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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第3話

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 ヒールの音が小気味よく響き渡るほど、静かな空間だった。
 かつてイタリア貴族が住んでいた別荘を、資産家が買い取り隠居したという2階建ての洋館である。
 2階の2部屋を開通させて「美術館」としたという。
 影が深く落ちる室内になっているが、それでも絵画や彫刻の妙は衰えない。むしろ星のように、暗いからこそ輝いて見えるものだった。
 壁いっぱいに飾られた大きな一枚絵。
 ダンテとベアトリーチェがたどり着いたパラディ―ソが描かれたものである。
 光に満ちた世界。なのに影が感じられる。
 喜びに満ちた作品になるはずなのに物悲しい。
 なぜなのだろうか。
 しかし、オークションで出品されたものと似ているようで違う。どちらも捨てがたいほど素晴らしいものだった。
 旬果はフランチェスカから連絡を受け、この洋館にやってきた。
 資産家の彼は日本人のアートバイヤーが来ている、と聞き、連絡したのだという。
「父は戦争に行ってね」
 第二次世界大戦だ。
 旬果は喉を掴まれるような感覚を味わいながら、彼を見る。
 老境にいたった彼は、遠い日を懐かしむように絵を見ていた。
「そこでどのような思いをしたのか。教科書や映画やらで何度となく語られることだ。今更それについては言うまい。だが、ずっと苦しんでいたことがあった。”友人を見捨ててしまった”と。それが日本人のことだと私らは知っていたよ。父は和柄の布切れをずっと大切にしていたからね。命令だったから仕方がない――誰もがそう言ったよ。だがそれで片づけられるようなものでもなかったのだろう」
 皺のある指は絵を指す。
「異教徒はパラディ―ソへ行けない。そう説かれているのは知っていた。だから父はここに、ほら」
 指が示すところには、鳥居に似たものが描かれている。旬果は目を見開いた。
「せめて彼らが祖国に帰れるよう、と祈ったんだよ」
「……そんな心配りを?」
「ああ。だが罪滅ぼしにもならなかったのかもしれないな。今回、日本人のアートバイヤーが来ていると聞いて、これをぜひ見せたかったんだ。父の描いたこの絵を、発表するなら日本が良いと思って」
 旬果は一歩下がり、全体を見渡した。
 荘厳だが寂しく、幸福なはずなのに物悲しい。だが全てを包み込むようなものに満ちていた。
 憐みといったところだろうか?いや、違う。これは……
「……”天国への道は地獄からはじまる”父は生還し、仕事で財をなすと全てを捨ててここにこもった。私たちは彼がおかしくなったのではないかと思ったが、これを描きたかったのだと知り納得したよ。彼は、罪悪感という地上の地獄から抜け出ようとしたんだ」
「……私は当事者ではありません。だから、当時のことを責めることは決して出来ません。それに、イタリアが悪かった? それは違うと思います」
「そうかい?」
「……あの時代のことは、誰もが被害者だったのではないですか?」
「そして誰もが加害者だった、その意志があるなしにかかわらず。父はそう言っていた。お嬢さん、日本はイタリアを悪く思わないのかい? アメリカは?」
「それは……私は平和な時代に生まれました。今現在お付き合いのある人達を、国に関わらず尊敬しています。祖父母は戦時中の人ですが、イタリアやアメリカを責めることを言っている姿を見たことはありません。もう亡くなったので、真意はわからないけど……でもお父様が罪の意識のために苦しんだなら、決して喜ばないと思います」
「うん。罪だ罰だと相手を責めて、基本的なものを台無しにしては意味がない。それによく言うね、相手をなじる者は、その実本人がなじられることをしているものだと。キリストも言ったじゃないか、『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい』と」
「はい。それに、きっと祖父がこの絵を見たら、喜んだとか、嬉しがったとか、そんな言葉では表せないものを感じたでしょう。鳥居が描かれているなんて、それは、つまり……」
「愛だね」
 はっきりと言葉に出して言われると、日本人の感覚では照れてしまう。
「……そう、そうです。愛を感じます。それで充分だったはず」
「その通りだ、愛は全てを包み、罪の意識や苦しみから解放してくれる。そこには何の不足もありはしないんだ。名声も何もかも関係ない。愛があればそこは地上のパラディ―ソだからね」
 さすがにイタリア男性である。すらすらとロマンティックな言葉が紡がれ、旬果はあいまいに頬を緩ませた。
 そう、愛に満ちた絵だ。
 宗教も国境も全て関係なく、一切合切を愛という光で包もうとした作品だ。
「とても美しいわ」
「そう。”美は魂を覚醒させ、行動を起こさせる”お嬢さん、我々男が女性には決して敵わないのはそういうことだよ。ワインをいかがかな? 君とフランチェスカという美に魂を起こされた気分だよ」
「え?」

