小説 黒豹とかたつむり

「黒豹とかたつむり」第6話 下心

 金曜日になると、朝からスイーツの準備が大忙しだった。
 羽目を外したい客も、持ち帰って静かな夜をすごしたい客もいるからだ。
 マスターは酒類の、カレントは出張販売での売り上げに笑みを浮かべて喜んでいる。
「ビギナーズラックってやつかな」
 マスターはそう言った。
 目の前に座るカウンター席の女性は、ヘアメイクもばっちりな魔女――みやこだ。
「準備が整えばこうなるものですよね。美味しいわ、さすが紗矢」
 みやこはチーズケーキと白ワインを交互に食べてご満悦の様子。
 生演奏の日ということもあり、人数制限いっぱいの客入りの中、紗矢はみやことの約束を果たした。
「阿川さんとはどうやって知り合ったの?」
「彼女、猫ウォッチャーなんです。黒猫を見かけて、あたしの店の前に来て……そのままご来店。変わった子だから、話してるうちに茶飲み友達になった感じでしたね」
「変わってる? 阿川さんが? あなたの方がよっぽど……ユニークだけど」
 マスターは厨房を覗き、紗矢を見るとみやこに視線を戻した。
 みやこはウェーブヘアに、中世のフランスを思わせるパフスリーブのワンピースを着ており、下は軽やかなサンダル。流行も時代も一切気にした様子のない彼女は、店の中でも明らかに注目を集めていた。
「そうですねえ。あたしは時間の流れがない所で生活してますから、どうしてもこうなるのかな。でもそうじゃないの。紗矢はね、違うところで変わってる。どことは言わないけど」
「それは気になるなぁ」
「ねえ、ところでこちらに棚田さんっているんでしょう。どの方?」
「棚田ならドラマーですよ。え、あいつ今モテ期?」
「モテる方なの?」
「まあまあね。雰囲気がああだから、声かけにくいってことで本人は自覚ないけど」
「そうなんですか。紗矢から名前を聞いたので、どんな方かしらって思ったので」
 マスターがぴくりと眉を動かした。
「阿川さんから? あいつのこと何て言ってましたか?」
「興味のわく人だそう」
「ふうん、なるほど。悪くはないんだ?」
「多分そうでしょう。あの子男性には厳しいから、嫌だったら口から名前も出しませんよ」
「みやこちゃ~ん?」
 紗矢が厨房から顔を出した。余計なことを言わないよう、と目で訴える。
 みやこは舌をぺろっと出してみせた。
「まあ他人の会話はこのくらいにしましょうか」
「そうだね」

 二人の会話を聞きながら紗矢は巨大ボウルをひたすらにかき混ぜる。
 チーズケーキが今日はよく売れる。どうしたものか、これはしつこいくらいに混ぜることが肝なのだ、腕が辛くなってきた。
「ねえ、阿川さん。味見させて」
 そう言いながら入ってきたのは伊藤だ。
 出番前に腹ごしらえ……は終わったはず。この店では従業員にまかないが出るのだ。バンドメンバーももれなくである。
「今日は無理!」
 作業中に声をかけられると集中が途切れる。紗矢は声を張り上げて断った。
「ちぇっ。りんたろーくぅん」
「ダメですよ。ボスがダメって言ったらダメなんです」
「ボスって?」
「紗矢さんですよ」
「くっそー、マジでいい匂いすんだよ。目に毒すぎる……」
 伊藤は肩を落とし、腹のあたりをさすった。それでも出て行かずにじっと作業を見ている。
「何ですか!?」
 紗矢の怒号に近い声で言われ、伊藤は出て行った。
「いや、もう、プロレス並だわ、キッチンて」
 そんなことを言いながら。
「もう、何なの!」
 伊藤の一言に紗矢は思わず声を張り上げた。
「ボス、オーブンの準備が出来ました!」
「並べるぞ! 気合い入れろ、浜野さん!」
「はい!」

