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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第5話

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 

 コーヒーの香りがする。
 旬果は今までにない目覚めに首を傾げ、体を起こすとあくびをした。
 いつもよりかなり深く眠った気がする。
 ベッドはシーツも落ち、下着が足元や枕元や、あちこちに散らばっていた。
 昨晩のことを思い出し、下腹部がぐんと重さを増したようになり、静まっていた体温が頬にまで登ってくる。
 では、コーヒーの香りは誰のものか。もはや疑問に思う余地もない。
 ごそごそとシーツをひきあげ、見えないように下着を集める……が、服を取るには部屋の隅にあるクローゼットまで行かなくてはならない。
「おはよう」
 声をかけられ、旬果は体を跳ねさせる。
 どうしたものか、と旬果は慌てて背を向け、シーツを体に巻いた。
「お、おはよう……」
「先にシャワーを借りたよ」
「そっ、そうね。朝早いのね」
「ああ。君はよく眠ってた」
「そうだった?」
「可愛い寝顔だった。あのまま閉じ込めておきたいくらい」
「ま……また妙なこと言う。その、シャワーを浴びるから……向こうを向いててくれない?」
「なぜ」
「だって……」
「昨日散々見ただろ」
「それとこれとは……」
 あたふたしていると、背にネイサンの気安い笑い声がかかる。
顔だけで振り向くと、彼はコーヒーカップ片手に柱にもたれるようにして立って旬果を見ていた。服は着ておらず、コットンのマルチカバーを腰に巻いているのみだ。前髪は落ち、無精ひげのために紳士的な印象は鳴りを潜める。
 彫像のような体つきだ。ただの運動家ではない。しっかりと筋肉がついている。
「悪い。シャツは洗ってるから」
 どうやらお互い様のようだった。
 近くのパン屋で遅めの朝食を買い、彼の淹れたコーヒーを飲む。
 こんなささやかに贅沢な朝を迎えたのは初めてだ。
 ネイサンは昨日よりもはっきりと旬果を見つめている。そこに今まで感じていた壁はなく、居心地が良い。
 遠い昔に離れ離れになった人に、おもいがけず再会したような感じだ。
「後悔は?」
「してない」
「夜と朝じゃ、感覚が違う。朝に見た俺に幻滅しなかったか?」
「してないってば。ネイトはどうなの?」
「してない。むしろ覚悟が定まったよ」
 ネイサンの手が無遠慮に伸びて、旬果の頬を包む。
 武骨な手なのに、驚くほど手つきは優しい。器用だ。
 うっとりするほど温かい手のひらにまたまぶたが落ちそう。
「なんの覚悟?」
「全てを終わらせる覚悟だ」
「……?」
「君は知らなくて良い……今は」
「”今”は……?」
「いつか……話せる時が来たら、話すよ」
 ネイサンの目はまっすぐだ。そこに嘘は宿らない……見つめ返し、頷くと、ネイサンはほっとしたように口の端を上げて笑った。いつもとは違う、精悍な笑み。
「よし」
 ネイサンは身を乗り出し、旬果に音を立てて口づけた。

 

 仕事へ行く彼女とともにオテル・パラディソを出る。
 支配人が偶然出てきた。顔が見えると、彼は目を見開いた。
 ネイサンは口元に指をやり、「シーッ」と沈黙を促した。
 支配人はどこか呆れたように首を横に振ると、二人を見なかったフリをした。
 旬果を車で送ってやりたいが、残念ながら車は五つ星ホテルに置いてきた。
「車を借りても?」
「今はバイクしかなくてね」
 支配人に軽く声をかけると、彼は机から鍵を取り出し、ネイサンに投げてよこす。
「グラッツィエ」
 オテル・パラディソの地下駐車場に向かい、従業員が使うバイクを借りる。
 旬果はバッグの持ち手を握っていた。
「よく知ってるのね」
「これでも顔は広いんだ」
「それはそうでしょうけど……あ、ここもあなたのお客様なの?」
「どうかな」
 ヘルメットを彼女に渡し、後ろに乗せる。
 細い腕がネイサンの腹部を抱いた。
「バイクに乗るのは初めて」
「怖くないか?」
「うん。あなたと一緒だから」
 5月の風にクチナシの香りが乗る。
 こうして街をめぐる限りは、穏やかだ。だが一歩路地裏に入ればクラネ・ジェーロの影がある。
 それでも街を見下ろすように建つ古城「ロッカ・ディ・ルチェ」も、 朝の陽の前ではただの石を積んだ建物でしかない。
 夜を支配するカジノ・バー「イル・サント・デッラ・フォルツァ」も、今はただの宮殿めいた建造物でしかないのだ。
「今日はお昼には終わりそうなの。どこかで会える?」
「ああ。迎えに行くよ」
 ハンドルを握り、角を曲がる――ゆっくりと走る一台の車とすれ違う。
 後部座席にいるのはシルバーグレイのスーツを着た、薄い青の目をした男……目が合い、距離が離れるまで離さない。
 男はネイサンに向かい、さりげなく腕時計を二回叩いて見せた。
 ネイサンはゆっくりと瞼を落とす。
 10分ほど走り、着いたのは古びたギャラリーだ。
「じゃあ、終わったら連絡するわね」
「ああ。俺が来るまでギャラリーから出ないように」
「その方が良い?」
 ネイサンは頷くと旬果の肩を撫で、別れた。
 ホテルでマセラティに乗り換え、カジノ・バー「イル・サント・デッラ・フォルツァ」へ向かう。
 道は整備され、一見すると王者のためのようである。客はここを通ることに「選ばれた」高揚感を得るだろう。
 ロビーは白く輝き、ボーイはネイサンを見ると恭しく礼をした。
 陽のある内は静かなもので、動いているのは喫茶ルームくらいである。
 ネイサンは案内を断り、すぐさま最上階のVIPルームへ向かった。
 元プロレスラーのボディガードがレシーバーに話しかける。
 マホガニー材の扉はゆうに3メートル近くあり、扉をかざる金の縁取り、取っ手はいずれも細かく彫金されている。
 ボディガードが道を譲り、取っ手に手をかけた。
 ズウン、と空気が圧縮されたような音を立てて扉が開く。

