りんごの花 小説

「りんごの花」第6話 契機

 朝目が覚めると、ドアの前にスポーツドリンクとチーズスフレが置かれていた。
 メモには【仕事行ってくる】と右上がりの文字で書かれている。
 送り主が誰かは考える余地もない。
 律は涙を滲ませながらそれを朝食にした。

***

「ねえ先輩。引っ越ししてからどうですか? もう慣れました?」
 休憩時間になると、美穂が明るい笑顔を見せて話しかけてきた。
 律は昼食にゼリーを噛んで飲みながら答える。
「うん、かなり慣れてきた。ちょっと坂道を歩くけど、良い運動になってるし」
「へえ。良いですね、一軒家でしょ?」
「そう。古民家ってやつかな、元々織物工場だったみたいよ。かなり広いけど……」
 工場跡はまだまだ手入れが必要だ。実際使えているのは住居用にリフォームされている部分だけで、持て余している感がある。
 そういえば、太田に話を聞きに行くのは来週末か。
「家持つって良いですよね」
「美穂はどんな家に住みたいの?」
「私マンションが良いです。ほら、管理って大変そうだし……それに駅近がいいかな」
「実用面ではそうよね。でものんびり出来て今の暮らしも良い感じよ」
「なるほどぉ。住めばなんとやら?」
「そうね」
「でも一人で古民家って怖くないですか? なんか出そうとか……」
 古美術を扱っていると時々あるのだ。持ち主の怨念がどうの……という”曰く付き”が。
 律は首を傾げてみせる。
「そういうのはないみたい。それに一人じゃないし……」
「一人じゃない?」
 美穂は律に負けず劣らず首を傾げる。
「彼氏さんと仲直りをしたんですか?」
 そう言われ佐竹を思い出すと、律は胃がぐっと締まる感覚を味わった。
 ゼリーを何とか飲み下し、咳払いをするとやっと口を開く。
「その……ルームシェアってやつをしてるの」
「ああ、なるほど」
 美穂と話して気づいたが、よく考えれば、よく知らない男性と二人で共同生活だ。
 その時はどこか余裕をなくしていたため、どうにでもなれという気持ちがあった。
 余裕の出来た今となってはあまりに大胆な決断だったとしか思えない。
 飯塚が良識のある人で良かった。
(そうと思える相手じゃなかったら受け入れてない……はず)
 と、再び首を傾げつつ頷いた。
「でも良いですね。3密回避出来そうじゃないですか? 行きたいな」
「ああ、うん……相手に聞いて、みる……」