***

 伊藤が腹を押さえたまま出てきたためか、注意がそっちに向く。棚田の耳に届いたのは、体育会系な調子の紗矢と浜野の声である。
 伊藤が厨房を指さして言う。
「お菓子作りってあんな現場ぁ?」
「液体持つし、混ぜるし、めちゃ体力勝負だよ」
 吉野が答えている。伊藤は「お菓子屋さんの女の子って……男の夢が……」と小声で嘆いた。
「楽しそうじゃん。浜野って意外と気骨あるよな」
 飯塚はそんな事を言い、棚田を見て続けた。
「阿川さんて面白い人だな」
「……そうだな」
「興味ない?」
「そうでもない」
 不思議なもので、棚田が紗矢に惹かれているとは誰も気づいていない。マスターだけのようだった。
「そういや美羽ちゃんとはどうなった?」
「どうもなってない」
「ないないづくし……」
「そうでもないって言っただろ」
「ややこしい……棚さあ、冷たいって言われねえ?」
 飯塚の一言に棚田は腕を組んだ。
 心当たりがある。
 彼女が出来ても必ずフラれるのは棚田だ。
 理由は決まって「何を考えてるかわからない。柊一は冷たい」である。
「まずいな。しょっちゅう言われる」
「マジで? やっぱり?」
 飯塚はこの頃余裕があるようで、目が力強く輝いていた。
 去年から雰囲気が変わった、とは感じていたが、岐阜のフェスに呼ばれた後からは、より彼自身の個性とでもいうものがみなぎっている。
 やけに説得力があった。
「何とかしろよ。コミュニケーション誤ると大変だって」
「そうだな、お前見てたらよく分かる」
「うわ、ひどっ!」
「冗談だよ。確かに俺も下手だしな、その辺、考えとく」
「”も”って言ってんじゃねぇか」
 飯塚が棚田の首をしめるフリをしてきた。それを見た吉野が伊藤の肩をつつく。
「クロヒョウ兄弟がいちゃついてる……」
「ファン大喜びだぞ」
 スマホカメラがシャッターを切った。

***

 金曜日と土曜日の飲食店は命がけである。
 紗矢は浜野と二人、喫茶店から送られてくる材料と、焼き上がったタルトにスポンジを頼りになんとかこの二日を乗り切った。
 月曜にもらえた休みにベッドに倒れ込み、昼前まで眠る。
 13時ごろ、スマホを見るとメッセージがあった。
 棚田からだった。
【また会いたい】
 という短いメッセージ。
 心臓が跳ね上がり、目が大きく開いてベッドの上で飛び起きる。
 ぐしゃぐしゃになった髪をかきあげ、食い入るようにそのメッセージを見つめた。
(返信しないと。でもなんて?)
 スマホを持つ手が震え、背を丸めて布団をかぶりなおす。
【また会いたい】
 私はどう?
 また会いたい?
「……」
 クローゼットを開け、一番見えやすい位置にかけたスカートを手に取る。棚田との初デートに着ていく予定だったものだ。
 シフォン地のやわらかく、滑るような手触りにどきどきが高まる。
「また……あい、ま、しょう……」
 そう文章を打って、これが向こうに送信されれば、どうなってしまうのか。
 送信出来ずに部屋の中をうろうろしていると、開けっ放しにしていたクローゼットのドアに頭をぶつけてしまう。
「いったー!」
 そのはずみで送信してしまった。

