りんごの花 小説

「りんごの花」第一話 慣れ

 

 

「一度、俺と別れて欲しい」
 そう言われた瞬間頭が真っ白になり、気づけば夜の街をさまよっていた。

***

 皿洗いを終えると律はエプロンを外し、椅子に座り直した。
 まとめていた長い髪を解き、指で梳く。
 同棲中の恋人である佐竹が、自室からリビングに戻ってきて紙袋をテーブルに置く。
「上司からの話でさ」
 そう前置きがあり、紙袋から出てきたのはワインレッドの布張りの表紙。
 成人式の写真を収めるようなそれだった。
「何?」
「ちょっと見てみて」
 佐竹が律に開くよう促す。律は重みのある表紙を開き、中の薄い紙を開いて目を見開いた。
 鮮やかな赤色の着物を着た、若い女性の写真。
 きちんと写真館で撮られたそれは、見合い写真であると説明されなくても分かる。
「どうしたの?」
 律は眉をひそめた。
 向かいに座る佐竹はシャツのボタンを外しながら説明を始める。
「いや仕事の延長なんだよ。取引先の部長さんが俺を気に入ったらしくて、娘と会わないかって誘われてさ。会うだけ会っとけって言われたの」
「でも……」
 自分という恋人がありながら、と律は思ったが口には出さなかった。
 佐竹はやれやれと言わんばかりに首をかいた。
「会うだけだって。後は適当に言いつくろうからって課長が言うんだよ」
「でも会ったら余計に断りにくくなるものでしょ?」
「そうだけど、向こうに気に入られないようにすればいいんだし。大丈夫だって。俺には可愛い恋人がいますって課長には伝えてるから」
 佐竹はそう言うと、屈託のない笑顔を浮かべて律の手を握った。
 佐竹のじんわりと暖かい手のひらで、冷えた指先を包まれる。
 その心地よさを感じながらも律は一抹の不安を残した。
「じゃあお見合いは形だけなんだ?」
「そういうこと。律は何も心配しなくていいから。あ、でも当日は夕食要らないかな」
「夜にお見合いなの?」
「違うよ。昼に終わる。ただその後に部長さんを接待しないとさ」
 佐竹の説明に律は頷いた。
「わかった。予定日は……」
「再来週の土曜日だ。スーツ、クリーニングに出しといてくれ」
「うん」
 律は素直に頷き、笑みを作った。佐竹がよっしゃ、と言って腰を浮かせると、律に軽く口づける。
「ありがとう、律」
「ううん。頑張ってね」
 そんなやり取りをして、その日が終わる。
 翌日には律は彼のスーツをクリーニングに出し、仕事場である美術館に向かった。

***

 マイクのスイッチが入り、オーン、と空間の揺れる音が響く。
 バーの奥に設置されたライトが、店の落ち着いた雰囲気を壊さないように暗めの照明でバンドを照らす。
 中央に立っているのはギターを構えた青年。
 飯塚譲だ。
 肩にかかる髪はクセがあり、無精髭の生えた顎だが衣服は清潔感があって、無骨ながら不思議に色気がある青年だった。
「こんばんは。あいにく風の強い夜の中、バーに足を運んで下さった皆さんがゆっくり過ごせるよう歌います。リクエストも受け付けますので、良ければ曲名をメモに書いてそこのボックスに入れて下さい。まずはこの一曲から……」
 ギターが静かに、芯の強い音を奏で始める。
 ベースが呼応し、ドラムが控えめに音を鳴らし始めた。
 飯塚がマイクに向かって歌い始める。

月のない夜だから
どこかに彷徨いたくなって
風に押されて歩いてみたけど
欲しいものはまだ見つからない
どこへ行けば見つかるんだろうか
いつになれば見つかるんだろうか……

