りんごの花 小説

「りんごの花」第3話 同類

 ラブホテルから猛然と飛び出し、ヒールを鳴らして道路を歩く。
 後ろから飯塚が慌てた様子で追いかけてきた。
「ほんっとーにごめん! 変な意味じゃなくて、なんつーか、その、クセなんだって!」
「クセ? 昨日一緒にいた人をすぐに忘れるのがクセ? 良いのよ、言い訳しなくったって。私ってすっごく影が薄いんだってよく分かったから」
「そういうんじゃないって、マジで。あんたのせいじゃなくて、俺の……つまり酒癖なんだよ。飲みまくると前後の記憶なくなるの!」
「そんな都合のいい話ってある? ずいぶん気楽よね、誘ったのがバカみたい!」
 律は振り返らずにそのまま歩き、マスクを装着するとコンビニに入った。
 飯塚とは別に何の関係もないのだ、向こうが忘れたというなら、このままわかれても後腐れなし。問題ないはずだ。
 と思ったが、当の飯塚が追いかけてくる。
 律の顔をのぞき込み、小声で言った。
「違うんだって。マジで、マジで昨日はしこたま飲むことになって。その後あんたと出会って、ナンパしたんだろうと思う。その……ああ、とにかく! 俺酒が過ぎるとマジで前後忘れるの。失礼なことしてないといいんだけど……」
 飯塚は甘える猫のように律を見つめてくる。
 彼はどうにも茶化す様ではないが、律は何やらイライラし、ふんと首を横にふった。
「失礼はされてない」
「なら良かった。俺えっちなことした?」
「ここではやめて」
「した?」
「……してない。同じベッドで寝ただけ」
「良かった」
 飯塚がほっとした様に言った。律は眉をつり上げた。
「私としても良くないものね」
「は? いや、違うって」
 律はサンドイッチとサラダ、お茶を取るとレジに向かう。
 飯塚は適当にしか見えないが、近くにあったおにぎりを取ると律の後ろに並んだ。
「ソーシャルディスタンス」
 律がそう言うと、飯塚は「おっと」と言って一歩後退する。
 レジを済ませて足早に立ち去ると、飯塚がやはり追ってきた。
「どうしてついてくるの」
「気になるから。俺の質問に答えてなくない?」
「質問って?」
「”あんた誰?”ラブホにまで行ったんだから、俺のことちょっとは良いなって思ったんじゃないの? それとも俺が連れ込んだ?」
「……」
 律は公園で足を止め、飯塚に振り向いた。
「ラブホに誘ったのは私。昨夜、あなたはかなり酔ってた」
 飯塚が目を丸くして、口元を綻ばせる。
「……名前は高山 律」
「律」
「すぐ下の名前で呼ばないで」
「あー……失礼。高山さん。俺は飯塚 譲。なんで誘ってくれたの?」
「なんで……私のこと覚えてないんでしょ?」
「だから気になる」
「すぐ忘れるんでしょ?」
「あ、ひどいな。酒を飲み過ぎなきゃ大丈夫。前後ってのも数時間だけ」
「アルコール依存……」
「じゃない。飲まなくても平気」
 飯塚は手を顔の前でひらひらさせた。
 不自然な震えはない。
「依存を疑われるとは傷ついたなー。お詫びに教えて欲しいなー。なんで誘ってくれたの?」
 飯塚の軽快な口調に律はつい親しみがわいて、喉を詰まらせると視線を落とした。
 だが立ち去ろうという気は起きず、飯塚もそのそぶりを見せない。
「……今家ないから……」
「いつなら言える?」
 と、飯塚が聞き取りを間違えたようなので律はつい顔を上げた。
「え? 違うの、家……ホーム……がないの。ホームレスなの」
「は? ああ、あ、そういうことか。言えないからじゃなくて家ないから……えっ? あんたもホームレス?」
「も?」
 律は眉を寄せた。
 飯塚はなんてことはない、という風に笑って言う。
「俺もホームレスなんだよ」