***

 律が寄り道の品を持ちながら帰路から家を見ると、珍しく電気が点いていた。
 駐車場にはきちんとカバーをかけられたバイクがあり、流石に見慣れたそのフォルムは飯塚のもの。
 ドアに鍵を差し込むが手応えがない。
 かけていないのだろうか、と取っ手を引けばあっさりと開いた。
 全身に除菌スプレーをかけて靴を脱ぐ。
「ただいまー」
 と声をかけて廊下を歩いた。
 手洗いうがい、と一通りを済ませるとリビングへ。
 中は湯気で充満していた。それに、どこか臭い。
「譲くん! 換気!」
 集中していたのか、飯塚は律の言葉にはっと顔をあげると換気扇を慌ててつけた。
 じゅううっ、と鍋のふたから中身が溢れてコンロに流れる。
 焦げの匂いが鼻腔に入り込んだ。
「うわ、やっちまった」
 と飯塚の声が聞こえたかと思うと、鍋のふたがガン、と大きな音をたてて床に落ちる。
 飯塚が手を押さえていた。
「ど、どうしたの?」
「多分火傷」
「早く冷やして」
 蛇口をひねって勢いよく水を流し、飯塚の左手をそこに持っていく。
「鍋鍋! すっげえ火にかけ過ぎた」
「強火でやってたの? わっ」
 律は火を消し、中を覗いた。
 ごぽごぽとたっていた泡が落ち着くと、鶏肉がぼろりと身を崩すのが見えてきた。
「ど、どうしたの、これ?」
「見たまんま。鍋。なんか高知の鍋の素があって、美味そうだったから」
「鍋……」
 どうやら出汁の素のかつおや昆布らしきものが浮いている。
 が、アクにまみれて色がおかしい。
 飯塚は氷を取り出し、ビニール袋に入れると左手に持った。
 換気扇が勢いよく動き、室内に充満していた空気を追い出し始める。
「やべー。一酸化炭素中毒とかになってた?」
「かも……窓も締めっぱなしだし……」
 律はおたまを取り出すとアクと昆布を取り出し、中を再確認する。
 鶏肉は身こそ崩れているものの、食べれないわけではないだろう。
 大きさも不揃いな白菜は、どろどろになっているが。
「気にすんなって、ちゃんと食うから」
「焦げてるのもあるから、それは避けてね」
 鍋底に張り付いた何かがある。
 それが焦げ臭い要因のようだ。
「分かった、分かった」
 しかしなかなかの量ではないか、と律は思った。飯塚は左手を冷やしたまま、鍋を箸でぐるぐるとかき回し始めた。
「一人で食べるの?」
「……そうだけど」
 という飯塚はどこかぶっきらぼうに顔を背けた。
 律はおや、と思い彼を横顔をじっと見てみた。
 飯塚はその視線に気づき、半眼で律を見下ろす。目元が赤いのは気のせいか。
「ねえ、もしかして私のため?」
「は? いや違うし」
 飯塚はカタコトで答えた。意外にもあまのじゃくなのか。
「でも、ねえ。譲くんの苦手な人参と椎茸も入ってる」
 飯塚はむう、と口をへしゃげるとそっぽを向いた。
 彼の顎には無精髭が生えている、剃る間もなく料理を始めたのか。
「何、律も食いたいの?」
「え? どうしようかなぁ。美味しそうだよね、この高知のお鍋……」
「中身ぼろっぼろだけど」
「お出汁が染みて、きっと美味しいね……」
 律が笑みを見せると、飯塚は眉を開いて律を見た。
 その目元にはどこか親しげなものが滲んでいる。
「どうしたもんかな。シメは雑炊だけど、別に俺一人で平らげるよ」
「ええ? 食べさせてくれないの?」
「……人参と椎茸食ってくれるなら……」
「決まり。やった!」
 律がバンザイをしてみせると、飯塚はくだけた笑みを見せた。
「ガキみてえ」
 と、ぽつりと呟いた声はどこか安堵感に満ちていた。
 同居してから2週間以上経つが、夕食を一緒に摂るのは初めてだ。
 飯塚が作った鍋は食感もわずかなものだったが、お腹の調子が崩れたばかりの律にはありがたい。
「料理って難しいんだな」
 飯塚がそう呟く。律は太田の店で働いていた彼の姿を思い出して首を傾げた。
「太田さんに教わったりしてないの?」
「俺はホール担当、洗い物担当、床掃除担当。作ってるとこなんか見てねえし」
「料理に興味なかった?」
「あんまないね。食えりゃいいって感じ」
「そうなんだ」
「律は? 料理出来るじゃん」
「出来るけど……必要だったから覚えた。好きとかじゃないけど……」
 そう言えば、飯塚が眉を持ち上げて顔を覗き込んできた。
「好きじゃないんだ?」
「楽しいとは思うけどね」
「素直じゃねえなー」
 飯塚は鍋をつつきながらそう言った。
 律はそういえば、と冷蔵庫を指さす。
「ねえ、お土産があるの」
「土産? 何?」
「今朝のお礼。チーズケーキ」
 飯塚は一瞬目をきらきらさせ、冷蔵庫を見ると口元に笑みを浮かべる。
「マジで?」
「うん。後で食べよ」
「よっしゃ。鍋早く片付けようぜ」

***

 飯塚が食べ損ねた店のものだ。出来たてのそれはふんわりと柔らかく、クリームとチーズの甘さ爽やかさがたまらなく美味しい。
 匂いがおかしくなるほど放って置いた飯塚は、「やっぱ出来たてだな」と一人頷いていた。
 律は片付けを終え、風呂からあがると髪を乾かす。
 スマホが振動し、メールの着信を知らせた。
 送り主はもちろん佐竹だ。
 文面がぼんやりとだが、見えてくる。
 顔を合わせたためなのか。
【今日はどうしてた? あいつに変なことされてないか?】
 と、心配からなのだろうがそんな内容だ。
 律はため息をつき、胸が押さえつけられるような感覚にまた胃が蠢く。
 佐竹は律が心配なのだろう。
 だが律は、飯塚のことを佐竹に「あいつ」呼ばわりされるのも、疑われることも、嫌だった。
 返事は送らずにスマホを枕にぽんと投げる。
 冷え込む空気が髪を包む。
 律は思いついて美容院を予約した。

