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りんごの花 小説

「りんごの花」第12話 再出発

 三日後には体調も良くなり、検査を受けると新型ウィルスは陰性、律は職場復帰を翌日に控えた。
 飯塚は参鶏湯や鍋などを作り続け、律に食べさせた。
 過保護、と律は密かに思う。
 その気配りが嬉しいのも確かだ。
「それで、大体定時には上がれるから、明日から……前の通りにする?」
 律の提案に飯塚は目を丸くした。
「前の通り?」
「つまり、その……お互いの生活に干渉しないって。食事も各自で用意すること……」
「良いじゃん、定時なら。俺も夕方には大体あがれるし、料理も慣れてきたから作るよ」
「でも……」
「まずかった?」
「まさか」
 律がそう言うと、飯塚は「なら問題なし」と話をまとめてしまう。
「ねえ、譲くん」
「何?」
「……その……」
 飯塚は律の言葉を待っている。律はやり過ごそうと思ったが、やはりと口を開いた。
「ちゃんとしないと、ダメだと思う。お互いに生活リズムは違うし、干渉して、疲れることになるかも。……ちょっと、その、位置を整えないと」
 律がつっかえつつ話せば、飯塚は腕を組んで「うーん」と唸った後に息を吐き出した。
「でも病み上がりだろ」
「そうだけど、余計体使わなくちゃ、怠けちゃう」
「……分かった。……何かあったらすぐ言えよ、迎えに行くから」
 飯塚がそう言って微笑むと、駐車場に向かう。
 飯塚の姿を見送り、律は一人歩き出した。
 途端春の風が体を包み、どこか冷えた空気に感じたのは「ひとりぼっち」。
 田舎から佐竹と出てきて、佐竹と別れて、古里に帰るに帰れずずるずる居着いたまま。
 仕事場で主を失くした美術品を扱い、それに思いを馳せてまた帰る。
 一時避難のつもりの家だった。
 今となっては律の気配が色濃く移り、存在を飲み込むかのように迎え入れてしまう。
(これで良いのかしら)
 そんな疑問が再び蘇る。
 足下に影が伸び、それがバイクのものだと分かると振り返る。
「おかえり」
「ただいま。夕飯一緒に作る?」
 飯塚が冗談めかしてそんなことを言う。
 律は笑って頷きながら、ほっとするのと同時に足が震えるのを感じて立ちすくむ。
 一人じゃない。
 なのにひとりぼっちだ。
 ちぐはぐな感覚を味わいながら、飯塚と家に入り、台所に並んで立って料理をする。
 休みが重なると、飯塚が新しいヘルメットを渡し、どこへ行くともなくバイクに乗せてくれた。
 木々には赤い花芽。
 今にも緩みそうな蕾。
 桜が咲けば見事だろう、だが律の心を満たすものはなく、ただ風が頬を撫でるのを感じるだけ。
 途中立ち寄った林道で、寒い、と肩を震わせると飯塚が手に触れた。
 律が握り返すと、少しだけ肩を寄せて歩く。
 どこへ行くのか、どこへ行きたいのか。
 それすらも見えない。
 見たいと思えなかった。
 飯塚は仕事が終わるとすぐに帰宅し、楽器も放りっぱなしで律を抱きしめる。
 温かい腕の中、眠りに近い日々の中、恋人でもない、友人でもない飯塚との生活に、律はふと涙が出そうになった。
(もう終わらせないといけない)
 これは夢なのだ、もう目覚めなくてはいけない。
 どれだけ居心地が良くても、歩かなければいつか足下に開いている穴に吸い込まれてしまう。
 このまま二人でいれば、飯塚も。
 そう自覚すれば、指先にまで体温が戻った感じがした。
 視界が開け始める。
 ベッドの上で隣に眠る飯塚の手にそっと手のひらを重ね、指を握りしめる。
 じんわりと温かいそれが、律に一つのヒントを与えてくれた。
 スマホを取り、連絡を入れる――。

