イベントを翌日に控え、最終打ち合わせを終わらせる。
お昼には解散となり、体を休めて明日に備えるのみとなった。
棚田の部屋を訪れると、彼は曲目を見ながら明日のライブのイメージトレーニング中であった。
「……おう」
棚田が飯塚に気づいて入室を許可する。タバコの匂う部屋に入り、向かいに座った。
「けっこう前評判良いそうだ」
棚田がそう切り出した。
「へえ?」
「予約チケットは売り切れたとさ。当日券をどれだけさばけるかは青年会の働き次第……って小山内さんは言ってた」
ライブ会場の、午前、午後、夕方で席を設け、それぞれチケットが配られる。
チケット代金はドリンク付き格安ワンコインだが、それでも金銭のやり取りが発生するということは、責任もそれなりに出てくる。
「なるほど。まあ、座席以外の人らも楽しんでくれると良いけど」
「そうだな。俺らでやる始めてのライブになるのか。変な感じだ」
棚田の言葉に飯塚は今更そうと気づく。
バーで歌って、結婚式や飲み会、合コンの二次会で請われるのとは勝手が違う。
つまり主役が違うのだ。皆、ライブを見に来る。もちろん参加する団体や出し物は幅広いが。
「そういやそうだった……」
「余裕かよ」
「いや、っていうか……いつも通りくらいに思ってたんだよ。人前で歌うのは変わりないし。そりゃ緊張はしてるけどな」
「まぁな。お客を盛り上げるって意味では、確かにいつも通りか……とはいえリクエストだとか、バーなりの雰囲気に合わせてじゃない。どのナンバーをやるのか? なんて、はじめて自分らで決めたなと思ったんだよ」
「悪い。任せっぱなしだった」
飯塚は反省した。棚田は寡黙に作業するため、気づけば仕上がっていることがほとんど。
飯塚達はそれを最終チェックして、○×△をつけていくだけだった。
今回もそうである。
「いいさ。慣れてる」
「……すんません」
棚田がタバコに火をつけた。
様になるのは彼愛用のライターのせいか。シルバーのボディに幾何学模様。
タバコは体に悪いと言うが、彼には必要なものだった。とはいえ流石にバーで教え込まれたとおり、分煙と礼節は彼も身につけている。
「そんで? 王女さまと話は出来たのかよ」
律を王女さま、と言うのは飯塚の電子ピアノに残っていた曲のせいだ。
メンバーは元カノの演奏か、と飯塚をからかってそう呼んだのだ。
「一応」
「だろうな」
「気づいてた?」
「昨日から機嫌が良い」
「……伊藤と吉野は気づいてねぇのに」
「マスターに言わせりゃ俺は犬並みだそうだ」
せっかくのバンド名を使えば良いのに、と飯塚は笑った。
実質飯塚と棚田がクロヒョウのメインメンバーである。二人はセミプロを自称し、伊藤と吉野はプロでもある。
仲間であることに変わりはないが、棚田は同じバーで演奏することも多く、伊藤や吉野よりは長く活動を共にしており、セミプロという立場も同じである。 自然と近しい存在になっていた。
そしてクロヒョウというのは、飯塚と棚田の外見や雰囲気から伊藤達が言ったのである。
「話した。昨日たまたま逢えたんでね」
「良かったな。……で?」
棚田の一言に飯塚は喉を詰まらせる。
「なんだ何もねぇのか」
「……うるせぇ。俺は律がとっくに結婚したもんだと思って……」
「身を引くって? アホか、お前。彼女指輪もしてない。勝手に決めつけてセンチメンタル気取ってたのか」
「きっつー、棚。その通りだけどよ」
「ふん。そうやってすぐ早とちりするから逃げられるんだろ、いい教訓だと思っとけよ」
棚田は言い方こそきつい印象を与えるが、話の内容は気配りに満ちている。
「くっそ、イケメンめ……」
飯塚が半眼で睨むと、棚田はまるっと無視してタバコを灰皿に押しつけた。
「で? どうすんだ。俺らが帰るの明後日だろ。時間がないっちゃないんじゃないのか」
飯塚ははたと気づいた。
そうだ、律はこっちに本拠を移している。そして飯塚は相変わらず向こうに本拠があった。
「……」
「先のこと、考えないでいられる相手じゃないんだろ? とっとと覚悟を決めろよ」
「……だな。サンキュー、棚。愛してる」
「気持ち悪いこと言うな」
「ハグしようぜ」
「はあ? お前頭でも打ったのか?」
本気で睨まれた。
本気なわけねぇだろ、と飯塚は声に出さずつっこんだ。
***
棚田の部屋を出て自室に戻る。
夕陽が見えたが、ガラスに近づくと自分の顔が映り込んだ。
野ざる、野犬、オオカミ、黒豹、と動物にたとえられることの多い顔だ。
髪も黒々として、うねりがあるためか野性的に見えるらしい。
大浴場ではなく備え付けのシャワーを使う。
緊張のせいで指先が冷え、喉がはれぼったい感じがした。
声が出なかったら?
