持ち帰りだけでなく、店内でもスイーツが出されることが決まった。
浜野の補助を受けられるため、余裕が出来たのだ。喫茶店の方からもサポートを受けられることになり、紗矢はプライベートの時間を確保した。
向かったのはある雑貨店。
造花やガラス細工、手作りのアクセサリーが海賊の宝箱のように無造作に置かれている。
レジの奥で半月形の眼鏡をかけたウェーブヘアの30代の女性――紗矢はこっそり魔女、と呼んでいる――が紗矢を見つけるとゆったり笑った。
「ずいぶん久しぶりね」
「この頃忙しくて。やっと余裕が出来たから」
「そう。お茶でも淹れましょうか」
魔女――名前は中西 みやこ――が立ち上がり、ティーポットを手にする。
いくつかの紅茶の缶を開き、茶葉を入れると湯を注ぐ。
ティーカップに注がれる赤みのある美しい茶色、花屋にいるような豊満な香りは紗矢のお気に入りだ。
「これ何?」
「ディンブラ、アッサム、薔薇の花びら」
「良いよね。喫茶店でも取り入れたい」
「そんな話をしにきたんじゃないでしょ? どうしたの」
みやこは鋭い。紗矢が相談があって来たことを見抜いているのだ。
「ちょっと相談。でも、この薔薇の花びら買おうかな。いい香り」
「薔薇が好きになったの? そうなら体が疲れてるのよ。一度ちゃんとメンテナンスしてあげなさいね」
みやこの指摘に紗矢はどきりとして腹のあたりを抑える。
「このところ試食、試食でさ。甘いのいっぱい食べてた」
「ダメねぇ。それで? 相談って何?」
みやこが眼鏡を取り、ゆったりと表情をくつろげて見つめてきた。
光の入り方で彼女の目は色んな色を見せる。
日本人らしい濃いブラウンアイズなのだが、鏡のようにきらめくのだ。
紗矢は顎に手をやり、腕を組む。
デートの件である。
「男性に誘われてる」
「あら」
「デートに行くことになったんだけど、どうしようかと思ってて……」
「どうって?」
「そのー、服とか、メイクとか? いまいち分からないんだよな、デート用のあれこれ」
「そんなの、あなたが自分をどう見せたいかで決めたらいいじゃないの」
みやこの答えは非常に早く、簡潔だった。
紗矢はそういう抽象的なことが聞きたいのではなく、と食い下がる。
「あのさ。久しぶりにデートするの。一般的な……女性らしくした方が良いのかなって思ってる。でも服を選べないんだよね。メイクもわからない。デートってどういう風にするのが礼儀?」
「そんなの気にする人なの? だったらつまらないわよ、やめておけば?」
「みやこちゃん」
「あのね、あなたのことが気になって誘ってるのなら、あなたのことが知りたいわけでしょ。一般とか礼儀とかは行く店によって決めれば良いけど、デートっていうくくりならあなた自身でぶつからないと」
みやこの言うことに紗矢は頭を抱えた。
「その通りなんだけど……」
「女性らしく見られたいの?」
「それも……わからない」
紗矢はため息をつく。
棚田にどう見せたいか? それが全く分からないのだ。
正直仕事で会う、その時のそのままで充分居心地が良い。
家にある女性らしい服、を引っ張り出して見たがまるでぴんとこない。
デート向けのコーディネイトを見てもわからない。
みやこに頼ったのは最終手段だった。
「紗矢が中性的なのをあたしは知ってる。相手は知らないの?」
「知らないかどうかも分からない。仕事で会って、何回か話しただけ……なんで私を誘ったのかもわからないんだ」
「わからないだらけね」
「ごめん」
「あたしが紗矢に言えることはないわよ。あなた自身がまだ掴めてないなら」
「参ったな……棚田さんて嫌いじゃないけど……私をどう見せる? なんて」
「じっくり考えてみなさいな」
ある意味ではそれが一つの指針になった。
紗矢は頭の中でどう見せたいかを考える。
薔薇の香りを感じながら、タバコの香る車内を思い出した。
デートは3日後。
明日の午前中に服などの買い物を済ませるつもりだ。
「そうだね。デートっていうのに縛られてた。自分をどう見せるかで考えてみる。ありがとう、みやこちゃん」
「良いのよ。楽しんできてね」
みやこは薔薇の花びらを摘めた包みを渡す。
「これ2000円くらいするけど、一度に大量消費するわけじゃないから。2輪分の花びらまでね。ドライだから長期保存出来るし、女性の体を労ってくれるの。今日はいいわ、プレゼントにしとく」
