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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第1話

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 旬果がイタリアへ来たのは、上司であるアートディレクター・大原綾香の指示だった。
「顧客がダンテ神曲展を開くのですって。そのためにいくつか美術品を買いそろえたいの。あなたイタリアへ行ってくれる?」
 という有無を言わせぬ一言から始まったのだ。
「私一人ですか?」
 綾香のサポーターとして外国へ飛んだことは何度かある。
 だがあくまでもサポーターとしてで、ホテルの予約や通訳といった雑務が主。まさか一人で美術品を選び、買うなど。
「あなたが良いと思った作品はどれもお客様から好評なのよ。さすがにバレエをやっていただけあって、美的感覚があるわよね。それに通すぎると一般のお客様との意見に乖離が出るのよ、適度に無知な方が、いっそ良い時もあるわ。それにあなたならイタリア語が話せるでしょ? 通訳なしで行けるわよね」
「ですが、ダンテ神曲は私知らなさすぎです」
「そんなに難しい話じゃないのよ、地獄めぐりってとこね。落語にもあるでしょ?」
「……ああ、ありますね」
 地獄めぐり、と言われると理解は早い。
 嘘をつけば舌を抜かれたり、燃える柱に抱き着くよう言われたり……罰はいずれも凄惨である。しかし落語で言えば亡者たちは罪を犯していないならかなり自由に往生し、全員が名役者の「忠臣蔵」を演じているというシーンもある。
「落語や仏教と違うのは、主人公であるダンテは初恋の女性によって救われるというちょっとロマンティックなエンディングが用意されているところよ。これをおしだせば、女性客やデート先として恋人たちの来場者が見込めるかもしれないわ」
「では、あまりに地獄過ぎるものではなく……」
「救いのある美しいものを選んできてちょうだい」
 よろしく、と綾香は40歳を超えた円熟味ある女性として、あまりに艶っぽい笑みを浮かべた。
 彼女自身が歩くアートである。黒のパンツスーツスタイルに、金のネックレス、ブレスレットをいくつもつけるがどれも嫌味がない。素足に黒のポインテッドトゥパンプス――しかもかなり細身のピンヒール!――を履きこなし、背筋もしゃんと伸びたその背中は細いが迫力があった。
 何より見た目のすごみからは想像もつかないほど、お茶目な人なのである。
 旬果は急に決まったイタリアへの出張に、急いで準備を整えた。
 確かにイタリアへは3年ほど暮らしていたことがある。
 バレエ団に在籍していたからだ。
 綾香は購入予定の作品をリモートで見せるように、とは言っていた。まさかとは思うが、通訳代を節約した……かもしれないが、そうだとしても旬果に否はない。
 アートバイヤーとして勤め始めてそれなりにキャリアを積んだ。
 絵は元々好きだったが、仕事を始めてから様々な美術品に触れ、興味が増してきたところだったのだ。
 それに、客の楽しそうな顔を見るのは思っていたよりもずっとやりがいがある。
 こうして5月初旬、旬果は再びイタリアの地へ降り立ったのであった。

 オークション会場があり、かつアーティストの卵も集まるという西部の古びた街「モンテ・ルチェ」が旬果の滞在先だった。
 ここは峻険な山に囲まれ、そこにはロマンチックというよりも武骨な要塞である「ロッカ・ディ・ルチェ」という古城があった。
 光の要塞というどこか虚しい希望を感じさせる古城は、時の流れに置いて行かれたような孤立感を持って眼下の街を見下ろしている。
 西日の差し込む街はいずれも白い壁で、陽を反射させ美しいが、夕陽はすぐに沈んでしまうもの。
 夜の気配が街を包めば、打ち寄せる波の音も相まってどこもかしこもノスタルジーを掻き立てる。
 ここはカジノやオークション目当てでコアなツーリストやアートバイヤー、芸術家がひそかに集まる街でもあった。
 中でもカジノ・バー「イル・サント・デッラ・フォルツァ」は大盛況。
 観光客も一人でこっそり訪れることがあるようだった。
 女性一人旅ということで、宿泊先は安全に選び抜かれた海にほど近い、アパートメントホテル「オテル・パラディソ」である。
 パラダイス、というとどこか浮かれた世界を連想するものだが、このオテル・パラディソは外観白い壁で、浮かれた様子というよりは静かに過ごすための別荘、という雰囲気があった。
 5月にやや早く咲いたらしい八重のクチナシの花が香り高く旬果を迎える。
 クチナシは好きな花である、旬果は自身の名刺にも銀で表したくらいだ。
 受付にいたのはロマンスグレーの老紳士で、オテル・パラディソの支配人である。

