棚田が副業の生演奏を続けているバーでは、相変わらず客からのリクエストを受けての演奏。
ドラム担当の棚田は、この店で副業を始めて9年になる。
飯塚、吉野、伊藤との4人でやっているバンドはユーチューブでも公開され、ファンが店にやってくることもあったが、やんわりと諫めることで平穏を保った。
岐阜でのライブから早3ヵ月。
7月の日差しは棚田を疲れさせた。
特に目を。
照明の薄暗いバーでの副業は、棚田にとっては気の休まる時間でもある。
この日、演奏を終えて片付けをしているとマスターが声をかけてきた。
「柊一、頼みがあるんだけど」
柊一、は棚田の名前である。呼ばれ、スティックをケースにしまうとカウンターに向かった。
すでに遅い時間で、店じまいをしたばかりだ。客の姿はなかった。
「何ですか?」
「ちょっとした企画で、店にスイーツを置くことにした。そのパティシエを店に派遣してもらうんだけど、その子の案内をして欲しい」
「スイーツ……」
棚田は店――バーの名前はアンダンテ――を見渡した。歩く速さで、の名前の通り、ゆったりと落ち着いた雰囲気に、甘味、パティシエ。
棚田のイメージでは店とは合わないが。
マスターの北川は棚田に説明を始める。
「まあ早い話が今経営不振だから。持ち帰りでもいいから販路広げたいなーと思ってたら、知り合いが同じこと考えてる喫茶店のオーナー紹介してくれたんだよね。向こうは宣伝したい、こっちは新しく売る物が欲しい。まあ、やるだけやってみますかってなったんだよ」
「そんなにやばいんですか?」
「それなりにはね。少しの余裕があるのは君らの人気のおかげだけど、それに甘えてるわけにはいかないし。僕も楽したいし」
マスターの言い様に棚田は眉をひそめた。
「別に俺ら……どこにも行きませんけど」
ボーカルの飯塚は実際プロ契約はしていないし、本業を変えてもいない。棚田もプロのドラマー、編曲家になったとはいえ、それほど忙しいわけではないのだ。
しかしマスターは首を横にする。
「そういうわけにもいかないよ。変わってゆくことが必要な時は来るんだ。今はその一歩」
「マスター」
「話が脱線したよな。えー、向こうの店だけど喫茶”カレント”つづりはc,u,r,r,e,n,t.けっこう老舗で、店は○○駅前」
マスターがメモを棚田に渡す。棚田はそれを受け取り、ジャケットの内ポケットにしまう。
「約束は七日。悪いね、急に進んだ話だから、他のに頼めなくてさ」
「それは、気にしないで下さい。この店まで連れてくれば良いんですよね」
「そういうこと」
棚田は片付けのため控え室に戻り、荷物を肩にかけると店を後にする。
***
すっきりとしたスキニーのジーンズにデニムのシャツ。長い髪を後ろでまとめ、阿川 紗矢は従業員通用口から喫茶「カレント」に入ると、店の支給品である生成りのエプロンをつける。
鏡の前で身だしなみを整えると、すっと通った目尻、すっきりした顎のラインの女性――紗矢自身の姿が目に入る。
いまだ慣れない化粧は申し訳程度。
しっかりした眉は気が強そうに見え、伸びた背にふくらんだ胸、細い腰。
自分ではアンバランスだ、となぜかいつも感じる。
店は白に木目が美しい、自然光をたっぷり取り入れた清潔感ただよう雰囲気である。
新型ウィルスが流行る前は、子供連れや、女子高生同士、若いカップルのデート、と明るい声で賑わう。
店のパティシエである紗矢は、朝の早い内から準備に追われていた。
なんでも販路拡大のため、バーと協力して互いをもり立てようということになったらしい。
バー「アンダンテ」でスイーツの提供、持ち帰り。
それに合わせるために新しく試作品をいくつか作り、向こうに持っていくのだ。
喫茶店の名物である卵の蒸しパン、フォンダンショコラに旬の果物のパフェ。
それからお酒に合うよう、甘さを抑えたガトー・ショコラにオペラ、メロンのタルトなど。
新しく書いたレシピに沿って混ぜては焼いて、混ぜては焼いて。