「悪いよ」
「その代わりにKのイニシャルの方を紹介して」
「K? ……なんで?」
「名字でも名前でもいいわ。よろしくね」
みやこの頼みを聞き入れ、紅茶を楽しむ。
パワーストーン、音叉やティンシャなどの不思議な楽器が店中をきらめかせている。
みやこが眼鏡をかけ直した。
「こないだ黒猫を見たよ」
紗矢がそう言うと、みやこが眼鏡の隙間から覗いてきた。
「そうなの」
「昔飼ってた子に似てた」
「また飼わないの?」
「飼いたいけどね。私あんまり家にいないし、一人ぼっちにさせる」
「困ったわね。まあタイミングが来るわよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。まあ焦らなくていいんじゃない?」
紗矢は深く息をし、頷くとみやこの店を出る。
その足でアンダンテに向かい、カレントの車が材料を運んできたためすっかり準備の整った厨房でアイスを作る。
徐々に客が入り始め、たまたまアンダンテの店員がいない時に客が来店。
紗矢は代わりに顔を出した。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは……」
おそるおそる、しかし好奇心いっぱいという雰囲気の女性――というにはまだ若いお嬢さん。
毛先のくるんとしたセミロング。
ピンク色の頬は満開の花を連想させた。
(可愛い)
女の子らしい女の子。
未成年だろうか?
紗矢は出来るだけ表情を和らげた。
「失礼ですが、年齢を確認出来るものをお持ちでしょうか」
「あ、ええと、学生証で大丈夫ですか? 大学生なんですが」
「大丈夫ですよ、すいませんね。お若いので……」
「えへへ。よく幼いって言われるので、大丈夫です。慣れてます」
生年月日はきちんと成人だと知らせている。
まだ20を超えたばかりだ。
紗矢はひとまず店に案内した。
「良かった。このバーって男性店員さんしかいないって聞いてたから、女性がいてほっとしました」
「あのー、厳密には私はここの者ではないんです。派遣されてて。今呼んできますので、座ってお待ち下さい」
彼女がスツールに腰掛けるのを見、紗矢は授業いん控え室をのぞく。
マスターがちょうどネクタイを締め終えたところだった。
「お客様です」
「あ、そうなの。どうも」
マスターと入れ替わりに厨房に入る。浜野が腕まくりして髪をバンドで止めて待っていた。
「やりますか」
「今日もお願いします」
***
7時からの生演奏を控え、棚田はアンダンテに向かっていた。
客からおごられることもあるためこの日は車を使えない。
ゲームセンターの前でキーボード担当の伊藤と合流した。
細身の伊藤はファッションになみなみならぬ情熱を持ち、ペンキでもぶちまけたかのうような派手な色のティーシャツに白のジャケット、ジーンズ、ブーツ、シルバーアクセサリー、と棚田からすればチカチカする相手である。
彼を嫌っているわけではないが、視線を合わせづらい。
伊藤も出会った時には棚田をサングラスのスカした奴だと思っていたらしい。が、互いの演奏を聴けば人となりはそれなりに分かる。
打ち解けるのは早かった。
「棚ちゃんさあ、ちょっと訊きたいことあんだけど」
「訊きたいこと?」
「今度動画生配信でライブするんだけどさ、その時の編曲を変えたいらしくて。棚ちゃんに任せられないかって。時間ある?」
「いつまで?」
「2週間後」
「やるよ。後でリクエスト送って」
「話が早い。助かる。でさあ、その時顔出しOK?」
「NO」
「あ、そう。じゃあ向こうに言っとく」
「わかった」
最低限の会話が終わり、沈黙の中歩く。
棚田はふと伊藤に訊いてみたくなった。
「なあ」
「ん?」
「……なんでもない」
「はあ?」
どうやって話をしてる? そんなことを訊きたくなってしまった。
アンダンテにつくと、換気扇からふんわりと甘い香りが漂ってくる。
伊藤が鼻を動かして腹を撫でた。
「やべえ。マジで腹減るわ。阿川さんだっけ」
「そうだな」
「会ったことないな。飯塚が言ってたけど、クールビューティー系なんだって?」
「……そうだな」
