小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第9話 疑い

「今日一緒で良かった。明日から飯塚の家に入り浸りになるんでね、ゆっくりしたかった」
 シャワーのあと、棚田はむきだしの紗矢の肩を撫でてそう言った。
 寝間着代わりを借り、それを広げると棚田が撫でていた肩に音を立てて吸い付く。
 紗矢も知らなかった敏感な場所だ、肩を震わせると棚田を見た。
「飯塚さん? どうして?」
「リモートだけどライブに参加することになった。あいつの家はドラムの練習が出来るから、それで」
「じゃあ寝泊まりもするの?」
「その辺は適当にする」
「そうなんだ……ライブって、すごい。誰の?」
「緒方なつめ」
 インディーズで地道にやってきて、メジャーデビューした女性シンガーではなかったか。最近はテレビにも出ている。
 紗矢も顔と名前をかろうじて知っていた。
「けっこう有名な人でしょ?」
「今売り出し中だな。年は下だけど、芸歴は先輩」
「ふぅむ」
 満足したのか、棚田が手を止めた。紗矢はスウェットを着て、ベッドの上であぐらをかく。
「すごいな。ライブ見たい」
 他に言葉が出てこない。紗矢は腕を枕に寝そべる棚田を見た。
 音楽家で、有名人と共演。
 世界が違う。
 そう思い知らされた気分になった。
 いつか遠く、手の届かない人になるのだろうか。
 ふとわいた痛みに気づきながら、それを無視して笑みを作る。
「ライブっていつやるの?」
「大体1ヶ月後だな。やりこまないと」
「私に何か出来ることってある?」
「会えれば良い。店でもどこでも……時間が取れそうなら連絡する」
「分かった。でも無理はしないで……集中する時なんでしょ?」
「ああ。こっち」
 棚田は紗矢を手招いた。
 素直に従って棚田の腕の中におさまる。
 そこで得られるのはしっくり来る安心感と、このままではいけない、そんな焦燥感だ。
 さきほどまで男女として抱き合っていたはずなのに、今の自分はどうしてかそれを拒んでいる気がする。
 彼を嫌いなわけではない。
 ただ、もっと素敵な女性が似合うだろうに、彼はどうして自分を好きになったのだろう、と紗矢は疑問に思わずにいられなかった。