指が動かなくなったら?
そんな想像が沸いてくる。
以前なら自分自身を叩いたりしてごまかしたものだが、今の飯塚は自分の弱さも認められるようになっていた。
どうであれベストを尽くせば良い、と。
冷えた指を動かし、揉み込む。
バスタオルを腰に巻き、フェイスタオルを頭からかぶり、カーテンを閉めた。
その時だった。
「譲くん」
ノックとともに耳に馴染んだ声がする。
飯塚をそう呼ぶのは彼女だけだ、飯塚は目元を和らげるとドアを開ける。
「良かった、いた」
律は飯塚を見ると柔らかく微笑む。スーツ姿のままだ、仕事先からそのまま来たのだろう。スーツケースもひいて、まるでC.Aだ。
「お疲れ」
「うん。譲くんも」
飯塚は廊下に顔を出し、辺りを見渡した。誰もいない。
律を部屋に入れると鍵をかける。
「ああ、閉めないで。すぐに帰るから」
「は?」
「は? って……帰るのよ」
「……なんで?」
「なんで? だって明日本番でしょ? 疲れが残るわ」
「疲れる? 俺が? まだまだ元気だけどな。証明しようか」
律の腰を持って引き寄せる。絹糸のような髪をかき上げるようにして頬を撫でれば、わずかに彼女からりんごの花が香る。が、律はムードも無視して飯塚の頬を軽く叩いた。
「私が疲れる。ねえ、明日の衣装が着いたから、届けに来たの」
律はスーツケースを指さした。
「バンドの皆さんにも配らないと。でも部屋にいなかったの」
「……伊藤らは出かけてる。棚はいるけど」
「そうなの? 渡してくる」
「待った待った」
「待てない。遅くなったら夕食の邪魔でしょ?」
律は部屋に入るとスーツケースを広げた。
中から飯塚達が来る前に家から送った衣装――といってもMVで使った私物である――が出てくる。
飯塚は白のタンクトップに黒のデニムジャケット、白に近い青のデニムパンツを取る。
「それで合ってる?」
「合ってる。ありがとう」
「どういたしまして。良かった、間に合って」
じゃあ、と律が立ち上がる。
飯塚は慌てて彼女の手を取った。
「後で俺から渡しとく。なあ、律。男女がベッドのある部屋に二人きり。感じるものない?」
腰を抱いて目を見れば、律は冷静なままだ。
全くいつの間にこんな余裕を身につけたのか。
「感じるもの……? 何かしら」
律はそう言いながら、飯塚の裸身を撫でる。
胸元から肩へ、細い指になぞられると腰骨あたりが疼いて仕方ない。
至近距離で見つめると、彼女の目がじんわりと熱を持ってとろけてくる。
まぶたに口づけようと顔を近づけると、律がその唇を手で押さえた。
「譲くん、ちょっと待って」
「一時間で終わらせるから」
飯塚は律のその手を口に含み、指先に舌を絡める。律は片目を閉じ、体を強ばらせたがなおも抵抗を見せた。
「待って」
「なんで」
「打ち合わせがあるの。今日はもう帰らないと、間に合わなくなっちゃう」
飯塚は律の肩に顔を埋めると、はあ、と長いため息を吐き出した。
「仕方ない……」
「それに私たち、まだ恋人じゃないし」
「……は?」
飯塚は目を大きく見開いた。
律と目を合わせれば、彼女はきょとんとしている。
「だってそうでしょ?」
言われてみれば、はっきり告白はしていないし、昨日も飯塚の誤解が解けただけだ。
よく考えれば同居生活中も結局同居人という形を貫いた気もする。
「…………そうだな。分かった。じゃあ、俺と正式におつきあいを」
「……どうして私とおつきあいがしたいの?」
律は恋する乙女のように笑うと、飯塚に甘えるようにして首に手を回す。