昼を過ぎたころには店長達がやってきて、味見をはじめた。
「どうですか?」
「悪くない」
店長の岩田はそう言った。
この場合は「OK」である。彼はやや回りくどい言い方をするのだ。
「何時頃向かうの?」
岩田は時計を確認する。
アンダンテにスイーツを持っていき、店に置いてもらえるか確認するのは今日である。
紗矢はエプロンで軽く手をふくと答えた。
「迎えに来てくれるそうです。車で」
「ああ、そう。なら良かった。電車だとつぶれちゃうかもしれないしね」
「はい」
紗矢はテキパキと動き、箱に仕上がったケーキ類を詰めていく。岩田はそれを見ていたが、肘をついて声をかけてきた。
「向こうじゃ君がマネージャーになるから。まあ頼むよ」
「ベスト尽くしますよ。何かあったらフォローお願いします」
「そこはね。やるけどね」
岩田と話ながら準備を終え、岩田の淹れるココアを飲む。
そうしていると、約束の3時が近づいてきた。
背の高い林道に囲まれた静かな喫茶店に、車の音が近づく。駐車場に停車、ドアの閉まる音に立ち上がり、エプロンを正す。
入ってきたのは黒の薄いジャケット、スラックスに革靴の、背の高く体格の良い男性だ。
「いらっしゃいませ」
女性が好みそうな喫茶店の雰囲気とはあまりに合わない彼に、皆の目が向く。
彼は気にした様子はなく、「アンダンテの者です」と低い声で告げた。
岩田と紗矢は並んで座り、向かいの男性――棚田――と自己紹介もそこそこに話す。
岩田が淹れたコーヒーに口をつけ、「マスターに言われたので」と切り出した彼はなんとなく人を寄せ付けない雰囲気があった。
まるで冬の夜空を纏っているかのよう。
何より伸びた前髪からのぞく眼光鋭い目。
銀河のようなきらめきがあった。
野生動物を思わせるそれに、紗矢は強く惹きつけられ思わず見てしまう。
「そうそう。そちらのお店で、ここのスイーツをお出しするんですよ。何品か作ったんだけど、ちょっと見てもらえるかな」
岩田が箱を開けようとすると、棚田は視線をわずかにそらせた。
「いや、その……自分はそういうのは分からなくて。すいません。マスターに見せた方が早いかと思うんですが」
「ああ、そうか。そうだね。急な話だったし、今日はとにかく向こうに届けるのが先決?」
岩田の目線が向き、紗矢は姿勢を正した。
「鮮度もあるし、そうしましょうか。えーと、棚田さん……お店まで案内して下さるんですよね」
紗矢がそう言えば、棚田が一瞬目を合わせ、すぐに外して頷く。
「ええ。急かすようで、申し訳ありません」
「いいえ。じゃあ、支度してきます」
紗矢が立ち上がり、岩田に促されて棚田も荷物を持って立ち上がる。
紗矢が荷物を持って駐車場に向かうと、岩田からケーキ類を入れた箱を受け取る棚田の姿が見えた。
目が合うと社交辞令、と笑みを浮かべてみせる。棚田は無表情に頷くのみだ。
車内は綺麗に片付いている。紗矢を後部座席に座らせると、棚田は運転席に座った。
「じゃあ、阿川。よろしく」
「はい。後で連絡しますので、今日はこれで失礼します」
「お疲れ。棚田さん、今日はありがとうございました。北川さんによろしくお伝え下さい」
「はい。失礼します」
車が静かに発進する。
ゆるやかなそれに気づいて紗矢が前を見れば、思うよりも早く道路を走って行く。
「運転お上手ですね」
そう思ったままを言えば、棚田は「……どうも」と生返事をするばかりだった。
その彼の横顔が目に入る。
通った鼻筋はわずかに鷲鼻。固く閉じた口元は血色も良く、ハンドルを握る手はずいぶんごつごつ骨張っていて、紗矢はふと(良いな)と思う。
これは憧れだ。
羨ましい。
それにも近い。
自分の手に視線を落とせば、女性にしてはそれなりにしっかりとした手。
だがほそい指は長く、色の白さは繊細なほど。
それを褒められたこともあるが、紗矢を喜ばせたことはない。
どうせなら、彼のような力強い手になりたい。