 ぱらぱらと拍手が送られ、何枚かのメモに書かれた曲名に目を通す。
 古いナンバーも最新曲も。
 飯塚は6曲を歌い終えた所で休憩を挟んだ。
 バーテンダーの前に座り、いつも注文するジンが入れられるのを待つ。
 追いかけるようにして隣に座った、ミニスカートの女性が上目遣いに飯塚を見た。
「素敵だった」
 唐突にだが、わかりやすい言葉だ。飯塚はにっこり笑って「ありがとう」と返事する。
 まつげのぱちぱちとした、唇もつやつやの女性だ。
 彼女は脚に自信があるのだろう、飯塚が向いた瞬間に脚をすっと組んで見せた。
 思わずそれを目で追い、飯塚は彼女の耳元に顔を寄せるとささやく。
「エロい下着。俺に見せたかった?」
「やぁだ~」
 そう言いながらまんざらでもなさそうな彼女の態度に、飯塚は口元をにやつかせる。
「俺が素敵って? それとも歌?」
 飯塚は表情を引き締め、体を離すとそう切り出す。彼女は口を尖らせて「ん~」と言った。
「歌超うまい。後半の曲知らないけど」
「ああ、知らない歌だったんだ?」
 飯塚に寄せられたリクエストは1970年代のものがあった。
 洋楽もあり、確かに万人受けするかどうかは微妙な所だ。
 彼女はスツールをくるくるさせ、体をひねって胸を寄せる。
 明らかなナンパだ。
 飯塚はどこかさめた思いでそれを理解しながら、彼女に調子を合わせる。
 ジンが届けられると飯塚も体をひねる。
「うん、知らな~い。でもいい感じだった。なんて曲?」
「ひみつ」
「え~、ケチ」
「うそうそ、教えてやろうか? カラオケとか行っちゃう?」
「え、カラオケ? どうしよっかな~」
 彼女が表情をきらめかせる。
 飯塚はジンを煽りながら頷いた。
「あんま飲むと喉焼けて歌えなくなるかなぁ」
 そう言いながらグラスを更に傾ける。彼女が焦った様子で飯塚の袖を引っ張った。
「ええ、じゃあダメダメ。もっと聴かせてよ。好きなの歌って欲しいし」
「何が好きなの?」
「ほら最近流行ってるじゃん、あのバンド……」
 バーテンダーが肩をすくめ、飯塚を見ているのが目に入った。
 飯塚は茶化したウィンクをしてみせる。
 彼女はすっかりその気だ。バッグとジャケットを手にし、飯塚の腕を取って立たせようとしている。
「この子の分も俺につけといて」
「はいはい」
 マスターがあっさりと応え、飯塚は彼女と二人で風の強い夜の街へ繰り出した。
 カラオケで適当に時間をつぶし、彼女の部屋で一晩過ごすと飯塚は空の白いうちに出て行った。
 仕事場である自動車の整備工場につくと、作業着に着替えて近くのコインランドリーへ。
 石けんのいい香りが充満する中、数日分の衣類を詰め込みスイッチオン。
 かれこれ3週間、こんな生活を続けすっかり慣れてしまったものだった。
 飯塚は現在ホームレスである。
 ちゃんとした仕事はあり、夜のバーで歌えば副収入も多少は手に入る。
 だが家がない。
 燃えたからだ。
 一人都心に出てきてからずっと狭く古いアパートに住んでいたが、隣人のタバコの不始末でアパートは全焼。
 不幸中の幸い、死傷者はゼロ。飯塚はバーで副業中だったため、ギターも手元に残ってくれた。
 ただし衣類や家具はもちろん失った。
 そして新たな家を探す手間を嫌ってホームレスとなったのである。
 今はまだ初秋だ、25歳と若く健康に恵まれた飯塚はのんきにしているが、流石に寒気が顔を覗かせる昨夜などは焦ったものである。
 運良く女性からのナンパで夜を屋内で過ごせたが、さて今日はどうなることか。
 整備工場に戻ると先輩である城島が飯塚に声をかけた。
「飯塚。今日合コンなんだよ、顔出してくんねえ?」
「人数合わせっすか?」
「違う、違う。いい感じのムード作って欲しいわけ。お前は歌手の役目に徹底な」
「え~。じゃあ俺への報酬は?」
「そうだな……今日はどうなるか分からないから、そうだ、肩たたき券ならぬ、お泊まり券だ」
 城島はその場で”一泊二日 夕食朝食つき ただし飯の文句は受け付けない”と書いて飯塚に渡した。
「これって何回まで有効ですか?」
 飯塚がにやにやして言うと、城島は”一回に限る”と書き足した。
「いいっすよ、やります。店はどこですか?」
「駅地下のバル。あそこステージあるじゃん? そこで盛り上げてくれたらいいよ」
「甘ったるーく歌えば良いんすね」
「目立ち過ぎんなよ、ムードだけ作って」
「はいはい」
 飯塚はメモを胸ポケットにしまうと、入ってくる車に向かっていった。

