汗でしっとりと濡れた肌を重ね、律は飯塚の胸元に頭を預けた。
ほっと息を吐き出すと、飯塚が気だるげに手を伸ばし、律の肩を抱く。
「太田のオヤジの言うとおりになったよなぁ」
と、自嘲気味に言う飯塚を見上げ、律はふふっと笑う。
「そうだね」
「まあ、間違いとは思ってないけど……」
「それも、そうだね」
飯塚が律の顔をのぞき込み、そろっと布団を持ち上げる。
目線は目から、顔から、段々下へ。
律は飯塚の視線の行方に気づき、うっすらと情事のあとの残る胸を隠す。
「ちょっと」
「良いじゃん、減るもんじゃ無し」
「そういう問題じゃない……」
律は腕で胸を隠しながら身を起こした。
「どっか行くの?」
「シャワー浴びて、寝るの」
「明日で良くね? 今日はもう寝よう……」
飯塚は律の腰に手を回そうとしたが、律はするりと抜け出してしまう。
「恋人じゃないもの。朝まで一緒に寝たら勘違いしそう」
律がそう言って、床に散らばった衣服をかき集める。カーディガンを羽織って、前ボタンを止める。
飯塚は言葉をなくしたまま口を開き、視線を泳がせると腕をベッドに戻した。
「じゃあね、おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
律は段ボールが貼られたドアを開け、振り返らずに彼の部屋を後にした。
***
自粛ムードの続く初春に、城島はため息ばかりである。
飯塚は顔に油汚れをつけたまま朝の作業を終え、休憩を入れた。目の前に座る城島の不満気な顔に嫌でも気づいてしまった。
「……どうしたんすか」
「……いや別に……」
と言った側からまたため息だ。飯塚は顎をしゃくって生返事する。
「なあ、ルームシェアしてるんだろ?」
と、城島が突然話題をふってくる。飯塚は「はあ」と返した。
「他人と同居するってどんな感じなんだ?」
「あー、同居っすか?」
飯塚は律との暮らしを振り返る。
お互いに干渉しない、と決めたからか、特に不満はない。律は大人しい方だし、うるさい趣味もない。部屋が離れていることもあって、個人の空間を邪魔しあうこともない。
それに匂いだ、他人の匂いは異空間にいる気分にさせるが、律から嫌なものを感じたことはない。お香やアロマをやっている気配もなかった。
飯塚自身もそれをやらないが、作業着などの匂いを落とすための洗剤が時々強烈に匂う程度か。
たまに手料理を食べさせてもらい、もちろん味に文句はない。
(今度飯の作り方でも教えてもらうかな)
などと考え、ベッドから出て行く彼女の背中を思い出してなんとも言えない気分になったが、その後も律の態度が今まで通りだったため、余計に何とも言えない。
不満はない、というのが妥当な感想だ。
「まぁ、こんなもんかなって感じっすね」
「そういうもん? 家事とかどうしてんの?」
「どう……なんつーか……お互い干渉しないってことにしてるんで」
「そうか……」
城島が明後日の方向を向いて額をかいた。
飯塚は頬杖をつき、話を進める。
「なんかあったんすか?」
「いやー……結婚してぇなーって思うんだよ」
「はあ」
「でも今の自由な生活も好きなんだよ。相手が出来て、その生活が崩れるのがちょっとなーって思ってさ……」
「まあ、そうすね」
「合コンとか誘われてるけど、乗り気しないんだよなぁ……」
飯塚は城島をじーっと見つめた。
何か違和感がある。
城島に対してではない。
「……男として枯れる一方っすね」
「だよなぁ」
城島は大きなため息をついた。
***
明かりがついた家の光景にも慣れ、飯塚はふと思う。
(慣れだな、慣れ)
新生活に、城島もいずれ慣れる時が来るのでは、と一人勝手に納得し頷く。