***

 仕事帰りに予約した美容院を訪れる。
 初めての店だ。凝った髪型の受付が律を招いた。
 案内されてついた座り心地の良い椅子、差し出される飲み物、現れた美容師。
「髪の長さを少し短くしようかと……」
「そうですね。10㎝ほど切って、毛先を少しすいて、軽くしましょうか。カラーリングはどうします?」
「それは要らないです。あの、ドネーションというのは、何㎝ほど必要ですか?」
「最低32㎝ですね。今回は毛先が少し荒れていますので、その分切って、また5㎝ほど伸びてから寄付という形の方がありがたいです」
 律は頷き、美容師の彼に任せた。
 ヘアカットが終了し、美容院を出ると、冬の匂いを乗せた風が切ったばかりの毛先をゆらす。
 シャギーを入れて、すきバサミを入れた髪は肩甲骨のあたりまでの長さとなり、軽やかだ。
 髪をまとめないままでもすっきり仕上がり、律は気分も軽く薬局に向かった。
 そこで買ったのは乳液、美容オイル、化粧水。
 そして冬の新色のリップだ。
 電車に揺られていると、陽が落ちるのが早くなったのがよく分かる。
 西側は濃いオレンジ色に、東側はもう群青に。
 その中をすっかり見慣れたバイクとヘルメットが走っているのが見えた。
 律は知らず頬を緩ませる。

***

「あのさあ、工場跡に防音貼ってこうと思ってるんだよ」
 夕食を終えると飯塚がそう切り出した。
 律は指先に乳液を馴染ませてながら振り返る。
「うん」
「休日と夕方にやる。けっこう音立てるけど、いい?」
「良いよ。なんなら手伝うよ」
 どのみち自粛ムードは続いている。
 律は実家に帰れそうにないし、遊びに行けそうにないのだから暇だった。
 元々インドア派だからそれほど不満はないが。
「防音って何かするの?」
 そう飯塚に聞けば、彼は首を撫でるようにしながら答える。
「音楽活動……って言ったら大げさだけど。そんな感じ」
「そっか、なるほど。ギターとか……」
「そうそう。ピアノも欲しいしな、しっかりめにやりたいんだよ」
「譲くん、ピアノも弾けるの?」
 飯塚の言葉に律は目を輝かせた。
「いいな、ピアノ」
「好きなの?」
「子供の頃憧れてたの。お隣のお姉さんが弾いてて、すごく素敵だった。結局出来なかったんだけど……」
 律は子供の頃を思い出し、表情を綻ばせる。実家の風景が脳裏をよぎり、ふと郷愁にかられた。
 ちくりと胸が痛んだのは、佐竹との日々まで古里に刻まれているからだ。
 飯塚がそれを黙って聞いていたが、顎をさするようにすると提案のように言う。
「じゃあ、教えてやろうか? 手伝ってくれたら、その礼に」
「良いの!?」
 飯塚の提案に律は食いつく。満面の笑みをたたえてガッツポーズを作った。
「嬉しい! 手伝うから、教えてね!」
 律の勢いに、飯塚が目を丸くした。が、何かに気づいたのか探るような視線をする。
「何?」
「いや……なんか今日違うなと思って」
 飯塚の言葉に律はどきりとし、肩を緊張させた。
(髪を切ったのに気づいた?)
「うーん。なんか明るい」
 飯塚は首を傾げながらそう言って、律を観察している。
 その視線にくすぐったいものを感じ、律はごまかすように言った。
「前と今日とどっちが良い感じ?」
「今日」
 即答だった。

