月曜日のこと。
棚田はこの日副業を控えており、依頼されていた編曲を午前中に終わらせると街へ出た。
サングラスをかけて向かったのは気になっていた本屋だ。
なんでも立ち読み座り読み可、しかも飲食スペースと雑貨店もあるという。
紙媒体が敬遠されている、というのも何のその。本の森とも言えそうな凝った内装は人を呼んだ。
万年筆や湿度計がガラスケースの中に並んでおり、値段はなかなか。
目の保養だ、と棚田はサングラスを外して黒檀の万年筆を見つめ、新しい音楽雑誌に古い楽譜を一通り見回って数冊購入。
スパゲティかホットサンドでも持ち帰ろうか、と店を覗こうとした時、料理本のコーナーについ先日見とれたシルエットが視界の端に入り込む。
紗矢だ。
彼女は知り合った時と印象が変わらない。すっきりとしたコットンパンツ、白いシャツにごつめのブーツだ。フットワークの軽そうな出で立ちに、おでこの出るポニーテール。
大事そうに赤茶色の表紙の本を抱え、もう一冊を本棚から取り出そうとしている。
お酒の本だった。
「どうも、阿川さん」
そう声をかけると、紗矢が目を開いて見上げてきた。
初めは驚いた顔をしていたが、やがて納得したように表情を和らげる。
「棚田さん。いらしてたんですか」
「ちょっと買い物に。そっちも?」
「まあ、そうですね。勉強になるかと思って」
「熱心なんですね」
「そちらこそ。ねえ、棚田さんてお酒詳しい?」
紗矢は気取らない態度で訪ねてきた。
棚田は「まあ、かなり」と返す。
「おすすめのものとかってあります? 私、飲めないわけじゃないけど銘柄とか言われるとさっぱりなんですよ」
「味の好みとかですすめられるものは変わりますよ。ウィスキー派なのか、ワイン派なのか、とか。甘いのも辛いのもありますから」
「そこまで行くともうダメだ。棚田さんは何が好きなんですか?」
「俺? 焼酎かな」
紗矢はへえ、と返した。
「焼酎ってどんな味?」
「甘いですね。飲み口はすっきりだけど、味が強い。酔いやすいから簡単にはすすめられないけど」
「棚田さんはお酒、強いんですか?」
「強いらしいです」
周りからはそう言われる。自覚はない。
「そうなんだ……」
紗矢はじっと棚田を見つめてきた。
何か企んでいるかのような視線の角度。
棚田が(逃げるべきか?)と思ったその時、紗矢が人差し指を立てて棚田の前に突き出す。
「なら、味見役してくれません?」
昼用にサンドイッチを購入し、向かったのはアンダンテである。
中にはマスターと浜野がおり、おつまみの開発中であった。この頃、昼間でも使えるよう開けることにしたらしい。料理男子である浜野が嬉しそうだった。
挨拶もそこそこに、紗矢は厨房に向かう。浜野が手伝いを買って出た。
「デート?」
マスターがさっそくからかう。
「いいえ。残念ながら」
「だろうねぇ。あの子ガードは固そう。柊一、今日暇なの?」
「午前で用を終わらせたのでね」
「遊びに行けば?」
「出てけって言ってます?」
「ばれたか」
マスターは舌を出して笑った。
「冗談はこのへんで。試作かな」
「でしょうね。ベリーのソースとチョコレートがどうとか……言ってましたね」
棚田はカウンターのスツールをひいて、浅く腰掛ける。厨房からはミキサーの音が聞こえてくる。
「卵少なめですか?」
「そう。それで、これでもかってくらい混ぜて」
楽しげな声が聞こえてきた。
「年下受けしそうなお姉さん。柊一、焦った方がいいんじゃないの」
「……なんのことやら」
棚田はごまかしたが、マスターは百戦錬磨の接客業である。とっくに見抜かれているのだろう。
チョコレートの甘い香りが漂ってきて、店と馴染むと、あやしげな、艶めかしい、ある種の妖気を感じさせる。
「チョコレートはアリだな」
マスターが一人満足げに頷いた。
***
「一つはバニラもったり系のアイスクリーム。もう一つはダークチョコベースの木イチゴソースがけガトー・ショコラ。アイスはさっぱり系のお酒に合うかなと思います。ガトー・ショコラはウィスキーなどの重めに合うかと」
小皿に乗せられた小さなケーキ、アイスを一口。マスターは眉を開いて頷き、棚からブランデー、日本酒を取り出すとショットグラスに注ぐ。
「車は?」
皆乗ってきていない。
マスターは人数分注ぐと差し出した。
「合うんじゃないですか?」
「日本酒はスパークリングでも良いかもね」
浜野とマスターは交互に意見を出し合っている。棚田はガトー・ショコラと渋みの強いブランデーを合わせた。