***

 白い手袋を外し、湿度を調整すると最後に展示作品の説明文を設置する。
 律は息のつまる一瞬を乗り越え、ガラスを締めると鍵をかけた。
 後はガラスを磨き上げるのみ。
 従業員控え室に戻り、落ちないようきっちりまとめた髪を指先で撫でる。
 後輩の横山美穂が声をかけてきた。
「先輩、これどうですか?」
 明るい栗色の髪を指さし、美穂が褒めて欲しそうに笑みを向ける。
「染めたの? ちょっと明るすぎない?」
 律は彼女の髪を見て正直にそう言った。
 美術館の照明は少し暗く、かと思えば白く光るようだ。彼女の今の髪色は見ようによっては浮いてしまう。
 家では丁度良い色に見えたのかも知れない。
 美穂は「え~」とショックを受けた顔を隠さない。
「ちょっと待ってて」
 律はそう言うとポーチを取り出し、美穂の前髪を分けてやるとピンで止める。
 額が現れると眉が綺麗に見えた。
 律はさらに黒のベルベット地のリボンを、美穂のお団子に巻いてやる。
「うん。これなら大丈夫」
 美穂は鏡をのぞき込み、頷いた。
「やったー。ちょっとキレイめになりましたか?」
「多分ね」
 律は案内地図を見ながら緑茶を飲んだ。
 客に説明を求められた時、応対するために香りのきつい飲料を飲んではいけない。
 フェイスガードはつけるが、香りはごまかせるものではないのだ。
 新型ウィルスのため美術館は一時閉鎖されていたが、おしゃべりをするような空間ではない。
 換気を良くし、感染対策をするならと再び開くことになったのだ。
 美穂はその間に家でヘアカラーを変えたようだ。律はその興味がないため、黒髪が伸び放題。前髪もないため特に困りはしなかったが、恋人の佐竹の髪を初めて切った。
「お客さん来ますかね?」
「前評判はいいみたい。おしゃべりしなくていいし、広い空間だから大丈夫かもって。入場制限もかかるからね」
「良かった。貯金ピンチだったんですよ。でも先輩、どうでしたか? 長く彼氏さんと一緒にいたんでしょ?」
 喧嘩とか、あるいは結婚の話とか、と美穂は無邪気に訊いてきた。
 律と佐竹の付き合いは長い。高校生の時、2歳上の佐竹と出逢って、告白されたのだ。それから11年が経つ。
 今でも関係は良好だ。自粛中も特にトラブルはない。佐竹が料理をすると言い出し、見事に失敗したのを思わず笑ってしまって機嫌を損ねたくらいだろうか。
美穂は律から話を聞いて、目をきらきらさせている。恋に恋する、とはこのことだろうと律は思う。
 それほどきらきらした生活ではないのだが。
「だって憧れます。高校生で付き合って、そのまま大人になってもラブラブなんて。あたしに彼氏が出来たら秘訣を教えて下さいよ」

***

「結婚かぁ」
 律は帰り道でぽつりと呟く。
 その話は佐竹から出たことがないし、律自身も意識しないでいたのだ。
 このままの暮らしを疑わなかったせいか、いまいちピンと来ない言葉だった。
(確かにもう26だし、そろそろ結婚するのが自然か……お見合い話が来るくらいだし)
 佐竹が見合いをするのは明後日だ。
 一張羅のスーツ。
 恋人の見合いのためにそれを用意する、というちぐはぐな感覚を味わいながら、律はクリーニング店から出た。
 都会の夜は明るい。
 明るいがどこか危うい。
 ヒールをコツコツ鳴らし、二人で暮らすマンションに入る。
 慣れた光景、慣れた行動。
 エレベーターの壁に背を預け、天井を見れば無機質な白い光。
 何もかもがいつも通り。
 部屋に入ると電気をつける。
 律の仕事はいつも定時に終わる。残業は少ないため、家事のほとんどが律の担当だった。
 給料も仕事時間も佐竹の方が多い。
 今日も佐竹は遅くなるようだった。
 律は一人湯船につかり、じわじわと体をほぐした。鏡に映る、頬を赤くした自分の姿。
 立ち上がると女性らしい体のラインが白い湯気の中に見える。
 何も変わらない。
 佐竹が帰ってくると、ほんのり漂うお酒の匂いに眉を寄せた。
「飲んでるの?」
「飲まされたの」
 佐竹はそう言うと、律を抱きしめた。
 熱く感じる体温に、律は驚いた。
「熱があるんじゃない? 秀君」
「熱? ないって。顔見せて」
 佐竹は律の頬を両手で挟み、じっと見つめると頷いた。
「律」
「な、何?」
「待っててくれたの?」
「ご飯のこと? そうだけど」
「そうか……俺は果報者だなぁ」
 佐竹は機嫌がいいのか、律をもう一度抱きしめてから身を離し、テーブルについた。
 律は冷蔵庫からビールを取り出し、佐竹を振り向いた。
 佐竹は箸を構えたまま、テーブルに突っ伏して上半身をゆっくり上下させている。
「秀君……ねちゃったの?」
 声をかけるが、反応がない。
 律はふう、と息を吐くと毛布を取り出し、肩からかけてやった。
 彼の肩甲骨のあたりを撫でて、自分で切った髪の毛を見つめる。
 頬杖をつき、思わず呟く。
「私たちって、これからどうするのかな」