 彼は銀のスカーフを胸ポケットに入れたベストをぴしっと着こなし、旬果の予約を確認するとこう言った。
「イル・サント・デッラ・フォルツァは知ってるかい?カジノ・バーなんだけどね。あなたのようなビジネスウーマンや、無知な観光客が近づいてはいけないよ。あそこはクラネ・ジェーロが仕切ってる場所だからね……」
「クラネ・ジェーロ?」
 氷の集団、という意味だ。初めて聞く名前である。裏社会の者が、表に出て宣伝するわけはない。旬果が知らないのは当然だ。
「マフィアさ。カポ(首領)のアウグストはかつて氷を使って別のクランのカポを殺して成りあがったとか……それでいつしか彼の率いるクランはジェーロと呼ばれ始めたんだ。カジノと聞くと、世界中から色んな客が来るんだよ。だがああいった華々しい世界の裏は大抵怪しいものだよ」
「映画みたいですね」
「日本にも、ヤ・ク・ザ・というファミリアがあるんだろう? どこも似たようなものかのしれないね。では、部屋に案内するよ」
 支配人は旬果の荷物を手に取り、3階に向かった。
 一番奥の部屋だ。
 今の時期それほど客はいないようで、すれ違うことはない。観光シーズンにはそれなりに入るという。
 廊下は白い壁にマホガニーの腰壁。間隔に従い絵画や美術品が飾られており、このホテル自体も美術館のようだ。
 旬果の部屋が開かれる。
 アイボリーの壁にダークウッドの腰壁。廊下と似たものだったが、微妙にデザインも変わっている。
「別の部屋も違うんですか?」
「一応少しづつね。全体の空気は壊さないようにしているけど。気に入ったかな?」
「ええ。とても」
 支配人はベランダへのカギを開け、風を部屋に取り入れた。
 リネンのカーテンがふわっと舞い上がり、潮の香が入ってくる。
「納まりきらない貴重品は倉庫で預かることも出来る、たくさんお土産を買っても大丈夫だよ」
 願ってもない申し出だ。
 美術品は大きい上に、立体造形ならかさばって部屋が大変なことになるのは必至だ。
「ありがとうございます。多分、お世話になると思います」
「では、鍵をどうぞ」
 渡されたのはアンティークな鍵だった。ピンクのリボンがついている。
「一か月よろしくお願いします」
 部屋に一人になるや否や、旬果はベッドに横になった。
 ベッドフレームはマットなゴールド。シーツはクリーム色で女性好みのエレガントなものだ。合わせたように揃えられた一人がけソファも、白の革張り、金のフレーム。
 大き目の鍵付きロッカーも装備されており、防犯もばっちりのようだ。
 それに、良い香りがする。
 部屋を見渡すと、今は使わない暖炉の上を飾り棚にしており、そこに八重クチナシが活けられていたのだ。
 白の花びらはバラのように規則正しく巻いているが、バラより柔らかで、清々しい白色の強い印象がある。
 甘く香り高い花で、これが部屋に広がっていたのだ。
 時刻は9時。日本は16時だろう。旬果はさっそく綾香に到着の旨を伝えた。
「問題なくついたみたいね。良かったわ」
「オークションは明後日です」
「買うものは決めてる?」
「資料を見ていたのですが、いくつか気になるものがあります」
 旬果はメールに添付した画像ファイルを綾香に見てもらった。
 まずはダンテ自身の絵である。それからパラディ―ソの全体を描いた荘厳な絵。
「これらは人気でしょうね」
 綾香はそう言った。
「あと一つあって……」
「最後の?」
 ややあってから、綾香は「へえ」とつぶやいた。
「珍しい作品ね」
「はい。ベアトリーチェを描いたものですが、一見するとダンテ神曲と関係があるようには見えないので……どうかと思って」
 金箔を用いて、全体的に輝くように描かれた人物画。
 ベアトリーチェは天使のような、あるいは女神のような雰囲気で描かれており、神話を題材にした絵に見えなくもない。
 日本でいうなら天照大神を描いたような、かなり明るく力強い作品だった。
「あたしも見たことないわ。新人の作品?」
「いえ、60年ほど前に発見されたようで、それまでは個人の蔵に眠っていたそうです。遺品回収の際に業者が見つけたらしくて」
「世に出されなかった名作……たくさんあるものね。こういう珍品も、いくつかあると展覧会を開く意義があるというものよ。面白いわ、良いんじゃない?」
「はい!」
 実は旬果はこの絵に一目ぼれしたのだ。
「その他に見つけたものがあれば連絡して」
「わかりました」
 綾香との会話が終わると、現地コーディネイターであるフランチェスカから連絡が入った。
「チャオ、シュンカ。急な話だけど、実は見せたいものがあるの。良かったらランチしない?」