律の指で後頭部を撫でられるのは心地良い。
飯塚は律の頬を撫で、心まで見ようとまっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「律が好きで好きでたまらないから」
そう言えば、律は下を向いて微笑む。
「嬉しい。私も、好き。譲くんが好き」
律の手に頬を撫でられ、誘われるままに顔を寄せると唇を重ねる。
しっとりと柔らかく、温かい。
一年ぶりに味わう口づけの味はどんなお酒よりも甘く美味で、心地よく酔えそうだ。
角度を変えて、もっと深く――と体を引き寄せた瞬間、律のスーツのポケットに入っていたスマホが震えた。
「……」
「……」
顔を見合わせ、律はスマホを取り出す。画面がちらりと見えたが、何かの花の写真だった。
メッセージが一件、と書かれている。
律はその場で開いた。
【打ち合わせ場所変更のお知らせ。公民館を予定していましたが、トイレの故障が判明しましたので急遽自治会長のお宅に変更となりました。皆様にはご迷惑をおかけしますが、ご理解のほど――】
「……じゃあ、行ってきます。遅くなると思うから、また明日ね」
律はそう言うとスマホを鞄にしまう。
飯塚はお預けをくらい、肩を落とすと額をかいて顔をあげた。
「行ってらっしゃい」
律を廊下まで送り、ドアを閉めようとしたその時、「譲くん」と声がして振り返る。
律が駆け寄って、ぎゅう、と抱きついてきた。
顔を見合わせれば自然と唇が近くなる。
ちゅう、と音を立てて離れた。
頬をピンク色に染め、活き活きと手をふる律を見送り、飯塚は部屋に戻る。
一応服を着て、棚田達に衣装を手渡しに行った。
***
飯塚があっさりと恋人になろうと言った。
予定を合わせたり、約束が苦手と言っていなかったか?
律はそれを知っていたから焦らしたものだが、本当は肩書きにこだわっていないのだ。
一緒にいたい。
それだけで良いのではないだろうか。
彼がとても好きで、大切で、愛おしい。
飯塚も律を心から大切に想ってくれている。
目や声、行動から理解していた。
これは同居していた時から感じていたことで、それを受け入れるのが、孤独感に傷ついた心には怖かったのだ。
太田は律を忘れろと、言わなかったらしい。
飯塚が信頼するはずだ、太田には真実を見抜く力があるのだろう。
客商売、それだけが理由だろうか。
この一年、太田がくれた言葉が律を支えた。
――良いんだよ。縁がありゃまた逢える。それまで頑張んな。
律は向こうへ帰ったら、太田に礼を言わねばと誓った。
***
翌朝、フェスが始まった。
娯楽に飢えていたのか、なかなかの人が集まる。感染対策は怠らないよう、と考えると入場制限に間隔にマスク配布に、とやることは多い。
律は受付担当だった。
検温に消毒剤、マスク配布と、婦人会の女性達と作業をこなしていく。
純が実母と共に参加し、消毒剤の補充をこなしている。
午前の作業が一通り終了し、昼休憩のためテントへ行くと純が綾に母乳を与えているところだった。
「冷えない? 大丈夫?」
「大丈夫」
里乃は小山内家で留守中で、昼食後遊びに来るということだった。
綾はげっぷの後、純に抱かれて眠り始める。
「律さ、どうなの?」
純がどこか言いづらそうに声を潜めてそう問いかけた。
律はなんのことやら、と首を傾げる。
「何が?」
「何……なんていうか。その、新しい人見つけようとか。こっちに出逢いなかった?」
律は純の真剣な目を見つめ、うーん、と考え込む。
気持ちは決まっているのだ。
だが純にどう説明しよう?
