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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第2話

2024-06-01

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 翌日からはアーティストと会う事になっていた。
 まだ挨拶の段階ではあるが、新人、ベテラン、有名著名問わず、古い美術館で。日本からあらかじめ予約を入れており、綾香の顧客には大手の美術館もある。そのためアーティストたちは進んで旬果と会いたがった。
 中には抱き合わせ的に売り込んでくる者もまざっている。
「成果報酬で構わないから」
「名刺だけでも」
「画像を送るから、見て欲しい」
 目の回る思いだ。
 それらが終わるころには、まだ日があるとはいえ、ぐったりとしてくる。
 フランチェスカは「抱き合わせがあるとは思ってなくて」と謝った。
「何年後かには良いアーティストになっているかも……って大原さんなら言いそうだわ。私にはまだそこまでの目がなくて」
 断るべきかどうかの判断すらできない。
「ロレンツォはどう言ってた?」
「日本の展覧会で流してもらえるのは嬉しいって。ローザンヌコンクールにも日本人は成績優秀者がいるから、そのうち日本にスカウトに行くかもって言ってたネ」
「彼は情熱家だわ」
「うーん。始めて会ったけど、可愛い人」
「そうなの?」
「そうよ。バイセクシャルらしくて、アタシも一応視野には入ってる」
 フランチェスカは視線を上げ、何かに気づいたらしく旬果に1時の方向を見ないように言った。
「何?」
「クラネ・ジェーロの奴だ。目を合わせないように」
 ホテルの支配人が話していたマフィアだ。
 花柄のシャツ、胸元までボタンが開いて、胸毛がちらちら見えていた。
 旬果はすぐに顔を引っ込め、知らないふりをする。
「どうしてわかるの?」
「店からみかじめ料を巻き上げてたから」
「えっ」
「この街じゃ、クラネ・ジェーロの支配を受けてない店の方が少ないのヨ。オテル・パラディソは別だけど、ホテルのほとんどは息がかかってる。カジノに客が流れればお互いに稼げるから。オテル・パラディソは立地が悪いでしょ? だからクラネ・ジェーロも手を出さないけど」
 途端、マフィアという存在感が近くに感じられた。
 旬果には慣れない世界である。
 フランチェスカが警告する通り、街の中には至る所にマフィアの影が見え隠れしているようだ。
 彼女がさりげなく指さす隣のカフェでは、白いシャツにグレーのジャケットを着た男たちが、店のオーナーと談笑しているのが見えた。最初はただの常連客に見えたが、フランチェスカが耳打ちしてくる。
「あれもクラネ・ジェーロの奴ら。みかじめ料を取りに来ているんだわ。見ないようにして」
 こっそりと目を凝らすと、オーナーの笑顔が不自然で、視線は終始テーブルの上に固定されていた。
 マフィアの男たちが冗談を言っては笑い声を上げるが、その笑いにはどこか冷たさが混じっている。
 オーナーは一緒に笑おうとするが、笑顔はぎこちない。
 フランチェスカは続ける。
「クラネ・ジェーロの連中は、この街のほとんどの店に絡んでるのヨ。断ろうものなら、次の日には店が壊されるか、オーナーがどこかに消えるって話もある。なのに新聞じゃ取り上げてないの」
 旬果は背筋に冷たいものを感じた。マフィアの影響力がこれほどまでに強いとは、想像以上だ。
「この街では、クラネ・ジェーロに逆らうのは得策じゃないの。下手に出歩かない方が良いよ、シュンカ」
「……頭の平和なツーリスト、なんて格好の餌食よね」
「連中も大きな事件を起こせばさすがに警察が黙ってないの知ってるから、目立たなきゃダイジョーブ。カポ(首領)のアウグストは薬物はやらないから、変な連中もいないしね。でも、万が一には大使館への連絡を真っ先に考えておくのよ」
「ありがとう」
 フランチェスカは世話焼きだ。旬果は心から感謝し、その日は別れた。
 アパートメントホテルのため、食事はルームサービスもあるが各自で作ることも出来る。
 部屋には小さいがキッチンも備え付けられており、一人暮らしに丁度良い広さでもあった。
 立地が悪い、と言えばそうだ。
 地下鉄までは遠く、近いバス停に来るバスは一時間に2本。
 市場と近いのが良いインフラかもしれないが、観光やカジノ通いには向いていない。
 だが、見晴らしは最高に良かった。
「スピアッジャ・デル・ビアンキーニ」と名付けられた砂浜は、素足で踏んでも痛くないさらさらした小粒の白い砂で、穏やかな波が打ち寄せる海とのコントラストが美しい。
 特に夜になれば、月と星が岩の額縁の中にきらめいて動く絵画のようである。
 一階であればベランダからすぐに砂浜に出られ、まるでプライベート・ビーチを手に入れた気分になれるだろう。
 エレベーターがないこともあるだろうが、だからこそ一階が割高だったのかもしれない。
 帰りに市場に寄り、必要な材料を買う。確か調味料は借りられたはずだ。
 昨日ネイサンに案内された店は素晴らしい家庭料理の店だった。
 彼を思い出すと足が軽くなった感じがする。不思議だ。
 オテル・パラディソに戻ると、支配人が声をかけてきた。
「お帰り、お嬢さん。荷物が届いているよ」
 支配人が指さすのは、窓一枚分の大きさのもの。新聞に包まれ中身は見えないが、すぐに分かった。
 ベアトリーチェの絵だ。
「ああ、買ったものです。ありがとう」
「ずいぶん大きな買い物だね」
「仕事の一環なんです。これは絵画」
「なるほど。そうか、アートバイヤーなんだったね」
「はい」
 部屋の前まで支配人は運んでくれた。
 会場で見るより、部屋の中で見るとやはり大きい。
 新聞を開けると柔らかい布、その中に梱包材、そして絵画がある。
 部屋の電気を全てつけると、金箔は強く輝いた。
 間接照明だけにすると、アンバーの照明で金は黄金色に輝く。
 両方のパターンを撮って綾香に送った。
 絵画を細かく確認しようと、角度をつけたり、横から見たりとする。
 そういえば画家のサインがない。
 どこにあるのか、と裏返せば、走り書きのようなものを見つけた。
(こういうサインもあるのかしら)
 と思ったが、人の名前というより、ナンバーらしいものである。ローマ字と数字。その一見何の言葉にもならないような羅列。
(……変わった号ね)
 X、q、G、U、jj、812……合わせて14の文字だ。
 かなり慌てて書かれたものだろうが、しかし大文字と小文字が混ざっており凝ったナンバーになっている。
 パソコンなどのパスワードみたいだ。
 それに、油絵のはずだが、サインはボールペンで手書きしたような感じである。
「……?」
 旬果は首を傾げた。