 中にはスーツ姿の男が6人、下着同然の恰好をした若い女が7人。
 一番奥に座る男は、先ほどすれ違った車内の男だ。
 薄い青の目がネイサンを見ると、肩にしなだれかかっていた女の腕をはがし、全員に出るよう言った。
 皆命令に従い、何も言わずに出ていく。彼らは幹部である。
 光の当たり加減によって光って見える、品の良いシルバーグレイのスーツを着こなす男は、ネイサンと二人になると立ち上がって彼を迎えた。
 プラチナブロンドの髪、豹を思わせる無駄のない体躯。いっそ気品すら感じさせる男で、一度見れば決して忘れられないだろう。整った顔立ちには細かい皺が刻まれているが、それにもすら魅力が宿る。
「ネイサン。順調そうで何よりだ」
 腹の底に落ちるような彼の声は、低く冷たい。
「だが、ずいぶん時間をかけたな。女一人どうとでもなるだろ?」
「彼女は浮かれたツーリストじゃなくてね。プロだ。簡単じゃない」
 男は黒檀のデスクに向かい、背もたれの高い椅子にどっかり腰かけ、長い脚を組む。
「まあいい、日本女性とのメイク・ラブは燃えるそうだな」」
「ただの好みの問題だろ」
 男はネイサンを横目で見た。
 昨夜のことを知っているのだろう。
「絵はあったか?」
「ああ。だが、倉庫にある。簡単には手を出せない」
「それで、どうした?」
「怪しまれればそれで終わりだ。時間をかける価値はあるだろう」
「お前が言うなら信じようか」
 よく言う、とネイサンは独り言ちた。信用などしていないから、昨夜のことを知っているのだろう。
「あの時も、焦って殺さなければ良かった。そうだろ?」
 ネイサンは男の目を見る。
 薄い青の目は、凍てついた冬の湖のようである。
 男は口の端を持ち上げ、デスクに散っていた写真をばら撒いた。
「くだらないことをしてくれた」
 ネイサンの足元に一枚、写真が落ちる。
 血に濡れた男の腕。その腕の指す先に金箔の絵が映りこんでいる。
「警察への手土産のつもりだったのだろうが、こざかしいマネをしてくれる。見せしめだ。早く手を打たなければ、模倣犯が現れる」
「クラネ・ジェーロの秩序のため、か?……中のデータが警察に渡れば俺たちは終わりだ。アウグスト――」
 ネイサンは言葉を切り、男――クラネ・ジェーロのカポ(首領)である、アウグストを見た。
「彼女がパスワードを握っている間、警察も手が出せない。この方が安全だ。それから……コンサルタント業での顧客からパーティーに招待されてる。5月の最後の土曜の夜だ」
 アウグストは一度だけ視線を下に滑らせた。
「ビジネスコンサルの客も無視出来ない。お前の表向きの肩書だ、存分に使え」
「ああ。場所は世界的五つ星ホテルだ」
「チッ、下手は出来ないな。まあ、良い」
 アウグストは口元だけで笑うと、「年代物のブランデーがある」と言った。
 彼は自らグラスを用意し、オブジェで飾られた棚からブランデーを取り出す。
 小気味よい音を立て、ブランデーは注がれる。
 アウグストはネイサンにグラスを差し出した。
 グラスの中には丸い氷塊。ブランデーに濡れ、世界を映し込む。
 ネイサンはそれを受け取った。アンバーの液体は芳醇な味わいを色に溶け込ませていた。
「ナテオ、お前には期待している」
 アウグストはネイサンをニックネームで呼ぶと、彼の肩を軽く指で叩いた。
 ネイサンがグラスを傾けると、グラスの中で世界は反転する。
 氷塊がグラスにうつる二人を飲み込んだ。

