小説 続・うそとまことと

第11話 穏やかな日々

 早朝、迎えの車が来て琴達は監督の別荘を訪れた。
 監督のマティスはシルバーに近い白髪を後ろでくくった、姿勢の良い髭のダンディだった。
 肌触りの良さそうなピンストライプのシャツは遊び心のある一つ一つちがうボタン。
 恰幅は良いが腹は出ておらず、年齢に合う見た目だが若々しい雰囲気。良い年の重ね方をしたのだなと感じられる人物だった。
 首に下げている眼鏡は半月型、マットなゴールドカラーでさりげなく蝶の羽が彫られている。
 塚田は自動翻訳機を琴とミクに渡し、さらにマティスのもとで働いている日本人の城田に通訳を頼みながらコミュニケーションを計った。
「来てくれて嬉しい。君のショーを見たよ、東洋的でありながらそれに傾かないバランス感覚の良さに尊敬する」
 そういうとマティスはにっこりと笑った。
 その目尻の皺の深さに惹きつけられる。
「君が琴だね。素晴らしい才能だ、女性はみなそれぞれ美しさを持っている。いかに引き出すかは我々にかかっているからね。きっと僕の仕事とも共通する部分があるだろう。良ければ助言を頼むよ」
 琴はその言葉にぐっと気を引き締めた。
 ずっと聞きたかった言葉だった――そう嬉しく思う。
「彼女は主役のノエル。主役といっても映画の軸ということだ。カップルの主人公は常にカップルだからね」
「まとめ役ってところかしらね。よろしく」
 マティスに手をひかれて挨拶をしたのは、琴も知っている女優のノエル・レフェーブル。
 朝の光を浴びる肌は色白も色白で、うっすら桃色の肌はすべらかで赤子のように美しい。
 しっかりした顎のラインに、すこし丸みのある女性らしい体つき。
 女神像のような肉感的な雰囲気は見る者に安心感と神々しさを与えた。
 それでも笑うと屈託がなく、親しみがあり、くるくると細かい金髪のウエーブがとても愛らしかった。
「すごく綺麗ね」
 琴が思わずそう言うと、自動翻訳機が文字通り自動で翻訳して伝えてしまう。ノエルはふふっと笑って琴の肩を抱いた。
「正直なお嬢さんね。あなたの信念に興味があるわ。聞かせてもらえる?」
 そう言ってゆったりと歩き出す。
 琴は振り返ったがミクも塚田もどうぞどうぞ、と見送る。

 マティスの別荘は庭が広く、職人が丁寧に手入れをしているようで、まるで動く絵画のようだ。
 ノエルに腕を組まれ、琴は庭を歩いていた。
 冬の空気はしんと冷たく、しかしその中でも緑色を失わない木々が多く植わっている。
 ノエルは琴を気に入ったようで、お互いを名前で呼ぶように言った。
 人なつこい笑顔は幼女のようで、しかしノエルの持つ雰囲気は母親のようでもあった。
 職人が土を掘り起こす作業をしていた。
 彼らの邪魔をしないよう歩いていると見つけたのは日本でも咲く椿。
 朝の太陽に照らされ、椿の蕾が今か今かと咲くのを待っている。
 そこに一輪、見事に咲くピンクの花が。
「椿……綺麗に咲いてる」
 椿が咲くのは春ごろのはずだが。
「一昨日も昨日も暖かかったものね。咲いたんだわ。あなたたちを歓迎したかったのかもしれないわね」
「まさか……」
 ノエルは庭師に声をかけた。
 彼はすぐに椿の花に手をかけ、はさみを入れる。
 ノエルに手渡される大ぶりの椿。
 彼女はその枝を琴の耳元に挿した。
 優しげなピンク色の花びらが、黒髪によく映える。
「いいの?」
「いいのよ。この寒さじゃ花も生き残れないわ。綺麗と言ってくれる人といる方が幸せよ」
 確かに虫もいない季節だろう。種を残すチャンスはないのかもしれない。
 琴は花の感触を指先で確かめ、頷くとノエルとまた歩き出す。
「女性の美しさって何だと思う?」
 ノエルの問いに琴はうーん、と唸った。
「母性、優しさ、包容力、慈愛……? ノエルはなんだと思う?」
「愛のために愚かになれるところよ」
 ノエルの言葉に琴はどきりとする。
「崖があるのに愛する男性に口づけされ、幸福な表情を浮かべている……でもそんなものよね。これが愛だと感じたら、その一瞬のために全ての人生を捨ててもいいと思えるもの」
「そんなに思えるもの?」
「琴は人を愛したことがないの?」
 ノエルの問いに琴は俯いた。
「愛……」
 その一瞬のために全ての人生を捨ててもいい……それが愛だとするなら、琴はそれを感じたことがあっただろうか。
 思い出すのは都筑との出逢い、仮初めの関係。
 失うかもと思った一瞬。
 琴を気づかうような都筑の目、瞳。
 琴は彼のその目が好きだ。その声が好きだ。話し方も、気づかうように触れてくる、ごつごつした指も。それらが伝える都筑の心が好きだ。
 だけど「愛」と呼べるほど、美しいものだろうか。深いものだろうか。
 都筑を愛しているだろうか。
「……わからない」
 琴はそう呟く。
 ノエルはそんな琴の肩を撫でた。
「簡単に愛を語れるものじゃないって、気づくのにも時間がかかるの。わからないって思うなら、きっとあなたが真剣に向き合ってる証拠ね」
 琴は顔をあげた。ノエルはゆったりと微笑んでそんな彼女を見つめている。
 琴はその柔らかいノエルの目に思わず、心に芽生えた疑問を言葉にしていた。
「恋はいつか、愛に変わる?」
 琴の問いにノエルは微笑んだ。
「ただの恋なら無理よ」