***

「今日は一緒に夕食を食べない?」
 そう飯塚に言うと、彼は困った顔をして頭をかいた。
 律は休みである。ゆったりとしたオフホワイト色の上衣に、ラベンダー色のスカート。
 飯塚が好きだといった普段着のままだ。
「今日打ち合わせなんだよ」
「打ち合わせ?」
「暖かくなってきたから、そろそろ工場跡でバンドの練習するかってなって」
「そうなんだ。日程を決めるの?」
「そんな感じ。ユーチューブ流したいっていう奴もいてさ。あ、だからさ……ちょっと出入り激しくなるかも。大丈夫?」
「大丈夫。気にしないで」
 飯塚は返事を聞くと笑みを浮かべた。
「良かった。あ、だから今日は夕食は合わせられない。でも9時ごろには帰ると思うよ」
「分かった。じゃあ、待ってるから」
「待ってる? 俺を?」
 飯塚は含みを持たせて笑うと、律の耳元に顔を寄せた。
「何か期待していいの?」
 そう囁かれ、律は肩をびくりと震わせると飯塚の胸を叩いた。
「もう」
「ごめん、ごめん。じゃあ行ってくる」
 いつものように笑って仕事に行く飯塚を、その背中が見えなくなるまで見送る。
 どこか幼さを残し、それでも頼もしい人の背中だ。
 律は視界が歪むのを擦り、不器用に息を吸い込むと、そのまま家を出た。

***

 律が一人訪れたのは太田の店だ。
 太田は開店前だが訳知り顔で律を迎え、カウンターに座らせるとお茶を出してくれた。
「これを」
 律が封筒を差し出し、太田が受け取る。
 中を確認すると、彼はそのまま封筒を律に返す。中には30万ほど入っていた。
「受け取って下さい」
「無理だ。あんたには必要だが、俺には必要ない」
「それでも、あの家で生活したんです。守ってもらいました。お支払いするのが当然です」
「頑固だな。要らねえよ、俺はあんたより長く頑固モンやってる。根比べなら負けねえよ」
「……」
 太田の話し方に律は目を丸くし、次には笑ってしまった。
「なんだよ」
「譲くんとそっくり」
「はあ?」
 律がそう言えば、太田は大げさに眉をつり上げる。その表情にも似たものを感じ、本当の父子みたいだ、と律は思った。
「じゃあ、預かっていて下さい、このお金」
「預かる? 変なことを言うね」
「実家に帰るんです」
 太田が表情を固めた。沈黙の後、腕を組むと思案顔になった。
「良いことだと思うよな、普通なら。でもそうは思えないな」
「結婚もしてない男女が同居することに反対してたでしょう?」
「そりゃ反対だよ。でも、俺だって客商売だよ、表情からある程度は感じるもんさ。調子が悪いな、機嫌が悪いなってのは」
 太田の指摘に律は口を噤んだ。
 嘘は通じないのだろう。だが、律は嘘をつくつもりだった。それでも静かすぎる空気に、律はまっすぐ彼の目を見れなくなった。
「何があった? 譲と喧嘩を?」
 律は首を横にふる。
「じゃあ今の生活に飽きたか? それとも仕事で何か?」
「それも、違います」
「なら……俺が言ってもな。男と女じゃ違うからな、事情も理由も。譲と同じようには言えない」
「太田さん」
「ん?」
「譲くんは、優しいですね。人の痛みがよく分かる。仲間や友達を守るし、逃げないし、誰のせいにもしない。……私も守ってもらいました」
 太田が腕を解き、律を見つめる。律はお茶を一口飲むと、続ける。
「譲くん、優しいけどバカだから、私が甘えて、利用しても気づかないんです。ちょっとすり寄ったらすぐにほだされて、なんでもやってくれます。……だから、飽きました。譲くんと一緒にいても、なんの駆け引きもなくて、面白くありませんでした」
 律は目頭が熱いのに気づいて、ふと顔を背けると息を整える。
 油断すれば泣いてしまう。
 太田は何も言わず、ただ律を見つめているだけだ。律は唾を飲み込むと続けた。
「だから、譲くんに私のことは忘れろって言って下さい。変な女につかまって、悪い夢でも見てただけだって言って下さい」
 そう言うと別れを告げ、店を出る。
 太田は見送るように店の外まで来たが、怒りもしないし叱りもしない。
 律は振り返る勇気が出なかった。
 顔を見られれば泣いているのがばれてしまうからだ。
「良いんだよ。縁がありゃまた逢える。それまで頑張んな」
 太田がそう言って、律の背中をとんと押した。
 ここに来るまで重かった足が、ふと軽くなる。
 律は頷くと歩き出した。

