琴はほんのり桃色の白い肌を前に、化粧筆を構えていたが、やがてそれを下ろした。
「……決まらない」
そう呟いて項垂れる。
周りにはマティス、城田、ミクや塚田はもちろん、他のスタッフもいる。
琴の前に座るノエルは髪をまとめ、デコルテも肩もむき出しにしていたが、琴が筆をおろすとガウンを羽織り直して足を組んだ。
「日本人の肌じゃないものね」
ノエルはそう言ったが、琴は首を横に振る。
「違うの、私に迷いがあるみたい。ごめんなさい、ノエル。せっかくメイクをお願いしてもらったのに」
「いいのよ」
ノエルは立ち上がり、琴の肩を撫でるといつものメイクアップアーティストのもとへ行った。
「ごめんなさい、監督」
「気にしないで」
マティスは琴の頬を軽く撫でる。
皆が撮影に向けて準備を始めた。
最低限の人数のためスタジオは非常に余裕があった。
ノエルは家の中で電話をかける設定だ。
受話器越しに聞こえてくる男性の声。
顔も見たことがない相手と間違い電話で知り合い、そのまま話友達に、という恋の始まりだ。
ノエルは椅子に座って器用にペディキュアを塗り始める。
「私の声が聞こえる?」
「その話し方好きよ」
「今日は元気がないのね」
聴覚以外の情報がないためか、意識は受話器から聞こえる声、話し方に集中する。
ノエル演じるヒロインは電話の相手の少しの変化に気づくようになり、徐々に彼の人柄に惹かれてゆくのだ。
琴はそれを見守りながら、ノエルを見つめていた。
無邪気な笑顔、よく笑う口元、目元。
時折見せる真剣なまなざし、相手を包み込むような柔らかい緑色の目。
光り輝くような彼女。
一体どうすればその魅力を引き出せるのだろうか。
「君の技術は素晴らしい。だけどミクのメイクは無難だと感じる。ノエルに対しても君の表現を求めたけど、出来なかったね。琴は何を迷う?」
カットがかかった後、マティスがそう声をかけてきた。
琴は思わず萎縮したが、彼にごまかしは通用しない気がした。
正直に話し始める。
「仕事が忙しくなって……誰かと向き合うことを忘れたんです。今久しぶりにノエルや、ミクさんとしっかり向き合っているけど、もやがかかったみたいになってて……彼女達の美しさが見つけられなくなっている……そんな感じです」
琴の説明を聞くと、マティスは頷いて腕を組んだ。
「それは僕にも経験がある。売れ始めた頃さ、周囲の期待に応えようと必死になってね。がむしゃらになるうち、たくさんのものを見失った」
「監督も?」
「ああ。自分を貫く……それが正しいと思う反面、それが強いと周囲と折り合わなくなってしまう。バランスだよ、それが狂ってしまった」
マティスの語りに琴は耳を傾ける。
マティスは琴に体を傾け、いつもの柔和な顔ではなく、撮影中のような真剣なまなざしを見せる。
「僕はね、日本の建物が好きだよ。五重塔って知ってるだろ? あれは素晴らしいよ。その仕組みを知るといい、きっと君の役に立つはずだ」
「五重塔って……」
お寺の建造物と、今の悩みと、どう関わるのだろうか。琴は首を傾げた。
マティスはそんな彼女に目尻の皺を深くして微笑みかけると「自分を大切にしなさい」と言って、行ってしまった。
琴は顔をあげ、彼の背中を目で追う。
(五重塔?)