 イタリアに着いて初めての休日がやってきた。
 は良いが、フランチェスカの警告がつい気になってしまう。
 浮かれた気分で観光客が歩けば、知らず知らずクラネ・ジェーロの傘下の店に入ってしまうかもしれない。
 だがせっかくだから出かけたい気分だ。というのも、この曜日ルームサービスも休みなのだ。
「うーん……」
 室内をぐるぐる歩き、ベランダに出ると太陽光を浴びてきらきら輝く水面を見つめる。
 海を見ながら音楽をかけ、ゆっくりサンドイッチでも?
 それも良いかもしれない。
 市場は大丈夫だろう、支配人もホテル周辺は大丈夫だと言っていた。
 さて、とクローゼットからジーンズを引っ張り出した時スマホが鳴る。
 番号を見ると鼓動が少し早くなった。
 ネイサンのものだ。
「おはよう。邪魔してないか?」
「いいえ。ちょっと暇してたから、大丈夫です」
「暇だった?なら出かける?」
「えっ、あっ、えーっと」
 ハンガーからジーンズが落ちた。
 目の前には白のワンピース。金のボタンが前を飾る、シンプルなものだった。
「……あの、ここってマフィアがいるんですよね」
「ああ」
「……どこを歩くなら安全かなって」
「そうだな、カジノ・バーはダメだな。有名だから知ってるかもしれないが」
「支配人さんから聞きました」
「それは良いホテルだ。良い所を選んだ」
「フランチェスカが教えてくれたの。あ、劇場で一緒だった彼女」
「あの元気な女性か。しっかりしたコーディネイターなんだな。ああ、またはぐらかされた。君のクセが出てる」
「え?」
「気まずくなると誰かを話題にあげるんだ」
「あっ、でもこれは、違う違う。ただの話の流れ」
「じゃあ流れを戻そう。君を安全な場所へ案内する。行くか、行かないか。それだけ決めてくれ」
 旬果は思わず唇を尖らせ、3秒黙ると「行きます」と小声で答えた。
 だが、どうしよう。
 旬果は固まってしまった。
 ジーンズ、ワンピース。
 いや、ジーンズはありえないだろう。なぜ候補にあげているのだろうか。
 ワンピースはお気に入りのものを持ってきたのだ。高かったわけではないが、デザインは古典映画に出てくるヒロインがヒーローとのデートで着そうなものである。ロングで、フレアのライン。金のボタンにいたる襟はVネック。シンプルながら、華やかなのだ。
 これを着るとなったらヒールである。まさにデートのようじゃないか。
 部屋に咲き誇るクチナシがコサージュになったら確実に似合うだろう。
「なんで迷っているのかしら……」
 ベッドの上にはジーンズと数枚のシャツが散乱しており、慌てて出したヒールのあるサンダルも箱ごと出されている。
 早くしないと、ネイサンを待たせることになる。
 旬果はとにかく化粧をすませた。いつもより入念に、気に入りのアイシャドウを使って。
 それからイヤリングも。
 おかしなところはないかチェックし、クローゼットを開く。
 白のワンピースを着るには勇気がいる。
 旬果は無難に、シフォンのライトグリーンのスカートを手にした。