***

 酒屋さんに行くと、値段のはる酒を数種買い集める。
 飯塚が何を好むのか知らないが、今までを思い返せば何でも飲んでいた気がする。
 ワインにウィスキー、日本酒にビール、カクテル。缶に紙パックに瓶に。
 自転車のカゴに乗せ、家に一度戻って次に向かうのはスーパーだ。
 すっかり日暮れで、飯塚とささいな事からおやつの攻防を繰り広げたことを思い出す。
 スーパーで一人分の夕食を買い、きっかけとなったチーズケーキを買おうと店を覗けば、偶然なのか二つ残っていた。
 自然と頬は緩み、それと同時にまた涙がにじむ。
 たった半年ほどだ。
 にもかかわらず思い出ばかりだ。
 馴染んだ空気に乗る春の匂いが芳しい。
 見える風景をまぶたに焼き付け、二人で住んだ家のドアを開ける。
 ――離れたくない。
 素直にそう思うのに、そうしなくてはならないと心が訴える。
 リビングに残ったままの電子ピアノ。
 最後に、と電源を入れる。楽譜ノートを落とし、手元のボタンを押したことに気づかないまま、飯塚に習った亡き王女のためのパヴァーヌを演奏する。
 我ながら上手になった、と満足し、電源を落として埃を落とす。
 そっと鍵盤を撫で、カバーをかけて憧れと決別。
 夕食を取って飯塚を待った。