都筑なら知っているだろうか。
別荘に戻り、ミクのメイクに向き合う。
琴はつけまつげを彼女の眉にしようと考え、その調整中だった。
つけ終わると塚田がスマホで撮影、それを見ながら「これはきつすぎる」、「これは丸すぎる」、と意見を出し合う。
ミクは食事と運動の成果か、肌はしっとりすべすべを保ち、色の調子も良かった。
そばかすは肌の綺麗さのおかげか、むしろチャームポイントに見え始めている。
「髪色も変えちゃう?」
とミクは自ら提案してきた。
「髪色は……どうでしょうか」
琴はすぐには返事が出来なかった。
もやがかかっている。そのせいだ。
「まあまだ時間はあるし。それよりさ、ミク宛てにまた届いたよ。ポストカード。今日はこれ、スミレの花?」
「うそ」
ミクは顔中に喜色を表し、塚田が差し出したポストカードを取ると、そのスミレの花を手でなぞり始める。
「この映画のテーマ通りだわ」
塚田はほおづえをついてその様を見つめた。
「ねえ塚田さん。五重塔の仕組みって知ってますか?」
「五重塔~? 知らない」
やはり、と琴は肩を落とした。
流石に目が疲れ、パソコンで調べようにもなかなか気が進まない。
ちゃんと知ろうと思うが、その時に限って別の用事が入り込んでくるのだ。
翌日、撮影が午前中に終わるとノエルが琴を誘い出した。
ミクと塚田も呼ばれ、城田をドライバーに街へ出かける。
ミクと歩いた通りだ。
ラファエルの店があるはずだが、今はどこもウィルス対策の時間制限のためかシャッターが閉じられている。
雨上がりの石畳はつやつやと濡れ、道路の水たまりは晴の空と雲をうつしている。
車から降りると、雨で洗われた空気が肌に触れる。
「夜になると街の電飾が美しいのよ。でも紹介したいのはこっち。ついてきて」
ノエルが手招きし、案内したのは通りを抜けたさらにその先。
草原の中に古びた聖堂があった。
「ここでは天使ガブリエルを祀っているのよ。女性を守ってくれるから、あなたたちをぜひ連れてきたかったの」
「ガブリエルに、ラファエル」
ミクがつぶやく。
ノエルは古びた木製のドアを開いた。蝶番の錆びた音がして、開かれる。
太陽光がステンドグラス越しに入り込み、金で飾られた祭壇を照らしていた。
白い壁は手で塗られたようで、どこか柔らかい印象を与えている。
外と違い、空気はしんと鎮まって、皆の靴音が心地良く響いてくる。
「可愛い」
塚田がそう声をあげた。
城田はカメラを構え、あちこちを撮影し始める。 ステンドグラスのおかげなのか光はあちこちに散らばって、優しい光をたたえていた。
祝福されているかのような居心地の良さに、琴は自然と笑みを浮かべる。
「モン・サン・ミッシェルほど有名じゃないけど、こういうのも良いでしょ?」
ノエルはそう笑った。
彼女自身がガブリエルみたいだ、と琴は感じる。 ノエルの光を集める頬、ふっくらとしたボディライン、白のコートは優しげでよく似合う。
城田がカメラを彼女に向けた。
シャッター音が小気味よく鼓膜に響く。
店は開き始めていた。
店員、店主が看板を出し、靴屋が彼女らに声をかける。
ミクは気もそぞろと言った足取りだ。早くラファエルに会いたいのだろう。
琴はそのわかりやすいミクの態度に頬を緩めた。
「琴さん、笑わないの」
「だって」
と、隣のミクに視線をやると、琴の視界にあの赤いコートが入ってくる。
まだ売れ残っているようだった。
「どしたの?」
ミクが琴の視線の先を見た。
「わお。可愛い綺麗」
ミクは足を止め、琴もそれにならった。
中の男性店員が気づき、笑みを向ける。
「ミクさん」
琴は彼女の袖をひっぱって促したが、ミクは笑みを返してショーウインドウを覗き込んだ。
「いいじゃん。ちょっとレトロなデザイン。琴さん似合うんじゃない?」
「でも……最近コート買ったばかりだし」
城田が二人の肩越しに覗いた。
琴をじっと見つめたかと思うと口を開いて言い放つ。
「あっちの方がいいね。これは似合わないよ」
琴は思わず「へっ」と声をあげた。
「え~、似合わないですか?」