 別荘で初めての夜が始まる。
 日本からの3人を歓迎するためだが、ウィルス対策で人数はマティス、ノエル、城田と6人だった。
 ただしシェフに料理を手配してくれたようで、手の込んだフレンチ料理にワインと、それをくつろいだ雰囲気の別荘で、となれば何も不足はなかった。
 酒杯が進むと体が熱くなる。カーテンを開けて見れば星が見えた。
「星」
「ほんとだ~綺麗に見えるね」
 ミクが頬を赤くして琴の隣に並ぶ。
 ワインに酔っているのが丸わかりだ。
 これから3ヶ月過ごす別荘だから、酔いつぶれても……おそらく問題ないはず。
「いいな。ここ住みたい」
 ミクの言ったことを城田が面白がってマティスに伝えた。
 マティスは「ハッハ」と豪快に笑った。
「美しい女性なら大歓迎」
 と言うマティスの髪を、ノエルが引っ張った。

 マティスとノエル、城田がそれぞれ帰って行った。てっきり彼らも泊まるものだと思っていたが。
 とたん穏やかな雪の中、暖かい別荘に3人で過ごす。
 ミクは暖炉前のソファで寝ている。
 彼女はお酒が好きなのだが、酔いやすいのだ。
「困ったなぁ、もう」
 塚田が毛布を用意してやっていた。
 寝室は2階で、流石に連れて行けそうにない。このままソファで寝かせることにしたのだ。
 琴は二重ガラスの向こうの星を見つめた。
 ――この星の名前は?
 ――シリウス
 ふと蘇る都筑の声。
 同棲を始める前、都筑の持っていた宇宙の本を二人で読み、教えてもらったのだ。
 琴はふっと息を吐くと、ノエルにもらった椿の花を活けたガラスの皿に目をやった。
「これ綺麗。椿っていいよね」
 塚田がそう言う。
「フランス人がやるからおしゃれなんだよな~。あれ日本人がやったらキザだよね」
「髪に挿す?」
「うん。でも日本人て黒髪だから映えるよね。なんだかなぁ」
 塚田はそう言うと歯を磨きに行った。
 琴は椿を見つめながら思い出す。
 ――ただの恋なら無理よ
 都筑のこちらを見つめる瞳を思い出す。
 ――ずっと側にいてくれ
 琴はソファに背を預け、目を閉じた。