 バス停前で待っていると、ネイサンの車が現れる。
 上質な黒のシャツを着ており、ボタンを外しているため中の白いTシャツが見えている。
「田舎だから気に入るかわからないが」と彼は言った。
 黒光りする車体で、車に詳しくない旬果だが、少なくともよく磨かれているというのは分かった。
 車内も清潔感があり、芳香剤のにおいはない。
 海沿いを走って、北上していく。段々田舎になってきた。
 やがて海を見下ろすほど山を登り、徐々に様子が変わってくる。
 今までとは違う樹種が、等間隔に植えられている。そのどれもが白い花を咲かせているのだ。
「これは?」
「レモンだよ。今は花が見ごろだ」
 窓を開けると、風にのって爽やかな甘い香りが流れて来た。
「良い香り。これレモンの花の?」
「ああ。レモン果樹園がある。一般客も楽しめるようになってるんだ。ここにはマフィアも手を出せない」
 駐車場にはそこそこの車があった。知る人ぞ知る場所らしい。
 木製の看板で案内されるまま入り、果樹園とレストランの割引が一緒になったチケットを買った。
「ああ、すごーい!」
 きらめく水面の海を見下ろす斜面一杯に、白い花を誇らし気に咲かせたレモンの樹が植わっていた。
 息をすると、さっきよりも濃い香りが鼻腔をくすぐる。
 ほんのり甘く、青々しい柑橘の香り。香水や街では味わえない、自然そのままのものだ。このまま瓶につめて持って帰れたらいいだろうに。
「こんな花が咲くのね、知らなかった」
 花びらは細長いが、やや肉厚ではっきりと白く、雄蕊がしっかり伸びている。
 果樹として手入れされているため人の目線、その前後ほどの高さだ。旬果ももちろんだが、子供も楽しめるだろう。
 事実小さな子供連れがいた。
「気に入った?」
 振り返ると、ネイサンは首の後ろを擦った。
「うん。ありがとう、一人だったら見つけられてないもの。あっ、あっちは何?」
 旬果はレストラン近くを指さす。
「ハーブ園だ」
「見に行っても良い?」
「ああ」
 さくさく、と旬果は傾斜を登り、ネイサンを振り返る。
「どうやってここを見つけたの?」
「ドライブが趣味でね。適当に走っていたら見つけたんだ」
「じゃあ他にも穴場を知ってるの?」
「ああ。マフィアも知らない場所を」
 ローズマリーやバジルが香る。
 料理に使うものを多く栽培しているようだ。料理もこだわりに違いない。
「どうしてイタリアに?」
「仕事だよ。英語が話せるから、という理由で、海外赴任が多かった」
「違うところへも行ってたの?」
「それほど多くない。アメリカやイギリスは……短期だが何度か行ったけど。イタリアへはもう3年になる」
「3年も?ご家族は心配するでしょう?」
「さあ。元々離れて長いから」
 ネイサンはあまりに淡々と話した。
「……」
「レストランへ行こう。ここはジェラートが美味いから、メインは軽めに」
 バンガロー風の建物には、ピッツァ用の焼き窯が堂々と見えるように設置されている。
 キッチンが見えるようになっており、覗くとモッツァレラチーズを作っている最中だった。
 窓際の席に座り、レモンがけのスパゲッティを頼むとハニーソーダを飲む。
「君は?イタリア語がかなり堪能だけど、なぜ?」
「私は……」
 左足に痛みが走る。これは幻なのだ。実際にはもう痛まない。
「……昔にバレエを」
 ネイサンが見つめて来た。
「イタリアのバレエ団にスカウトされて、3年ほど所属していたから……もうやめてしまったけど」
 やめた理由を聞いてくるか、と旬果は身構えたが、ネイサンは目元を和らげるとただ一言
「……そうか」
 と言った。