ミクが半眼になって言うが、城田はお構いなしだ。はっきりとした口調で「似合うけど似合わない。君自身気に入ってないんじゃない?」
城田の発言に琴は目を丸くする。
その通りだからだ。
「着てみるといいよ。フランス人は飽きるほど試着するから、向こうもそのつもりだと思うよ」
城田に促され、琴は店に足を踏み入れる。
木板の床がブーツの踵に踏まれてギッと音を立てた。
壁一面に服が飾られ、お世辞にも片付いた店とはいえない。
だが揃えられているのはレトロなものから定番のもの、なかなかお目にかかれない、奇抜なデザインの服が多く、ちょっとした宝探しのような気分になった。
ノエルや塚田も入ってきて、「面白ーい」と楽しげにした。
「ボンジュール」
「ボンジュール。前も見てたね、このコートだろ?」
店員の老紳士は琴を見るやすぐに気づいたらしい。
ショーウインドウのマネキンが着ていた赤いコートをすぐに脱がし、琴の前で広げてみせた。
琴は着ている黒のコートを脱ぐと、袖を通してもらう。
腕の長さも、肩のサイズもぴったりだ。
どきどきしながら前のボタンを止めると、不思議なくらいしっくりと体に馴染む。
まるで吸い付くようだった。
鏡が用意され、琴はその前で手を伸ばした。
「よく似合うわ」
ノエルがそう言った。
琴の長い黒髪が赤い生地に流れ、黒いボタンに馴染んでいた。
顔色も良く見え、膝が見え隠れする丈はブーツをはくふくらはぎを綺麗に見せてくれる。
ノエルは琴の髪を持ち上げ、アップにしたり、そのまま右だけに流したりして見え方を変えてくれた。
「どんな髪型でも似合うわ」
「靴でもいいんじゃない? ハイヒールもパンプスもいけそう」
ミクも覗き込む。
琴は自分にぴったりな着心地にうっとりする心地だったが、「でも」とつい口走る。
「コートはこないだ買ったとこだし……」
「黒なら持ってるだけでも損しないわよ、使い分けしたら? それにこの赤いコートなら長く着れるわよ。レディになっても、おばあさんになっても可愛いわ。あなたによく似合う」
「……」
琴は鏡にうつる自分を見つめ、何度も体を捻ったりして確認する。
城田が店員に断って品物のベルトを持ってきた。黒の細身、太いもの、更にリボンやペンダント、と様々に。
「襟を開いて胸元を出せばアクセサリーやスカーフも楽しめる。これを巻いてもいい。アレンジで楽しめるから、飽きないと思う」
「琴。服はブランドだとか、お値段で決めるものじゃないのよ。自分に似合うか? 自分に必要か? 愛着がわくか? 着倒すまで気に入るか? それが大事よ。どれだけ安いものでも、人によってはどんな高級品より価値があるものになるわ。気に入って、使えるものなら手にした方がいいわよ。それを着て色んな所へ行くの。あなただけの大切な思い出を作ってくれるわよ」
ノエルの言葉に琴は耳を傾けた。
琴はレジで値札を外してもらい、店を出た瞬間からその赤いコートを着始めた。
窓ガラスにうつる自分の姿に納得し、足取りも軽く気分がうきうきしてくる。
「わかりやすい」
とミクがからかうように言った。
「ラファエルのお店に行きます?」
「うっ……だって今ツアー中でしょ」
「休憩したいですよね。歩き回ったし~」
琴は塚田に声をかけた。
塚田は意味を察し、首を傾げたが「そうだね」と言う。
「ただしうつつを抜かさないでよ」
ミクは釘をさされたが、それでも嬉しそうに目尻を下げた。
城田もノエルもラファエルの喫茶店に入るとその展示される作品に目を輝かせた。
城田は絵画をじっくり眺め、塚田を捕まえて解説を始める。
塚田は呆れたような顔をしたが、やがて城田の説明に耳を傾け、時折笑顔を見せていた。
琴はミクを一人にし、ノエルの隣に腰をおろした。
「ミクさんと良い雰囲気なの」
と耳打ちすれば、ノエルはいたずらっぽく笑って「お邪魔しちゃ悪いわね」と返す。
やがてラファエルが注文を取りに現れ、ミクを見つけると屈託のない笑顔を見せた。
「やあ」
「ハーイ」
ラファエルは全員分の注文を運び、ミクの隣に座った。
「カードは届いてた?」
「もちろんよ。楽しみにしてたんだから」
「有名人の別荘だからさ、驚いたんだよ。映画の関係者?」
