紙袋があって……忘れ物かなって」
「いや。プレゼントだ」
「え」
「そのまま開けて」
 棚田の言うとおり、紗矢は紙袋を開ける。中から金属製のキーホルダーが出てきた。
 猫と薔薇の、彫金細工のもの。値札も取られ、キーホルダーの先にはリボンが巻かれていた。
「可愛い……」
「気に入った?」
「うん。すごく……えっ……良いの?」
「良いのって……俺が持ってても仕方ない」
「えー……嬉しいな……猫好きって言ったの、覚えてくれてたの?」
 棚田はしばらく黙ってしまった。紗矢はつい唇を尖らせる。
「なぁに、電話で黙ったら分からない」
「そうだけど……なんつーか……いてっ」
 スマホの向こうでガスッ、という音がした。
「えっ、大丈夫?」
「大丈夫。物を落としただけ」
 棚田は何でもないという口調で返した。
「気に入ったんならつけててくれ」
「うん。ありがとう……えぇと、そうだな、ライブ楽しみにしてる。練習頑張ってね」
「楽しみ……チケット買った?」
「うん。どうして?」
「いや、こっちで用意するつもりで……いや、いい。分かった。……なあ、紗矢」
 棚田は声を落とし、間をおいた。息が近く、電波の向こうなのに、彼の鼓動すら聞こえそう。
 空気が変わったことを察し、紗矢は心臓が強くうつのを感じてその場に座り込む。膝を抱えると、彼に背中から抱きしめられているような感じがした。
「……今日はまだキスしてない。そのまま目を閉じて」
 棚田の言葉に疑問を差し挟む余地がない。紗矢は震える指先で唇を押さえながら、そっと顔をあげた。
 ここにはいないはずの彼の気配。
 唇がじんじんする。
「……閉じた」
「わかった。そのまま……」
 まぶたに触れられた気がする。顔が熱く、唇は自然と薄く開かれる。
 ちゅう、と聞こえた気がして目を開ける。
 目に力が入らない。鏡を見ればきっと女の顔をした自分が見えるはずだ。
「……感じた?」
「……ふふ。うん。こういうことするの?」
「してみたくなった。けっこう良いな」
「……うん。もう切るね、じゃないとずっとこうしちゃいそう」
「すればいい。……とも言えねぇな。ケーキごちそうさま。おやすみ」
「うん。……おやすみなさい」

 

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