 朝の6時に目が覚めた。
 琴はスマホをチェックするが、連絡はない。
 確か日本はフランスより7時間進んでいるから、今は昼の13時だろう。
 時間は関係ないが、どうしてか都筑に挨拶を出来なかった。
 フランスの朝の支度は日本と違う。
 化粧水で顔を拭き取り洗顔がおすすめだったか。
 支度を整えると二人も起きてきた。
 琴は朝食の準備を始める。
 別荘にあるものは自由に使っていいらしい。
 卵、野菜、ベーコンにパンを見つけてさっそく調理開始だ。
 いつぶりだろう、こんなにゆっくりご飯に向き合うのは。
 新鮮な気持ちにうきうきする。
 7時になって朝食を終え、ミクがコーヒーを飲みながら言った。
「染みる。やっぱ人の作ったものっていいよね」
「頼りすぎはだめだからね。交替にする?」
 塚田が気を利かせた。
「適当でいいですよ。喫茶店とか利用しましょう」
「賛成」
「賛成」
 その時琴のスマホが鳴った。
 どきっとして確認すると、名前は都筑のものではなかった。
「お母さん」
「何、不機嫌な。フランスはどうなの?」
「静かだよ。皆優しいし」
 琴は二人から離れてキッチンに向かう。
「うん。監督さんと意見が合いそう。調子に乗るな? 分かってるってば。あのね、ああいうのはよくあって……ん? 私の映像? 何それ、ユーチューブの事?」
 琴はタブレットを取りに行った。
 ミクと塚田も何事かと視線で追う。
 琴はキッチンの床に座り込むとタブレットを起動させる。
 母が送ってくる、ワイドショーで取り上げられる琴の映像。
 どうやら、かつて学園ドラマで琴が女性スタッフに対して言い返したシーンを流しているらしい。
「あんたのこと、調子に乗ったメイクアップアーティストって叩いてるのよ。このスタッフさん色々言いふらしてるらしいの」
「ああ……そうなの。どうでもいいから」
「どうでもって。良くないでしょ」
「いいの」
 映像は上手く編集され、琴だけが彼女に何か言っているように作られていた。
 スタッフ最初の嫌味、後の機関銃の罵詈雑言は一切映っていない。それから、手元だけ映された匿名出演の彼女が映り当時のことを話している。
「驚きました。ドラマをご覧になれば分かると思うんですけど、ぜんぜん似合わないでしょ? 人それぞれを綺麗にするなんて言うから期待してたのに、なんだか女優さん達かわいそうで。しかもあの人、制作の後半来なくなっちゃったんです。どう思います?」
 とのことだ。
 琴は今更傷つくこともなく、やれやれと思うばかりだ。
「お母さん、気にしなくていいから」
「でも、言われっぱなしじゃないの」
「いいんだって。テレビってそんなもんだって普さんも言ってた。私がフランスにいて、反撃出来ないから言いたくなったんじゃない? 言わせておいたらいいの」
 琴が呆れた調子で話せば、母はうーん、と言ってから電波の向こうで頷いたようだ。
「強くなったね、都筑さんのおかげかな」
 琴は言葉につまった。
 通話が終わり、ミクと塚田が覗き込んだ。
「すいません、聞こえてましたか」
「まあね」
 塚田はさっそく検索を始めた。
 確かにネットニュースでもちょっとした騒ぎになっている。
 ついったーを見れば書き込みの嵐。
 だがほとんどが琴のフォローだった。
「気にすることないね」
 塚田が言ったが、琴は何一つ気にならない。
 あのスタッフの言うことも、ワイドショーの脚本も、もはや別世界の誰かの独り相撲にしか見えなかった。

 撮影現場に向かう前、琴が弁当を詰め始めると、スマホが鳴った。
 母からだと思ったが、今度は都筑からだった。
【おはよう。時間合ってるといいんだけど】
 という、あまりにシンプルな文面。
 琴は思わず笑ってしまった。