そんな感覚が強くあった。
アンダンテに着くと、マスターの北川が穏やかに微笑んで迎えてくれる。
喫茶店とはうって変わって、外の世界が見えない半地下。繁華街にあり、駅前は人が多くカラオケ店、漫画喫茶にゲームセンター。
正直空気が違うため、紗矢は軽く疲れてしまったのだ。
バーは濃いブラウンの壁紙、ワインレッドの床、飴色のカウンター。酒の瓶が並ぶ棚は重そうで、年代を感じさせる。
その深く落ち着いた空気に緊張感がほどよく溶ける。
「急な話だったでしょ、ごめんね」
「いいえ。何とかしたいっていうのは皆ありましたから、嬉しかったです」
「そういってもらえると助かりますよ」
紗矢はさっそく箱を開ける。
出てくるのは喫茶店で人気のある品。
可愛らしい丸みのある、色も優しげな卵の蒸しパン、丸く削られた果物を乗せるタルト……どれも色鮮やかで、おもちゃの宝箱を見ているかのような見た目のそれは……
「こちらには合わないですね」
「そうだね」
紗矢はもう一つの箱を開く。
「こちらはお酒との相性を考えたもの……ですが、やはりお店の雰囲気と合わない……ですね」
紗矢が頬をひきつらせて言うと、車を停めてから店に入った棚田が後ろから声をかける。
「この店に入ったことないから、仕方ないんじゃないですか」
後ろを振り返ると、無表情なままの棚田がジャケットを脱いで、視線を落としたまま近づいてきた。
マスターからコップを受け取り、それを飲んでいる。
「柊一の言うとおり。今日は味見だし、えーと……今従業員の数減らしてるんだよな。今いるの集めて食べてみよう」
マスターが声をかけ、集まったのは5人。
お皿にケーキを切り分け、味見をする。
紗矢は始めての場所で、見知らぬ人々に審査される緊張感を今更もった。
隣に座る棚田は黙々と食べている。
マスターはうんうんと頷きながら、何かメモを書いていた。
「美味いっすよ」
「ありがとうございます」
唯一褒めてくれたのはまだ若そうな青年だ。バーテンダーの制服を身につけているから成人だろうが、どこか幼い顔立ちにスイーツがよく似合う。
「ちょっと甘いのかな。もう少し、じっくり味わえる感じが良い」
マスターの意見を紗矢は頷いて聞き入れ、手帳を広げると書き込んだ。
「舌触りはいかがですか?」
「悪くないね。でも、クリームはもう少しなめらかが良いかな。ブランデーに溶けやすいように」
「溶けやすい……」
「舌の温度で溶けるっていうのかな。そのくらいの厚みというか。ふくよかな感じにしつつ、でもしつこくなくして欲しい」
マスターの語る内容は詩的だ。紗矢はメモをしっかり取り、腕を組むと首を傾げた。
「バニラを増やす? 卵を減らそうかな……」
その場で思いついたものを更に書く。
店の雰囲気に合わせて見た目も考えなければ。
試食が終わると、紗矢はマスターに了解をとって店を撮影する。
動画を回していると、棚田が首をかきながら、奥のステージに登っていくのが見えた。
照明に背中が照らされる。無駄のない、隙のない背中。
「ここ生演奏もするんだ。彼はバーの従業員っていうより、生バンドのメンバー」
「そうだったんですか。何をされてる?」
「ドラムだよ。無口だけど、あっちはかなり饒舌。聞いていくかい……と言いたいとこだけど、今日は演奏なしだ」
「でも、彼出勤してるんじゃ」
「今日は君を迎えに行って欲しいって頼んだからね」
紗矢は頷く。
「そうなんですか」
「ユーチューブにも出てるよ。クロヒョウっていうの。知らない?」
紗矢は目を軽く開いてマスターを見る。
残念ながら紗矢にテレビ鑑賞の趣味はない。
「音楽は好き?」
「好きですよ。マスターは……お好きなんですよね?」
「好きだね。ジャンルも問わない、雑食なの。ああ、でも、雰囲気を掴めるかもしれないから、ちょっとやってもらおうか。ここライブ込みの店だからさ。柊一」
棚田が振り向いた。
「軽くで良いから、やってみて」