苦みの中に甘さ酸っぱさが潜んでいる。
悪くないが、何か足りない。
「棚田さん、どうですか?」
「何か足りない」
そのまま言えば、紗矢がじっと見つめてくる。
「俺の意見としてはね。彼らの方が詳しいですよ」
「いいから、言って」
紗矢は獲物を見つけたサーバルキャットのように眼光を鋭くさせる。
棚田は自身の首をなでると続けた。
「味に締まりがない感じがします。酒入ると色々流れていくものだし、ちょっと余韻が欲しいっていうか」
「余韻……」
紗矢は助言を求めるようにマスターを見た。
彼はカウンターに手をつき、頬を軽くかく。
「苦い、甘い、酸っぱい。味覚って6つあるっていうからね。スイーツ界ではどうか分からないけど、意外な味を入れると良いかもしれない」
「意外な味ですか……チリペッパーとか? それより丸みのある塩とかが良いかな。塩が尖ると合わないかも」
紗矢はメモを取り、視線をそこに落としたまま「バニラアイスの方はいかがでしたか?」と訊いた。
バニラアイスの方はゴーサインが出たため、そのままレシピがアンダンテに納められる。
盛り付けの工夫が必要だ、と皿を何枚か見繕い、アイスを掬うスプーンも吟味される。
浜野ははりきっており、スマホカメラを構えて何度も確認していた。
店が開く時間になるころ紗矢が仕事を終え、荷物をまとめていく。
棚田はせっかくだから、とホールを手伝うことになった。
皆で彼女を店先まで見送る。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です。良かったらこれ持って帰って」
マスターがお酒の本を手渡す。簡単なプロフィール、味の特徴などが書かれたものだ。
「こんなのあるんだ。助かります」
「まだ明るいけど、気をつけてね」
「はい。では」
紗矢は明るい笑顔を見せて、夕陽の中を歩いて行く。
揺れる黒髪が黄金色に染められていく。
それを見ていると、棚田は不思議な感覚に襲われた。
まるで昔からの知り合いとの別れのようだと。
***
紗矢は棚田の意見を取り入れ、ひと味足そうと考え中だった。
塩が入ると良さそう、とあたりはつけたものの、そうなるとベリーとのバランスが難しい。
甘すぎるとしつこくなってしまうだろう。
明日もアンダンテで試作だ。
レシピに書き込みを増やし、一度それから離れてお風呂に入る。
湯船に浸る白い肌。
胸の膨らみは間違いなく女性のそれ。
それが可愛いと思う一方、どこか違和感があり、なんとも言えない気分になる。
視線を外して手を見れば、思い出すのはハンドルを握る彼の手だ。
棚田の手は理想的。
ドラムをやる、ということもあってかかなりごつく、それでいて指が長く繊細。
自分の手に目をやれば、頼りなさすら感じる細さ。
しかし花びらのような爪は気に入りの部分でもある。
(なぜこんなにバラバラなのだろう)
こうなりたいという理想の男性像はすぐに思い浮かぶのに、こうなりたいという理想の女性像は浮かばない。
一方で他人としての可愛い女性像はすぐに思い浮かぶのに、他人としてのかっこいい男性像がわからない。
性同一性障害とやらを疑ったことはあるが、次の日にはその疑惑を忘れている。
風呂から上がって、明日の服を決めるためタンスを開ければそのバラバラがまた目に入る。
女性らしいスカート、アクセサリー。
中性的なシャツにパンツ、ジーンズ。
とにかく動きやすいよう、とジーンズと白のシャツを取る。それと細身のネックレス。
鏡を見ると、唯一自慢と思う艶やかな髪。自分がどこに向かっているのか、まるで分からなかった。
「おはようございます」
昼、そう言ってアンダンテに入ると、新しい顔が彼女を出迎えた。
「おはようございます」
人なつこそうな笑みを浮かべる青年は、見たことがある。
クセのある髪、棚田と似ているが、それよりも明るい目の強さ。
ユーチューブだ。
そういえば、昨日は仕事に熱中して棚田に感想を言うのを忘れていた。
(とても良かった)
好きな世界観だ、と。
「クロヒョウの……」
「あっ、ご存じですか。ヴォーカルの飯塚です」
「飯塚さん。えーと、パティシエの阿川です。先日からこちらでお世話になってます」
「棚から聞いてます。熱心な人だって」
「棚田さんのこと? そういう評価? 恥ずかしいな」
「褒めてるんですよ。あいつそういう人が好きだから」
「おい」