***

 次の休日、紗矢は久々にみやこの店を訪れることにした。
 彼女の店がある通りはいつの間にか閑散として、乾いた風が吹き抜けている。
 にゃん、と鳴く茶トラの猫はすっかり老猫となり、目をしばしばさせて紗矢を見ていた。
「挨拶してくれてるの?」
 そう声をかけると、老猫はしっぽを持ち上げてから目を閉じる。
 何か違う。
 そう感じた時、みやこがちょうど店から出てきた。
「あら、紗矢。どうかしたの?」
「会いに来たんだよ。というか、話がしたくて」
「そう。ならちょっと手伝ってくれる?」
 みやこは看板をたたみ始めた。まだ昼間だ、営業時間のはずである。
「どうしたの?」
「色々あったの。ドア開けといて」
 みやこの言うとおり店のドアを開け、看板をしまうのを手伝う。「open」の札もひっくり返された。
「ダメな時に来ちゃった?」
「それはないわよ。これから暇になるし。で、話って何なの?」
 みやこはいつものようにお茶を淹れ始めた。
 紗矢は椅子に座り、促されるままに口を開く。
「只の恋愛相談……ねえ、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。こうなるって分かってたから。良いから話してみて」
「えぇと……そうだな……その、棚田さんと付き合うことになったんだけど……なんか変なんだ」
「変って?」
 みやこはティーポットをあやつり、カップにお茶を注ぐ。
 鮮やかな赤い色のハーブティー。ローズヒップだろう。
「なんか……棚田さんよりも自分のこと……自分の足りない部分がすごく気になる。つきつけられる感じがするんだ」
「良いことじゃない。変でもないわよ」
「でも……自己中じゃない? こういうの……」
「自己中ねぇ。つきつけられる感じがして、どう思うのよ。それによるわね」
 みやこはカップを優美に口に運ぶ。
 年を重ねるごとに美しさのます女性だ。紗矢は自分とは違う、女性らしい彼女に圧倒され、同時に人としての好意を持っていた。
 人として。
 性のつきあいが苦手な紗矢にとって、その感覚がどれほど大事か。
 棚田に対しても似た好意を持っている。
 だがそれは恋愛とは違うのだろうか。
 特別じゃないのだろうか。
 考えれば考えるほど答えが遠ざかる。
 つきつけられるものははっきりしているのに。
「私って完璧な……女性じゃない」
「完璧な女性?」
「完璧な人なんていないのはわかってる。そうじゃなくて、私ってやっぱり……女性じゃないって気がするの。アンダンテって男性従業員しかいないけど、違和感ゼロ。変でしょ。かといってハーレムとも思ってないし、馴染んでるとも思えない」
「アニマ、アニムスってのは誰にでもあるわよ。それとは違うの?」
 ユングの言う男性が持つ無意識的女性的傾向、そしてまたその逆、とはまた違う。
 紗矢自身その言葉を知って、みなそうなのだ、と安心していたが、どうにも違う気がする。
 無意識ではないのだ。心の奥底でもない。
 スイッチが入るように、人を見る目が変わる。
 異性を同性、同性を異性と感じるのだ。
 意見も感情も変わる。
 公共のトイレやお風呂も違和感がある。
 下着類始め、服装も、プロフィールに何を書くべきかも。
「……やっぱり変でしょ? 昔、性同一性障害ってやつかなって本気で思った。産まれる性別間違えたんだって」
「昔に? なら今は違うって事?」
「そう。ていうか、その時も数時間後には意見が変わってた。女の子で良かった~だって。自分でも呆れるよ、こんな気分屋で、自己中で、最低」
「そうでもないけど……中性ってやつじゃないの?」
「そうなのかな……女性になりたい時もあるんだ。綺麗な服着たいな、とか。でもそうじゃない時は筋肉が欲しい。男みたいな。そうね、棚田さんみたいに。化粧したくなる時ある。でもしたくない時もあって、仕事だからやってる。女性らしく見えないよう、ギリギリな感じで」
「大変だったのね。あくまでもあたしから見た紗矢のことしか言えないけど……」
 みやこは珍しく困った顔をした。いつも落ち着いて淡々と、でも大切なことは伝える彼女には珍しい表情だった。
「はっきり言ってあたしは紗矢が好き。性別うんぬんは抜きで、人としてね。純粋だし、信頼出来る。そうね……今までそれを無視してきたの?」
「仕事があるから、ある意味無視出来た。なのに最近、この事が頭から離れなくなる」
 紗矢は喉が腫れたように感じ、きつくもないのに襟を広げる。
「棚田さんと会って、デートして……それからかな、私に何の魅力があるのって思う。完璧な女性じゃないに。……それだけじゃない、彼ってすごく努力家。それにまじめで誠実。釣り合わないんじゃないかって思って……すごく焦る。なんか色んなこと……考えてしまう」
「焦るの? へぇ……」
 みやこは目元を和らげた。
「それって良いことじゃないの」
 みやこの言った言葉に紗矢は口を開けた。
「私、自己中じゃない?」
「逆よ。焦るってことは、彼に追いつきたいってことでしょ。甘えてる人なら『ねえ構ってよ』で終わり。それに人は鏡っていうじゃない、彼がまさしく紗矢を映してくれてるのよ」
「それって……」
 自惚れになるのではないか?
 だがみやこは身を乗り出して、内緒話でもするかのように言った。
「紗矢。今まで自分を無視してきたんでしょう? でもそれこそ色んなものを傷つける。自分と向き合う時が来たのよ。それに、彼ってあなたに夢中だから、心配しないで。……ねえ、出会うべき人に出会うとね、それぞれの感性が磨かれるの。本能からそうしたくなるの。紗矢が完璧な女性じゃないって悩むなら、どうなりたいのか考えてごらんなさい。嘘をついたまま彼といる? それとも自分を大事にした上で彼と向き合う?」
「誘導じゃない、それ。それに出会うべきって……知り合ってまだ日が浅いし」
「そうかしら。なら自分でじっくり考えてみて? 誠実な彼の真心で、あなたの心が溶かされたんだわ、時間は関係ないの。それに一目惚れって油断ならないのよ。この人こそ探していた人だって分かるの。……カンの鋭い人ほど」
 紗矢はぎくりとした。
 みやこは一体、どこまで何を知っているのだろう。やはり魔女だ、油断ならない。
「みやこちゃんって何者?」
「あたしが答えて、どうにかなる問題?」
 またかわされた、と紗矢は口を尖らせた。
「……みやこちゃんはみやこちゃんよね」
「そういうこと。それで充分だわ」
 みやこはハーブティーを飲み干した。
 紗矢は酸っぱいそれを喉に流す。
「ううむ、酸っぱい……」
「今度ジャスミンティーを淹れてあげるわ」
「そうね、ジャスミンティーってほぼ緑茶でしょ? それなら私自分で淹れられる。買っていこうかな」
「ウーロン茶もあるの。どっちにする?」
「両方にする。今日はありがとう、変な愚痴に付き合わせた」
 この日の紗矢は冷静だった。
 もしかしたらスイッチがオンになっているのか、あるいはオフになっているのか。
 それに来た時よりも気持ちは落ち着いて、目標も得た。みやこ様さまだ。
「良いのよ。あなたの話は好きだから」
 みやこはジャスミンティーの茶葉を手に取るとレジを通す。
 そういえば、なぜもう店を閉めたのだろう。
「お店、何かあったの?」
「これからあるの。まあ……そういうタイミングが来ただけ。気にしないで」
「……大変なら言ってね。手伝えることは手伝う」
「そうするわ。でもまあ、こんなものよ」