 フランチェスカはくるくるした黒髪で、くっきりとした目鼻立ちのイタリア女性である。
 薄手のコートに青の花柄スカーフ。
 メールで送られてきた写真と変わらぬ雰囲気だった。
喫茶店で先に待っていた彼女は笑顔を見せた。
「初めまして。まだおシゴトには早いと思ったんだけど」
「ついたばかりで高揚してるくらいだから、連れ出してくれてよかったわ。時差にも慣れたいし」
「そういってくれると助かりマス。あなた、バレエ団にいたでしょう。それを知った上司が、ぜひ意見を伺いたいって、これを」
 フランチェスカはチケットを差し出した。
 モダンバレエ団のチケットだ。題材はダンテ神曲。
「ダンテ……」
「そう、ちょうど良いかと思って。バレエ団もあなたの意見なら聞きたがるわ。お願い!アタシ達の会社、人脈を作っていきたいの」
 旬果はチケットに目を落とす。
 こころなしか左足が痛んだ気がした。

 旬果がローザンヌコンクールに出場したのは18歳の時だ。
 そこでイタリアのバレエ団にスカウトされ入団し、3年ほどステージに立っていた。
 そこでの日々は心臓がきりきり痛むようなものである。バレエ団が悪いわけではない。当時、旬果にはその華やかさが異世界のようにちぐはぐだったのだ。
 バイクの発進音に息をのみ、顔をあげる。
 そこにはフランチェスカのきらきらした目があった。
「疲れてるかしら」
 そうねぎらう言葉をかけられると、旬果は弱い。
 ダンテについては結局勉強不足だった。概要でも頭に入れておくのは良い事だろう。
 それに、仕事での話である。フランチェスカはわざわざ呼び出したのだ。断るのは得策でない。
「……うん。久々にバレエを見るのも良いかもしれない」
「本当!ありがとう、シュンカ。ぜひ意見を聞かせてね、いつか日本の観光客が来たら、セーラ(夜の興行)に案内するのもありだねって話してたんだ」
「そこまで力になれるかはわからないけど……」
 下げようとした手を、フランチェスカが取る。
「これは明日のチケットだから、本当に急でゴメンね。ドレスじゃなく、ホテルラウンジに合うようなワンピースとヒールでOKよ」
「……うん。分かった」