***

 防音材のシートを飯塚は少しずつ買ってきて、休日と副業のない日を利用して工場跡の壁に張り始めた。
 律も参加し、二人で体を動かすこと2週間。
 少しずつ様変わりしてゆく家を見ているうち、律はある変化に気づいた。
 佐竹からのメッセージをはっきりと見えるようになっていたのだ。前ほどの緊張もない。気持ちが落ち着いていた。
【返事がないけど、元気にしてるんだよな? 一度で良いから顔を見たい】
 夜、リビングで映画を見ていた時に来たメッセージでそれに気がついた。
「どしたの?」
 飯塚が律の表情が固まったことに気づいて声をかけてきた。
「うん。なんでもない」
 そう言ったが律の目はスマホに釘付けである。
 飯塚はふーん、と返すだけだが、気になるのか律を見てきた。
「……」
 律がその視線に気づき、しばし飯塚と見つめ合う格好になった。
「……」
「……」
 飯塚はライオンのような、別の猛獣のような、あるいは野良猫を思わせる隙のない目だ。
 律は今更ながら怖さに似たものを背筋に感じ、身をよじった。
「……なんでしょうか」
 そう口を開けば、飯塚が我が意を得たり、と言わんばかりに頷いた。
「いいや。急に表情固まったから、なんか怖いメールなのかと思って」
「怖いメール?」
「昔あったじゃん、これを5人に送らないと不幸が起きる……みたいな」
「ああ、あったね、そういうの……違うってば。これは……元彼からの」
 元彼という言葉を使うのは初めてだが、律にしてみれば名前を言いづらい人になってしまったため、どこかたどたどしい言い方になってしまった。
 飯塚は表情を崩さす、ふーん、と返すばかり。
「なんか、変よね。ふったくせにメールとかメッセージとか送ってくるの……」
「さあ……」
「もう終わりなんだし、返事もしてないのになんでかな……」
「なんでかねぇ」
 飯塚は飼われている猫のようなくつろいだ表情を見せた。
 律は気まずいものを感じ、リビングから出ようとしたが、飯塚の言葉でそれを止めた。
「分かんねえな、恋人なんかいたことねえし」
「え」
 律は目を丸くし、口をぽかんと開けた。
 彼はいかにも「慣れてる」ように見えるのに。
「昔の彼女に未練あるって人何人かいたけど、何がどう気になるのか分からねえ。律は返事してないって言ってたけど、女子の方がこういう時潔いよな。俺そういうの憧れるわ」
「潔いのが?」
「そうそう。なんか嫌じゃん? 人生なんていつどう終わるか分かったもんじゃないのに、昔に未練たらたらって。しんどくないのかね?」
 飯塚は本気でそう言っているようだ、野性味のある目つきがどこか無邪気にすら見える。
 律は開いたままの口を閉じ、座り直した。
「譲くん、彼女いない……いなかったの?」
「いない。そういう”恋人”とかいうのは」
「……その日だけの子?」
「それはそう。いたいた」
「可愛いとか思うんでしょ?」
「思うよ。可愛いなーとか、綺麗だなーって。でも付き合うとか約束とか苦手。都合が合わないのに合わせるとか無理。俺テキトーに生きてるから」
 と飯塚は言うが、律は小首を傾げる。
 彼を「テキトー」だとは感じないのだ。
 とはいえ彼をよく知っているわけではない。律はふうん、と言うと先ほどの彼の言葉を思い出す。
 確かに時間は有限だ。
 佐竹が決着を望んでいるのか、律としてはあの日に終わったはずなのに、と思う一方、突然の別れで受けた痛みをずるずる引きずっている。
 確かに「しんどい」。
「……」
 律が急に黙り込んだので、飯塚が顔を覗き込むようにした。
「何?」
「ううん……ねえ、工場のリフォームってけっこう進んだよね」
「そうだな。突貫で半分以上やったし」
「ピアノって、けっこう高いでしょ? どうするの?」
「中古かな」
「中古……そういえば譲くん、浄化ってしてる?」
「浄化? 何それ」
 美術館で扱う時、かつて誰かの思念を強く受けた物を触ると、怪我をしたりという事がある。
 そのため塩などを用いた浄化をしたり、時には神主を呼んで展示品を並べた美術館全体をお祓いしてもらうことがあるのだ。
 律がそれを説明すると、飯塚が「ああ!」と声を出した。
「まさか、それでか? 鍋もあれ中古じゃん! うわ家燃えたの笑えねえとか思ってたけど、関係あったりすんのか!?」
 飯塚は中古品を見るため、走って自室に向かった。

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