 絵の代金は必要ない、と彼は言った。父に怒られてしまうだろうと豪快に笑ってそう言ったのだ。
 思いがけない出会いに”大”満足である。
 フランチェスカは次の仕事だ、近いバス停まで送ってもらうと彼女を見送った。
 それから20分経ったころだろうか。
 車の通りも少ない道路に、エンジンを吹かす音が響く。
 旬果が辺りを見るが、それらしい影はない。
 別の通りだろうか、と道路をのぞこうとしたその時、植え込みからエンジンの音とともに影が飛び出してきた。

「!」
 ハッと息を飲んだ一瞬。
 かつての事故を思い出し、左足ががくんと力を失い膝をつく。
 このままだと下敷きだ――その時、体を抱えられ歩道に倒れ込む。
「チッ」
 舌打ちの後、バイクがそのまま爆音を立てて走り去っていった。
 旬果は自分を抱くものにしがみつき、ぎゅっと目を閉じる。
 息が苦しい。
「旬果、旬果?」
 名前を呼ばれているが、それにもすら気が付かなかった。

 

 ようやく息をしていることを思い出し、顔をあげる。
 どれほどそうしていたのか分からないが、ネイサンは旬果の肩をしっかり抱いて見つめていた。
 アンバーの目は徐々に小さかった瞳孔を広げていく。
「良かった、間に合って」
「……な、何があったの?」
「スリだ。ケガは?」
「してない、と思う……」
 だが足に力が入らない。指先は色をなくすほどに彼の服を掴んで、力を抜こうとするとぶるぶる震えた。
「とにかく、移動しよう」
 運転席のドアは開けっ放しで、歩道の縁石に車体がぶつかってへこんでいた。
 ネイサンは彼女をそのまま横抱きにし、車に乗せた。
「ネイサン……」
「ん?」
「あの、何が……あったの?」
「スリだよ。珍しい女性客を狙ったんだろう。君こそどうした?本当にケガはないのか?」
「……ええ」
「病院へ」
「良いの、大丈夫」
「その左足は?くじいたか?」
 旬果はずっと左足を撫ででいた。
 いや、くじいたわけではない。
「その……」
「……どこか落ち着くところへ?」
「……うん」
 旬果はオテル・パラディソの前に広がるスピアッジャ・デル・ビアンキーニに連れてきてもらった。
 ここは大丈夫だ、安全だ……そう信じられた。