 

 カッと照らされるライト。
 型にそって手をあげ、花を開くように指先から腕を開いていく。
 胸から体を落とし、背中を柔らかく曲げて脚を挙げ――バイクのタイヤの音。
 耳障りな急ブレーキ音。
 道路かタイヤが焦げた嫌な臭いと、重力を失った視界。
 激痛の走る左足。
 喉の奥がひりつくほどに息をのんで目を開けば、そこには紺色のカーテンが揺れる異国の室内だった。
 旬果は額を押さえ、息を整える。
(久しぶりに見た……)
 数年前に見なくなった悪夢……いや、事故当時を再現した夢だ。
 もうとっくに治っている左足をさすり、モダンバレエのパンフレットを開けば主演の顔が載っていた。
 プリンシパルであるロレンツォは、イタリアのバレエ団でも高名なバレエダンサーだ。
 かつてはクラシックバレエをやっていたが、数年前に「もっとたくさんの人が楽しめるように」と気軽なコメディから神話を題材にしたものまで、表現の幅を広げているのだという。
 旬果は知り合いではないものの、彼のことは知っていた。
 彼は生きる天才である。
 だがその華やかなバレエの裏には、まさしく血のにじむような努力を重ねる人だということも知っていた。
 約束の時間が近づくと、旬果はフランチェスカが言った通りホテルにも着ていけるワインレッドのワンピースを選んだ。
 5月の夜はまだ冷えるため、ストールを持ちタクシーに乗る。
 劇場は丘の上にあり、タクシーを降りると真っ先にダンテ演じるロレンツォのポスターが目に入る。
 地獄を思わせる深い紺色の下から、徐々に光あふれるような白と金へのグラデーション。
 ダンテは上部にいるベアトリーチェに手を伸ばしている。
 これも一種のアートだ。ポスターをもらえないか相談する、と旬果はメモを取る。
 やがてフランチェスカが現れ、旬果を見つけると駆け寄ってきて挨拶を交わした。
「来てくれて嬉しいヨ!実はロレンツォがシュンカに会いたがってるの。でも、意見を聞きたいから後が良いって」
「ロレンツォが?」
「そう!さ、行こう」
 まさか彼本人から意見を求められるとは思わなかった。
 彼の方がよほどレベルは上だろう。こちらから意見など、とてもおこがましい。
 旬果はそう思ったが、あれよあれよという間にステージは始まってしまった。

「悩めるダンテは暗い森に迷い込むの。そこで地獄に生きて迷い込んでしまい、ウェルギリウスという賢者に導かれるのよ」
 綾香はそう説明をしてくれた。
 ダンテ神曲展をするのは良いが、旬果は内容を知らなかったため説明を求めたのだ。
 出国前に「簡単にね」と綾香は語ってみせた。
「罪を犯せば、どのような罰が降るかというもの。この辺は地獄めぐりよ。罪人たちの様子を見ながら、ウェルギリウスはダンテにたくさんの知恵を与えるわ。ウェルギリウスはダンテにとって敬愛すべきローマの賢者よ」
「では、キリスト教徒ではなかったのですね」
「そう。だから、この通りよ」
 異教徒は地獄の業火で焼かれるのである。
 この考えには賛否両論あるものだが、少なくともアートに対する敬意は持たねばならない。
 しかし二人はそこにはあまり興味を持たなかった。
 日本には宗教がない、といわれているが、そうではなく、宗教に対しおおらかなのだ。
「異教徒であるウェルギリウスが、これを説明してダンテを導いているんですね」
「そうなの。ダンテは素晴らしい価値観の持ち主よね。キリスト教徒ではなくても、尊敬すべき人物を師と仰ぐなんて」
「この物語を受け入れた当時の人々も、異教徒であっても優れた人には敬意を持っていたということでしょうか?」
「そうだと良いわ。そしてそれが現代でも生き残っているならそこを推したいわよねぇ」

