紺色のカーテンが揺れ、白々とした太陽光がまぶたにおりた。
紗矢は手触りの違うベッドシーツの上で身じろぎし、手を伸ばしてスマホを取る。
時刻は6時23分。
まだ早いが、目覚めはすっきりとしていた。深く眠ったようである。
何か違和感があってかけ布団をめくれば、棚田にスウェットを借りていたことを思い出す。使っている洗剤が違うのか、固い匂いがする。
あの後、棚田に誘われ彼の部屋まで来たのだ。
軽い気持ちじゃない、と言われるまでもなく理解出来た。この部屋が紗矢をすとんと受け入れてくれた気がする。
紗矢は髪をかきあげ、隣に眠る棚田を振り向いた。上を脱ぎっぱなしのため見える肌はやはり自然な浅黒さがある。健康的で、太陽光で出来た陰影が綺麗だった。
彼はまだ眠っているようで、しっかりとまぶたは降りて規則正しく息をしていた。
いつもは前髪で隠れて見えない、しっとりした黒いまつげに通った鼻筋、唇も意外にふっくらとして、よく見れば可愛げのある顔ではないか。
紗矢は人差し指で、触れるか触れないかの距離でそれをなぞる。
思わず頬が緩んだ。
「……何やってる」
かすんだ声で言い、棚田が目を開ける。紗矢はどきりとして指を引っ込めた。
「何でも……観察してただけ」
「俺は猫じゃない」
棚田がゆっくり目を開けた。
黒々とした瞳がずいぶん穏やかで、つい見とれてしまう。
「知ってる」
紗矢がそう返せば棚田は身を起こし、覆い被さるとぎゅう、と抱きしめてきた。紗矢が「むぅぅ」と声を出せば、棚田はあやすように肩を撫でる。
「このまま付き合え」
「いきなりだなー」
「言ってなかったと思って。返事は?」
「Yesです、Yes。ふふ。棚田さんって可愛いよね」
「なんか遠回しな言い方だな」
「可愛いって言われるの、嫌じゃない?」
「わからん」
棚田は体を離し、紗矢の目を覗き込む。
彼の目は昨夜とはうって変わって、とても静かだ。目尻も柔らかく、見ていると安心出来る。
「言う人によるのかもしれない。あんたなら嫌じゃないな」
「それって……喜んで良いの?」
「さぁ。あんたの気持ちはあんた次第だろ」
棚田の言葉に紗矢は頷く。
何かくすぐったい気分だ、彼は紗矢を自由にしてくれる気がした。
「朝食を」
棚田が起き上がる。
広々した背中に紗矢は羨望のまなざしで見つめた。
(かっこいいよなぁ)
これは異性に対するときめきとは、微妙に違うものだと紗矢は理解していた。
***
土曜の夜の客入りは激しい。
そうと知ってから紗矢は気合いを入れ直した。
金曜とは違う、命がけの接客。
紗矢は浜野と二人、盛り付けに集中していた。
スイーツが食べられるよ、ということで女性連れの客が増えたのである。幸い下品な客ではかった。
「阿川さん、休憩したら?」
そうマスターが声をかけた。
浜野はとっくに休憩を取っており、交替出来そうだという。
流石に腕も足も力が入って張っている。紗矢はエプロンを脱いだ。
「そうします」
「おごるよ。柊一も車で来てるから、送ってもらって」
「え。良いんですか!?」
「もちろん良いよ。よく働いてくれてるから。好きなのを選んで」
紗矢はベストも脱いで、髪を下ろした。ひっぱっているためくくったままでいるのもきついのだ。髪が胸元に流れ、ふっと頭が軽くなる。
そのままカウンタースツールに腰掛け、メニューを開いた。炭酸入りの白ワインを頼む。
「お酒は強いの?」
「いやー、グラスだったら2杯が限度ですね。マスターはどうなんですか?」
「そこそこね。若い時は無茶したなぁ。無茶が出来たんだよね、よく考えたら自殺行為」
「武勇伝ありそう」
「バカげたものならね。それを経て、お酒はきちんと楽しむものだと気づいた。やたら飲むだけの人は嫌いなんだよ」
はっきりとした言いぐさに紗矢は目を丸くした。そういえば、あれからみやこと会っていない。
「そういえば、みやこちゃんとはどんな?」
「みやこちゃん? 前の彼女だよね。不思議な人だなぁ。僕はてっきり美魔女系の人かと思ってたけど、本当の魔女っぽい人だね」
「そうでしょ。占い師かと思ってたんですけど、はぐらかされちゃう」