 やはりネイサンは昼食代を受け取らなかった。
「厚かましい女だと思わない?」
 と訊いてみれば、
「私が誘ったのに、なぜ?」
 と訊き返された。
 これ以上近寄るには壁がある気がするのに、彼はこういう部分ではかなりおおらかだ。
 彼の恋人になったら女性は幸せだろう。
 そういえば、ジェラートは確かに美味だった。それと、今やスペイン広場での飲食は禁止である。
 泉に報告しておこう、と旬果は一人決めた。
「そういえば街から見える古城は、観光地なの?」
 運転中、ネイサンはサングラスをかけていた。海が夕陽を反射させているためだ。
「いいや。あそこは最も近づいてはならない場所だよ」
「え、どうして?」
 城というには物語で連想するようなロマンティックなものではなく、要塞の雰囲気は強いが、歴史も感じさせるものだった。
 てっきり観光地かと思っていたのだ。
「あの古城……ロッカ・ディ・ルチェは、クラネ・ジェーロのアジトなんじゃないかという噂があるんだ」
「クラネ・ジェーロ……」
「火のない所に煙は立たぬ、というだろ?観光地には……出来ないんだろう」
「それだけ大きなマフィアなのに、警察は動かないの?」
「動かないというより……動けないのかもしれないな。彼らの”ビジネス”はあまりに多岐にわたって、街の生活に深く根付いているから」
「ふうーん……なんだか難しい話みたい……」
「目立たなければ大丈夫だよ。とはいえ、仕事上難しいかもしれないが、違う街に移ることも考えた方が良さそうだ」
「どうして?」
「この頃きな臭いんだ」
「じゃあ、あなたも……」
「俺は良い。まだやることがある」
 ネイサンははっきりとした声でそう言った。
 だからこれ以上入ってくるな、という風に聞こえたのは気のせいなのか?
 旬果は俯いた。

 太陽が半分海に沈むころ、街の大通りにつく。夕食の買い出しをするつもりだ。
 影が伸び、夜に吸い込まれそうな気配が漂う危うい時間帯だ。
 市場に並ぶ野菜を見ていた時、数人の男が走ってくる。
 旬果が振り返るより早く、ネイサンが旬果の手をとり男たちから庇うようにして壁際に引き寄せた。
「見ないように」
 そう落とした声はささやくように言い、武骨な手が眼前を覆う。
 耳には誰かが誰かを殴るような、嫌な音と、うめき声。
 ずるずると引きずっていく音が徐々に遠ざかり、パトカーのサイレンが聞こえてくる。
 ネイサンの体温は感じるが、自分の体は凍り付いたように冷えている。
 こんな状況に巻き込まれたことなどないのだ。
「……クラネ・ジェーロに裏切者が出たんだ。それでどいつもこいつもピリピリしてる」
 手がどかされ、旬果は顔をあげた。間近にネイサンの顔があり、そのアンバーの目は険しいほどの眼光で彼らが去った方を見ていた。
 光が視界に入ると、彼の腕には傷跡が多いことに気が付く。
「ネイサン……これは? ケガしてる……」
「……ああ、これか。若いころについたヤツだ」
「そうなの……?」
 思わず撫でると、ネイサンは火にでも触れたように腕を引く。
「あ、ごめんなさい……」
「いや、驚いただけだ……」
 沈黙が降りて、旬果は視線も落とした。ネイサンはサングラスを外すと旬果の肩に軽く触れる。
「そろそろ送る」