***

「ただいま。あー、すっげえ喉カラカラ」
 飯塚は明るい声でそう言い、冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターを取り出した。
「話は進んだの?」
「かなりな。といっても、防音を調べるのが先かなって。ドラムセットから入れる感じ。今日何食べた?」
 飯塚が話を律に向けた。
「適当にスパゲティ」
「食いたかったなー」
「残念。あまりはないの。ただし……」
 律はじゃーん、とチーズケーキを取り出し、更にお酒とおつまみをテーブルに広げてみせた。
「すげえ。何どうしたんだよ、これ。あっ、まさか律誕生日か!?」
「ううん。でもこういう気分だったから。食べよ」
 飯塚はテーブルに乗る酒類を見て、「すっげ、大吟醸。律太っ腹だなー」とのんきに感心している。
 チーズケーキを食べ、おつまみを開けて飯塚の酒杯を満たす。
 飯塚は目元を赤くし、まぶたを重そうにしながら滅多に買えない高級酒に舌鼓をうっている。
「これさあ、石川のやつだろ。なかなか売ってないよな。一回飲ませてもらったんだけど、まじで美味くてさあ」
「美味しい? もっと飲むでしょ?」
「ペース早くない? ほら律も飲めよ」
 飯塚は上半身をぐらつかせながら、律の杯に注いだ。律はそれを足下のタンクに入れ、飲んだふりをしてみせる。
 飯塚は酔い始めているのか、それには気づかず「強いな、負けてられねえ」と言う。
「でしょ? 譲くん、男なんだからもっと飲めるでしょ? ほら」
 酒杯がまた満たされ、また空に。
 それを繰り返し、飯塚はぐらぐらと頭を重そうにした。
「もっと飲んで」
 律がそう言えば、飯塚は頭を押さえてストップをかける。
「なあ、もうダメだって。覚えてない? 俺さぁ」
「なあに? あら、飲んでくれたら良いもの見せてあげるのに……」
「いいもの……?」
 ほら、と律は飯塚の膝に跨がり、わずかに身をかがめ、襟を開く。
 飯塚のはっきりと目が開かれ、胸元に釘付けになる。飯塚が上目遣いに律と目を合わせた。
「くそ……」
 飯塚の指が襟に触れようとし、律はぱっと身を離す。
「もっと飲んで。お酒に強い人って好き」
 飯塚は素直に言うことを聞いた。
 律はそれに満足気に笑うと、約束通り上衣を脱ぐ。紺色のなめらかなキャミソールの下に、乳白色の膨らみが見えた。
 飯塚がほお、と感嘆のため息をもらす。
「もっと飲んで」
 飯塚は目の前のストリップに唇を舐め、律が注いだウィスキーをロックで飲み出す。
「あっちぃ……」
 高いアルコールのせいか、興奮のせいか、飯塚はそう言うと額の汗を拭って咳き込み、シャツを脱いだ。
 律がスカートのチャックを下ろし、手で押さえる。飯塚は意図を察して更に酒をあおる。
 律が手を離せば、白い太ももに秘部を覆う薄紫色のショーツが表れた。
 飯塚の手が律の腰を撫で、引き寄せる。
「口移しで飲ませてくれよ」
「ふふ。わかった」
 飯塚の頼みを笑って受け入れ、律は日本酒の瓶をラッパ飲みし、口に含んだ分を飯塚の口内に放つ。
 アルコールでじんじんとする舌が絡み合い、腰が揺れると飯塚が力任せに律を抱きよせた。
「んん……っ!」