「謎のある女性は魅力的だよ。謎ばかりでもいけないけど」
「必要なのは何ですか?」
「隙かな。つけいる隙。それが親近感にもなる」
マスターの話に紗矢は頬杖をついて身を乗りだす。
タメになる話ではないか。以前なら興味もなかったが。
「柊一とはどうなの?」
マスターが話題を紗矢に向けた。
「いい男でしょう、あいつは。ちょっと変わってるけどね」
「視点が面白いな、とは思います」
「そうか。悪い意味じゃないんだ?」
「はあ。けっこう、気楽です」
「珍しいね、あいつ話が面白くないって女性に言われるんだよ。表情もああだから、緊張するって」
「……そうなんですか?」
「君とは相性が良いんだな。それで良いよ」
客から注文が入り、話は終わる。
紗矢は白ワインに浮かぶ泡を見つめる。
そろそろ演奏の時間ではないか。
疲れがじわじわと襲ってきて、ぼうっとしていると人の気配があった。
「ここの常連さんですか?」
スーツ姿の30代ほどの男性客だ。
すっきりした目元に愛嬌のある笑いじわ。
以前つきあっていた男性と似ている、紗矢は咄嗟にそう感じ、緊張から背筋を伸ばした。
「すいません、その、楽しそうにお話されてたから、良いなと思って」
彼はたどたどしく言いながら、紗矢の隣に座る。
紗矢は支給されたベストも脱いで、白のシャツと黒のスラックスのみ。会社帰りと思われても仕方ないだろう。
どうしたものか、と紗矢は頬をかいた。
「僕は初めて来たんです。生演奏のあるバーって興味あって。その、良かったらおすすめのメニューとか教えて欲しいなーって」
「えーと……その、私は従業員です。派遣だけど」
「ああ、そうなんですか? すいません。お仕事の邪魔しちゃいましたか」
「いえ……」
明らかにナンパだろうが、彼を邪険にして店の面目がつぶれてはいけない。
仕事があるから、と席を立てばいい。紗矢はワイングラスを空けた。
「休憩中だったから。もう戻らないと」
「従業員さんなんでしょ? おすすめは教えて下さい」
「困ったな。私お酒専門じゃないんです。マスター」
紗矢がカウンターに身を乗り出すが、マスターはカクテルの準備中だ。
ホールスタッフもソファ席に、ステージの準備にと忙しそうである。
「……お好きなものが一番良いですよ。ここのバーテンダーさんは皆腕がいいから」
「入れる人によって味って変わりますからね。あなたの言うとおりにしようかな。でも、ラッキーだった。演奏に惹かれて入った店で、綺麗な人が働いてた」
「とんでもない。基本裏方だし、顔で働いてるわけじゃ……」
「それなら、ますますラッキーだな。休憩時間はもう終わり? 良かったらおごりますよ」
彼はなかなか言葉巧みだ。最初の印象とかなり違う。ナンパに慣れていそうだ。
「もう終わりですね。すいません、仕事があるので……」
「つれないなぁ。注文出来るまでは接客してよ」
彼の手が伸び、紗矢の手の甲に触れ、意思を持って指の間に指先が伸びた。
紗矢は反射的にそれを撥ねのける。
「ちょっと、痛いな!」
「急に触らないで。ここはキャバクラじゃない」
「触った? 言いがかりだ」
男性客が怒気をはらんだ声で言った。
店内に不穏な空気が流れる。
紗矢は周囲を見渡しスツールを降りた。
客のフリをして外に出るか。
「ちょっと、逃げる気か」
「喧嘩したいなら表に出なよ。注文もしてないのに客だなんて言わないでよ。他の方に迷惑だから」
紗矢の指摘に男性客は眉を寄せる。紗矢の腕を掴んだ。
流石にマスターが駆けつけ、彼の手をはがす。
「何かあったので?」
「彼女、従業員のくせに生意気だ。接客も出来ない上に人の手をひっぱたいて」
「それなら僕から注意しておきますから。とにかく落ち着いて。阿川さん、控え室に」
「……はい」
マスターに促され、紗矢は大人しく控え室に向かった。
怒りを吐き出すように息を強くし、ドアを静かに開けた。
パタン、とドアが閉まると肩の力を一気に抜く。怒りのせいか緊張のせいか、足が震えて、その場に座り込む。
(まずい。店に迷惑がかかった?)