***

 公園のベンチに二人距離を取って座り、それぞれ買ったものを食べる。
 飯塚は「やべ、昆布苦手なんだよ」と言いながらもそれを口にしている。
「家が火事って……この前、ニュースになってたあのアパート?」
「皆それ言うよな。多分そうだと思うよ、テレビ燃えたから知らねえんだけど」
「ああ、そうか……スマホとかで確認しなかったの?」
「その手があった……」
 飯塚はお茶でおにぎりを流し込み、苦い顔をした。
 律は彼を見ていたが、1ヶ月近くホームレスだとは思わなかった。
 作業着も乱れていないし、染みついた汚れはともかく清潔そうである。金も持っているようだし、定職もあるのだ。
「コインランドリー、先輩の家、知り合いの家、カプセルホテルに漫画喫茶。後は……まぁ、ご想像にお任せします」
 飯塚は副業もあるし、と説明をした。律は感心したように頷く。
「色々利用出来るものはあるのね……」
「てか高山さんはなんでホームレス? 仕事はあるんだろ? それに俺みたいな若い奴ならまだ良いとして、女の子一人じゃ危ないって」
 女の子、という言葉に律の耳が反応したが、聞き流すことにした。
 まだ朝は早く、バスは来ない。
 飯塚も興味津々、といった態度で律を見つめていた。
 その人なつこそうな笑みに、どこか油断の出来ない野性味を律は感じる。
 彼を誘うなんて、やはり頭がどこか本調子でないのだろう。
「なんていうか……同棲してた彼にフラれて……」
「追い出された? ひどいな」
「私が飛び出したの。実家は遠いし、仕事もやっと再開出来たところで休めないから、なんかこうなっちゃって……部屋探ししてるけど見つからないの」
「彼氏から連絡は? フったにしたって、女の子が飛び出していったら危ないってわかるんじゃないの? あっ、ちょっと待った……」
 飯塚は額を押さえ、目を閉じて少しすると律を見た。
「なんか、思い出した気がする……公園にいたんじゃない、あんた」
 ずばりな一言に律はどきりとする。
「当たった? 確か、俺殴られた日なんだよな」
「……うん、そう。頬が赤くなってて……飯塚さん、その時私に交番のある道を教えてくれたんだけど……」
「あー、そうなの? 俺良いことしてた?」
「まあ、うん」
「なら良かった。で、連絡だ、連絡。彼氏が迎えに来るとか」
「連絡は……」
 その時、タイミングが良いのかそうでないのか、佐竹から連絡が来た。
「……毎日来るけど」
 律はスマホの画面を見る。
 眉を潜めたままスマホを直した。
 あれから毎朝毎晩メッセージが来るが、律はその文字すら見えなくなっている。
 どうしても文字がぼやけて見えるのだ。他のものはちゃんと見えているのに。
「相手も心配はしてるんだ。家が見つかるまでは一緒にいた方がいいんじゃない? やっぱ危ないって。襲われたら対処出来る?」
 飯塚は息継ぎもせずに話し、律を混乱させた。
 律は額を押さえるようにすると首を横にふる。
「今は、彼の顔を見るのも怖いの。ずっと混乱してるし……昨日は確かに危なかったと思うけど、いつもはホテルを泊まり歩いてるから大丈夫」
「いや、それでもどうかと思うけど……ああ、そうだ。じゃあホテル着くまで一緒に行動する?」
「え……」
 飯塚はそれがいい、と顔を明るくさせる。
 無邪気なのかなんなのか、何の下心も感じさせない態度に律は思わず笑った。
「何それぇ」
「いいと思うよ、ホームレス同士。俺基本夜はバーで副業してるから、屋外ふらつくより安全。その後はそれぞれの寝床に向かうってことで……」
「バーテンダーなの?」
「いや、歌手。流しみたいなもんだね。昨夜は誘ってくれたのに、期待に応えられなかったお詫びということで……」
 と飯塚が言った瞬間、律は頬が信じられないほど熱くなるのを感じた。思わず視線を自身の足に向けてしまう。
 飯塚もそれを見て察し、自身の頭をかくと「ごめん」と謝った。
「謝らなくていいから……」
「いや、その……そういう反応が返ってくるとは思わなくて」
「その……あの、混乱してて……ま、前は飯塚さん、道を教えてくれたし……いい人かなって……あの……それにラブホに行ったことなくて……」
 律がしどろもどろに言い訳すると、飯塚まで気まずそうに頬を赤くした。
「じゃあ、まあ、そだな……連絡取れるようにしとこう。何かあったら呼んで。そしたら迎えに行くから」
 律は飯塚のスマホの番号に通話をかける。
 飯塚が即座に出て、スマホを通して話し始めた。
「もっと警戒しないと。俺がぱくっと行っちゃうよ」
「そんなに気を遣わなくて良いのに」
 フラれた事ですっかり女性としての自信をなくした律はそれでも気が楽になり、ふっと笑うとそう言った。
 飯塚はスマホを構えたまま立ち上がり、律を見つめて続ける。
「嫌なことと良いことは背中合わせって言うじゃん? 殴られた夜にあんたと出逢えたんだから、案外当たってんのな、こういう格言って」
 律が驚いて見上げていると、飯塚はふっと笑みを浮かべて歩き出した。
「じゃあ」
 と、朝の太陽光が立ち去る飯塚の横顔を黄金色の照らすのが見えた。