「あのね……」
「やめてね、律が遊ばれるとか嫌だから」
「え?」
「だってあの人……こないだはあんなこと言ってたけど、本当は律を誘ってたんじゃないの? 馴れ馴れしいし」
純が眉を寄せた。
飯塚のこと、と気づいた律は目を丸くすると頬を緩ませる。
「ああ、そうね……純にはちゃんと話すよ。一年と半年くらい前、ゆず……飯塚さんと出逢ったの」
「……は?」
「そうよね、私言ってなかったもんね。こっちで再会すると思ってなくて……とにかく、秀くんにフラれた頃に出逢った」
律は飯塚とのことを純に話す。
出逢いから同居に至るまでのこと、同居してからのこと。
体調を崩した時も、律が感情的になった時も寄り添ってくれたことを。
飯塚の優しさに溺れてダメになりそうだと逃げたことも。
純は目を潤ませながら聞き、話が終わると頷いた。
「そうなの……知らなかった。律、辛かったんだね」
「元々下手じゃない、私。その……うまく弱音をはけないって言うか」
「そういうとこあるね。言ってくれれば……ううん、そうか、飯塚さんだからぶつけられたんだね。そうだったんだ……じゃあ律、飯塚さんにひどいことしたわけだ?」
酔わせて逃げたのだ。
律がうっと詰まると、純はにやりと笑う。
「やるじゃん。ねえ、悪女」
純はすっかり機嫌を直したようだ。
律と肩を寄せ、内緒話でもするようにひそひそ話す。
「じゃあ飯塚さんをものにしないと」
「ものって……なんか他の言い方ない?」
「落とすとか? いい人じゃん、今度は逃がさないようにしなきゃ」
「あはは……」
純は恋バナにうつつを抜かす高校時代の時のように笑った。
やがて午後の作業が始まると、律は交替でステージ前の店の様子を見、金券の補充のため移動した。
ステージのあるグラウンド場で屋台、出店を巡る。
炭火焼きの焼き鳥、飛騨牛の串焼きステーキの売れ行きは好調だ、時間もまだ明るいため子供達がきゃっきゃ嬉しそうに走り回っている。
ステージではパントマイムにダブルダッチが行われ、拍手が響く。
店主と話し、不足はないかを聞くとその場で本部に連絡。そうやって巡っていると圭と目が合った。
「お疲れー、どこも良い感じらしいな」
「お疲れ様。これ不足分だって」
「渡したら休憩して良いよ。腰痛のおばちゃん、復活したから倍働くって意気込んでた」
純が里乃を乗せたベビーカー、綾をおぶってやってくる。手をふると気づいたらしく、側に来た。
「圭ちゃん、家族で遊んできたらって言ってくれたよ」
「そうなん?」
「里乃、綾は午後には帰らないといけないから、今のうちだって。律も行く? て、あっらー。あそこいるじゃん」
純がまっすぐを向いて言った。
圭と律が同じ方向を見ると、飯塚が射的の真っ最中であった。
3発打って、見事ヒット。
打ち落としたチョコレート菓子を、姉妹らしい10歳くらいの少女達に投げ渡している。
手を振って彼女らと別れ、腹をさすって店を見始めた。
空腹のようである。
財布を取り出し中を確認。
それを何となく観察していると、向こうもこちらに気づいてやってきた。
「どうも。思ったよりすごい規模ですね」
飯塚は愛想よく笑う。整備士の時とは違う、バーの時と同じ格好はどうにも夜のイメージがまとわりついた。
つまり浮いている。
圭が返した。
「感染対策で空間を持たそうと思うと広くなっちゃって。まあ土地はありますからね」
「なるほど。空もすっごい広いから、なんかのびのび出来ていいです。ところで腹減ったんですけど、おすすめの店ってあります?」
「えーと」
「律が紹介しますよ。出店名簿持ってるし、ね」
純が律を前に押し出す。
「でも不足分書いたメモ、本部に渡さなきゃ」