***

【こっちは朝の8時です。普さんに言うならこんにちは?】
 そう返信があり、都筑はふっと笑った。
 てっきり怒っているか、機嫌が悪いか。
 無視されるだろうかと思っていたからだ。
 1週間も連絡せず、連絡もされず。
 ベッドでは涙混じりの声で拒絶され、さすがに都筑は自己嫌悪でいっぱいだった。
 一体どこでこじれてしまったのか。
 琴がフランス行きを決めかねているようなのを、まさか都筑のせいで断念して欲しくない。
 ただでさえ同棲で負担をかけてしまったのだ。
 もし離れたまま暮らしていたら、彼女は誰に遠慮することもなく仕事に行けただろう。
【こんにちはだな。お互い出来る時でいいから、連絡しよう】
【そうですね。楽しみにしてます。ねえ何食べた?】
【今朝? 君が置いてったレシピを真似て、フレンチトースト。フランスを考えていたらそうなった】
【美味しかった?】
【美味しかったよ。君は何食べた?】
【ベーコンを焼いたのと、だし巻き卵】
【君は和食で俺がフレンチ?】
【逆ですね】
【逆だな。休憩が終わる。また連絡する】

***

 琴はメッセージ画面を切ると、都筑の気配を抱きしめるようにスマホを胸元に押さえる。
 頬がにやにやし、ミクが何事? と首を傾げた。
 撮影が始まる。
 ミクはモデルとしてのポスター撮影が最大の課題であり見せ場と説明があった。
 城田は美術スタッフでもあり、マティスのイメージをもとにセットを造り上げていく。
 琴にもそのイメージは伝えられたが、「白」「強さ」と単語が二つのみ。
 城田に訊ねると、いつもこうだよ、と返ってくる。
「彼は監督であって美術やメイクは専門外。餅は餅屋っていうタイプ。職人気質なんだよ。指示待ちにはちょっとやりづらいタイプだな。僕は好きに出来るから有難いけど、ただし美術がだめだったらそのまま僕の責任になる」
 琴はなるほど、と頷いた。
 難問があるとすればミクは小麦色の肌をしており、どちらかといえば夏、南国、元気、太陽というイメージがあることだった。「白」のイメージを引き出すにはどうすればいいだろうか。
 琴は手持ちのメイク道具、フランスの国を表したかのようなメイク用品や絵の具、美術本の表紙を部屋中に並べて吟味していった。

***

【おはよう。お仕事頑張りましょう】
 都筑が起きる時間に合わせてメッセージを予約投稿。
 琴が起きる時間には都筑から挨拶が届く。
【今日はどうだった?】
【今日は何食べた?】
【どんなところへ行った?】
【何を見た?】
 そんな他愛もない、シンプルな文面のやり取り。
 それでも琴は心が通じ合う感覚に胸を踊らせる。
 不思議なものだ。
 あんなに近くにいたのにまるで遠く感じ、こんなに遠くにいるのに心は近い。

 ウィルスの影響を考え、撮影はスローペースで進む。だが不思議と滞ることはなく、ピースがぴたりとはまっていくかのように無理がない。
「監督は割と流れに任せるのよ。演技も役者自身の熱に任せる。私たちの方が役と近い所にいるはずだからって。台詞やシーンを変えることもあるけど、流れにそっているから無理がないの。それでも元の描いた世界になるんだから不思議よね」
 ノエルが語るマティスの評価には信頼と尊敬が入り交じっていた。
 二人は撮影の間にもよく話し合っている。演技のこと、脚本のこと。
 琴は「白」「強さ」のイメージを固めたが、ミクに伝えるべきか悩んでいた。
しかしノエルの監督にも物怖じせずに意見をのべる姿に背中を押された。
「ミクさん。すっぴん風でやりませんか」
 ミクは目を見開いて琴を見た。
 付き合いがかなり長いが、この表情は初めて見た、と琴は思った。
 ミクはややあって口を開く。
 喉の奥から引き絞られたような、聞こえづらい声だった。
「あーたーしー……そばかすと眉毛ないのが……」
「はい。コンプレックスですよね。でも……」
 ミクの頬がひきつっている。
 琴はそれを見ると胸がきりきり痛んだが、意を決した。
「でも、このイメージに合わせるなら、化粧をあまり施さない方が綺麗になるんです。肌の色は変えようと思えば思うほど、ごまかせばごまかすほど、浮いてしまう」
「いい化粧品って多いじゃん?」
「そうです。でも、強さはごまかして得られるものじゃないです」
 琴がそう言い切ると、ミクは両手で顔を隠してしまった。
「ミクさん……」
「わかってる。わかってるんだ。あたしもね、イメージ渡された時、多分浮いちゃだめなんだって。白だし、強さだもん。白って白色だけど、そうじゃなくて「染まってない」って意味かもしんないんでしょ?」
 ミクは頬を抱え、遠い所を見ながら話す。
 琴は頷くのみで口を挟まない。
 ミクが整理出来るように。
「あたしに合わせてやっちゃったら、イメージが成り立たないよね。でもイメージに合わせるなら、あたしである必要ないもんね。両方を立たせるならもうすっぴんでってことなんだ。わかるよ」
 ミクは一度呼吸を整える。
 やがて琴に振り返り、目をじっと見つめた。
「やるよ」
 琴は力強く頷いた。
 その日から、ミクの肌を内側から整えるための食事を作り、なるべく化粧をしないようにして肌への負担を減らすことになった。
 塚田は琴の調理補助を行い、ミクはいっそう運動とストレッチに汗を流している。
 ノエルに相談し、香水などのアロマテラピーを教えてもらって睡眠の質の改善を計る。
 もちろんお酒は禁止。
 代わりに他の飲み物に気を遣った。