***

【また会いましょう】
 返信が来たのは1時半だった。
 棚田はそれを見るとほっと胸のあたりが楽になるのを感じる。
 表情には出ないが緊張していたのだ。
【都合の良い日を教えて欲しい】
 そう返信を送って、固くなった手を揉んでほぐす。
 次の返信は早かった。
【水曜が良いです。そちらはどうですか?】
【水曜なら問題ありません。どこに行きますか?】
【前は私のリクエストだったので、今度はそちらにお任せします】
【考えておきます】
【わかりました】
 やり取りを終えると、知らず頬が緩む。
 軽くなったように感じる指先で送られてきた楽譜をチェックする。
 飯塚が送ってきたものだ。編曲のための微調整求む、と書かれていた。
 パソコンに取り込み、音符を書き足し、また消して、楽器の配置を工夫したりして立体の音を想像する。
 一連の作業を終え、ようやく一呼吸入れるとメッセージが入る。
 伊藤からだった。
【こないだの編曲良かったって言ってた。それでリモートライブするんだけど、ドラムやんない?】
 願ってもない話だ。
 棚田は伊藤に電話をかけた。
「ライブの話だけど、日時は?」
「2ヶ月後の土曜、夕方6時から大体8時までを予定してる。どう?」
「2ヶ月後か。予定……はない。いける。やるよ、先方に挨拶と礼を言いたい」
「まず俺から言っとく。そんでマネージャーから連絡先教えていいってなったら言うよ」
「了解。練習しないとな……前の楽譜、俺データ残してない。また送って」
「分かった、分かった。ああ、そうじゃん、練習なら飯塚ん家でいいんじゃない?」
「その手があった」
 伊藤との話しが終わると、早速飯塚に連絡を取る。が、繋がらない。メッセージを入れたが、その返事が来たのはおよそ5時間後のことだった。
「何?」
 飯塚の第一声はそれである。
 声がガラガラしているように聞こえるのは気のせいなのか、機嫌は良さそうなので、棚田はまず用件を伝えることにした。
「工場跡を使わせて欲しい」
「ああ、うん。いつでも」
「いつでも? 良いのか?」
「良いって、良いって。今誰もいねぇし、その代わり掃除とかしといて」
「助かる。じゃあ、セット持っていくから」
「ドラムだろ? 大変だな~。軽トラ借りといてやろうか?」
「なんだ、サービス良いな」
 飯塚はやはり上機嫌だ。気分によって人への対応を変えるほど幼稚な男ではないが、機嫌の良い時はわかりやすい所がある。
「良いことでもあったのか?」
「いや別に別に。なんでもない。ただホームレス中に泊めてもらってたし」
 飯塚は一時ホームレスだった。住んでいたアパートが隣人のタバコの不始末で燃えたためである。
 彼はそれからしばらく、知り合いの家を泊まり歩いていたのだ。
 棚田の現在住んでいるこのマンションにも何回か泊まっている。
 数日分の洗濯物を持って。
 彼は今は知り合いから紹介してもらった中古の元織物工場住居付きに住んでいる。その織物工場跡をリフォームし、防音対策をした音楽室にしたのだ。
 新型ウィルスの影響で合同練習がしづらくなった今、これ幸いとクロヒョウのメンバーで集まる場にもなっている。
「それはもう良い。俺らだって貸し借りで成り立ってるわけじゃねぇだろ」
 棚田がそう言うと、飯塚は数秒息を止め、話した。
「……棚ってさぁ。言い方変えたら売れっ子ホストになれたんじゃない?」
「……は?」
「ひっくり返すとこうだろ? ”俺らって損得勘定抜きの信頼関係で成り立ってるよね”ってこと……」
「切るぞ」
「ちょっ、なんでっ! しゅうちゃん冷たい!」
「しゅうちゃん言うな」
 飯塚がさわぐのでスマホを遠ざけた。
 途切れ途切れに飯塚の声が聞こえてくる。
「棚! リーダー! しゅうちゃーん!」
「うるさい」
 結局切った。

***

 水曜の朝、紗矢はメイク動画を見ながら化粧筆を操っていた。
「男受けって言ったらやっぱり柔らかーい色、でも唇がつやつや~ってなってるやつ。ちょっとプリっとしてるくらいが良いんでしょうね」
 と、おしゃべりの上手な女性がすっぴんをさらしつつ丁寧に教えていく。
 紗矢は目尻のすっきりしているのが自分でも気になっている。
 嫌いではないが、凜々しすぎる、言い様によってはきつい目元なのだ。
「目元はブラウン系を使います。ちょっと下にひく感じ。垂れ目っぽくします」
「垂れ目ねぇ……」
 メイク動画の彼女の言うとおりにぼかしながら目元を仕上げ、鏡から離して顔を見れば、確かに柔らかい印象になった。
 元々器用なため失敗は少ない。
 我ながら上手く出来た、と一人喜ぶ。
「メイクってすごいな……」
 低い声でそんなことを呟きながら。
 髪型をハーフアップに整え、小さなイヤリングをつけて鞄の中身を調べる。薄いジャケットを持って、部屋を出ると鍵をかけて……急に緊張感が高まる。
 エレベーターホールにある鏡に映る自分の姿はなんとも女性らしい。
 紺色のすっきりしたティーシャツ、イヤリングと揃いのネックレス、ミントグリーンのロングスカート、わずかにヒールのある生成りのサンダル。
「……やばいな。完全にデートだ」
 エレベーターが来るまでの間、鏡の中の自分に指を差し、おかしな所がないか確認する。
 ちゃんと女性に見えているはず。
「はぁ……」
 なんとなくため息をつくと同時にエレベーターが到着し、それに乗って1階を押す。
 棚田は紗矢を送る時の駅前で待つということだ。
 鏡に映り込む自分の顔はまるで見慣れない。
 ぽーん、と軽い音がして1階を知らせる。
 コツコツ、とヒールが床を叩く音をならしてマンションの外へ飛び出すと、紗矢の小さな悩みなど吹き飛ばすように太陽が明るく輝いていた。