 

 約束通りネイサンはギャラリーに現れた。午後から仕事があるらしく、昼食は外で取ることになる。
 彼は街一番大きな公園に案内した。
 その中央には噴水があり、男女の彫像があった。
 それを見上げる恰好でベンチに座り、キッチンカーで提供されるサンドイッチを食べる。
 ラフなデートだが、レモネードが5月の空気に溶け込むようだ。こんなデートもたまには良い。
 隣を見ると、ネイサンの顔は厳しいものがあった。
「どうかしたの?」
「え?」
 つい最近見たものだ、そう、市場で。
「……そういえば、腕のケガはもういいの?」
「ああ。昔のものだから、痛みはないんだ」
「なぜケガを?」
「なんというか……ちょっともみ合ったんだ。少しイかれた奴で……」
「えっ……」
「昔の話だ。夜の繁華街で、乱闘があったんだ。警察に突き出して終わった話だよ」
「でも、刃物傷じゃない?」
 切ったような傷痕だったように思う。左腕、腕時計で見えづらいが、肌が盛り上がった形跡は痛々しい。
 ネイサンはそれを袖に隠した。ネイビーのリネンのシャツは風に揺れるが、彼は微動だにしない。
 これ以上聞いても彼は答えないだろう。
 旬果は彫像を見上げ、話を変えた。
「ここもお気に入り?」
「そうだな。この水の音が好きなんだ」
「都会っぽい姿なのに、好むのは自然の多い所のね」
「言われてみればそうだな……反動かもしれない」
 コンサルタント業ならスピード感が求められるだろう。ただでさえ、ビジネスといえば人工物に囲まれているものである。
 ゆったりした空気が彼にはちょうど良いリフレッシュになっているようだ。
「君はどういうところが良いんだ?」
「うーん……でも、こういう公園は好きなの。これ、楓でしょう。秋になるときっときれいでしょうね」
 道に植えられたのは全て楓の樹だ。今は新緑、黄緑色のさわやかな葉をしているが、冷え込むと見事に色づく。
「デートにあんまりこだわったことないなぁ……美味しいものが食べたいとは思うけど……どこに行くかより、誰と過ごすかが大事な気がするの」
「そうか……いつか時間が取れたら、南仏にでも行こう。あそこは白ワインを持ってピクニックが休日の定番らしい」
「あなたとだったら、そういうのも良いな。何も知らない観光客として……」
「……ああ。旬果、君に贈り物がある」
 差し出されたのはダイヤのついたネックレスだ。
 かなり細いチェーンで、星の散らばるように飾られたカットの細かいダイヤは日差しにきらきら輝いた。
「パーティーに誘ったのに、何か足りないと思って。気が利かなくてすまないな」
「え……ドレスで充分なのに」
「あれは借り物だから。充分な礼じゃないだろ?」
「じゃあ、これがお礼なの?」
「……いいや。私情が混じってる」
「どんな私情?」
 彼らしい冗談に思わず笑うと、思いがけず真剣な顔をされた。
「ネックレスの意味そのままだ」

――ずっと一緒にいたい。
――離したくない。
――自分のものにしたい。

 頬に熱が上がる。
 ネイサンは「なんだ、知ってるのか」と言った。
「……どうするかは君に任せる」
「じゃあ、つけて欲しい」
 ネイサンは目元を和らげると、後ろを向くよう言った。
 旬果は髪を持ち上げた。チェーンがデコルテと首筋をくすぐっていく。
 留め具がはまり、背に流れる――それを追うように、ネイサンの指が触れた。
 振り返り、髪を下すと首元を飾るネックレスに触れる。よく見ると、トップの彫金細工は小さな花がモチーフになっていた。
「……ありがとう。すごくきれい」
「君の名刺の花を思い出したんだ。気に入ったなら何よりだよ」
 ネイサンの手が頬を撫でる。心地よさに目を閉じると、まぶたに唇の柔らかさが触れた。
 その夜もネイサンはオテル・パラディソに来て、二人でシングルベッドに入り込む。
 もうすぐイタリアを去る。
 ネイサンと再び会うことはあるのだろうか?
 そんな考えがよぎり、彼の背中に手を回して目を閉じる。
(そんな期待はいらない。不安もいらない。今がここにあることだけは真実なのだから)
 香木のような彼のにおいをいっぱいに吸う。
 目じりが濡れた。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第6話 ※微エロシーンあり。

 

 

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