 みやこの店を出て、一度だけ振り返る。
 セミが羽ばたいていった後の抜け殻。
 なぜかそんなイメージがわいた。

***

 まだ飯塚も利用していない部屋があり、そこを使うことになった。
 北側の静かな部屋だ。
「部屋まで都合つけてもらって、悪いな」
「まあ、こっちとしても家賃もらえるしラッキーだよ」
「あんな安くで良いのか?」
 飯塚は音楽室兼部屋使用料を、1ヶ月で光熱費水道代とwi-fiその他もろもろ込みで2万を提示した。
「良いんだよ。別に金出してもらおうと思ってなかったし」
「どんぶり勘定はそのうち痛くなるぞ」
「良いんだって。俺浪費家じゃないし、無茶はしてないから」
「……こっちは助かるけどな」
 棚田は部屋に荷物を置き、ベッドなしのマットレスを隅に置くとリビングに向かった。
 昼食分に買ってきたカップ麺を開ける。
 冷蔵庫も使っていい、という事なので開けば、やはり新鮮そうな食材が揃っていた。
「完全に料理男子になったのか」
「いや、まあ、やると面白かったんだよ。棚田もやってみれば? 無駄じゃない知識だし」
「そうだな……」
「そういやさ、阿川さんてやっぱ面白い人だな。全然かまえないっていうか? でも隙があるわけじゃない。男慣れしてる女子ってわけでもなさそうだし」
「お前な……」
 棚田は飯塚を振り向いた。彼は肩をすくめてみせた。前のことは彼の「いたずら」である。
 そうと分かっていても気に入らないのだ。あんな言葉をかけて。
「勘違いしたらどうするんだ」
「彼女を試したわけじゃないって。お前の顔見てたらちょっとからかいたくなったんだよ。それに阿川さんもそうだって分かったらしいし?」
「それで? 満足したのか」
「一応な。彼女、贅肉ない背中が好きなんだと。性格は……まあ、けっこうドンピシャ。クリアしてんじゃねえの」
「余計なお世話だ」
「それでどうなってんの」
「付き合ってる。贅肉の話は参考にするよ」
「……えぇ! いつの間に!」