 棚田の運転する車が見えてくる。
 彼はサングラスをかけており、紗矢の方を向いたが表情は読めない。
 手をあげてふると、彼は頷いて寄せてきた。
 挨拶もそこそこに車に乗り――みやこが言うには「脚を開いて乗っちゃダメ、浅く座ってから腰を奥に。脚を揃えたまま体を回して座るの」――を実践する。
 棚田は黒いシャツだ。腕まくりして、ゴツゴツした腕時計が見える。それから色の浅いジーンズ。
 いつも通りと言えばそうだが、手触りの良さそうなシャツだ。
「今日は雰囲気が違うな」
 棚田がそう言った。
 紗矢はシートベルトを締めながらどきりとする。
 やっぱりおかしい?
「髪をおろしてる方が好きだな」
 いつも通りの落ち着いた声でそう言われ、紗矢は顔が熱くなるのを感じて額を抱える。
「……棚田さんて髪フェチ?」
「フェチ……かもしれない」
「そうなんだ。……服がおかしいかと」
「服? ああ、いや。青が似合う」
「それはどうも……棚田さんも黒がお似合いです」
「これしかなくてね」
「これしか……えっ。シャツは黒だけ?」
 紗矢は目を丸くして棚田を見た。
 車はなめらかに道路を走り出し、棚田の横顔しか見えなくなる。
「黒……と紺色か、暗い緑? くらい」
「目がチカチカするから?」
「それはある。後は……面倒くさいからっていうのが一番の理由」
「もったいない」
 紗矢は棚田を上から下まで見た。
「スタイル良いのに」
「そうか?」
「うん。憧れる」
「憧れ? ……どういう意味……」
「ああ、気にしないで。男だったらこうなりたいなっていう感じ。ジーンズとか似合うから良いなって」
「阿川さんも似合うでしょう、前も良かった」
「本当に? ねえ棚田さん、そういえば私たちって敬語とため口混ざってますね」
「……そういえば……失礼でしたか?」
「いいえ。そうじゃなくて……面白いなって」
「俺、言葉遣いが悪いから……出ないように、と思うとこうなる」
「へぇ。今度飯塚さんに聞いてみようかな。素の棚田さんってどんな感じって」
 軽い気持ちで言ってみると、棚田は口元を一瞬歪めた。
(そんなに嫌だったか)
 紗矢が内心でそう思っていると、棚田が自身の首をかくのが見えた。それからぽつりと一言、低く落ちてくる。
「やめてくれ」
 はっきりと嫌がられ、紗矢は反省するように目を閉じた。
「失礼だったなら謝る……」
「違う。他の男に近づかないでくれ」
 紗矢は文字通り息を飲み、棚田を見つめた。背中に熱いものがじわじわ広がる。
 棚田は気まずいのか再び首をかいて、下唇を噛むと窓を開けた。
 紗矢はその棚田の顔を覗き込むようにした。
 サングラスのせいで彼の目は見えないが、髪の隙間から見える耳たぶが赤い。
「……棚田さんって、何を考えてるんですか?」
「何って……」
「やっぱり、答えないで。気になるから暴いてみたい……」
 赤信号になり、車が止まる。
 サングラスの向こうで棚田の瞳が紗矢を向いた。
 しばし見つめ……いや、にらみ合う。
 確かに黒豹のようだ、髪も瞳も黒く、肌の色もやや浅黒いのではないか。南方の出身?
「棚田さんって鹿児島あたりの人?」
「いや。北海道」
「へえー! でもなんか納得。あ、ちなみに私は静岡」
「お茶の国か……」
「良いでしょ。緑茶なら淹れるの上手いんですよ」
「なら今度ごちそうになろうか」
「良いですよ」
 紗矢があっさりそう言えば、棚田は視線を逸らして頭をかいた。
「あんた、警戒心が薄いんじゃないか」
「おっ。ちょっとずつ素が出てきた?」
 棚田は呆れたように息を吐いた。小さな声で、独り言のように付け加えた。
「そのうち噛みつかれる」
 信号が青になり、車が流れていく。
 紗矢はすっかり緊張感が解け、シートに体を預けてゆったりと足を伸ばした。
「今日ってどこに連れてってくれるんですか?」
「秘密」
「ええ~。ドレスコードとかあったら……」
「それはないから」
 棚田が高速に乗って向かったのは野外の音楽堂だった。
 広々したランニングコースもある公園の中である。
 石に似せたコンクリートで出来た小さなステージで、客席からステージを見下ろすすり鉢状になっている。凝った彫り物が壁面を飾っていた。
 木々の葉がかぶさり、影を落としているためか空気がひんやりと気持ちが良い。
 客席は段々になっており、ギリシャの古代都市にでもありそうな雰囲気だ。