 綾香の説明した通りにダンテはウェルギリウスに導かれて旅をする。
 ロレンツォは引き締まった体でもって、苦悶を表現し、ウェルギリウスによって生気を取り戻していく様を演じていた。
 旬果は左足に冷たい痛みを感じ、つい歯を食いしばる。
 不協和音を取り入れた重厚感ある音に、つま先は勝手にリズムを刻んだ。
(彼は素晴らしいわ。表現力もそうだけど、バレエで表現することへのパッションがある)
 意見などやはりおこがましい。
 苦しくなっていた胸を解放するため息を吐きだし、猫背になって緊張を緩めた。
 ダンテとウェルギリウスは氷地獄を渡り、やがて天国へ至る。
 ダンテを待っていたベアトリーチェ。
 小柄なバレリーナは光のような羽衣を重ねた衣装で彼の周辺を舞い、最後の逡巡を見せるダンテの手を取った。
 鐘の音、照明の演出。
 二人はついにパラディ―ソへ入り、幕が降りる――拍手喝采だった。
 申し分のない演目である。

 

 ロレンツォは旬果に会いたがっていたようだが、残念ながら先客が押し寄せそれどころではなくなったようである。
 代わりにフランチェスカが旬果に質問を浴びせていた。
 プロのバレリーナの目で見て、客席からどうだったか?
 アートのプロとしてはどう感じた?
 改善出来るポイントはあるか?
 旬果は一つ一つに丁寧に答える。
 ターンの際に感じたが、衣装が軽かったのではないか、地獄なら少し重そうな方が適切かもしれない……だが踊りは完璧。何もいう事はない。
 フランチェスカはそれらをまとめると、ロレンツォの楽屋に向かっていく。
 旬果は一人残された。
 周囲はイタリア語が飛び交い、日本人は旬果一人。
 それほどメジャーな観光地ではないと聞いていたが、浮かれた様子がないというのも驚きだ。今の時代はかなり国際交流が豊かではないか。
 日本でも、外を歩けば外国人の姿を見ない日はないというのに。
 ちらほらと男性の視線を感じるが、やはりよほど珍しいのかもしれない。
 そんなことを考えていると、背の高い男性が柔らかい笑みを浮かべてこちらを見た。
「ボナセーラ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
 思いがけなく流暢な日本語。
 柔らかい笑みだが、それ以上に切れ長のアンバーアイが印象的だった。
 眼光が鋭く、一瞬たりともそらすことも、身動きすらも許さない強さが潜んでいる。しかし、そこにはどこか繊細さもあり、思わず見つめたくなるような深さがあった。
 男性的に整った顔立ち、やや小麦色の肌。茶褐色の髪を後ろに撫でつけており、筋肉質な体つきは孤高の狼を感じさせたが、ドレスシャツも似合う紳士だ。そのアンバランスさが絶妙な魅力を放っている。
 どことなくエキゾチックな顔立ちだ。アジア系が感じられる欧米人?
「なんでしょうか?」
「それはわざとくっつけている?」
 彼の声は低くにじむような響きで、体に熱がともるような深いものがあった――