見た目はそうだが、クールというよりは気さく。話していても性別を感じさせない、壁のない女性だ。
飾り気のない雰囲気には草原がよく似合う。
すっきりした目尻に長いまつげ。
その延長線にある耳を思い出し、棚田は喉が腫れたように感じる。
「サバンナにいてそうだな」
「女豹ってやつ?」
「それはニュアンスが違う……」
そうではなく、自然なのだ。
伊藤と連れだって勝手口から入る。浜野が巨大なボウルにハンドミキサーを突っ込んで、頬に白い粉をつけていた。
(漫画かよ)
そう心の中で突っ込む。
「おはようございます!」
浜野の元気の良い声に手をあげて返す。
「お疲れ」
「おつおつ。いい匂い。味見させて」
「ダメです! 注文多いんですから」
「そりゃ良いことだな」
焼き上がったのはタルト生地だ。
オーブンの音に合わせて紗矢が姿を見せる。
ホールにも顔を出しているのか、ちゃっかり白シャツに黒のベスト、スラックス、リボン、空になった小皿を乗せたトレイ。
男装に近いが、冗談抜きで似合っている。
丁寧にアップにされた黒髪が艶めいた。
「焼けた?」
「はい!」
「じゃあカスタードを……あら、おはようございます」
紗矢の目が棚田達をとらえる。
「どうも」
「噂の阿川さん? キーボードの伊藤です」
「クロヒョウの方ですよね? 初めまして。阿川紗矢です」
紗矢はトレイをシンクに置いて、オーブンを開けた。
ぶわっと香ばしいタルトの香りが広がり、それが出されると浜野がカスタードを絞り始める。
見事な連繋だった。
「美味そう」
伊藤が物欲しげに言えば、浜野が仕方ないなぁ、と言いながら焼き色の残念なタルトを伊藤に差し出した。
「怪我の功名!」
伊藤は喜んで口に入れ、うんうん頷いている。
「それを言うなら棚からぼた餅だろ……」
「確かに。棚田さんもどうぞ。感想聞かせてね」
紗矢は棚田にカスタードの塗られたタルトを差し出す。
素直に受け取って味わう。
「焼酎かウィスキーに合うか」
「その通り! 味を合わせると大人向けプリンみたいになるようにしたくって」
紗矢が目を輝かせた。
「うんうん。掴めてきた。良いね」
そう満足げに言って、タルトを持ち帰り用に包んでゆく。
長い指が器用にセロハンを張り、バーガンティの紙の上にタルトを置いてゆく。
棚田はそれを横目に、更衣室に入っていった。
飯塚の挨拶が終わり、ステージの照明が落ちる。
カーテンを締め、店内に元の明るさが戻った。
棚田は汗の染みたシャツを脱ぎ、洗面台に頭をつっこんで蛇口を捻って水をかぶる。
目を閉じたまま水を止めてタオルを探ったが、見つからない。
その時手がぶつかったのは吉野である。
「すまん」
と声が聞こえ、棚田は「いや」と返した。
タオルはどこだ、と手で探ると吉野が手渡す。
「悪いな」
「疲れ目?」
「ああ。……車で来なくて正解だった」
「悪化とかしないの?」
「分からん。老化はあるだろうけど」
「老化ねえ。そういやもうすぐ20代終わるんだよなぁ」
吉野と棚田は同い年である。吉野が複雑な声で言ったため、棚田は「嫌なのか」と訊いた。
「嫌っつーか、なんか年齢の壁というか……それを一個また登るのか、みたいな。30超えたら拓けるよとかは聞くけどさ。体力も落ちるとか言うじゃん」
「体力は維持するかしないかだろ」
「うわ極論。ってか、彼女欲しい」
「話が変わるな」
「流れ、流れ。棚田彼女欲しいとかないの?」
棚田は目下アプローチ中である。
しかし伊藤も吉野も分からないらしい。
棚田は正直に答えることにした。
「彼女は欲しくない」
「マジ?」
「好きなら付き合いたいとは思う」
「……」
吉野が目を細くして見てきた。
「哲学ヒョウ」
「なんだよ、それは……」
「棚ー。ちょっとー」
飯塚の呼ぶ声が聞こえ、棚田は髪を拭き、着替えのティーシャツを着ると更衣室を出てステージに登った。
「何だ?」
「お前のファンだってさ」
飯塚がステージのカーテンをわずかに開ける。
彼が示すのはカウンターに座る若い女性だ。
「あの若いの?」
「だって。美羽ちゃん」
人数制限のため横には誰もおらず、遠くでも姿ははっきり見える。
色白の顎のすっきりした顔立ち、膝までのスカート。目が疲れている棚田でも、彼女が可愛らしい人だとは分かった。
「嘘だろ」