「もう限界……エロすぎ」
 飯塚の熱っぽい手がキャミソールごと体をまさぐる。
 ブラのカップもお構いなしに胸を揉み、律の唇を思うままに貪る。
 律は飯塚の好きにさせ、彼の腰に脚を絡めてとらえると、頭のあたりにあったワインのカップを取って解放された口に含む。
「ん」
 と口もとを指させば、飯塚が唇を重ねてワインを舌で舐めとる。
 溺れそうだ、と律は反省し、飯塚の背中を抱きしめた。
 飯塚の動きは鈍く、そろそろ狙い通りだろう、と律はあやすように飯塚の背をリズムよくさする。
 案の定飯塚はまぶたを下ろし、その場で規則正しく呼吸し……律が脱出しても起きないほど、酔いつぶれた。
「……よし」
 律はそう呟くとスカートを穿き、上衣を着て、髪を整えた。
 ブランケットを持って飯塚にかぶせてやる。
 飯塚が眉間に皺をよせながら寝返りをうつ。
 律は荷物を持ってきて、ちらりと飯塚を見た。
 目元まで赤くし、薄く唇を開けて眠る飯塚の近くに腰を下ろして、その胸元に頭を預ける。
 心臓の音がして、温かい。
 これでお別れ、とその温もりを体に刻みつける。
 ふと飯塚の手が伸び、律は咄嗟に身をひいた。
 彼はわずかに目を開け、律を見ている、ように見えた。
 律は顔をぐしゃりと歪めると目をこすって、息を吐き出すと言った。
「ごめんね、譲くん」
「あ……?」
「……大好きよ、忘れてね」
 それだけ言うと、律は立ち上がり、振り返らずに家を出た。
 あまりにもあっけない別れに、喉の奥が頼りなく震える。
 追いかけてくるはずがないのに、どこかでそれを期待して何度も明かりがついたままの家を振り返る。
 やがてたどり着いた駅で、予約していた特急電車に乗る。
 人気のない車内で膝を折り曲げて座り、いつか孤独感を分け合ってくれた飯塚の温もりを思い出した。
 ひくっ、としゃくりあげたが、トンネルの音がそれをかき消してくれた。

***

 ――ごめんね、譲くん
 鼓膜に張り付いて離れない、涙混じりの声。
 泣くなよ、と言いたいのに、手を伸ばすと律の姿が遠く消えてしまう。
(なあ、律、その後、なんて言った?)
 朝日を浴びて目が覚める。
 飯塚は裸の上にブランケットがかけられている状況に首を捻った。
 頭が重く、転がる酒の瓶に一応の納得をする。
 どうやら飲んだらしく、量が過ぎたのか前後の記憶が飛んだのだ。
 時計を見ると6時7分。
 もぞもぞと動き、体を起こすと髪をぐしゃぐしゃにかき回す。
 何かが違う。
 空気が違うのは朝のせいか、と思ったが、そうではないとカンが告げる。
 立ち上がり、シャツを着ると蛇口を捻る。
 頭からかぶり、犬のように頭をふって水気を切って息をした。
「律……?」
 裸足のまま家をぺたぺた歩き、まだ眠っているはずの彼女を探す。
 いや探すまでもない、部屋にいるのだろう。まさか起こすわけにはいかない、と思ったが、部屋のドアが開いたままだ。
 何か背筋が冷える感じがして、部屋に一歩入ると息が止まった気がした。
 布団は丁寧に畳まれ、元々少ない私物がごっそりなくなっていた。
 律の気配が丸ごと消えた。
 飯塚は酔いのせいではなく、体から力が抜けるのを他人事のように感じていた。