***

 一週間に一日だけは好きにしよう、と決め、琴とミクは朝から街にでかけた。
 久しぶりに羽を伸ばせることとなり、ミクはさっきから目移りが止まらない。
 あれが美味しそう、これが可愛い、とはしゃいでいる。
 ミクが行こう、と言っていたチョコレートの店にも行き、ハイカカオのチョコレート、ショコラティエの作るショコラ・ショを楽しんで、再び歩く。
 ミクがふと足を止めたのは、絵画が飾られた何かの店。
 花の絵だった。
 だが近づいてよく見てみれば、そこには女性の横顔が描かれている。
「わ~ぉ。可愛い絵」
 ミクはそれが気に入ったらしく、ずっと見つめている。
 琴は琴でユーチューブに流そうとフランスの町並みを撮影中。
 店の者らしい男性が現れても、声をかけられるまで気づかなかった。
「ボンジュール」
 低く、柔らかな声。
 しかし全く注意を払っていなかった二人は飛び上がるほど驚いた。
 その拍子にミクの靴がじょうろを蹴り、水が跳ねてその靴を濡らしてしまう。
「冷たっ」
「ミクさんっ?」
「あー……ソーリー、ソーリー」
 男性は簡単な英語で謝り、ミクは「ミートゥー。ソーリー」と謝り返す。
 琴は自動翻訳機のスイッチを入れ、二人の間に入った。
「急に話しかけてすみません」
 と、男性の言いたいことがミクに伝わる。
「絵がいいな~って思って。ご迷惑でしたよね」とミクの日本語がフランス語に変換された。
「脅かすつもりはなくて。足が冷えてしまうから、お店に入りませんか? 喫茶店だからあやしくないですよ」
 と、男性は目尻に皺をよせて微笑んだ。

 琴とミクは彼に案内され、店内に入った。
 テーブル席が4つ。
 カウンター席が3つのやや狭い店。
 壁中に絵画が飾られている。
 しかし壁紙の深いグリーン、明るくない照明のおかげか圧迫感はなく、むしろ吸い込まれそうな奥行きのある店だった。
 彼は黒髪で背が高く、人好きのする笑顔が印象的だった。年齢はわからないが、おそらく30前後ではないだろうか。
 ミクにタオルを渡し、靴をドライヤーで乾かしてくれた。
 それから、彼は二人には詫びだと暖かいココアを出してくれた。
「さきほどは失礼しました。僕の絵を見ていたようだから、つい嬉しくなって声をかけたんです」
 琴の翻訳機がテーブルの真ん中で話す。
「お~、あなたが描いたんですか? 可愛らしい絵ですね」
「それはどうも」
 彼は照れたように、歯を見せて笑った。
 その瞬間、「ん?」とミクが首を傾げる。
「なんか見たことあるな……モデルか何かしてましたか?」
「僕? まさか。ずっとここで働いてますよ」
「ほんと? でもなんか……」
 ミクは彼を覗き込むようにした。
 その時、「あっ」と声をあげ、眉を開いた。
「この香りは空港のイケメン!」
 日本語でそう言ったのだが、自動翻訳機がご丁寧にフランス語に変換する。
「この香りは空港のすてきな男性ですね」
 彼は腹を抱えて笑った。