***

 美術館を囲む林道を抜け、バス停を目指した。
 今日は幸いカプセルホテルに泊まれるため、律は肩の力も抜いてゆったりとした気分だった。
 夕陽がバス停を照らしている。
 外食続きも体に辛くなってきた、そろそろ自分で作ったものが食べたい……などと考えていると、ブブッ、とスマホが振動する。
 佐竹か、と体が強ばるも確認すると、飯塚の文字だ。
【こっち仕事終わった。合流する?】
 不思議なもので、佐竹以外の人物からのメッセージはちゃんと読める。
 律はほっとして、返信を送ろうと文字を打ち始めた。
【今日はホテルが取れたので……】
 合流しない、と続けようと考えたのに、何か指が止まってしまう。
「……【晩ご飯だけでもご一緒しませんか】……なんか尻軽みたい……」
 人恋しくなっているのだろうか、と自分自身で思うも、そう打ち込んだ内容を消す気になれず、送信した。

***

 作業着を脱いで、白のシャツに黒のジャケット、黒のレースアップシューズをはくとギターを担いだ。
 給料が出たので買い込んだ冬用の衣類でぎちぎちになったロッカーを何とか締め、夕暮れの中バーへ向かう。
 律から返信があり、見ればなかなかの色よい返事だ。
 まじめそうな雰囲気だが、人は見かけによらない。それを学んだ飯塚は律を勝手なイメージで固めずにいた。
「晩ご飯”だけ”ってのが余計だな~」
 と呟いて頬を緩めた。
【△駅前のバーで副業。△駅着いたら迎えに行く】
【わかりました。今から30分くらいかな。駅に着いたら連絡します】
 憂い多き秋の空、と感じるわけではないが、どこか人恋しくなっていたのか、事情を同じくする女性と話をするだけでもそれなりに楽しい。
 駅前の雑居ビル、その半地下にあるバーの勝手口を開ける。
 すっかり顔見知りになった従業員に挨拶し、ステージの準備をするため幕の裏に入った。
 同じく流しのバンドマン達と軽く打ち合わせ、マイクの調子を見ると律から連絡が来た。
 店を出ればすっかり夜になっている。季節が移り変わるのは早い、と感心しながら、コンビニ前で待っている律を見つけた。
 きっちりとまとめられたお団子ヘアにやはりきっちりとした清潔な印象の化粧。柔らかそうなストールの下のスーツは黒の上品なもので、一見するとデパートの受付嬢のようだ。
 外見だけなら飯塚にとっては苦手なタイプである。
 律は飯塚に気づいていない。きょろきょろと向こうの信号あたりをうかがっている。
「お姉さん、良い店知ってるんだけど、良かったら一緒に行かない?」
 飯塚が彼女の背に声をかけると、律が振り返って笑みを浮かべた。
「もう、何それ」
 と彼女の目が柔らかく細められ、飯塚は鳩尾あたりが疼くのを感じる。
「これから副業なんでしょ? ご飯はどうするの?」
「バーで軽食。まかない出してくれるんだよ」
「私お邪魔出来ないね。どこかで食べて来た方がいいかな」
「いいんじゃない。マスターに聞いてみるよ」
「ご迷惑でしょ?」
 律は不安そうな顔をしたが、飯塚は言うが早いかスマホを取り出した。
「マスター? 飯塚です。あ、そうそう、そのつもりです。あのー、まかない一人追加って出来ます?」
「飯塚さん……!」
 律が止めようとするのを飯塚はかわす。
「ああ、うん。はい。あ、持ち込みならOK? 充分です、はい。ありがとうございます」
 通話を切ると、律が口を尖らせて飯塚を見ていた。
「まかないは量決まってるから、俺の分まわすなら良いって。で、持ち込みしても良いんだそうだ……何、まかないじゃ気に入らない?」
「迷惑になるんじゃ……」
「マスターは大丈夫って。人の好意は素直に受けるもんだよ」
 そう言うと飯塚は律の手を取り、コンビニに入った。
「朝食分も買っとくかぁ」
 飯塚がカゴを取ると、律が飯塚のジャケットの裾を引っ張った。
「手……!」
 飯塚が律を見ると、彼女は顔を真っ赤にして精一杯飯塚を睨んでいるが、少しも怖くない。
 その表情にぷっと笑いがこみ上げ、律がますます顔を赤くした。
「ごめん、ごめん。馴れ馴れしすぎた?」
 小さな手だ、それに外にいたせいなのか、ひんやりと冷たい。
 ぱっと離すと、律は困ったように眉を寄せ、その手を撫でる。
「飯塚さんて人なつこいのね」
「それが唯一の取り柄でね」
 それぞれに夕食分と朝食分を取り、会計を済ませるとバーへ向かう。
 律は物珍しそうに半地下への階段を降り、入り口ではなく勝手口から入ると目を大きく開いて辺りを見ていた。
「バーって初めて?」
「本格的なのは、初めて……」
「あ、マスター!」
 カウンターを磨いていた初老の男性――マスターに声をかける。
「俺の連れ。えー、高山さん。わけあって今日は夕食を一緒にする人」
「いらっしゃい。お客なんだよね?」
「俺のね」
 律はマスターにカウンターに座るよう促され、スツールに腰掛けると温かい紅茶を差し出された。
「これはお店に来てくれたお礼。遠慮せずにどうぞ」
「あ……ありがとうございます」
 律は照れているのか頬を緩め、マスターとティーカップを交互に見ている。
 飯塚は面白くない気分になり、彼女の隣に腰をおろそうとし、「譲は客じゃないから」と座るのを止められた。
「はいはい」
「それから、今は営業時間短縮。この店で勝手にルールもあるんだ。提供するアルコールはカクテルグラス3杯まで。度数のきっつい奴は1杯」
「厳しい」
「代わりに軽食とノンアルジュース、ジンジャーエールがあるよ。君らバンドが盛り上げて、客を呼んでよ」
「おっ、期待されてる?」
「してる、してる」
 マスターは飯塚を軽くいなした。飯塚は律に今夜はゆっくりするよう言うと立ち上がる。
「換気してるから、かなり冷えてくるよ。ブランケットは要るかい?」
「あ、ありがとうございます。お借りします」
 マスターは女性客に甘い。
 飯塚は横目でそれを見ながら、奥へ引っ込んだ。