***

 太田が訪れたのはその日の夕方だった。
 律が残していった封筒を手に、二人が住んでいた家のチャイムを鳴らす。
 出ないかもしれない、と何となく思っていたが、意外にも飯塚は顔を見せた。
「よお、オヤジ」
「おう。……入るぞ」
「今? やめてくれよ、すげえ汚ねぇから」
 飯塚は普段通りを装って、笑みすら見せた。太田は頭をふると良いから入れろ、とドアを開ける。
「ったく、横暴」
「うるせえな、こっちだって急いでるんだよ。店開ける時間ずらしてんだぞ」
「そっちの事情なんか知るかよ。急いでるんなら帰れって」
「そういうわけにも行かねえ。お前に話しておかなきゃならん」
 太田は廊下をずかずか歩き、後ろの飯塚にそう言った。飯塚は頭をかきながら舌打ちする。
「わぁったよ」
「リビングだな、入るぞ」
 ドアを開ければ匂うのはアルコール。
 太田は換気扇を回した。
「さっそくやけ酒か?」
「うるせぇな。これは……飲まされたんだよ。……あん?」
 飯塚が顔をあげて聞き返す。
「さっそくやけ酒……ってどういう意味だよ?」
「あの子が出てっただろ?」
 飯塚の顔色が変わる。野良猫のような目が見開かれ、すがるように揺れた。
「なんで知って……」
「昨日、俺の店に来たんだよ。これ持ってな」
 太田は飯塚に封筒を渡す。飯塚は受け取ろうとしなかったが、太田に握らされ、ようやく視線を落とした。
「これ何だよ」
「家賃だそうだ。俺が受け取らないって言ったら、預かっててくれだとさ。お前に渡しとく」
「要らねえ」
 飯塚は太田に突き返す。
 思った通りの反応に太田は首を横にふった。
 座るよう言い、飯塚の正面にあぐらをかいて座る。
 飯塚は目を合わせようとしなかったが、やがて仕方ない、と座る。
「これは、家賃だ。何かの意味を持ってるとかじゃない。ただこの家はお前のになるんだし、お前が受け取るのが筋だろ」
「要らねえって。別に金欲しさに律を住ませてたんじゃねえよ」
「それは分かってる。それでもこれがあの子の意思なんだよ」
 太田がそういえば、飯塚はぐっと眉を寄せた。睨むような目つきだが、太田はそれを受け止める。
「俺との関係を白紙にしたいって? 手切れ金だって?」
「それは違う」
「じゃあなんだよ」
「分からねえのか?」
 飯塚のその態度に、太田はすとんと腑に落ちた。
 律が出て行った理由がわかった気がしたのだ。
「お前がそんなだから、あの子は出て行ったんだよ」
 太田の一言に、飯塚が視線を逸らさないまま目を赤くした。
「……あの子はな、譲。苦しんでたんだよ」
「知ってるよ。古里から離れて、唯一頼れる恋人にもふられて……」
「そこじゃない。それは、乗り越えたんだよ。そうじゃない……」
 太田はふと口調を緩めた。ちらりと辺りを見れば、ボストンバッグが目に入る。
 飯塚が律を探しに行くつもりだとすぐに分かった。
「あの子はな、弱っている時にお前に会って、弱いままここまで来てしまったんだ。それに気がついたんだよ。このままじゃいけないって」
「それの何がダメなんだよ。弱いなら……俺が守ってやるのに」
「それだよ、お前のその態度が、あの子を余計に追い詰めたんだ。考えてみろ、依存した関係に、先があるかよ? お前も、それが本当にお互いのためになるなんて思ってねえだろ?」
 飯塚が視線を落とした。唇を噛んで、太田の言葉をかみ砕いている。
「犬猫ならいいさ、十数年、一緒にいて看取ってやれる。その間幸せになるだろうよ。だけど、そうじゃない。あの子は人間で、女だ。お前も人間で、男だ。いつか自分の芯ってもんを持って、自分の道を歩いてかなきゃならない。わかるよな? その時、ずっと一緒にいてやれるか? あの子が芯のないお人形さんになったら、お前は本当に愛せるか? それを本当に守ってやってるって、言えるか?」
 太田が一度言葉を切ると、飯塚はふぅっと息を思い切り吸い込んだ。彼のその目は真っ赤になって、今にも血のような涙が出そうである。
「この金はな、あの子が自分で歩いて行くための、その覚悟の表れなんだよ。お前に寄りかからないで、一人前になるための覚悟なんだよ。その覚悟を、お前が止めちゃいけない。それをしたら、今度こそお前はあの子を一生失う」
「オヤジに何が分かるんだよ。律は……ずっと泣いてたんだよ。恋人にフラれたから? そうじゃない。古里から離れて、一人であいつを待ってる間、ずっと泣いてたんだよ。寂しいって、言いたいのに我慢してたんだよ。もういいだろ、なんでまた一人にならなきゃならないんだよ」
 飯塚はようやく言い返すと、一筋分泣いて、向き直る。
 太田はそれでも目をそらさない。飯塚の言う事を受け止め、彼の肩に手を置くと口を開く。
「寂しいのをごまかすためじゃない。一人になるためじゃない。孤独になるために一人になるんじゃなくて、孤独にならないために一人になるんだ」
「分かんねぇよ」
「お前は分かってるはずだ。そうだろ?」
 飯塚は体全体で息を吸う。顔を下向かせ、手で覆った。
「何よりお前が好きで、大切だから、お前をダメにしたくないから、出て行ったんだ。なあ、譲」
「うるせえ」
 飯塚の声は震えていた。
 それでも太田は言わねば、と意を決して言った。
「一人前の男になれ」
 飯塚が声を殺して泣いているのを知りながら、太田は家を後にした。
「実家に帰ると言ってたぞ」
 そう聞こえるよう言ったが、飯塚は返事をしない。
 律は忘れるよう言って欲しいと言ったが、太田にそのつもりはなかった。
 約束をしたわけではないが、律に心の中で謝る。
 下手な嘘だ。
 飯塚も、律も。
 涙を隠せば強くなったつもりなのだろうか。
「仕方ねえな」
 そう言って見上げると、見事な桜が咲いている。
「良いねぇ、何歳くらいだ?」
 立派な幹に触れ、つい話しかける。
 何百年生きて、色んなものを見たのだろう。
 歩かなくても見える世界は充分深く、広い。
 太田は年寄りじみた感覚に浸り、頭をかいた。
「年食ったなぁ。俺も」