店に入れたということは成人だろうが、あまりに若い。
棚田が一番受けない年齢層だ。
「嘘じゃないって。そう言ってたから」
「お前ナンパしたのか? 律さんに言うぞ」
「ナンパじゃないって。カウンターでマスターと話してたら声かけられただけ。棚に会いたいって」
飯塚はにやにやと楽しそうだ。
棚田は彼の様子に何か言ってやりたい気になったが、やめた。
「……」
棚田は首を撫でて息を吐くと、控え室からホールに向かう。
例の美羽ちゃんとやらがくるんとした毛先を指で弄んでいたが、棚田に気づくとその場に立ち、背筋を伸ばした。
頬が紅潮している。
「こんばんは。楽しめましたか?」
そう声をかけると、彼女は他人に会った時のチワワのように小さく身を縮める。
やっぱり間違いじゃないのか。
怯えたようなその態度に、そう思ったが、それならそれで良い。お目当てが吉野なら呼びに行けばいいだけだ。
「あの、あの……その、ユーチューブ、見てて……その、ファンです」
「それはどうも、ありがとう」
「いいえ! こちらこそ……あの、た、棚田さん」
やはり間違いではないらしい。ちゃんと名前と顔も一致しているようだ。棚田は疲れ目を隠し、しっかりと彼女を見た。
しかし彼女が目を外す。
「その……えっと。これって何かお酒を頼むものですか?」
「いや、ホストクラブじゃないし、必須ではないです。でもせっかく来てくれたんだから、ジュースでもおごりますよ」
棚田はメニューを差し出したが、彼女がぱっと顔色を変えた。
「ちゃんと成人してます」
「え、ああ。そりゃそうでしょうけど……」
「お酒も飲んだことあるし」
むうっとふくれる彼女はどうにもいっぱいいっぱいな様だ。棚田は首をかいてマスターに視線を投げる。
マスターはふふんと笑って無視した。
棚田はここは素直に謝らねば、と両手を顔の前で合わせる。
「申し訳ない。じゃあ何か、飲みますか」
「はい! 棚田さんは何が好きですか?」
「……そうだな……」
***
聞こえてきたのはアルコール度数の低いカクテルだ。
案の定彼女も同じ物を注文している。
注文したものがが棚田の本心なのか、彼女への配慮かは紗矢には分からない。
棚田からカクテルのすっきりとした飲み口に合う、軽い口当たりのチョコレート・トリュフが注文され、それを届ける。
いつの間にか紗矢もカウンターに立っていた。
「美味しい」
彼女――美羽は目を大きく開いて言った。
「ありがとうございます」
「お姉さんが作ったんですか?」
「大体は」
美羽は頬をメイクのせいではなく赤くしている。
これはまずいのでは、と紗矢は彼女の隣にいる棚田を見た。
彼もそうと気づいているようで、それとなく帰るよう促しているが、肝心の彼女は浮かれているのか聞く耳を持たない。
「美羽ちゃん、家はどこ? 近いんですか?」
紗矢が聞くと、美羽はチェイサーの水を飲みながらぶんぶん横にふる。
「電車は?」
「今日は良いんです。ホテルに泊まるから……」
「ホテルは……近いの?」
「駅まえ? どこだったかなあ」
話し方がおっとりになり、スマホを探る手つきがのろのろしている。
紗矢は何やら放っておけない気持ちになり、エプロンを脱ぐと棚田とは逆の隣に座る。
「えっと……ここから、歩いて、20分」
レディース専用のカプセルホテルだ。
「そろそろ行かないと、お風呂に間に合わないんじゃない?」
「そうですかぁ」
美羽はまぶたをとろんとさせて立ち上がる。
紗矢は背を支えた。
「明日も来ていい?」
そう甘えるように棚田を上目遣いに見て言う。
「……どうかな。俺が決めることじゃない」
断れないだろう、と紗矢は思ったが、棚田はそう言って腕を組む。
マスターも咎めることはしなかった。
「ちょっと送ってきます」
紗矢はよろめいた彼女の腕を取って支え、店を出た。
夜風が思ったよりも冷たい。
美羽は紗矢に少し寄りかかるようにしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫でぇす。お姉さん、あったかい」
美羽は腕に抱きついてきた。小さいが柔らかい膨らみが腕に触れ、紗矢はなんとも言えない気分になる。無防備すぎやしないか。それに……
(どうして女の子ってこんなに柔らかいの?)