後でマスターに謝らねば。
そう決めて立ち上がる。
***
「申し訳ありませんでした」
「話は聞いたから。しつこいナンパだったんだろ?」
マスターはそう言って、あっさり紗矢を解放する。注意はなしだった。
「それならこっちの責任だよね。女性客が安心して飲めない店なんて、ゆくゆくは男性客からも信用を失うんだよ」
「誰に話を聞いたんですか?」
「君らの隣にいた女性客。彼女は久々に胸がスカッとした、君にチップはずみたいくらいだってさ」
「お礼を……」
「言っといた。もうお帰りだったから」
「ありがとうございます」
「それから浜野。見てたんだって。君が言い返さなかったら『僕が言ってました』だって」
「そうなんですか? ……あの、下手に言い返してお店にご迷惑をかけたんじゃないですか?」
「それは気にしなくて良いから」
マスターはこれまで、と手を打った。
店では演奏がスタートしており、ベースの心地よい音が流れていた。
紗矢は浜野を探す。彼はホールでスイーツの説明を求められており、それが終わると紗矢のもとへやってくる。
「浜野さん、マスターに説明してくれたんだって? ありがとう」
「いやいや。いるんですねえ、ああいう人って。紗矢さんってはっきり言い返すんだ。かっこよかったな」
「ダメなんだよ、本当はね。客同士じゃないから」
「良いじゃないですか。良い客が良い店を作るっていうでしょ、失礼な人には帰ってもらった方がいいんですよ」
「それだとしてもさ……」
もっとうまいかわし方があったはず。紗矢は首を傾げてみせた。
「……さて、仕事しなきゃね。バトンタッチ」
「俺休憩はもらってましたから、一緒にやれますよ」
浜野が後についてくる。
まるでわんこだ。まっすぐできらきらした目はなんとも「可愛い」。
棚田に対するものとは違う感覚に、紗矢は頬を緩ませた。
「浜野さんて将来大物になりそうだわ」
「え、本当ですか? 今のうちに予約していいですよ」
「そうねぇ。君のお店の名前が決まったらそうしようかな」
「そういう意味じゃないですけど」
浜野がぽつりと言う。紗矢は何か聞こえた気がして振り返ったが、浜野はにっこり笑うだけだった。
***
マスターの言ったとおり、紗矢は棚田の車で送られる。
よく働いた充実感のある疲れに身を任せていると、棚田が言った。
「今日何かあったのか?」
どこか気遣わしげな声だ。紗矢は彼を見て、道路に視線を戻した。
「まあ、ちょっとお客……もどきに声かけられて」
「ナンパか」
「そんな感じだったけど、怒らせちゃった。マスターと浜野さんのお陰で事なきを得たけど」
「大丈夫だったのか?」
「大丈夫、大丈夫。ナンパとか全然ないから、びっくりしちゃって。お店に迷惑かけるとこだった」
「そんな騒動に? 見ておけば良かった」
紗矢は彼を振り返る。棚田は表情を崩さない、が、よく見れば眉が険しくよっていた。
「棚田さん、それって心配してくれてる?」
「そりゃそうだろ。ついていくなよ」
声に重さがあった。紗矢はつい頬を持ち上げて笑う。
「心配性~」
「からかってる? ったく……」
棚田は頭をかいた。その横顔はまっすぐ前を見ており、紗矢は思う存分見つめることが出来た。
「何見てる」
「棚田さんの顎。無精髭生えてる」
「顎って……」
棚田は自身の顎を手で覆った。隠すことはないのに、と紗矢は内心考える。
「ねえ、朝ご飯買いたいから、コンビニに寄って欲しいな」
「分かった。……なあ」
「ん?」
「……今日も泊まっていけよ」
低めた声はゆっくりと鼓膜に染み込んでゆく。
紗矢は下腹部が疼くのを感じたが、姿勢を正すことでそれをごまかした。
洗濯したとはいえ、二日続けて同じ下着だ。
「えっと……そうだな……」
何か言おうとするが、言葉が出てこない。
信号が赤になり、車が停まる。前の車のテールランプがやけにまぶしい。
紗矢はシートベルトを掴んだり、シートの端を掴んだりを繰り返す。
恋愛のノウハウでは焦らす駆け引きを勧めているが。
「嫌か?」
「い、嫌じゃないけど……良いのかな……これって……」
「何が?」
「いや、その……続けて二泊って……」
「良いかどうかの問題? そんなの答えのないことだろ」
棚田は眉を開いて紗矢を見ていた。紗矢がおそるおそる目を合わせれば、棚田は言葉を続ける。
「俺は一緒にいたい。あとはそっちの気持ち一つだ」
「……棚田さんって哲学者?」
「よく言われるけど、そういうつもりじゃない」
「そうね……ええと。一緒に、いたいのはいたいんですが……」
「なら決まりだ」
「ええ~? 決めるの早いよお」
紗矢は情けない声を出したが内心ではほっとした。
自分で決めて良いのだ、と。
***