 さらさらとした砂は靴なしでも本当に痛くない。
 やや風が強く、ネイサンはそれを気にしてか風上に座った。
「……私、事故に遭ったの」
「事故?」
「そう。21歳の時……それで左足を骨折して……バレエをやめたの。その時もバイクだった」
「……事故なんかでやめるのは辛いだろう」
「どうかな……その時……頭もぐちゃぐちゃだったの。どこかでほっとしてる自分もいて……」
 もうステージに上がらなくて良い。
 解放された気分とともに押し寄せる虚無感。あれはなんだったのだろうか。
「……とにかく、それで転職を。まともにビジネスの勉強もしてこなかったのに、拾ってもらえてラッキーだった。雑用兼通訳って感じだったのかもしれないけど」
 ふう、と息を吐きだすが、胸に重いものが溜まっている。
 ネイサンに話してどうなるのだろうか。だが彼に知ってもらいたい気もする。
 ちらりと見れば、彼はまっすぐに見つめていた。
 アンバーの目は夕陽と似ている。溶けて行ってしまいそうな、どこか儚いその光。
「ネイサン……あの……」
「前にも言ったが、人とのつながりは運じゃない。引き合うものだ、違うか?」
「えっと……わからないわ……」
「俺を信じる?」
「えっ? ええ、うん」
「じゃあ君自身を信じる?」
「え……」
 その一言に、胸倉をつかまれたようになった。
「……君、誰か部下を持つ時、雑用なんて呼び方をするか? 俺からは君はそういう人には見えない」
「あ、それは……そうね。そう呼ばないのが理想だわ」
「だったら君が自分をそう言うのは、君の上司を侮辱しているのと似ていないか?」
「……」
「彼女を尊敬しているなら、もっと自分を信じてやらないと、意味がない」
 ネイサンの声はすとん、と鳩尾に落ちる。いっそすがすがしいくらいだ。
「挫折は……乗り越えるのは簡単じゃないが、それのために今を閉ざすのはもったいない。『天は永遠なる栄光を示しながらあなたの頭上を回っている。それでもあなたは下を向いているのだ』ダンテは詳しくないが、これは良い言葉だ。旬果、君は美しい。君の目が好きだ。そこに嘘は宿らない」
「……」
 頬に熱がのぼっていく。視界はどうしてかぼやけてきた。
(これはなんなのだろう?)
 夢なら今は覚めないで欲しい。
「過去の君は知らないが、今こうして会えて良かったと俺は思ってる。過去があってこそ、今の君がいるんだから」
 そういって、ネイサンは旬果の鎖骨あたりをついた。

 夜になると、クチナシの香りが強くなる。
 お風呂に入りながら、ふわふわした気分を旬果は味わっていた。
 このままでは酔っ払いのようになりそうだ。
 わかっている、あれは愛の告白ではなく、人としての交流だと。
 だが人としてでも好意があると伝えられたことは、素直に嬉しい。
 もう一度顔まで湯につかり、髪がたゆたうのを見ると顔を出す。
「どうしよう! 今日は眠れない!」
 浮かれたままの旬果は、気づかないでいた。
 なぜネイサンはあそこにいたのか、なんて。

 翌日からネイサンは旬果の送迎を買って出た。
 例のバイク運転手――スリはすぐに逮捕されたようで、心配はいらないと言ったがネイサンは頷かなかった。
 正直に言えば、心強い。
 スリが日常的に起きる世界も確かにあるのだ。
 何より嬉しかった。
「恋してる?」
 泉に訊かれたが、はっきりとは言えなかった。
 何か大きな壁がある。
 そんな感じだった。
 ネイサンの車はすでに直っていた。
 昨日の今日だが、どうしたのだろうか。
「まあ、コネがあるんだ。仕事でも使うなら早めにって、彼らの好意でね。多少のことで動じるような顧客じゃないが」
「そう?」
「むしろ話のネタになるだろうけど。彼らは面白がって話を聞くだろうし……だが昨日のことはネタには出来ないからね。奴は逮捕されたけど、君はどうだ? ちょっとは落ち着いたか?」
「大丈夫。ありがとう」
「なら良いが、無理はするなよ。そうだ、強盗も注意が必要だ。オテル・パラディソはセキュリティもしっかりしているが、慎重にな。美術品はどうしてる?」
「もうすぐ日本へ送る予定よ。送る前に作品をチェックしたかったから、まだ部屋にあるけど……」
「なるべく早く送るんだ」
 念を押すようにネイサンは言った。
「うん」
「滞在期間は……」
「5月いっぱい」
「なら、あと2週間ちょっとか……」
 2週間。
 それが終われば、ネイサンともお別れ?
 旬果は少しだけ力が抜けるのを感じた。
「行こうか」
 声をかけられ、笑顔を作った。
「うん」
 アーティストと話をし、名刺を交換する。
 アーティストの中には話すのが苦手な者が多い。吃音のように話し、顔を真っ赤にしながら説明をする者や、つっけんどんな態度を取ってしまう者もいた。
 皆慣れていないだけで、悪気はない。
 だが作品は彼らの心をよく語っている。
 繊細すぎるほど繊細なガラス細工、色とりどりの絵、悪魔ですらも可愛く仕上げてしまう焼き物。
 どれも魅力的だ。
 綾香もズームで参加し、いくつかを展示することに決める。
 残念ながら選ばれなかった者にも、「次の作品で」と綾香は見事なスマイルを彼らに捧げた。
 ――彼女を尊敬しているなら、もっと自分を信じてやらないと、意味がない。
 ネイサンの言葉を思い出し、旬果も胸をはって彼らと向き合った。
 一緒だ、バレエのために鍛えたあの頃の自分と、彼らは。
 賞を逃しても、次がある。次がある……次って、何?
 審査員の目は厳しい。評価されると嬉しく、されないと落ち込む。
 だが大事なのは、そこだったのだろうか?