「あー……モデルで、女優なの。映画に出演するのよ」
ミクがそう言うと、ラファエルは目を大きく見開いた。
「恋する乙女よね」
ノエルはクッキーをつまみながらそう言った。
彼女の視線の先にいるのはミクだ。
琴は頷き、ショコラ・ショのカップを持ち上げる。
甘い香りが気分を落ち着かせてくれた。
「あなたには恋人がいるのよね」
「……うん」
「今日一緒に来れば良かったのに。ホテル?」
「え? 無理よ」
「無理? 日本にいるっていうこと?」
「そうだけど……」
ノエルは信じられない、と姿勢を崩した。
「3ヶ月も離れるのよ? どうして一緒じゃないの?」
「え? だって、仕事だから……」
「信じられないわ」
ノエルは身を乗り出し、琴の肩を抱いて顔を近づけた。
声の調子を落とし、こそこそと話し合う。
「大切な人なら、一緒にいるべきよ。仕事のために家族や恋人、友人を犠牲にしてはいけないわ」
「でも……でも、無理だわ」
「無理って何? なぜ無理なの?」
「だって……彼にも仕事が」
「休みを取ればいいじゃない。代わりはいないの?」
ノエルの疑問に琴はすぐに答えられない。
何をそんなに驚くのだろうか。
「人生は限りがあるのよ。3ヶ月のうちの何週間でもいい、休みを取って一緒に過ごす時間を作るの。私たちならそうするわ」
「でも日本じゃ普通のことよ。単身赴任もそうだし、出稼ぎもある。ずっと一緒にいることが出来ない人もいる。連絡は出来るし……」
「そういう人もいるのは理解しているわ。だけど今回のことは選択の余地があったんじゃなくて?」
ノエルの指摘に琴はうっと詰まる。
琴自身も都筑に相談したかったのだ、3ヶ月も離れることになるのに、と。
ところが都筑はあっさりと自分で決めるよう言ったのだ。
都筑が琴の仕事や夢を理解してくれているのは事実だが、あまりにもあっさりではなかったか。
琴が両肘をテーブルについて表情を固くすると、ノエルはそんな彼女を励ますように肩を撫でた。
「もしかして、何かあったの?」
「何か……ううん。何も、何もないの。……何も、ないの」
「ない?」
「会話も、スキンシップも……セックスも」
一度話し始めると、ブレーキが壊れてしまったのかぼろぼろと不満がこぼれる。
「いつからか分からないの。でもずっと、しっくり来なくって。彼の態度がずっと、よそよそしく感じるの」
「彼から愛の言葉は?」
「……そんなに頻繁にしないのよ、日本では」
「ふふ。知ってるわ。でも感じるものでしょ?」
ノエルは目を細めて笑う。静かな笑みだ。どこか寂しげな。
琴は思い返す。都筑の態度も、琴を見つめるまなざしも、触れてくる手も、抱きしめる腕も、全てが琴に愛を伝えている。
それを思い出すと胸が震え、涙が滲んでくる。
言葉には出来なくて、琴は頷いた。
ノエルは琴の肩を撫でる。
「彼がまだ好きなんでしょう?」
琴は頷き、流れる涙を拭うと答える。
「きっと、好きになりすぎた」
「好きだけじゃ、乗り越えられないものってあるわよね。理解してるつもりですれ違うことも。私も若い頃はある男性と恋に落ちて、のめり込んだことがあるわ。ある日好きで好きでたまらなくなって、首をしめたことがある」
ノエルの言葉に琴は目を見開く。
「不思議でしょ。もしかして思ったことある? 好きすぎて殺したくなるって。殺してないわよ、もちろん。向こうも笑ってたくらいよ」
「……」
琴はあるとは思わなかったが、ないとも思えなかった。
「自由になりたかったのよね、きっと。好きなんだけど、その恋心に囚われてしまって。それって恋だとか愛だとかっていうより、ただの甘えなんだわ。自分自身が虚しかっただけなんだわ。だから思い切って別れたのよ」
「その人とはどうなったの?」
「うーん。別れてしまうと何だったのか分からなくなったの。恋に恋してたって奴かしら。相手の顔すら想い出せないわ。とにかく私は自己確立をしないとと思って、仕事に本腰を入れたのよね。そして出逢ったのよ、運命だって思える人に」
「運命……」
琴が繰り返すと、ノエルは頷く。
「ノエル、恋人がいるの?」