***

 初めて入る本格的なバーに、律は今更ながら今までと違う世界に飛び込んでしまったと感じた。
 ここ数日で、「まさか」の連続。
 佐竹からの連絡を無視し、じっくりとバーの雰囲気を味わう。
 初老のマスターの優しげだが適度な緊張感をそのまま表したかのような、深く落ち着いたブラウンの壁紙、ワインレッドの床、飴色のカウンターに、年代物の酒類の飾られた棚。
 客層は幅広く、しかし人数制限のためかまばらだ。だが一様に店を楽しんでいる様である。
 ロウソク風の揺らぎを演出する小さな手元の照明が、律の爪を照らした。
 料理をするためにマニキュアなどはつけない。美術館ではほとんど白手袋をつけるため、手入れする必要がなかったのだ。
 少しかさつく指先にため息がもれた。
「秋冬は乾燥するからね」
 マスターが季節のせいにして、律を慰める。
「……そうですね。でもサボってたかも」
「指先のお手入れを?」
「……はい」
 指先だけでなく、色々なことをサボっていた気がする。
 忙しさにかまけて?
 美しく着飾った女性の写真を思い出した。
(秀君がお見合い相手に惹かれるはずね……)
 ふとそう思い、ちくりと胸が痛む。
 再びのため息が漏れる。が、頭を振って笑みを作ると「おつまみ欲しいです」とマスターに言った。
 ピンチョス各種が差し出され、ジンジャーエールを飲んでいるとマイクのスイッチが入った音がバーに響き渡った。
 拍手が鳴り、小さなステージを足下から照明が照らした。
 真ん中に立っているのは飯塚だ。ギターを構え、口元にはハーモニカ。後ろにドラム、隣にベース。
 それぞれを囲うように透明な板が設置されていた。空気清浄機もステージに置いてある。
「えー、こんばんは。新型ウィルスとか色々あって厳しい状況に置かれていますが、今日はそんな憂さをはらせるよう、精一杯歌います。リクエストも受け付けますので、良ければそこのメモに書いて下さいね。では、今日の夜に合わせてゆったり行きましょう」
 ベースの足下に染みるような音がバーを包む。
 ドラムがゆったりとリズムを取る中、飯塚がマイクに向かい口を開いた。