 夕方になると、ネイサンが迎えに来る。
 マセラティは知らないが、彼によく似合っている。ネイサンは車から降りた。
 ハリのあるスーツ。見慣れない雰囲気だ。彼が他人に見えた。
 彼はネクタイを締めていたが、それを外すと後部座席に入れ、助手席に旬果を座らせる。
 ネイサンの車に乗ると、深い落ち着きが感じられた。
 彼の存在が、何か大きなものに守られているような気持ちにさせる。彼の声は静かに響き、気分がなだめられていく。
 服装がどうであれ、彼は彼なのだ。そのことに今更安堵する。
「どうだった?」
「大原さん……上司ね。彼女がなぜ素晴らしいか、分かった気がする。彼女は人の可能性を信じてるのね。ダメ出しもするけど、それは相手を貶めたくてするんじゃなくて、改善点を言ってるだけだった。だから皆安心して次を目指せるの」
「ああ。それは良いな。良いヴィジョンを見せなさい、とは、よく言われることだ」
「ヴィジョン?」
「理想の将来像……目標だな。それを部下に見せること。それで一気に成績が伸びる」
「……そうなの?」
「君もそうだろ?練習中はなんて言われた?」
「本番を意識しなさい、と」
「そういうことだ」
「でも……上手く言葉に出来ないわ、今のは忘れて」
「人を感動させられるように、と?」
「……」
 旬果は言葉を飲み、ネイサンを見た。
「違ったか?」
「……ううん」
「俺もかつて上官に教えられたよ。何のために働くのか。……」
 ネイサンは言葉を切り、前を見つめた。旬果は続きを待ったが、ネイサンは口を閉ざすと首の後ろをかく。
 ようやく紡がれたが、遠い誰かに向かって話しているような口調だった。
「彼は……自分の起源を知れ、と。答えは常に自分の中にある、と。顧客も一緒だ。彼らの目指す理想が、そのまま答えのはずだ」
「……?」
「いや、すまない。そういえば、顧客から招待状をもらったよ」
「招待状?なんの?」
「ホテルで行うパーティーだ。異業種の知り合いを呼んでの交流会。たまにやるんだ。それに呼ばれてる」
「それってすごいパーティーになりそう。別世界でしょうね」
「君も来るか?」
「え?」
 旬果は目をぱちくりさせた。全くの他人だ、招待などされていない。
「同伴者がいるのが普通だよ。大体は既婚者だから。俺は……いないから」
「どうしていないの?」
「俺がやっかいな奴でね。ほら、君はまたはぐらかした」
「はぐらかしてない」
 旬果は上目遣いににらみ、口を尖らせた。
「じゃあ返事を。「イエス」?それとも、「はい」?」
「……ホテルでのパーティーに着ていけるようなドレスは持ってないの」
「借りればいい」
「パンプスも」
「ああ」
「……下着も」
「ふふっ」
 ネイサンが珍しく笑う。
「下着で反応するなんて、やらしい」
「君が言ったんだろ。良いよ、下着も用意しよう」
「嘘っ!」
「何が」
「ほ、本気で言ってるの?」
「嘘をつく必要が?持ってないなら用意しないと」
「でも……」
「君の時間をもらうんだから、その礼だ。必需品ばかりで悪いとは思うが。さあ返事を」
 旬果は下唇を噛んだ。
 何やら気恥ずかしい。
 ネイサンのサングラス越しの目がこちらを向く。表情をのぞき込むような上目遣い。
 昨日触れられた鎖骨のあたりが、どくどくする。
「わかってるくせに……」
「さあ。俺は鈍感だから。言ってもらわないと、読み違えて大変だ」
「……行きます」
 返事すると、ネイサンは満足気に息を吐いた。
「ありがとう」
 そう言われた瞬間、胸がじわりと温かくなった。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第4話 ※官能シーンあり。

 

 

 

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