「げっ、マフィアぁ?ほんとにいるんだ」
 泉は眉間にしわを寄せた。
「街を移ったら? 危ないんじゃない?」
「それも考えた方が良いかも……でもここら辺は大丈夫って聞いてるし、どうしようかな……」
「目立たないうちに移動しなよ。それにしても、2回もデートしたの?やるじゃん」
「デート……なのかな」
「男女が二人で会うのにデートじゃないってありえる?」
「男女の友達だっているでしょ」
「へえ。じゃあお友達なの?」
「……」
 友達ではないだろう。なら知り合い?にしては距離は近い。
「……どう思う?」
「あたしに訊くのかよ!もう、しっかりしなさい、旬果。誘われてのこのこついてってるんだから、そろそろ覚悟しないとダメだからね」
「覚悟?」
「もーう、うぶすぎ!」
「違っ、分かってるってば。でも彼からはそういう……なんか、感じないけど」
「下心ってやつ?」
「そう、それ」
「それショックじゃない?」
 泉に指摘され、旬果はうなだれた。
 確かにそうだ。女性として魅力的だと思われてるのではなく、単に話相手として面白がられてるだけなのかもしれない。
 だから時々、妙に分厚い壁を感じるのか。そう思えば辻褄が合う。
「……彼は私に好意があるのかなあ」
 そんなことをつぶやけば、泉はあっけらかんと答える。
「そりゃそうでしょ。一流の人って時間をすっごい大事にするんでしょ。どうでもいい人と時間をつぶすわけないじゃん」
 そう言われると、視界がクリアになったようだ。旬果がぱっと顔をあげると、泉はにやりとした。
「ははーん」
「だって私一人浮かれてたら恥ずかしいじゃない」
「そりゃそうだ。でも相手の気持ちなんかわからないから、いっそどうでもいいじゃん。旬果が楽しければ」
「迷惑かも……さっきも……」
「その時はその時。退けばいいだけでしょ。気にしてたら何にもつかめないんだから。ところで車種何?」
「わからないわ、イタリアの車でしょうし。ポセイドンの槍みたいなマークがついてたと思うけど」
「それMacelteじゃん。コンサルでMacelte。成功者だね」
「なるほど……見習う点が多いわけね」
「時計はしてた?」
 してたはずだ。文字盤の大きな、男性好みのもの。だがそれよりも傷痕が気になっている。
 あの傷痕は何だったのだろう?
「うーん……してたけど覚えてない」
「そう。まあ、いいんじゃない。一緒にいて得られるものも多いんでしょ?アバンチュールでもアリだよ」
「アバンチュール!」
 旬果の声は部屋に響いた。
 口を押えて泉を見ると、泉も耳に響いたらしくすっぱい顔をしていた。
「……ごめん、泉ちゃん」
「ふっ、はははっ……。そんな驚く?」
「驚くわよ!あっ、アバンチュールなんて。考えたこともなかった」
「そうなの?人生は短く、女でいる期間も短い。楽しまなきゃ損だよ」
「アバンチュール……」
「どれだけ生きて、一生寄り添えるかどうかも分からないんだから、そんな期待しないで今を楽しんでよ」
 旬果はバイクを思い出した。そう、いつどうなるかなんて誰にも分からないのだ。事実自分たちより若くして、という人も多い。長生きの保証などどこにもない。
「はあ……そうよね」
「そうよ~。ま、火傷はしないようにね」
「気を付けておく……色々」
 パソコンを切り、お風呂に入る。
 つま先をバスタブから出し、ひっこめる……を意味なく繰り返した。
「好き?嫌い?」
 彼は私を好き?
 私は彼を好き?
 わからない。だけど一緒にいて、居心地が良い。わからないということすら楽しかった。
 まるで羽にくるまれているみたいだった。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第3話

 

 

  • この記事を書いた人

深月カメリア

ライター:深月カメリア 女性特有の病気をきっかけに、性を大切にすることに目覚めたXジェンダー。以来、性に関して大切な精神的、肉体的なアプローチを食事、運動、メンタルケアを通じて発信しています。 Writer:Camellia Mizuki I am an X-gender woman who was awakened to the importance of sexuality by a woman's specific illness. Since then, I've been sharing an essential mind-body approach to sexuality through diet, exercise, and mental health care.”

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