アルコールのせいか美羽の体温はあがっているようだ。鼓動が伝わり、今にも寝そうな彼女をホテルまで連れて行く。
美羽は上機嫌で、時々歌い、棚田に会えた感動を話し始めた。
酔っ払いと一緒だからか、20分の距離に40分かかってようやく到着。
和風の外壁、玄関には花のリース。
中で和服もどきの制服を着た女性が受付をしていた。
「こんばんは、予約した者です。名前は……あー、磯田美羽」
「はい!」
紗矢が学生証を見つつ言えば、名前を呼ばれたと思ったらしい美羽が手を挙げた。
「どうぞ、いらっしゃいませ。ご予約はお一人とうかがっておりますが」
「そうです。この子だけ。よろしくお願いします」
紗矢は部屋に案内される美羽を見送り、ホテルを出る。
そういえば見慣れない光景だ。
美羽の体温が離れ、ほっとすると同時にまた違和感が走る。
同性と思っているのに、なぜか馴染まない女性というもの。
違和感は孤独とは違うが似たものを紗矢に感じさせた。
そのまま歩き出せば人影まばらな中にティーシャツにジーンズ姿というラフな格好の棚田がいた。
「あれ」
と思わず声を出せば、彼はふいっと視線をそらせた。
「夜道だから」
「心配で?」
「……そう」
棚田はくるっと背中を向けた。紗矢からは4メートルも先である。何となく早足になって追いつき、彼の背を見上げる。
「棚田さんて何歳?」
「29」
「29歳? あんまり変わらないんですね。もう少し上かなって」
「よく言われますよ、それ。阿川さんは?」
「年? 28」
「同年代? 一個下?」
「干支でいきますか? 私は……」
当たり障りのない会話が続き、アンダンテの前につくと棚田がその場で立ち止まる。
「どうしたんですか?」
「いや……変わっていくな、と思って」
「?」
紗矢が続きを待っていると、棚田は首を傾げるようにして「なんでもない」と呟き、階段を降りる。
その後を追って店への階段を降りて、棚田に促されて開いたドアの中へ。
ふわっと心地よい重みのある空気感が制服越しにまとわりついた。それと、今浜野が頑張っているであろうスイーツのほのかな甘い香り。
棚田がドアを締める。
体が近づいて感じたのはタバコの苦い香り、汗の匂いだ。
嫌ではないが、はっきりとした命の匂いに紗矢は腹の底を殴られたような衝撃を感じる。
「意外と小さいな」
頭上からそんな声が降ってくる。振り返ると棚田が紗矢を見ていた。
「私?」
紗矢は日本人女性の平均身長である。それほど小さいわけではないが。
「小さい?」
「思ったよりも小さい。姿勢が良いから、高く見えてました」
「運動は好きですからね」
「なるほど。顔も小さいしな」
「棚田さんってたまにタメ口ですね?」
「すいません。羊の皮かぶってもボロが出る」
紗矢は思わずぷっと吹き出した。
「笑うところですか?」
「いや、素直な人だなーと思って。私は猫をかぶりまくりですから、お互い様ですね」
紗矢は棚田の腕を軽く叩き、エプロンを取ると厨房に戻る。
棚田はそのままカウンターに座った。
客の一人が彼に声をかけ、一緒に飲み始めた。