 林道沿いにはキッチンカーのクレープ、カレーなどの出店もあり、出入りは自由。ちらほら見える他の客もゆったり構えてくつろいでいる。
 赤ん坊連れも見えた。
「良いなぁ」
「今日はハープのステージがある。昼食でも食べながらどうか、と」
「ハープ? ますますファンタジー。すごいな、棚田さん、どうやって見つけてくるんですか?」
「そりゃ……音楽が好きだから。あっちには植物園もある」
「そっか、なるほど。みやこちゃんも好きそう。あっ、ねえ。猫がいる」
 紗矢は木々の根のあたりに見えた黒猫を指さした。
「猫好き?」
 棚田は猫には興味を見せずにそう言った。
「大好き。実家でも飼ってて、子供のころからいるのが普通だったから、目が行くんです」
「なるほどね」
「棚田さん、猫は好き?」
「どうかな……熱心に見たこともない」
「好きかどうかも分からないって感じ?」
「多分、そうだと思う。動物を飼おうと思ったことがない」
 棚田は階段を降りて、ステージからは遠いが風通しの良い席に座る。
 紗矢も隣に腰を下ろした。
「みやこちゃん……って店に来てた人?」
 声をかけられ振り向けば、棚田は両腕をゆったりと下ろして紗矢を見ていた。
 目が合うと棚田は一瞬視線を外す。
 紗矢もついステージに視線を戻した。
 まだ奏者すら現れない。
「そうそう。ウェーブヘアの、魔女っぽい人。会いました?」
「……一応ね」
 棚田が一瞬言いよどんだのが気になり、紗矢は目を見開いて棚田を見た。
「何かあった?」
「いや。おごりたいからって言われて、礼に行ったらマスターと二人がかりでからかわれた。変わった人だな」
「そうでしょ。みやこちゃん、占い師かなんかっぽい雰囲気あるから、そうなの? って訊いたら『どう思うかはあなた次第よね』ってかわされた。でも一緒にいると楽なんだよな。棚田さん、からかわれたのって気に入られたからだと思うな。どんなこと言われました?」
 棚田は首を緩く横にふった。
「『タバコに気をつけて』だったか。体に悪いのは知ってますけど、って言ったら『そうじゃなくて、タバコって色んなものにコンタクトとるから、場所や心境を考えた方がいい』……だったかな。意味不明だ」
「心境? みやこちゃんって意味なく不可解なこと言わないから、気を悪くしないでね」
「そういうんじゃないけど……」
 棚田は視線を持ち上げた。言葉を探しているのか、頭をかいている。
「難しいな。嫌だったわけじゃない」
「ふふ」
 棚田の不器用に気づかう態度に、紗矢は思わず笑ってしまった。
 棚田がむっと目尻に皺を寄せる。
「なにがおかしい?」
「いや、なんか、良いなと思っただけ。棚田さんて、か……ううん、なんでもない」
 ”可愛い”、そう言いかけて紗矢は言葉を慌てて切ると、ぐるっと視線を巡らせる。美味しそうなタコライスの看板が目に入った。
「何か食べたいな」
 そう言って立ち上がり、階段を昇る。
 小さなショルダーバッグから財布を取り出し――棚田に止められた。
「食事代は払う」
「え? 良いですよ。言い出しっぺだし」
「まさか……そういう問題じゃない。デートで食事代を女性に払わせたら男の恥……だそうだ」
「それは嬉しいけど、そういうの古い価値観だったりするんじゃ?」
「古い新しいはどうでもいい。俺はそれに納得したからそうする。食べたいのを言って。買ってくる」
 棚田は立ち上がった。階段の段差分、綺麗に視線が合う。
 鋭いと思っていた目つきは意外に黒目が大きくやわらかで、まつげがすだれのように伸びて影になっている。
(もったいない)
 黒く固そうな前髪に邪魔され見えにくいのだ。そう思うほど艶っぽい目をしている。
「棚田さんの目って綺麗」
 素直にそう言うと、棚田は一瞬目を見開き、眉を寄せて紗矢の視界を遮るように頭に手を置いてきた。
「やっぱダメだ。これじゃどっちが口説いてるかわからねぇ」
「棚田さん、私を口説こうとしてた?」
「してたけど、出来てない。で? 食べたいものは?」
「じゃあタコライス。出来てないの? なんで?」
「聞くかよ、それを」
 棚田はそのまま階段を昇り、紗矢を振り返らずキッチンカーに向かった。
 思った通り、がっしりした背中だ。
(どうしよう。やっぱ女性としての魅力ないかな)
 そう思うと視線が落ちる。
 落ち込んでいるのか、何なのか。
 もう慣れたこと。一つ息を吐き出すと、視線を持ち上げる。
 日光に当たって浮かび上がる影が、彼のあとにぴったりとついてゆくのが見えた。