 深夜1時になるまで練習をし、そろそろ寝るか、とシャワーを浴びる。
 時間が取れそうなら、と言った連絡は結局出来なかった。
 スマホには紗矢からのメッセージが入っており、それを開くと非常にシンプルに【おやすみ】の一言。
【おやすみ】そう返信し、迎えた翌日には朝一番にメッセージを送る。
【おはよう】
 我ながら味けのない一言だ、と思ったが、紗矢からの返信も似たような物だった。
【おはよう。今日もお互い頑張りましょう】
 ふっと笑みが溢れた。
「おう、おはよう。昨日どうしてた? ああ、そうなんだ。俺? 俺はいつも通り」
 リビングに向かうと飯塚の声が聞こえてくる。会話のテンポからして電話だろう。
 彼の声は柔らかく、色気がある。つまり彼女だ。
 棚田はふうっと息を吐くとつま先をもと来た廊下に向けた。
 やはり同居というのは気を遣うものだ。気心が知れた仲であっても、一つ屋根の下で上手く行くかなど誰にも分からない。
 電話が終わったであろう時間を見てリビングに入る。
 トーストとバター、と朝食を用意し、それを済ませると音楽室へ。
 編曲の依頼を先にこなし、ドラムに向き合う。
 熱中してしまう性分で、気づくと正午を過ぎていた。

 副業のためバーに向かうと、紗矢が新作らしいケーキを焼いていたらしい。
 勝手口の裏の換気口から濃いチョコレートの香りがする。
 吉野が鼻を動かして悩ましげな表情を見せた。
「チョコたまらん」
 腹をさすりながら吉野は従業員通用口から入っていく。棚田もそれに続いた。
(当たりっぽいな)
 チョコレートの香りは甘く苦く。こっくりと深そうだがしつこくはなさそうだ。
 ステージの調整をしていると、案の定紗矢と浜野が揃ってやってきた。手にはチョコレートのケーキ。
「今日はまだお二人だけ?」
「そうだよ。伊藤がいたら喜ぶよねぇ、これ」
「試作品だから、味見役は多い方が良いです。伊藤さんと飯塚さんにも置いとこう」
 紗矢はその場でケーキ――ガトー・ショコラというらしい――を切り分けた。中央がぼこっとへこみ、ひび割れた隙間からなんとも言えない濃い色が見えている。
「伊藤が喜びます」
 吉野がそう言って、自身の分の皿を受け取った。棚田も受け取りながら、周囲を見渡す。
「マスターは?」
「ああ、最近遅いですね。なんか色々お話がある……みたいな」
 浜野がそう答えた。
「そうか……」
 棚田はカウンターに腰掛けた。
 紗矢がじっと見つめてくる。早く感想を聞きたいのだろう。
 棚田はそうと知りながらフォークを動かすのをわざと焦らした。
「これは何と会わせる予定?」
「緑茶ハイとかね。さっぱりするから。ウィスキーも良いけど……オールマイティ……は無理かな」
 紗矢は棚田のからかうような視線を平然と受け止めている。
 棚田はおやっと思った。
 もっと照れるかと思ったのに。
「隠し味もある。当ててみて」
「俺を試してるのか? いくら味覚が犬並でも調味料の種類は知らねえ」
「そうだとしても多分わかるよ。かなり使うやつだから」
 紗矢は淡々と言った。どうもいつもと違う。
 だが普通に話もして、距離があるわけでもない。
 棚田はいよいよフォークを突き立てた。
 とろけるような食感、予想通りのこっくりと深い、ほろ苦い甘さ。
 そして……キリリと鋭い何か。
 棚田は眉をよせた。
「これ……胡椒か?」
「正解! 流石棚田さんだね」
 浜野も拍手している。
「黒胡椒です。これで味が引き締まる。面白い味でしょ?」
 紗矢は得意満面だ。
 確かに面白い味だ、素直に美味しい。
「いいんじゃないか」
「やったー。後はマスターのOKがもらえるかだね」
 紗矢はレシピノートを取り出し、何か線を引いたかと思えば何か書き足していく。
 覗いて見れば白いページにびっしりと文字が書かれ、二重丸にしたもの、×印をつけたもの……それから付箋紙の山。ページの所々がよれている、かなりの試行錯誤が見て取れた。
 紗矢はノートを閉じ、笑みを隠さずに控え室に向かう。
 嬉しそうな様子に棚田は知らずのうちに笑みを浮かべた。
「俺の意見は~?」
 吉野が情けない声をあげた。