 偶然の再会にミクは喜びを隠さない。
 二人はあれこれと会話を楽しみ始めた。
 琴は二人の邪魔にならないよう、喫茶店の外に出ると、そのまま適当に歩き出した。
 喫茶店で曲がると、そこは小さな店が点在する通りだ。
 花屋にお酒のお店、雑貨店に靴屋。
 ショーウインドウを覗くようにしていると、見つけたのはあるコート。
 赤いコートだ。
 立て襟、黒のボタン、丈は膝ほどまで、裾が少しだけ広がったデザインで、シンプルでどこかクラシックな雰囲気がある。
 いわゆる一目惚れというやつだ。見ているだけでどきどきし、それを着て出かけるイメージがすぐにわいてくる。
 琴はじっとそれを見つめた。
 値段は日本円で2万ほど。安くはないが、高すぎるものではない。
 中から店員らしい老紳士が現れ、琴に微笑みかけた。
 日本人旅行客は金持ちと思われてるから、気をつけるように、とミクに注意されている。
 琴は曖昧に微笑み返し、後にした。

***

 ミクと合流し、二人で別荘に戻る。
 塚田が晩ご飯を作ってくれていた。
「どこ行ってきたの?」
「イケメンとデート」
 ミクの即答に塚田が呆れたように肩をすくめた。
「ほんとだって。空港のあのイケメンだよ。見てみて、これ。彼が描いた花の絵のポストカード。名前とか連絡先とか書いてもらっちゃった」
「危ない危ない。アバンチュールとかやめてね」
「そういうんじゃないってば。名前はラファエル。大天使さまだね~」
 年も近いみたい、とミクはすっかり上機嫌で、ポストカードを見つめる様子からも浮かれているのが見て取れた。
「スケジュール守ってくれるんならいいけど」
 塚田はそれだけ言って、自身で作った鶏肉のソテーを食べる。
「ジューシーさがない……」
 皮もぶよぶよだし、と塚田は呟いた。
「あたし料理だめだ……上原さんって料理出来るし、しっかり者だし、いい奥さんになりそう」
 突然話題の中心となり、琴は顔をあげた。
「そりゃ彼氏もめろめろだよね。仕事帰りに迎えに来てくれるんだから。フランス行きも認めてくれるって、いい彼氏さんだね……って、え?」
 琴は塚田の言葉にみるみる肩を落とし、二人から顔が見えなくなっても背中を丸め続けた。
 テーブルに額がつくかつかないかの所で止まると、「全然そんなことないです……」と唸るような低い声で言った。
「うそうそ、都筑さんとうまく行ってないの? 琴さん、顔あげて」
 ミクがかなり心配したように、肩を撫でた。
 しかし琴は頭をぶんぶん振る。
「だめなんです。私……普さんのお荷物になった……だからフランス行きもあっさり……」
「こ、琴さん。負のオーラがすっごい」
 涙こそ出なかった。目が乾いてそれどころではない。
 目だけでなく、心まで乾いた感じがした。

 都筑は琴に距離を置いたようだった。
 遠慮している様だし、琴のわがままは聞いてくれるのに、都筑から何か求められたことがかなり減った気がする。
 化粧を変えても、服を変えても、髪型を変えても何も気にした様子がない。
 何がいけなかったのだろう。
 一つ屋根の下にいて、一緒のベッドで眠っても、二人の間には見えない溝が確かにある。
 なぜ出来たのか、どうすれば埋められるのかまるでわからない。
 仕事が忙しくなったから?
 調子に乗ったから?
 同棲をしなければ良かった?
 琴はワインを飲んで、慣れないせいか頭痛に襲われ一人先にベッドに入った。
 高い天井はまるで手が届かない。
 都筑に追いつこうと思っても追いつけない、それと似ていると感じた。
 都筑と上手く行かなくて、寂しい? 違う。
 ずっと何かが抜け落ちた感じがして、虚しい。
 それと同時に都筑との何かを失ってしまった気がするのだ。

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