***

ずっと探してたんだ、君のこと
君こそ俺にとってのオンリーワン
永遠の愛を誓うよ……

 いつぞやの定番文句を鏤めた歌を、うるさくない程度にこってりと歌う。
 合コンはなかなか盛り上がっているようだ、10人が参加した中、カップルが3組ほど出来そうである。
 飯塚のタイプの女性はいないようで、歌うことにかなり集中出来た。
 トイレに行く城島に連れられ、そのまま洗面台の前でもう一枚”お泊まり券”を手渡される。
「まじイイ感じ。サンキューな」
「やりがいありますねえ、食事もおごってくれるならもっとやりますよ」
「それ、今度のデートの時に頼むわ」
「へえ? ちゃんと付き合うつもりで?」
「今回はヤリ目じゃないの」
 城島はやけにまじめな顔を作ってそう言う。
 飯塚はふうん、と生返事を返した。
「まあキューピッドになれたみたいで良かったです」
「エロスの方かもな」
 お前の声って「クる」みたいだ、と城島は言うと席に戻っていった。
 隣に座るニットワンピースの女性といい雰囲気のようだ。
 彼女は清楚な雰囲気で、確かに遊び目的で誘える気配がない。
 城島の話をにこにこ笑顔で聞いていた。
「おめでとうございますって感じだな……おんっ?」
 ポケットに入れていたスマホが振動する。
 メッセージだ。
【今どこをほつきある衣Tえる?」
 飯塚は首を傾げた。