「軽く?」
「彼女にどんな音楽をやってるか、雰囲気だけでも伝えて」
棚田は頷くと、スピーカーに声をかける。
録音らしい音が流れ、ゆったりとマイナーコードが流れる。
ブルースハープ、ギター、ベースがなり、棚田がドラムを叩き始めた。
鼓膜にズウンと響くような芯の強い音、スピーカー越しに男性の歌声と、キーボードのメロディ。
店の空気を震わすような生の音に、紗矢は背骨を揺り動かされる心地だった。
***
棚田が最寄りの駅まで送る、と申し出ると紗矢はそれに頷いた。
さっきと違い帰宅のため荷物が多い、助手席を開ければ紗矢がしなやかに脚を伸ばし、シートに背を預けた。
彼女のシートベルトを伸ばす仕草に目が行き、カチリ、と締まる音で前を向く。
車の中は外の賑やかさを遮断する。
タバコがやや匂うはずだが、紗矢がそれを指摘することはなかった。
窓を開けると走り出す。
「今日はお疲れ様でした」
そう声をかけられ、棚田は頷く。
「慣れない店に一人だと、気疲れするでしょう」
そう返せば紗矢が目を開けたまま笑みを浮かべる。友人にでも向けるようなものだった。時折いる、棚田を見つめる女性のそれとは違う。
「お店も皆さんもいい雰囲気でしたけど、外がね。賑やかなのに慣れてなくて」
「喫茶店は静かな場所でしたね」
「そうでしょう。ああいう空気に慣れちゃって、繁華街が遠くなりました。棚田さんは今日は急に呼ばれたんですって?」
「そうですね。暇でしたし、いいんですが」
そこで会話が途切れる。
棚田は気の利かない自分のペースに内心で嘆息する。紗矢は気にしていないようで、道路に目をやっていた。
「……美味かったです」
そうぽつっと言えば、紗矢が視線を戻した。
「本当? 甘いの苦手かと」
「苦手?」
「ずっと下を向いてたので」
「ああ、いや、クセというか。少し色に過敏で。ずっと前を見てられないだけです。甘いのは……苦手じゃないですけど、よくわからないので」
そう説明すれば、紗矢は少しだけ前のめりになって棚田を覗き込んだ。
「色に過敏? 車の運転って……」
「サングラス使ったり。疲れると辛いぐらいで、頻繁に必要ってわけじゃないので、それほど不便は感じてませんが」
「そうなんですか。その分音が好きとか?」
「かもしれない」
「良かったです、演奏。ユーチューブ拝見しても構いませんか?」
「なんで知って……」
「マスターが教えてくれましたよ」
紗矢は気さくに笑う。なんとなく壁がなく、棚田はふっと肩の力が抜ける思いだった。
「まあ、そりゃ、どうぞ」
「ふふ。楽しみ。テレビ備え付けられてたけど、見るものなくて持て余してたんです。そうだ、味の感想ってあります?」
「俺本当にスイーツとか不得意で」
「そういう人にも喜んで欲しいので。甘すぎるとか、重すぎるとか……」
紗矢は手帳を取り出しやる気を見せてきた。
棚田は参ったな、と苦笑して何とか受け答える。
最寄りの駅だ、と言われた△△駅に着くと、紗矢は助手席を降りて後部座席に置いていたリュックを取る。
ジーンズに包まれた脚、細くしなやかな背中を見つめていると紗矢が振り返る。
長い髪がさらさらと流れた。
「ありがとうございました。おかげで楽しちゃった」
「なら良かった。お疲れ様です」
「はーい。気をつけて帰って下さいね」
車をゆっくり走らせると紗矢が見送るのが見える。
窓から入る夜気は以外なほど柔らかかった。
白い木目の壁、飾り付けられた名前もわからない植物のガーランド。
木々を透かして入る太陽光、その中で浮かび上がるはっきりとした輪郭。
凛とした雰囲気のある、それでいて気さくな女性。
長いまつげの奥から覗き込んでくる色の濃い目。そのまっすぐなまなざし。
棚田は流石にこれが一目惚れなのだろう、と理解せずにはいられなかった。
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