***

 夕陽が名残惜しげに西の空をあかく染めている。
 紗矢は棚田の運転する車に乗り、開いた窓から入ってくる風に髪を預けていた。
 西日の差し込むステージで、柔らかそうなドレスを着たハープ奏者とフルート奏者の合奏。
 次はマリンバだったか。
 まだ若い演奏者に投げ銭を入れ、植物園をまわった。
 棚田は表情を見せない。
 デート中も変わらなかった。
 流石にレストランは人数制限のため予約が取れなかったそうだ。
 仕方ない、と夕食は見送るつもりだ。
「焦ると良くないな」
 棚田がそう呟き、紗矢は彼を見る。
「お弁当でも良いですよ」
「デパ地下にでも寄るか?」
「そうしましょっか。スーパーでもいいけど」
「スーパーか。阿川さんは自炊する派?」
「ある程度はね。でもまあ、だらしないですよ。焼いただけ炒めただけ、みたいな? コンビニで済ませる時もあるし。棚田さんは?」
「似たようなもん……俺は料理出来ないけど」
「出来そうなのになぁ。味見とか的確だし」
「適当に思ったまでを言ってるだけ。……犬並らしくてね」
「犬? ヒョウじゃなくて?」
「……」
 紗矢が棚田の顔を覗き込むようにして言えば、棚田はわずかに口の端を持ち上げた。
「そうだな。忘れてた」
「バンド名って誰が考えたんですか?」
「伊藤と吉野。俺と飯塚が黒豹っぽいからって」
 紗矢は挙がった名前の人物を思い描く。
「伊藤さんって細いのによく食べるよね」
「やせの大食いってやつ。迷惑かけてる?」
「うーん。どうかな。嫌とかじゃないけど。吉野さんてあんまり話さないな」
「裏番長だから、怒らせない方がいいかもしれない。プロ歴も長いし……そこのデパートは?」
「良いですね。皆バラバラなの?」
「年齢も肩書きもバラバラ。あのバーで副業で集まったのがキッカケだから……俺が年長だけど、プロになったのは最近。伊藤と吉野はとっくにプロ」
「そうなの? なんか事情があった……ごめん、これは突っ込みすぎかな」
「いや。前の仕事が忙しかったから……ってだけ」
「何してたんですか?」
「ホスト」
「えっ!」
 紗矢は思わず大きな声を出した。
 ありえなくはなさそうだが、まさか。
「冗談だよ」
 棚田は目元まで細めて笑みを見せた。
 からかわれた、と気づいた紗矢はしかし、棚田の破顔した笑みに体が熱くなった。
 見ているのが恥ずかしくなり、両手を腿にのせるとそこに目を落とす。
「冗談とか慣れてないってば……」
「前はとび職」
 棚田は次にはそう答えた。確認するように見れば、棚田は頷いていた。どうやら冗談ではないらしい。
 とび職のニッカポッカ、地下足袋に作業鞄。
 しっくりしすぎるほど似合っていた。
「作業服も似合いそう。見てみたかったな」
「あのころはガリガリだったし、似合ってないよ。しかし意外だな。しっかりしてそうなのに、だまされやすい?」
「さぁ。そういう人と会ったことないし」
「人徳か」
「そうなら私の徳も終わりかな」
「それは俺のせい?」
「そうでしょ?」
 紗矢が再び棚田に視線を戻せば、棚田はくつろいだ様子で前を見ていた。
 車はデパートの駐車場へ入り、弁当を買うとよそ見せずに車へ戻る。
 ジューサーバーで買った桃のスムージーを飲みながら、帰路につく。