「うちらで出しとく。ゲスト待たしたら失礼じゃん。飯塚さん、連れ回して良いですよ」
「純!」
純は律の手からメモを取った。
その時、綾がわぁん、と泣いた。目が覚めてしまったようだ。
「おお、泣いちゃった」
圭が綾を抱き上げ、体を揺らしてあやし始める。
「すいませんね」
「とんでもない。赤ちゃんは泣くのが仕事……って言うもんな。ほら、いっぱい泣け」
飯塚は綾のほっぺたをふにふにとつつき、お腹をくすぐった。驚いた綾が泣き止み、頬に残る涙を飯塚の指で拭われる。
「おうおう、遠慮しいだな。女の子ですか?」
「女の子です」
「あの時律が抱っこしてた子か。よしよし、あんま美人になったらお父さんが心配するぞ」
と言って綾の頭を撫でようとし……
「手ぇ汚いかも」
と遠慮した。
「飯塚さん、慣れてますね」
圭の一言に飯塚は顔をあげる。
「俺、夜学出身で、赤ちゃん連れの人いたんですよ。教室中で面倒見た感じ。楽しかったなー、子供いると雰囲気明るくなって良いですよね」
「へえ。飯塚さんってほんと見た目じゃ分からない。他にも秘密があったりして?」
純が興味をひかれたらしく質問する。飯塚はにかっと笑ってウィンクしてみせた。
「秘密は秘密。といっても大したことないですけど」
純は笑うと律の背を軽く押した。
「じゃあ、うちらはうちらで楽しんでくる。律も頑張ってね」
「メモ」
「渡しとくってば。たまには甘えてよ」
純の一言に律はむう、と唇を突き出したが頷く。
「じゃあ、飯塚さん。ご案内します」
「えっ、良いの?」
「良いんです。何か食べたいとか、ありますか?」
そう言って小山内夫婦から離れていった。
飯塚は肉とはっきり答え、律は出店名簿を確認すると方向を変えた。
***
「りっちゃん、行かせて良かったのか?」
「良いの、良いの。飯塚さんていい人だって。迎えに行った時、サービスエリアで律言ったでしょ? いい人がいたって」
「言ってたけど」
「あれ飯塚さんのこと。二人は知り合いだったみたいよ」
純は律の話をかいつまんで圭に説明する。
圭は目を丸くしていたが、「だから二つ返事でYesだったのか」と一人納得した。
「何が?」
「岐阜のフェスに呼んだ時さ。特にどんな規模とか、説明もまともに出来なかったのにすぐOKくれたんだよ。りっちゃんに逢いたかったからなんだな、と思って」
純が足を止める。圭はそれに気づいて振り返った。
「どうした?」
純は俯いて、立ち尽くしている。綾が不思議そうに母親を見上げていた。
「ううん。律、いなくなっちゃうなと思っただけ……。きっと飯塚さんと一緒に、向こうに帰るんだね」
「……まだ決まってないだろ?」
「そう? きっとそうよ。律にとったら飯塚さんって唯一安心出来る場所なんだ。見てたら分かるよ」
純は深く息を吸い込むと、顔をあげて歩き出す。圭の腕を取って、手を繋いだ。
「律が幸せならいいや。また逢えるし」
「そうそう。寂しがりなさんな」
「ふんだ」
***
飯塚は小山内夫婦をちらりと振り返った。
手など繋いで、とても仲が良さそうである。
律は店を案内する、といった宣言通り、地図片手に一歩先を歩いている。
飯塚はこめかみをかくと隣に追いついた。
「適当で良いから」
「お腹空いてるんじゃないの?」
「空いてるよ。空いてるけど、もうちょいゆっくりでいい、隣歩いて」
「……」
飯塚の意図を察したのか、律は歩調を緩めて歩き出す。
「ねぇ、譲くん」
「ん?」
「皆さん、元気だった?」
「元気元気。先輩と美穂ちゃん、同棲始めた。これ知ってるか」
「知ってる。美穂嬉しそうだったし……あの子も地方から来てて、美術館って年近い子少ないの。友達作る暇もないから、恋人出来て良かった」