除菌用アルコールスプレーを全身に浴び、手洗いうがいを済ませるとリビングへ向かう。
これも慣れた手順だ。
ノックしてから入ることも覚えた。
ドアを開けると、律が振り返って手をふって出迎える。
いつも通りの笑みだ。
肌を重ねてから一週間、何も変わらない。
まるで何もなかったかのようだ。
「ただいま」
「おかえり。ちょっとごめんね」
と律が言ったのは飯塚に対してではなく、彼女が持っているノートパソコンの画面に対してだ。
「何? リモート会議とかいうやつ?」
飯塚が声を抑えて言えば、律は軽く頷いた。
「会議じゃないけど、地元の友達とちょっとね。部屋移るから気にしないで」
律はノートパソコンを持つとリビングを去って行った。
ドアが閉まる。
が、すぐに開かれると律が言った。
「ねえ、味噌汁作りすぎたの。良かったら飲んでね」
そう言い残し、今度こそドアが閉まった。
軽い足音が聞こえる。
飯塚はふっと気持ちが軽くなったように感じ、台所へ向かった。
***
「でさぁ、まじで起きない。今晩は俺が起きてるからーって言うくせにさ」
「純はそれでどうしたの?」
「ベイビーちゃん泣いてるのに寝てらんない。結局私があやしに行くんだよね。いいのよ、あやすのは。ベイビー期って今だけだからさ、貴重な時間だと思いなってママが言うし。そこじゃないの」
「起きてるって言ったじゃん~! って?」
「そうそれ! まじそれ!」
純は律の幼なじみである。気づけば一緒にいた仲であり、双子のようにくっついて行動していた。
彼女は結婚し、子供も産まれて今現在子育ての真っ最中である。
愚痴と近況報告を聞き、律は画面にうつる彼女の「ベイビーちゃん」を見た。
ぐっすり眠っている。目元が純に似て、まつげが長かった。
「可愛い~」
「でしょう。律も早く結婚すればいいのに。子育てするなら体力あるうちの方がいいって言うよ?」
「無理だよ」
「なんで。てかこっち出るとき結婚するもんだと思ってたけど」
律ははたと気がついた。
佐竹と別れたことを彼女は知らないのだ。
「どうした?」
純が気遣わしげに眉を寄せる。
律は「うーん」と鼻を軽く擦るようにすると口を開く。
「その、別れた」
それを聞いた瞬間、純の口がぽかんと開き、次の瞬間にはパソコンいっぱいに純の顔が近づいた。
「うっそ! なんで!?」
ベイビーちゃんが母親の声に驚いて泣き出してしまった。
「あ~、ごめんごめん。ママが悪かったよぉ」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。このくらいでビビる子には育てないから」
「そういうもの?」
「そういうもの……って、この子の話じゃない、律の話だよ! 何、別れたって」
「そのままだけど……」
律は噛みつく勢いの純に驚き、思わず正座になってしまった。
視線を彷徨わせ、頬をかくと純に説明する。
「その、まあ、色々……すれ違った感じ。向こうはこっちに馴染んじゃったし」
「マジでー? 信じらんない、先輩とあんなに仲良かったのに……えっ、じゃあ律今一人なんでしょ? 生活大丈夫なの?」
「うん。なんとかね」
「ならいいけど……何かあったら帰っておいでよ? 特にそっちにこだわる理由もないでしょ?」
「んー……そうかもね……」
律は曖昧に頷いた。
純は律に届かないまま手を伸ばし、画面越しに頭を撫でた。
「よしよし。大丈夫だからね、律はステキガールだから。あれ? でもさっき男の人の声聞こえたけど」
純の言葉に律は顔をひきつらせた。
飯塚のことはどう説明したものか。