 副業を終え、客からの誘いを断って駐車場へ。
 飯塚の家についたらまたドラムに向きたい、その一心である。
 紗矢を送っていっても余裕はあるだろう、声をかけると彼女はきょとんとした顔をした。
「いいよ。練習あるでしょ? 1分1秒無駄にしないで」
 突き放すのとは違うが、妙に他人行儀ではないか。あっさりしすぎている。
 棚田は紗矢を覗き込んだ。
 いつもなら瞳孔が広がるのに、今はそれがない。疲れ目のせいで見えないだけか?
「駅近いし、大丈夫」
「紗矢……」
 腕を伸ばし、彼女の肩に触れる。
 だがそれで空気が変わることもない。紗矢はまっすぐに棚田を見つめたまま、何か固い目つきをした。
 いつか見た目だ、と棚田は思った。
「棚田さん、ねえ、今は……ごめん、こっちの事情で無理なの。でもまた、ちゃんと向き合えるようになるから」
 彼女の言葉の裏が読めない。行動でならわかるだろうか。棚田が顔を寄せるとしかし、紗矢は棚田の唇を指先で抑えた。
 ほんのりと甘い香りはガトー・ショコラのもの。
 マスターにOKをもらったため、今夜の試作品を客に配ったのだ。
 その時のはきはきとした彼女の姿を思い出す。
 彼女には彼女の世界があって、棚田が入り込めるものではない。それが分かってしまった。
「……今だけ。ちゃんと、なるから」
 紗矢は視線を落とした。何かから逃れるように。
 先ほどまでの楽しげな様子と違うその姿に、棚田はやりようのない焦りを感じた。
何かを埋めたい。何が溝になっている?
 棚田は息を吐くと首を横にふった。
「せめて抱きしめてもいいか?」
 そう訊けば、紗矢は顔をあげて頷いた。
 紗矢の手が背中に回され、まるで仲間にでもするように背を撫でてくる。
 友愛、そんな言葉がぴったり合う。
 棚田が求めるものではなかったが、彼女の温もりだけは本物だった。