「そうか……先輩、あれで面倒見良いから。大丈夫」
「譲くんが言うなら、そうなのね」
「ホームレス中世話になったし」
「ふふ。そっか。譲くんて人間関係を作るのが上手いのね。今度秘訣を教わろうかな」
「そりゃ、俺が魅力的だから? 律はほら、しっかりしててちょっと近寄りがたいとこあるしな。お姉たま感が抜けないっていうか……今度?」
律がさらっと言ったため、聞き逃しそうになったが、「今度」と言わなかったか。
律を見ると、目を見開いて飯塚を見ていた。
「どうしたの?」
「いや……その……」
飯塚は背中が熱くなるのを感じ、ごまかそうと頭をかく。
一緒にいることが当たり前になって忘れていたが、そうだ、時間に限りがある。
言わなければ。
「律……」
「飯塚はっけーん!」
伊藤が飛騨牛の串焼き片手に近づいてきた。
そのまま肩に手を回され、串焼きのなんとも言えない食欲をそそる匂いが腹を刺激する。
「あっ、高山さん。今日も今日とてお世話になります」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。いらしてたんですね」
「そりゃ、フェスっすから。楽しまないと損ですよね。あと会場の雰囲気にも慣れとこうかなって。けっこう年齢層幅広いっすねぇ」
「今は子供達も遊べる時間なので……夕方からはまた変わるかなと思いますよ」
「楽しみです」
伊藤は飯塚の首根っこを掴むとぐいぐい引っ張った。
「なあ、高山さんてお前の王女さま?」
「……その呼び方ってどうなんだよ」
「他にある? 生徒さんにする?」
「もっと嫌だな」
背徳的だ。
「わかった、王女でいい。そうだよ」
「すっげえ。運命的だな」
「多少は計算づくだけど。分かったらどっか行け」
「ひどい……」
伊藤は乙女のように泣くふりをして、律に「飯塚をよろしく」と一言添えると店を巡りに行った。
律は不思議そうにしていたが、飯塚がその腰に触れて移動を促す。
「メンバーに同居してたのがバレた」
「えっ!?」
「律、ピアノに音が残ってたんだよ」
「嘘! メモリー機能は使ってないのに」
「だよなぁ、おかしいと思ったんだよ。律っぽくねぇって。誤作動? これのお陰だったりして」
飯塚はうらめしや……と両手を胸の前にあげる。律はその手の甲をぺちぺち叩いた。
「まさか。怖がらせないでよ」
「怖い? 大丈夫だって。俺がついてる」
「またふざけて……いいわ、本当に何かあったら譲くんに任せる」
律が冗談めかした笑みを浮かべ、飯塚を見上げた。上目遣いのそれに飯塚は鳩尾を掴まれ、辺りを見渡すと律の手を牽いて林道に抜けた。
「譲くんっ?」
「本番前にチャージさせて」
人目を盗んで顔を寄せる。
春風に冷えた頬が触れあい、飯塚の髪が律の耳をかすめた。
唇が触れあうとすぐに熱が伝わり、体までじんわりと解けそうになる。
唇を薄く開いて舌を出せば、律もそれに応えて口内に飯塚を誘う。
唇だけでは物足りなくなって指先を絡め合ってキスを楽しむ。
体を離すとほっと息がもれた。
「足りた?」
「足り……たことにするか。後の楽しみにとっとく」
「うん」
律は頷くと飯塚を抱きしめる。
「譲くんなら大丈夫。楽しみにしてる」
そう胸元から聞こえ、飯塚は緊張を見抜かれたか、と思いながら律を抱きしめた。
目を閉じると彼女から甘いさっぱりとした香りが感じられる。
りんごの花びらが青空に映える、そんな風景が脳裏に蘇った。
次の話へ→「りんごの花」第17話 心まで重ねて *官能シーンあり
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