「ええ。あなたも知ってるわ」
「えっ……誰?」
琴は天井に視線をやって、フランスで知り合った人物を並べてみる。そして浮かんでくるのは目尻の皺の深い、恰幅の良い眼鏡の男性。
「まさか……監督?」
「そのまさかよ」
琴は口を開き、何か言おうとしたが結局言葉が出てこなかった。
彼女と監督では親子ほど年が離れている。
が、それほどの差を感じさせない空気が確かにあったし、違和感もない。
「……そうなのね」
「そう。交際がバレた時は色々言われたわよ。枕女優、監督の遺産目当てってね」
しかしノエルはそれを気にした様子もない。あっけらかんとした態度だった。
「ねえ、この人と出逢うために生まれてきたんだわって、思うのよ。マティスと出逢うためにって。彼の作る作品、彼の魂、彼の情熱、それを語る存在になれたら嬉しいのよ。年齢で言えば彼が先に死んじゃうかもしれないけど、こうして一緒にいて、心が通じ合っていると、きっと彼の死後も、私達はずっと一緒だって信じられるのよ。どうせ私もいつかは死ぬしね」
琴は目をぱちぱちさせる。
そこまで深く、何かを感じることがあっただろうか。
そこまでの絆が都筑との間にあっただろうか。
「セックスだけが愛の全てじゃないのよ。色んな形があるわ。未亡人の女性がいるけど、彼女は今でも夫を愛してる。そこに過去ばかり見てと言う人はいるけど、彼女にしてみればそうじゃないのよね。愛してるかどうかが大切なんだわ、愛されてるかどうかよりも。今回の映画もそうよね。直接会えなくても愛を伝える人々が主人公よ。電話、インターネット、手紙……色んな形でね。セックスがないって言ってたけど、それを気にしすぎる必要はないのよ」
「だけど女性として見られてないのかって……」
「彼の気持ちは彼にしか分からないわ。あなたはどうしたいの?」
「……ノエルと監督ほどの信頼関係にないの。運命じゃないのかな」
「信頼は築いていくものよ。彼と出会ってもう8年になるのよ、出逢った当初はそれどころじゃなかったわ。それで、琴はどう思ってるの?」
琴はゆっくりと思い出す。
都筑と出逢えたのは奇跡のように素晴らしい出来事だった。
生まれてきてくれて嬉しい、そんな想いでいっぱいだ。
隣に立つに相応しい女性になりたい。
一緒に歩いて行くパートナーになりたい。
「……普さんと……ずっと一緒にいたいの。昔に戻りたいとは思ってない。これからを一緒に歩いて行きたい。ただ、なんていうんだろう……ずっとしっくりこなくなってて、それがすごく気になるの。大切なものが、抜け落ちてしまった感じがしてて……」
琴は両手でショコラ・ショのカップを包む。
指先が温まり、ほっと気持ちが解れていく。
「それを彼にちゃんと伝えた?」
琴は首を横に振った。
「それはだめね、ちゃんと話さないと。お互い理解してるつもりですれ違うことになるわ」
「そうなの?」
「そうよ。お互い独立した存在なんだもの。話さなくても分かってくれる、なんて、愚かな誤解よ。大人なら自分の言葉に責任を持たなくちゃ」
ノエルの厳しい言葉に琴は目を丸くし、なぜか納得してしまう。
「喧嘩もしなさい」
「……ノエルも監督と喧嘩するの?」
「たくさんするわ。年齢なんて関係ないのよ。どっちがどっちより偉いなんてことはないのよ」
琴はすっきりした気分になっていた。
そうだ、都筑に遠慮していたのは琴も同じだった。
自分はどうしたいのか、そして都筑がどうしたいと思っているのか。それは伝えなければ伝わらないのだ。
都筑と話し合わなければならない。
その覚悟が決まり、ようやく頬に笑みが戻ってくる。
「ありがとう、ノエル」
「いいのよ。人生には愛がなくちゃ」
ノエルはミクに視線をやった。
琴もそれに習う。
ふと見えるのは、さっきとはどこか違う風景。
風景は変わらないのだ。
ただ、琴の目が変わっていた。
色彩が戻ってきて、立体感を伴っていたのだ。
きらきらと視界は開けている。
目から鱗とはまさしくこのこと、と琴は一人感動し――見つけたのだ。彼女の色を。
「頬が……」
ラファエルと話す、ミクの頬。
頬から目元まで、まあるく染まるその色は。