琴が帰国し、3日が過ぎた。
歯ブラシもクッションも枕も再び並び、テーブルに二人分の椅子が並ぶ。
以前と違うのは、それらは急ごしらえではなくちゃんと琴のために用意されたものだということだ。
少しずつ日常が戻り、琴の仕事は増えたが以前ほど忙しくない。
彼女自身でペースを落としたからだ。
退所を告げ、引き留められたが琴の意志は固く、やがて2ヶ月後に退所が決まる。
それを伝えるとカリナが寂しがったが、会えなくなるわけではない。必ずユーチューブに呼んで、と言われて琴は流石に泣いた。
事務所からの最後の仕事相手はやはりミクだ。退所の3日前のことだった。
映画の宣伝ポスターですっぴんに近い顔をしたが、それが「女の子って感じで可愛い」と評判になり、有名デザイナーによる新作ウェディングモデルをつとめることになったのである。
結婚の価値は時代により上がったり下がったり。
どうであれ当人達が決めることで、流行に左右されるものではない。
デザイナーの彼女はもはや世間の評判を気にしておらず、ただ誓いをたてる恋人達の願いを聞き入れた、個別注文のデザインを主としていた。
今回はそのデザイン案の一つとしての和装と洋装を混ぜたような不思議なデザイン。裾はマーメイドラインだが、後ろに長く伸びて、どこか天女のようでもあった。
ミクによく似合っていた。
「ねえ、あたしが結婚するってなったら……」
琴が明るい赤を使ってメイクしていると、ミクがそう口を開いた。
「琴さんにブライダルメイクをお願いするね」
琴は何度も頷き、目元をこすって涙を拭うとメイクを完成させる。
きっとその日は来るだろう。
琴はそう確信し、完成させる。
胸にすっと穴が開いたように感じ、息をすると痛いくらいに新鮮な風が入ってくる。
仕事を終えると足に羽でも生えたかのように軽く、自然とスキップしてしまう。
さらに日が流れるとウェディングドレスの店に、ミクのポスターが貼られている。
もうすぐ6月になるからだ。
琴はそれを見る度誇らしい気持ちと、ミクへの感情で胸がいっぱいになった。
その隣には映画館の宣伝ポスター。
マティス監督の映画が公開され、派手に受けたわけではないがじわじわと評判になった。
映画館での公開は予定通り終わったが、コアなファンが出来たようで、半年後に再び公開されることになる。
琴は五重塔のことを思い出す。
琴は都筑にその仕組みを聞き、マティスが言ったことを理解した。
――心柱のことだと思うけど、そうだな、君自身が心柱だとする。
五つの階層はそれぞれフラフープだ。
そのどれとも心柱はくっついていない。
地震が来たとき階層はあちこちに揺れるけど、心柱がそれを緩くつなぎ止めるんだよ。
押さえつけるわけではないから地震の力は留まらず流れ、柱にも階層にも負担はかかりにくい。
だから千年以上経っても、この地震大国日本でその姿を保ち続けてるんだ。――
流行や評判。
それらを上手くつなぎ止めておきながら同時にそれらから自由でいること。
流されずに自分を持つこと。
そしてその自分自身からもあらゆるものを自由にすること。
マティスはきっと、琴にそれを伝えたかったのだろう。
彼のことだ、城田や他のスタッフ達にも伝授しているに違いない。だからあの現場で城田も言ったのだ。
媚びてはならない、と。
***
都筑はjin's kitchenの予約が取れたことを琴に連絡する。
この頃店は予約が取りづらい。人数制限はまだ続いており、宅配に回すためかなり手が回らなくなったようだ。
光香は店の味が変わるのを怖れて、人手を急に増やすことは考えていない。
だが若い従業員を二人新しく雇い、彼らに店の味を教えている最中らしく、そのうち余裕が出来そうだと話していた。
「久しぶりにお店に行きますね」
家に着くと琴はすっかりお出かけ用に準備を整えていた。
薄紫のワンピースを着て、色を押さえたメイクをしている。
「ああ」
「嬉しいなぁ。光香さん元気そうでした?」
「相変わらずだったかな。佐山君もちゃんとやってるようだし」
車に乗って夜のドライブへ。
慣れた道だが、季節の変わり目にふと出逢った時を思い出す。
出逢ってから3度目の夏を迎えようとしているのだ。
都筑は車のポケットに一度だけ視線をやり、道路に視線を戻す。
「そろそろだよな」
「ん?」
都筑の呟きに琴が振り向き、都筑はなんでもない、と言ってごまかした。
店に着くと光香が出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
かつてのカップルシートに案内され、座ってメニューを受け取る。
光香は嬉しそうだ。というよりも、にやにやしている。
「何か?」
都筑がそれに気づいて視線をあげれば、光香は一人納得したように頷いて「何も~?」と返すばかりだ。
そんな彼女の首に、指輪を下げたチェーンがきらめいたのが目に入る。
「今日のおすすめで」
「二人分ですね。かしこまりました」