「ええと……ルームシェアってやつ。広い中古物件に部屋がいっぱいあって……そのうちの一人」
「ああ~なるほど。知り合い?」
「うん」
「まあ、律が大丈夫ならいいけど。そうなんだ……ねえ、何かあったら本当にすぐ言ってよ? ダンナに高速走らせて迎えに行くから」
純の一言に律は目頭が熱くなるのを感じ、ごまかすように笑うと頷いた。
「ありがとう」
***
律がリビングに戻ってきた。
飯塚はちゃっかり味噌汁に火をかけている最中で、あとはスーパーで買ってきたウインナーを炒めるのみだ。
律が冷蔵庫を開けながらコンロをのぞいた。
「味噌汁……沸騰しそう」
「だな」
「だな……じゃなくて。もう火を止めないと」
「なんで?」
「なんで? ……味噌汁って沸騰させると美味しくなくなるのよ」
「マジで!?」
飯塚は慌てて火を止めた。
とたん湯気が立ち上り、味噌の香りがふわっと広がる。
「……」
冷蔵庫を閉めた律がそれを見ていた。
飯塚はふたをするとウインナーの袋を開ける。
「……冷凍庫にブロッコリーあるよ」
律の一言に飯塚は素直に頷く。彼女が差し出した冷凍ブロッコリーを皿に出し、レンジに入れた。
「譲くんて器用かのか不器用なのか……」
「得手不得手ってやつだよ」
飯塚はフライパンにウインナーを並べ、火にかける。
「……あのさぁ」
徐々に音をたてるウインナーを見つめながら、飯塚は切り出した。
「暇な時で良いから……」
「うん。何?」
「あー……料理教えてくんねぇ?」
「ああ、うん。いいよ」
「えっ、マジで?」
あっさり了承した律に振り向く。彼女はホワイトチョコレートを口に入れて頷いた。
チョコレートがパキッと小気味よい音がして、彼女の唇にかけらが残る。
「暇な時でいいんでしょ?」
律にそう言われ、飯塚ははっと視線をあげた。
「そう、暇な時でいいから」
「ピアノも使わせてもらってるし、そのお礼ということで」
「よっし。これで俺もまともに飯が食えるようになるかな」
「うん」
律が意味ありげな笑みを浮かべている。
唇に残っていたチョコレートを舐めとったのが見えてしまった。
が、彼女の指がしめすものを見たとき、飯塚の顔色が変わる。
ウインナーが焦げていた。
***
焦げた部分を切り落とし、無事だった少しの部分だけを食べる。
飯塚は寂しい夕食をぼそぼそと食べた。
律は録画したい番組を選んでいる最中だ。リビングに静かなひとときが流れる。
「そのドキュメントって面白いの?」
飯塚がそう声をかければ、律が振り向いた。
「仕事で取り扱うかもしれないの。これ、平安時代の仏像の特集だから」
律の仕事は美術館スタッフだ。
歴史的展示物などを扱うこともある、その予習ということだ、と飯塚は理解した。
「マメだよな。歴史好き?」
「うん。譲くんは?」
「わかりやすいのは好きだけど」
「わかりやすいのって?」
「坂本龍馬とか? 勝海舟はけっこう好きかもな」
「渋い好みね」
律は一通り録画予約を終えるとリモコンを置いた。
そのまま立ち上がる。
「味噌汁ごちそうさん」
「うん。先にお風呂入って良い?」
「良いよ。律の残り香味わいながら入るから」
「やめてよ」
律は目を細めて笑った。が、すぐに何か思い出したのか表情を改めた。
「ねえ、職場の子が来たいって言ってるの。呼んでもいいかな」
「良いよ。何人?」
「一人よ」
飯塚は頷いた。
律が立ち去る前に、飯塚は彼女の手を取る。
律の手が逃げようとした。今までとは違う反応だった。
「な、何……?」
「いや……なんでも」
飯塚は律の手をあっさり逃がす。
律の頬がうっすら赤くなっているのは見間違いではないはず。
だがそれをどう受け止めればいいのか、飯塚は分からなかった。