 ドラムの練習もそこそこにリビングに向かえば、飯塚がギター片手に作曲中だった。
 時刻は11時半。紗矢からは無事に帰宅したメッセージを受け取っており、それに返信した後である。
「ライブって俺も見れる?」
 飯塚が棚田に視線を寄越す。棚田は頷いた。
「チケットをネットで買えばいい」
「ああ、そういう奴なんだ。ネットで確認したら良い?」
「ああ」
 飯塚はスマホを手に取り、緒方なつめを検索し始めた。
 すぐにライブの情報を掴み、申し込みを始めている。
「お前、結婚とかするのか?」
 棚田はふとわいた疑問をそのまま口にした。
 飯塚の恋人とはたまたま会ったことがあるが、しっかり者で面倒見が良い女性だった。結婚向きだろう。なんとなく飯塚と二人で過ごしているのが想像出来る。
「さあ。こだわってない……って言いたいけど、俺はこっちに呼びたいし、向こうもこっちに来るなら、向こうの家族はそういうもんだと思ってるって」
「そういう話があった?」
「あったんだって。だから余計、向こうでの事を片付けたいんだそうだ。俺も挨拶行かなきゃな」
「早めが良いんじゃねぇのか?」
「そうなんだよ。そう思ってるけど、意外と時間が取れないんだよな……よしこの日だって時に限ってトラブルアリ。なんかヤバいのかな」
「試されてるとか? 悪い気はしねえけど」
「棚が言うならそうかも」
 飯塚は納得したように頷いた。
 棚田はその様子に首を傾げる。
「そんなにあっさり納得して良いのかよ」
「他人任せにしてるって? そうじゃないけど。てかそんな話するなら、興味出てるって事?」
 飯塚の返しに棚田は首を支えるようにして撫でた。
 どうなのだろうか。
 今まで自分には必要ないと思っていたもの。
 結婚にしろ、会話にしろ、あるいは変化していくことは。
 それらが一気に押し寄せてきたような感じがあった。
 このまま波に飲み込まれる?
 それとも波に乗る?
 その二つしか道がない気がするのだ。
 ぐるぐる考え込んでいると、飯塚が眉を持ち上げて顔を覗き込んできた。
「棚も不安になったりするんだなぁ」
「当たり前だろ、ずっと同じではいられない」
「ずっと同じままの奴もいるけどな。成長しないっていうか? それもきついのかな」
「……さぁな」
 飯塚が言うことに同意しながら、頬杖をついた。
 話が思わぬ方へ行きそうだった。
 棚田は頭をふってテーブルの上のコップを手にする。水はすっかり常温になっていた。
 ふと隙間が出来た心に冷たい風が入り込む。
 この隙間が何なのかも分からないまま、猛烈に紗矢に会いたくなった。
 出会ってまだ1ヶ月ほどしか経っていない。
 急ぎすぎなのだろうか?
 だがどうしようもなく惹かれている。これは一体何なのだろうか。
 棚田は部屋に入り、紗矢にメッセージを送った。
【おやすみ】
いつも通りの文言。返信がすぐに来た。
【おやすみなさい】
 まだ起きているということだろう。棚田は連絡を入れても良いか訊ね、紗矢の了解を得ると通話に切り替えた。
「夜遅くに悪い」
「ううん。まだ寝る前だから大丈夫。何かあった?」
「声が聞きたくなった」
 ストレートにそう言うと、紗矢は通話口の向こうで息を飲んだ。間が出来、棚田はどうしたものかと首をさする。
「迷惑だったか」
「いいや、そういうんじゃないけど。棚田さんてすっごいストレートだよね?」
「ああ、照れたのか」
「照れた? 不意打ちにびっくりしただけ」
「あんたはストレートじゃないな。何か……今日は」
「今日? ああ、うん。そうね……でもストレートじゃないわけじゃないの。遠回しか。あれも私なんだ」
 電波越しの紗矢ははっきりと言ったが、声がわずかに震えている気がした。
 飯塚と同じ。ざっくばらんなようで、何かを隠している。
 いや、何かが隠れているのか。
 何かに怯えているのか。
「紗矢……」
「ねえ、ライブの準備はどう? はかどってる?」
 紗矢は声を明るくし、そう話を切り替えた。
 棚田はその気遣いを無視出来ず、話を合わせる。そうやって日付が変わるまで話し込み、眠りにつく寸前にふと思う。
(俺たちは何かから目を背けてる気がする。あるがままの姿じゃない。出会って日が浅いから? それは言い訳じゃないのか?)
 いつしかクセになった自問自答。
 内観といえば聞こえは良いが、結局答えはいつも同じ。
 誰に何を望めよう、自分自身を強くするしかないのだ。

次の話へ→「黒豹とかたつむり」第10話 距離感

 

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