もう夜がすぐそこまで来ている
穏やかな風、虫の声、三日月
こんな夜は本心が溢れそうになるけど
いつも自分をごまかす君は
どこか頼りなげに笑うだけ
辛ければいつでも頼りなよ
泣きたいなら俺が君を隠してあげるよ
叫びたいなら俺が君を包んであげるよ
だから一人になるなよ
今夜だけは
今夜だけは――

 ゆったりとしたメロディーに、芯の強い、だがまろやかで伸びやかな声。
 喉を震わすような飯塚のその歌声に、律は惹きつけられた。
 ステージで一曲目が終わると拍手が鳴ったが、律はそれも忘れて飯塚を見ていた。
 彼は目を丸く細めて礼をのべている。
 ふと目が合い、飯塚が手をあげた。
 律は笑みを浮かべると頷いて、拍手をした。
「上手いでしょう」
 マスターがそう言った。律は頷いてカウンターに視線を戻す。
「ええ。とっても……」
「譲とはどこで知り合ったの? 聞かない方が良いかな」
「えーと……」
 聞かない方が、というわけではないが、説明が難しい。
 律は曖昧に笑うとグラスを手で包む。
「なんというか……私が迷子になってて。彼が道を教えてくれたんです」
「なるほど。まあ、モテる奴だけど、良い奴だから。友達にするなら良いと思うよ」
「友達?」
「そう」
 マスターが遠回しに言うので、律は思わず背を伸ばして意味ありげな笑みを浮かべた。
「ああ……男女関係ってことですか? そういうのじゃないです。彼にそういう相手がいても不思議じゃないし」
「そうだね……まあ、わきまえてるとは思うよ」
「?」
 ステージの照明が明るいものになった。
 飯塚がマイクを手に持ち、リクエストの紹介をしている。
「ロマンス映画の主題歌多いな、今日。皆ロマンチックに浸りたい気分だったりする? 俺は私生活枯れてるんですけど」
 一部から笑いが起きた。
「まあせっかくだし、こってりラブソング行きますか。映画モントリオールの恋人から……」
 英語の歌が流れ始める。
 律は肩から滑り落ちたストールをかけ直し、ステージの飯塚を見つめていた。

***

「あー、今日は歌った歌った」
 バーを出て、すっかり更けた夜を歩く。
 律は酔っていないようだ、足取りもしっかりとしておりちゃんと目も合う。
「上手いんだね。びっくりした」
「あ、そうだろ? 若いくせに老けた歌い方するとか良く言われ……おいおい」
「またふざけてる」
 律は屈託なく笑う。頬が笑う唇に押し上げられ、まんまるになった。
「笑ってる方がいいな」
 飯塚がぽつりと呟くと、律が振り向いた。見上げてくる目がきらきらしている。
「ん?」
「何でもない。あ、で今日のホテルはどれ?」
「ああ、そこのレストランの隣。女性専用カプセルホテルね」
「シャワー付き?」
「そうだよ」
「いいねぇ。俺はどうするかな」
「え? 飯塚さん宿無しなの?」
 律が目を見開いて飯塚を見る。飯塚は頷いた。
「そうだよ、宿無し……」
 冷えた指先を温めようとポケットに手を入れ――見つけたのは一枚の紙切れ。
「ラッキー! 先輩に連絡しよ」
「じゃあ大丈夫なのね?」
「大丈夫、大丈夫」
 ほっとした様子の律と二人でレストランの前につく。
 女性客が何人かすでに入っているらしい、清潔かつ温かい雰囲気の入り口を軽く覗き込み、律に裾を引っ張られた。
「覗いちゃだめ」
「ちぇっ」
 飯塚が姿勢を正すと、律はその場でつま先を揃えて立った。
「じゃあ、送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「入るまで見とくよ。変な奴っていきなり出てくるから」
 あの角とかから、と飯塚がふざけた口調で言う。 律は吹き出すように笑った。
「またからかって。じゃあ入るから。飯塚さんも冷えないうちに……」
「わかった。じゃあ、また」
 律が手を振りながら自動ドアの向こうへ入っていく。
 飯塚はそれを見送ると、背を向けて歩き出した。

 徐々に冷えゆく世界。
 だがこの夜、二人は確かに胸にロウソクを灯したかのように温かいものを味わっていた。

 

次の話へ→「りんごの花」第4話 新しい日々

 

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