***

 飯塚は小さい料理店ののれんをくぐる。
 メッセージの送り主が店主をやっている和食の店だ。
 中は日本酒の蔵のような、どこか重く暗い、しかし落ち着いた雰囲気のある店で、訪れる客層は店主と同じ60代が多い。
「譲くん、こんばんは」
 顔見知りの客が酒杯を持ち上げ、挨拶した。眼鏡の奥の深い笑いじわ。
 飯塚を気に入ったらしい彼は、何かと声をかけてくるのだ。
 飯塚も頭を下げて返事する。
「こんばんは。お久しぶりです」
「いや久しぶりやね。ここんとこ店来られへんかったやろ? 自粛解除したからちょっと顔出したいな思ってね」
「相変わらず関西丸出し。東京で睨まれませんか?」
「どやろね。これでもよそでは大人しくしてんねんで」
 飯塚は彼にすすめられるまま、カウンター席に座る。おちょこが手渡され、そこに熱燗が注がれた。
「まあ飲み。冷えてきたしな」
「いただきます」
 飯塚はおちょこを傾けた。じっくり味わうと白ブドウのような甘さを舌に感じる。
 眼鏡の彼は満足気に頷いた。
「ええ飲みっぷりやわ。うちの若いのはアカン、酒の種類すら覚えへんのやて。飲むんがそもそも悪い行為や思てる」
「もったいないですね。どの酒もちゃんと飲めば味わい深い飲み物なのに」
「そやろ? 土地も空気も水もなんもかも集約されたもんは酒以外ないな。酒は飲まれるのが悪いねん、酒が悪いんとちゃう」
 飯塚は頷き、肩の力を緩めた。
 店の雰囲気もあるが、客も気のいい人が多い。
 飯塚にとっては無防備でいられる場所でもある。
 奥から店主である太田が現れた。手には魚の煮付け。醤油のまったりとした匂いがたまらない。
 飯塚の腹が反応した。
「食わせないからな」
「わかってるって」
 太田は眼光するどい、恰幅の良い男だ。64歳になるが現役で調理場に立ち続けている。
 客に煮付けが運ばれ、カウンターに戻った太田に声をかける。
「これ意味不明」
 飯塚は太田にメッセージを表示して見せた。
 眼鏡の彼が興味深そうにしていが、太田は気にせずスマホに顔を寄せる。
「なんだこりゃ」
「聞きたいのこっち。何て送ったつもりだったんだよ」
「”今どこをほっつき歩いてる?”」
「あー……なるほどね」
 飯塚はスマホを直す。太田が飯塚に向き直った。
「で? どこをふらふらふらふら」
「その辺」
「危ないだろ」
「今んとこ大丈夫」
「おネエちゃんに世話になってるのか? 全く、情けない」
「仕方ねえだろ。別に俺が世話焼いてって言ってるわけじゃねえよ。向こうが声かけてくんの。そっからはアレだよ、流れってやつ」
「それをふらふらしてるって言うんだろう」
「流石にガキじゃあるめえし、一応分かってるって。わきまえてる所はわきまえてる」
 飯塚は太田に対して遠慮がない。隣の眼鏡の彼が面白いものでも見るようにしていたが、「ふらふら?」と首を傾げると口を挟んだ。
「なんや、譲くんどないしたん?」
 太田が振り向く。
「こいつ、今ホームレスなんですよ」
「はあ? ホームレス?」
「人聞き悪いなぁ。別に家賃滞納とかじゃないですよ。家が燃えたんです。隣人のせいで」
「前にテレビ流れたやつか?」
「多分。テレビ見てないんで知りませんけど」
「知りませんけど、じゃない。今はいいが、お前、寒くなってきたらどうするんだ? 金がないわけじゃないだろ?」
 飯塚はうっと喉を詰まらせる。
 金があればもう少し何とか出来ている。
「なんや金ないんか」
「銀行は?」
「まあー、なんつーかー、銀行の貯金はあるけどー」
 元々少ない。
 タンス貯金はあったが燃えた。
 財布に残っていたのは数千円。
 おかげで副業三昧、寝泊まりはその時々でなんとかしているのだ。
 日銭を稼いだらコインランドリー、夜を明かすための漫画喫茶、コンビニ飯に衣服代。
 冬が来るのだ、暖かい服を買い込まねば。
「なんや大変やな。ちょっとでも足しになるかな……」
「いいですって、大丈夫ですから」
 眼鏡の彼が財布を取り出した。飯塚は慌ててそれを制する。
「貯金はあるんで、そんな深刻な話でもないんですよ」
「そやけど、若いのが夜に歩いとったら警察沙汰なんちゃう?」
「お客さん、お構いなく。たまにこの店でも泊まらせてますから」
「そうやとしても男が財布出しとんねん。恥かかすな、好きなん食べ。今日はおごったる」
 太田が飯塚にお品書きを手渡した。

***

 店の後片付けを手伝い、皿洗いを終えると座敷に寝袋を用意する。
 太田の好意で今日はここで夜を明かすことになったのだ。
 太田が声をかけてくる。
「金ないのか」
「ちょっとならあるし、毎日食えてるからそんな悩んでない。真冬になるときちいかな。でもそれまでにはある程度貯めてるはず」
「襲われたら終わりだろ?」
「かもな」
飯塚はそれでもなんとかなるか、とのんきに構えていた。根無し草の生活を少し気に入ってる部分もある。
 とはいえこのままでは仕事にも支障が出るだろう、最低住所は作らなければならない。
「面倒くせぇなぁ」
 思わず呟いた飯塚に、太田が毛布を寄越した。
「とにかく、やばそうだと思ったらうちに来い。働いたら寝床くらいは貸してやる」
 太田はそう言うと、2階の住居へ戻っていった。
 飯塚は受け取った毛布をかぶり、腕を枕にして天井を見つめた。
 太田との付き合いは長い。
 10代で上京した飯塚は、ある日バイト先のレジの金がなくなってしまった時に疑いをかけられた。
 飯塚はもちろん盗んでいない。
 盗んだのはバイトリーダーだったと判明するのだが、飯塚は気分を害し、店をやめた。
 警察署から出てくる少年の姿に周りはどう思ったのだろうか。
 一様に眉をひそめ、飯塚を避けるようにしていたが免許更新に来ていた太田は違った。
 警察署の玄関で警察官に肩を叩かれ、「ご協力ありがとうございました! もう帰って良いよ」と声をかけられている飯塚の腹が鳴った時、店に連れてきてくれたのである。
 以来飯塚と太田はことある毎に顔を合わせ、親子のようでそうではない関係を築いたのである。
(なんとかしねぇとな)
 太田の心配を感じてそう考え、財布を取り出して確認するお札。
 20万近くは貯まっていた。

 

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