***

「突然メール来たからびっくりした。急だね、なんで実家帰る気になったの?」
 助手席の純が後部座席の律を見た。
 久々に会った幼なじみの、大人びた横顔に律は時間の流れを感じる。
 しかしすぐにかつての空気に戻り、すっかり気楽になった律はにこにこと笑った。
 隣のチャイルドシートに眠るベイビーちゃん――名前は里乃ちゃん――のおかげもあるだろう。
「そろそろ良いかなって……お金も溜まったし」
「そうなんだ。嬉しいよ、律帰ってきてさ。元気そうで安心した~」
「純こそ、もう二人目なんだね。早いなー、ついこないだ産まれたと思ってたのに」
 純の薄く見えるお腹には、もう新たな命が宿っている。
「年取ると一年がだんだん短くなるよね。嵐のような一年……過ぎたら突風」
「振り返るとどうだった?」
「楽しかったかな。巨乳気分味わったしね」
「俺はまた我慢の日々」
 運転席の純の夫がそう呟き、純の鋭いつっこみを受けた。
「下ネタ禁止」
「下ネタじゃないし! りっちゃん、どう思うよ? こいつどんどん強くなってくんだよ」
 純の夫は二人が通ったコンビニの店員で、今は店長。中学の頃からの知り合いである。小山内 圭という、二人よりも8つ年上の近所のお兄ちゃんであった。
 律は曖昧な笑みを浮かべるのがやっとだ。
「どうなのかな……」
「里乃が分からないと思って調子乗ってるの。子供ってどこで聞いてるかわかんないじゃん」
「うわああぁ~」
「ほら」
 里乃が起きてしまったのかぐずりだした。
 律は純に手渡されたぬいぐるみで必死にあやす。
 朝早く、田舎についた律を駅まで迎えに来てくれたのは小山内夫婦だ。
 律は駅まで迎えに来て欲しい、と頼み、快くOKしてもらったのである。
「里乃ちゃん、大丈夫だよ~」
「どっかで食べる? 律お腹すいてない?」
「ああ、うん、大丈夫。ねえ里乃ちゃん泣き止まないんだけど……」
「ほっといて良いよ、それ嘘泣き」
「えっ!」
「後で抱きしめてあげたら機嫌直るから、大丈夫」
「そうなの? 里乃ちゃん、どこで覚えるの? すごいのね」
「感心するとこか?」
 車は山道のサービスエリアに到着。
 ちょっとしたレストランに入り、軽い朝食兼昼食を取る。
「はあ。やっと顔見れた。ちょっとやつれた?」
 純が律の頬を挟む。
「どうかな……昨日はけっこう飲んだから、むくむかと思ってた」
「飲んだの? 酒くさあ」
「やっぱり?」
「うっそー」
 純が舌をぺろっと出した。
 律はいつぞやのやり取りに肩を揺らして笑った。
 セルフサービスの品を持って食べ始める。
 ふと話題にのぼったのは佐竹のことだった。
「あのさ、聞きたくないかもだけど、佐竹先輩のとこ荒れてる。律に申し訳ないって。高山のおいちゃん達のとこに何度も謝りに行っててさ」
 律はふと眉を曇らせる。
 佐竹に対する未練はないが、ご両親に対してはまた違う感情が沸いてくるのだ。
 申し訳ない。
 そんな感情が。
「おばさん達のせいじゃないのに」
「仕方ないよ。結婚するもんだと思ってたもんね、皆」
「田舎じゃ人間関係濃いからなぁ。都会ってどうなの? 若い男もいっぱいいたんじゃないの?」
 里乃をあやしながら圭が言った。純が眉をつり上げる。
「ナイーブな話だよ」
「そうか? 失恋癒すなら新しい恋……ってよく言うじゃん。りっちゃん別嬪だから、ふさいでるのがもったいないって。男は星の数ほどいるんだから。で、いい男いなかった?」
 小山内夫婦が律を見た。
 里乃のあどけない目がきらきらと律を見つめている。
 律は窓を見た。
 帰ってきた道のその向こうに、飯塚がいる。
 どうしているだろうか。今頃、勝手に出て行った事に気づいて、怒っているだろうか。
 それともいつかのように、顔には出さず泣いているのだろうか。
 それほどに律を想ってくれただろうか。
 出逢った時の軽口、ホテルで飛び出した一言、バーで聴いた歌声、一緒に暮らし始めて、はじめてした喧嘩。
「……いたよ、すごくいい人が」
 公園で泣く、みじめな律に寄り添ってくれた人が。