 ベッドに倒れるように寝ころび、名刺を取り出す。
 ネイサン・ブラックモア。
 間違いなくそう書かれている。
 彼の名前を指先でなぞると、胸のあたりがむずむずする。
 嫌味もなく、スマートな、はっきり言うと魅力的な男性だった。
(あれはナンパだったのかしら)
 にしては下心を感じなかった。いや、ナンパとはああいうものなのだろうか?
 恋愛方面にうとい旬果にはわからない分野だ。
 時間は夜の10時。
 日本は15時。
 今なら迷惑ではないだろう。
 旬果は思わず友人にメールした。
 すると、彼女は今暇だからズームで話そうと返信する。旬果はすぐにノートパソコンを立ち上げた。
「やっほー、旬果。イタリアにいるんだって?すっごいじゃん、大出世だね」
「泉ちゃーん。会いたかったよ」
 画面に映し出される友人の姿に旬果は一気に張りつめていた緊張が解けた。
 泉は旬果の学生時代からの友人である。今は結婚して落ち着いているが、当時はなかなかのギャルだった。
「イタリアってどう?食べ物美味しい?」
「まだ巡れてないの。仕事関係の人と話すばかり」
「へえ~。あたしそういう仕事したことないもんね。海外の人と話すのって緊張しない?」
「会ってみたら皆意外と同じ人間なんだって気づくよ。気兼ねなく接してくれるし」
「いいじゃん、いいじゃん。そうだ、お土産期待してる」
「もうそこなの?候補考えてて。そうだ、赤ちゃんにもあげられるもの見ておくね」
 泉は妊娠中だ。予定はまだもう少し先だが、お陰で家にこもることも多い。
「泉ちゃん、調子はどう?」
「いや、良いんだよ。外だって出て良いんだし。でも旦那ちゃんが心配しちゃって」
「いい旦那様だね」
「どうなの?過保護じゃない?子供が生まれたらどうなるか今から心配だよ。て、こっちはいいの。日常たいして変わらないし。そっちは?ジェラート食べたくなるような出会いはあった?」
「ジェラート?」
「ローマの休日!知らないの?」
 往年の名作だ、しかし旬果は知らなかった。
「ここローマじゃないし……」
「いやいや、イタリアったらスペイン広場のジェラート、トレヴィの泉、真実の口!」
「そうなんだ。あ、オードリー・ヘップバーンなのね。面白そうな映画」
「でしょ?イケメンに出会って案内してもらうのよ」
 イケメン、で旬果は思い出した。
「ねえ、ナンパってどう思う?」
「はあ?」
「ナンパってそもそもどういうのがナンパ?」
「Sex目的でしょ。それがどうかしたの?」
 泉はあけすけに言い切った。
「Sexか……」
「ナンパでもされたの?」
「知らない人に声をかけられて、話をして、連絡先を交換したの。疑った方が良い?」
 旬果が言うと、泉は顔をにやにやさせた。
「どんな人だったの?」
「どんな……ああ、そう、ゾンビのドラマがあったでしょ?それに出てた俳優さんに似てるわ」
「日本のやつ?」
「海外。シリルって役よ」
 泉はスマホを取り出した。検索してるらしい、見つけたようで「ふーん」と猫のように口を持ち上げた。
「イケメンっていうか、男前って感じね。ワイルドだわ。年は?」
「30代かな……年上だと思う。それになんだかスマートなの。コンサルタントですって。ドレスシャツもよく似合ってた」
「好印象なのね?へえ。旬果が珍しく異性に興味を……」
「どうしたら良いと思う?」
「連絡したいならすれば?」
 泉ははっきりしている。さすが狙った獲物は逃がさない恋愛ハンターだっただけある。
「すぐにSexしたがるようなバカじゃないか、見極めたら良いのよ」
「泉ちゃん……もうちょっとオブラートに包んで……」