突然に唸るような低い声が降ってくる。
棚田が控え室に入ってきたのだ。
「何やってる」
「油売ってる」
「言ってる場合か。スピーカー直ったぞ」
「分かった分かった。睨むなよ、そんなんじゃ怖がられるって」
「うるせえ」
飯塚と言い合うと、棚田は紗矢に一礼して控え室を一緒に出る。
初めて見る彼の素の態度に、紗矢は頬を緩めて笑った。
朝仕上げたケーキを入れた箱を取り出し、まだ開店前の店内に向かう。
少ない段数の階段を昇り、ホールに顔を出せば浜野はじめバーテンダー達が清掃作業中。
今更だが、よく見れば男性店員しかいない。
棚田はさきほどの飯塚と二人、ステージ上で何やら機材をいじっている。
「おはようございます」
返事を聞きながらマスターにケーキを差し出す。
今回のは軽く食べられるものだ。
白ワインに合うよう、あっさりとした生クリームに舌の上で溶けるようなメレンゲたっぷりのスポンジ。
フルーツを盛り付けても良いだろう、それも相談するつもりだった。
「うん。食べやすいねぇ」
「フルーツを添えようかと思ってるんですが……」
「いや、白ワインで充分。その分クリームをもう少しフルーティにすると良いかな」
「なるほど。盛り付けとか、お皿の色とかはいかがですか」
「テーブルが暗色だしね、ガラスに盛り付けると面白いんじゃない? 白ワインの黄金色を引き立たせるよう、派手にしなくていい」
マスターの意見をメモに書き、興味津々といった様子でこちらを見ていた浜野に見せる。
「どう?」
「すごい良いです。でも緑色があると俺的には綺麗かなと思うんですが」
「ああ、なるほどね。クリームにキウイのジャムか何か入れちゃう?」
「ああ、良いっすね!」
浜野は目をきらきらさせた。料理が好きなんだな、と紗矢は彼の素直な態度に目を細める。
イラストにキウイジャム、もしくはフルーツソースを描く。クリームと混ぜるのではなく、上からかけるか、皿に点点、と置いていくのも良いかもしれない。
「イチゴにするならシャンペンかな」
「お酒の種類って多いですね」
マスターと話しているとどんどん世界が広がってゆく。
紗矢は自分の理解が追いつかない、と感じる一方、お酒に合わせるならという縛りの中に大きな可能性を感じて楽しくなってきた。
「今日も何品か作っていっても良いですか?」
「もちろん。ちょっとお客に出してみよう。前のバニラアイスと……今日のこれ」
「それなら買い出しに行きます」
「そうか。悪いね、手が足りなくて……柊一!」
マスターが声をかけ、棚田が立ち上がる。
「デパートまで車走らせてくれる?」
棚田が頷いた。
「浜野さんも行く?」
「えー、いや、俺掃除しないと」
「良いよ、行って。阿川さんの調理補助。人数制限下だから出来るやつがやらないと」
浜野はモップを持ってしばらく考えていたが、マスターがそれを取って結局折れた。
とはいえ車に乗ると明らかに機嫌が良くなっている。
紗矢は助手席に乗るとシートベルトを締めた。
棚田は相変わらず感情を見せない。色の濃いサングラスがそれをさらに隠してしまう。淡々とハンドルを握って、なめらかに道路を走り始めた。
「今日は味見出来ないですね?」
紗矢がそう声をかけると、棚田は頷く。
「そうですね」
「阿川さんて彼氏さんいるんですか?」
浜野が後部座席から無邪気に訊いてきた。
紗矢は一瞬どきりとして後ろを向く。
「いいえ。全くフリーです。興味もないし」
「そうなんですか? 気さくだしモテそうですよね」
「まさかぁ。ガサツの極みですよ。浜野さんはどうなんです?」
「俺ほんと童顔だから、可愛いって言われて終わり。男っぽい棚田さんが羨ましいです」
浜野の話の矢印が棚田に向いた。
紗矢が視線を向ければ、彼は一ミリも表情を変えずに「さぁな」と返し、「モテるのは飯塚とマスター。話が上手い」と付け加えた。
「でも棚田さん、社交的でしょ。俺もうちょい上手く話せたらなーって思って」
「お前は充分だろ。俺のは社交だけ。それしか出来ない」
「どうして?」
紗矢がそう訊けば、棚田はわずかに顎をしゃくった。
「素だと口が悪いので」
「聞いてみたい気もしますけど……ああ、そっか。分かった。ガトー・ショコラに何か仕込めば良いんだ」
紗矢は思いつくとすぐさまメモを取り出す。
小さなメモ帳はすでにぎっしり字で埋め尽くされ、そろそろ書くスペースがなくなりそうだ。
刺すような何か、と付け足して前を向く。
一番近いデパートが見えていた。