***
城島が家に来たいと言ったので、飯塚はどうしたものか、と首を捻った。
全くの一人暮らしなら問題ない。
城島とはたまに飲みに行き、そのままどちらかの家で倒れるように寝たものだ。
だが同居人がいる。
泊まりはきついかもしれない。
「昼なら」
と返事し、城島は頷いた。
そのことを律に伝えると、彼女はあっさり頷いたものだ。
「それで、私の後輩も来るんだけど、昼間ならいいかなって思ってたの。遅くなるようなら泊めようかと」
「ああ。ま、テキトーで良いよな。いつ頃になりそう?」
「今度の金曜日ね。休みが一緒になったから」
飯塚はやべえ、と顎をしゃくる。
「譲くんの先輩も同じ日?」
「に、なりそう……ま、いいか。皆いい年だし」
「そうよね。ねえ何作ったらいいかな。それとも皆でバーベキューみたいなのする?」
「それ良いねぇ。じゃ、カレーとか作っといてさ、あとはバーベキューしますか」
予定が決まり、金曜日に合わせて食料を買い込み、木曜の夜に二人で台所に立った。
ジャガイモの皮を剥き、人参を洗って乱切りにする。
飯塚は律に教えてもらいながら野菜を切り、タマネギの洗礼を受けて肉を炒める。
いつかのような時間だが、どこか違う。
ただの他人ではなくなり、ただの仲間ではなくなり、男女になりながら恋人でない関係。
むずがゆいような心地だった。
律がカレーのルウを溶かし、しばらく煮込むと熱くなってきたのかカーディガンを脱いだ。
汗のにじんだうなじが見え、飯塚は頭が殴られたような感覚を味わう。
体がぐわっと熱くなったのは、ストーブのせいではない。
「ちょっと失礼」
そう言ってリビングを出て、冷えた廊下の空気を肺いっぱいに吸い込む。
突然思い出すのは彼女の肌の感触、胸の柔らかさ、とろんとした表情に甘ったるい声だ。
鎮まってくれそうにない欲情に飯塚は立ちくらみを覚えた。
深く息を吸って、頭を冷やすために冷水をかぶる。
リビングに戻ると律が顔を覗き込んできた。
「大丈夫?」
「ああ、うん」
飯塚が上の空で答え、眉を寄せたままなので律は訝しんでいる。
律の手が飯塚の額をとらえた。
あの日、飯塚の体を撫でた小さな手が。
「うわっ!」
と、大きな声で言って体を捻ってしまった。
飯塚のその態度に律が目を見開いた。
「そんなに嫌だった?」
「嫌じゃない!」
怒るような声で反射的にそう言ったため、律が肩をすくめて首を傾げる。
飯塚は額を指先でかき、首を横にふった。
「そうじゃなくて……ああ、近づいたらダメだ」
「えっ、私臭い?」
ルウをこぼしただろうか、と律はエプロンを確認する仕草を見せた。飯塚は慌てて否定する。
「違うって。律はいい匂いだから。じゃない、そうじゃなくて……」
息を大きく吸い込むと律の目の前に手のひらを広げてストップをかけた。
「……俺今、発情期」
「……発情期……」
「律さ、近づいたらヤバいよ。俺押し倒すかも」
「……あらら」
と、律にしては珍しく冗談ぽく返してきた。
飯塚は表情を引き締めるとはっきりと言う。
「……本気だって。カレー作っとくから、嫌なら早く逃げること。OK?」
「分かった。じゃあ」
と言って、律は作業を再開させた。飯塚はあまりに淡々と作業を進めるその姿に、なんとなく拍子抜けしてしまう。
律はふたをすると火を止め、ガスの元栓を閉じると飯塚に振り向いた。
「……シャワー浴びてきて良い?」
それを聞いた瞬間、律の唇をキスで塞いでいた。
次の話へ→「りんごの花」第9話 そのまま……(官能シーンあり)
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