光香は注文を取るとキッチンに下がり、ホールを担当していた佐山とすれ違う。
彼の左手に、光香の首できらめいたものと同じデザインの指輪が光る。
都筑は思わず佐山に向かって笑みを向けてガッツポーズを作り、それに気づいた佐山が密かに都筑に向かってガッツポーズをしてみせる。
「なぁに、こっそり二人で」
琴はそれに気づいて訊ね、都筑は彼女に視線を戻すと目元を和らげた。
「後で話すよ」
食事を終えて、最後に一度だけ店を振り返る。
光香と佐山は相変わらず何か言い合って、しかし慣れた様子で互いの肩を撫でる。
その様子に都筑はほっとし、琴が白いストールを肩にかけながら口を開いた。
「後で話すって、何ですか?」
琴の質問に都筑は店を見るよう促す。
「?」
「オーナーと佐山君。無事につきあい始めたらしい」
「えっ!」
琴は目を丸くし、徐々に口角をあげた。
「そうなんですか!?」
「ああ。おそろいの指輪をつけてた」
「えぇ~! あっ、それでガッツポーズ? 普さんは知ってたんだ?」
「佐山君が彼女に惚れてるってことはね」
「へえー! 知らなかった。でも良いなあ、なんか大人のカップルって感じ。そうなんだ、危機も二人で乗り越えたし、なんか憧れますね」
「……そうだな。彼は男だ」
琴は顔中にまにまさせながら何度も店に視線を戻す。
都筑はそんな彼女の手を牽いて車に戻り、発進させた。
「いつから知ってたんですか?」
「いつから……覚えてないな、店にけっこう通ってたし。君と出逢う前にはそうかなって感じてたけど」
「そんな前に?」
「ああ。琴、ちょっと遠回りしようか」
「はい」
都筑が走らせたのは、かつて二人で行った夜の海だ。
夜景のスポットでもないが、それでも海面に反射するライトも、潮風も、懐かしさと共に新鮮さを伴って美しかった。
「懐かしい。はじめてデートした場所」
「覚えてたのか」
「うん。ここ好きですもん。なんか秘密の場所って感じ」
風の流れも良く、人気もない。
それに、無骨に積まれたテトラポットが二人を隠してくれているようだった。
「確かにここでデートしようと選ぶ奴はいないな」
「あはは! 普さんってマニアック」
「だな。自分でもわかってるよ」
琴は無邪気に笑って、砂浜に降りると近くにあった倒木に腰を下ろした。
白いストールが潮風に揺れている。
都筑はどこか儚げなそれを手に取って、彼女の側に座ると存在を確かめるように頬を撫でた。
「どうしたんですか?」
「いや……」
手を下ろし、息を整えると驚くほど心臓が早く強くうち始める。
(こんなに緊張するのか)
ジャケットに入れた小箱が重いようで軽く、何を言うべきかもわかっているのに口が渇いて上手く話せない。
「普さん」
琴が心配そうに都筑をのぞき込み、彼女の指先が都筑の手にそっと触れた瞬間、都筑はぱっと顔をあげて言った。
「俺と結婚してくれ」
琴の動きが止まり、都筑はまさか聞き取れなかっただろうか、と言い直すべきか迷う。
永遠にも感じるほどの彼女の沈黙。
琴は何か言おうとしてか、唇を開いては閉じ、を繰り返し、弾かれたように立ち上がると、走り出した。
「琴?」
琴はそのまま堤防の柱に隠れ、顔だけ覗かせるといたずらっぽく笑みをつくる。
「空港の続き!」
そう言うと再び走り出す。
都筑はふっと肩の力を抜いて頬を緩めると、琴を追いかけて走る。
白いストールが風に乗り、都筑の視界で彼女の存在を確かに浮きだたせた。
さすがに脚の長さは違う、先に走った琴だが、都筑はあっさりと彼女に追いつき、琴をテトラポットに追い詰める。
手を伸ばせば触れられる――だがその時、琴の方から抱きついてきた。
「えいっ! 私の勝ち!」
「なんでそうなるんだ」
そう言いながら都筑は彼女の体をぎゅうぎゅうにして抱きとめ、肩に顔を寄せて髪を撫でる。
「返事は?」
都筑が急かすと、琴は背中に手を回して何も言わないままだ。
都筑は琴の肩が震えているのに気づき、そっと身を離して頬を包む。
上向かせると琴は頬を涙でたっぷり濡らしていた。そして頷く。
「俺の妻になるんだな?」
琴は再び頷く。
都筑がほっとして目元を和らげると、琴は両手で都筑の頬を包んだ。背を丸めてやれば、琴はつま先立ちして口づけてくる。
「普さんと結婚する」
「ああ」
「さっきは私の勝ちでしょ?」
「……そういうことにしておく」
「じゃあ勝った人にご褒美は?」
「……そうだな……」
都筑は目を閉じ、琴を抱きしめると言った。
「ずっと君を愛し続けるよ」
ジャケットから箱を取り出し、指輪を見せる。
琴が左手を都筑に差し出し、その薬指に二つ目のリングが綺麗に収まった。
「ありがとう、普さん」
琴はそう声を震わせて言うと、都筑を抱きしめる。
「愛してます」
琴の震える声が、鼓膜から胸にすとんと入り込んで体を熱くさせた。
18歳以上の方はこちらへ→第20話 誓った夜に(官能シーンあり)
18歳未満の方はこちらへ→最終話 光の差し込む場所