***

 律が家を出て一週間が過ぎ去った。
 飯塚は無断欠勤を謝った。
 美穂から律が仕事場を去ったと聞いた城島がフォローしてくれ、事なきを得ると再びかつての日常を取り戻してゆく。
 風がふく度心がひりついて、かつて逃げたその感覚を、飯塚は今度は忘れまいと誓う。
 一人で帰宅し、一人で夕食を作る。
 それを聞いたバンドの仲間からは「やっぱり健康志向」と指摘されたものの、からかわれたりはしなかった。
 飯塚が知らなかっただけで、皆飯塚を信頼してくれていたらしい。
 この日もスーパーに寄って、食材を選んだ。
 おやつコーナーにさしかかると、些細な事でくだらない喧嘩をし、それすら楽しかったことを思い出す。
 律は実家に帰ったと太田が言っていた。
 安全な場所なら、と心配はしていない。
 ただ自分は律にとってのそれになれなかったと思うだけだ。
 会計を済ませて店を出れば、陽の長くなったため伸びる影に視線を落とし――聞き覚えのある声に顔をあげる。
「どうも。……久しぶり」
 どことなく落ち着いた雰囲気を醸し出す、佐竹の姿がそこにあった。
「……」
 飯塚は返事せずに視線を逸らすと買ったものをバイクに乗せる。
「あの……俺の顔を見るのも嫌だと思うけど」
「律ならいねぇよ」
 佐竹の言葉を遮ってバイクにまたがり、ヘルメットを持った。
 佐竹がバイクの前で「それは知ってる。君に逢いに来たんだ。話があって」と言って立ちふさがる。
 飯塚は軽く息を吐くとヘルメットを置いた。
「律が田舎に帰ったのは、両親から連絡をもらって知った。その……怒られたよ、当然。帰ったら殴られる覚悟もしてる」
「俺にも殴られるって思わないわけ」
「そうする権利が君にはあるよな。分かってる、そうしたいならそうしてくれ」
「クソが。あんたに構う時間がもったいねえよ、とっとと帰れ。新しい彼女が待ってんだろ」
 唸るように言う飯塚に、佐竹はそれでもひるまない。
「君に礼を言いたかったんだ。それだけ聞いてくれ」
「ふざけんなよ」
「ふざけてない。あの日俺が律を見つけた日――君と律は何か言い合ってた。律のあんなくつろいだ顔、久々に見たんだ。こっちに来てからずっと、あいつ気を張ってて……俺が笑顔も涙も引き出せなくなって、緊張させる毎日で……そんな中、君といる時に、やっと楽しそうな顔を見せた」
 佐竹の「礼」に、飯塚はふんと鼻を鳴らすも無視しきれず、ハンドルに手をおきながらも何も出来ない。
「正直、嫉妬した。長く一緒にいた俺より、友人でもない知り合ったばかりの君を頼ってる姿に。その原因作ったの俺で、礼なんか言う資格すらないかもしれないけど……安心したんだよ。律のこと守ってくれる奴がいることに」
「てめえ自身のためだろ。罪悪感が薄れるから、そう思いたいだけじゃねぇのか。現に律は俺のとこからも出てった」
「それは違う。いや、俺の罪悪感ってのは、そうかもしれないけど……それでも、律に苦しんで欲しくないのは本心だ。それに、君は律のために本気で怒ってただろ。それで充分、俺には心強かった。……あいつが出て行った理由は分からないけど、あいつにとって君が、かけがえのない奴だってことだけは、分かる」
「分かるかよ」
「分かるさ。これでも、長くつきあってきたんだ」
「……」
 飯塚はハンドルを指で叩きながら視線を上にやった。
 飯塚とて、律に嫌われたとは思っていない。縁が切れたとも思えない。
 彼女が最後に何と言ったのか、それが気になって仕方ないのだ。
「本当にありがとう。律を救ってくれて」
「うるせえ、とっとと帰れ」
 まっすぐに礼を言う佐竹の顔を見ず、バイクから離れてゆく気配を感じ取る。
 ふと思い出した太田の言葉。
 飯塚はハンドルを見つめると佐竹の背中に声をかけた。
「なあ、律の実家……知ってるよな」
「もちろん。今、メモを……」
 ――”一人前の男になれ”
 太田の最後の一言が急に思い出される。
 飯塚は視線を落とすとヘルメットをかぶった。
「やっぱ良い」
「でも……」
「良い。もう決めた」
 バイクを走らせ、佐竹の横を通り過ぎる。
 佐竹が「いつでも聞いてくれ! 俺の職場は……」と叫んだ。
 夕陽を追いかけるように走り、ふと視界が開けるのを感じる。
 今何をすべきか、それが分かった気がした。

 

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