 コンサルタントなのだから、もしかしたら仕事での人脈づくりの一環かもしれない。
 にしてはわざわざ名刺の裏に手書きで事務所以外の連絡先が書かれている。いや、コンサルタントはこういった演出をすることがあるのだという。
 旬果は色々と思いを巡らせた。
 それが気になってしまう理由もわからないまま、オークションへ向かう。
 ぴりぴりとはりつめた空気の中、バイヤー、代理人や個人客が出品される作品をまず見ている。
 旬果は綾香にも送った通りの3つに狙いを定めた。
 ダンテもパラディ―ソも、展覧会用に適したものだ。
 やはり客の足は止まり、彼らはスマホや、あるいは連れと口早に相談している。
 旬果も綾香と相談しながら作品を見ていた。
 やがてオークション開始が告げられ、着席が求められる。
 旬果は渡されていた番号通りの席に座り、正面を見た。
 司会の進む通りに出品される作品たち。
 競り合う人々の鋭い声と入札を知らせる音。
 飛び交う金額は汗が流れる額だ。
 予想通り、ダンテの絵はどんどん値段が跳ね上がっていく。
 旬果は何度となく手を挙げたが、静かな会場は青い炎のような熱気を帯びて気を抜くと飲まれそうだ。
 最高額がまた示され、客の一部はため息とともに背を椅子に沈める。
 スマホの向こうで綾香も「これ以上は無理ね」と言った。
 入札が決まる。
 イタリアの富豪の手に渡った。
 続くパラディ―ソ。これもかなり早い段階で決着がつく。
 イタリアの美術館がお買い上げだ。
 そして最後、金箔で描かれたベアトリーチェが登場する。
 単純な金ではなく、鈍色もにじみ、凹凸が緻密に仕組まれ光の当たり加減で陰影が浮かび上がる。
 吸い込まれるようなベアトリーチェの瞳は、旬果の目を簡単にからめとってしまった。
「それでは開始しましょう」
 それと同時に旬果は手を挙げた。

 

「買ったものをすぐにこっちに送らないで、まずじっくり見てみたいわ」
 綾香がそう言ったので、旬果は「オテル・パラディソ」に送るよう手配した。
「他にもカメオもあります。オークションではなく、個人所蔵で、貸すなら良いと」
「素晴らしいわ。あなたが送ってくれたポスターも良かったわね。もらえそうだった?」
「はい。ブルーレイでステージの映像を録ってるから、それも合わせてって」
「良いわ。たまには座って鑑賞できるものがあってもいいわよね。今日はお疲れ様。ダンテとパラディ―ソは残念だったけど、良い収穫もあってこちらは満足よ」
「”大”満足ではないのですね」
「まぁね。でもまあ、見せ方次第よ」
 綾香の頭の中では展覧会での展示方法がいくつも浮かび上がっているのだろう。
 ディレクターとして手腕が発揮される部分である、プレッシャーもあるが楽しい作業なのだと言っていた。
 通話が切れると、旬果はかなり胸がどきどきと脈打っていたことに気が付いた。
 よく考えたら、初めてオークションに参加したのだ。2つは逃したものの、ベアトリーチェは無事に手に入れている。
 気分はかなり高揚していた。
 まだ日が傾き始めた時間で、ランチを抜いたためお腹が鳴った。
 この辺りの食事処を知らない、旬果は受け付けに行けば地図があるだろう、とロビーに向かう。
 その途中でスマホが鳴った。
 番号は知らないもの……いや、違う。最近見た番号だ。
 名刺を取り出し、確かに彼のものだと確認した瞬間に心臓が早鐘のように鳴る。
 どうしよう――とボタンへ伸びる指は勝手に震え、踊り場にあると思っていなかった手すりに肘が当たって応答ボタンを押していた。
「あっ」
 と、かなり間抜けな声が出たはずだ。旬果は慌てて咳払いする。
「も、もしもし!」
 声は見事に上擦った。
 電子越しに彼が軽く笑ったのが聞こえる。
「もしもし。悪いタイミングだった?」
「いいえ。その、何かご用でしょうか」
「良かったらコーヒーでも、と思ったんだ。おごるよ」
 その時、旬果のお腹がぐううと鳴った。