 外はすでに暗く、街灯が明るく輝いていた。
「阿川さんは? ずっとパティシエ?」
「うーん。そうなりますね。元々喫茶店が好きで、でもコーヒー淹れるのは向いてないから料理とかで働きたいなーって。学生の時も喫茶店でバイトしてたし」
「喫茶店か。ケーキ屋とかホテルとかじゃなく」
「うん。なんかそこまでケーキ好きじゃないから、専門は違うかなって……そうじゃなくて、こう、喫茶店とかの世界観っていうか。そういうのを守りたいし、表現したいし……曖昧かな」
「いや。俺もアンダンテで演奏してるとそう思う時がある。編曲も面白いと思ったのは、多分それと似てる」
「編曲もやるの?」
「ああ」
「すごいな。全体見るのが得意なんだ。バンドの人達からもリーダーって言われてるし」
「あれは……便宜的というか……ふざけて言ってるだけだと思うけどな」
「またまた。ご謙遜を」
「どうかな」
 紗矢の最寄り駅が近づく。
 見慣れた風景になぜか虚しいものを感じ、紗矢はごまかすように髪を耳にかけた。
「今日……も、良かった。棚田さんと話すの、なんか楽しい」
「楽しい? 口べただけど」
「かもね。でも話のやり取りが出来る」
 紗矢は自身と棚田を交互に指さした。
 車が赤信号で停まる。
「いい加減な会話じゃなくて、ちゃんとした」
 そういって棚田を見れば、彼は心持ち目を見開いて、紗矢を見つめ返した。
「……飯塚の言うとおりかもしれない」
 独り言だろう、棚田はぽつりと言う。
「?」
「なんでもない。なら良かった。俺も阿川さんと話すのは、き……面白い」
「? うん」
 信号が青になり、車が再び走り出す。
 あの角を曲がればもう降りなければ。
 紗矢はシートベルトを軽く握りしめ、息を整えると忘れ物がないか確認する。
「送ってくれて、ありがとう」
「ああ」
 車がゆっくりと停まり、紗矢はシートベルトを外した。
 ショルダーバッグをかけ直し、そのベルトを握って……棚田が身じろぎし、空気が動く。
 シートの肩の部分に棚田の手が置かれた。
 近づく体温に紗矢は目を見開いて、棚田に釘付けになる。
 体が強ばった。
「二度目の誘いに乗ったなら、脈ありだと思って良いのか?」
「……」
 紗矢は咄嗟に返事が出来ず、喉を掴まれたように息苦しさを感じると、視線を落とした。
 昼間なら耳まで赤くなったのが見えただろう。
 ショルダーバッグのベルトをきつく握り、胸元に引き寄せる。
「No、じゃない?」
 そう確認するかのような声が聞こえたかと思うと、棚田が覗き込むようにして、ゆっくり顔を近づけてきた。
(やっぱり黒豹なんだ)
 そんなことをぼんやり考え、狙いを定めた黒豹のような彼の目をじっと見つめる。
 そらせないままに近づいてくるその目に気を取られた。
 そろっと鼻先がこすれ……唇を奪われたと気づいたのは熱の乗った声で囁かれた後である。
「下心があると知ってる男の車に乗ったんなら、覚悟しとけよ」
 その後どうやって無事に部屋までたどり着いたのか、紗矢自身理解していない。

 

次の話へ→「黒豹とかたつむり」第7話 せっかちなあなた 前編

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