「実はお昼を抜いてしまって」
 つい言い訳をする。知り合って間もない社会人に、お腹の音を聞かれるなど恥ずかしい。
「何かあったのか?」
「オークションに参加して、競り落としたからちょっと……」
「テンションが上がったのか。それで忘れた?」
「そうです……」
「堅苦しい話し方はなしだ。私もそうしてるから」
 ネイサンは軽食をつまめるレストランに案内してくれた。
 以前のドレスシャツとは違い、ラフなリネンのTシャツだ。ジーンズは色の抜いたもので、初夏に爽やかである。
 それに彼自身が姿勢が良く、堂々としており、だらしなさはなかった。
「そのスーツだとかなりビジネスウーマンという感じだ」
 旬果はマットブラックのパンツスーツだ。中のシルクシャツは旬果が持っている勝負服で、一張羅である。周囲に負けないため選んだ一品だった。
「手ごわそうだな」
「あなたの顧客にもビジネスウーマンはいる?」
「いるよ。洗練されてて、余裕がある」
「素敵だわ、私も余裕が欲しい」
「あるように見えるが」
「ネイサン……ええと、呼び捨てって難しいな」
「ネイサンさん、の方が難しいだろ?」
「それもそうね……」
 思わず笑ってしまう。
 オムレツのような形のピッツァにナイフを入れると、一気に湯気があがりミートソースの香りが立ち上ってきた。
「ああ、美味しそう。実はこの辺りのこと全然知らなかったの」
 口に運べば、ミートソースだと言うのにあっさりとした味わいが広がる。珍しく白ワインで煮込まれた豚肉のようだ。玉ねぎの甘味もよく出ており、ハーブがほのかに香るオリーブオイルがまったりと喉を潤した。
「美味しい」
「気に入った?」
 旬果は何度も頷く。
「すっごく」
「オークションでは何を?」
「ダンテ神曲の展覧会を開くの。それで、ベアトリーチェの絵画を競り落としたわ。それしか買えなかったけど、一応上司も「満足」って。花丸ではないけど」
「”大”がつかなかったのか」
「借りられないか打診はしてみるつもり……望み薄だと思うけど」
「話すだけ話しておけば、いつか意外な形で結果に結びつく……なんてこともある」
「それは人脈づくりですか?」
「そういうことだ。半額出すとか、あるいは展覧会での売り上げの数パーセントを払うから、と互いに無理ない条件を出せばすんなり貸してくれるかもしれない。双方にとって価値があると思わせれば、望みはある」
「すごいわ。そうやってお仕事をしているのね。出せる条件は他にある?」
「色々あるだろうが、互いの事情や期間について話せば良いところに落ち着くかもしれないぞ」
「話し合うのが大事なのね?」
「そうだ。聴く方がより効果的だよ」
 旬果は徐々に前のめりになった。食事中でなければメモを取りたいくらいである。
「熱心だな、仕事が好きなのかい?」
「……かもしれない。やりがいはとても感じているわ」
「それは良いな、仕事というと嫌な顔をする人が多いのに」
「私は運が良いの。上司も素敵な人だし」
「出会いは運じゃないと思うが」
「そう?」
「ああ。引き合うものだ。簡単に切れる縁でも、多少の意味はある」
「……どうしてそう思うの?」
「私も運が良かったからかな」
 ネイサンは絶妙な矛盾ではぐらかした。
 彼はユーモアがある。
 一方で、そこに近づくのがためらわれるような壁も旬果は感じた。
 遅めの昼食を終え、ネイサンの運転する車に乗る。
 長袖からちらっと覗く腕には傷跡のようなものがあった。
「旬果。時々で良いから、滞在中に会えないか」
 質問というより、誘いに近い。
 ほんの一瞬だけ息が止まり、旬果は彼を見る。彼は前を向いたままだ。
 アンバーの目は見えない。
「えぇと……」
 どうすれば良いかわからない。
 ネイサンは急かさなかった。
 夕陽がまだ水平線に見えている。
 ネイサンは旬果の滞在先を知らないし、聞くこともないまま旬果が言った近くのバス停で下ろした。
「ネイサン。その……私もまた会いたい」
「ああ」
「あっ、お昼代を」
 旬果が財布を取りだすと、ネイサンは歯を見せて笑う。
「いいよ、君の時間をもらった礼だ」

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第2話

 

※街、建物などは今作のための創作であり、実在しません。また、画像はあくまでもイメージのためo-danで取得したものです。

 

 

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