琴は料理動画を公開し始めた。
今回はおやつだ。
おやつは体に悪いと思われているが、素材に気をつければ強力な味方になる。
そういったレシピである。
久々の動画で、さすがに視聴数は減ったものの好意的なコメントが多く、琴も満足のいく動画の出来に久々の充実感を得た。
着慣れたジャケットを着て買い出しに行き、数日間分の食料を買う。
ゆったりとスープを作り、その動画を編集。
時間を確認すると夕方の4時だった。
作業を中断し、化粧品成分の勉強を始める。
そうこうするうちに都筑が帰宅した。
二人でご飯を食べ、二人で眠る。
突然訪れた休み。
琴は穏やかで、時間の止まったかのような日々に、少しだけ違和感を覚えながら目を閉じて眠る。
(何かが抜け落ちた感じがする)
なんだったかと思うが、勉強と作業で疲れた頭は眠りを欲し、琴は思い出せないまま数日間を過ごした。
***
ミクの撮影でスタジオに入り、今回のテーマに合わせた軽やかな女っぽメイクを完成させる。
柔らかいピンクベージュ、ミルクティーのような甘いブラウンにほんのりレッドを仕込ませた春向けのメイクだ。
「ミクさんいいですよ~可愛い」
カメラマンのシャッター音が耳に心地良い。
琴は見守っていたかったが次の現場へ向かわねばならない。
ミクとマネージャーである塚田に伝え、すぐさまタクシーに乗り込んだ。
向かう先はドラマの撮影。かつて気に入ってくれた、あの女優のドラマだった。
***
12月も半ばになると流石に寒気は厳しい。
都筑は一人帰宅する。
電気が点いているはずもない。彼女がいるのはテレビの中だ。
「今話題沸騰中! 大人気メイクアップアーティストの上原琴さんに、生で女性芸人さんのメイクをしてもらいましょう!」
「よろしくお願いします」
「よろしくでーす」
「早速なんですが、こちらの芸人さんコンプレックスがあるんですよね……」
都筑はテレビの電源を消した。
外に出ると車を走らせ、向かった先はJIn's kitchen。
客の入り具合からして、入っても問題なさそうだ。
都筑が入店すると見慣れた切れ長の目が迎える。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「久しぶり、佐山君。入って大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。お持ち帰りの方が多いんで」
案内されたのはいつもの席。
ふと視線が向いたのは、かつて案内された奥のテーブル席。
琴とつきあい始めた時、座った席だ。
「あ、こんばんは。お一人……ですよね」
光香が出てきて声をかけた。
「一人だよ」
「残念。彼女さんにも会いたかった」
そういう光香に曖昧に笑みを作ってみせる。
都筑の注文した牛肉のシチューを出しながら、光香がこそっと話す。
「彼女がテレビに出てるのに見ないんですか?」
都筑は顔をあげる。
自分でもなぜ見ないのか、わからなかった。
「そうだな。……」
考えるように視線をずらす。
彼女がまるで他人のように見えるのだ。
それが原因だろうか。
琴はいつかに比べ、中傷の数も減り、仕事は順調。
笑顔も増えた。
ファンも増えた。
いいことづくめだ。
まさか彼女と自分を比べて嫉妬している?
都筑はふーっと息を吐く。
「あら……」
何かに勘づいたらしい光香が肩をすくめた。
「ごめんなさい」
「いや」
都筑はシチューにスプーンを入れる。
食器とぶつかる金属音が、やたら鼓膜に残った。
家に帰ると当たり前だが一人だ。
テレビ番組は終了。
琴からのメッセージでは、打ち上げがあるから今日は帰れないとのことだった。
ホテルに泊まるらしい。
都筑はこのメッセージにも慣れ、スマホが覚えた定型文をそのまま送る。
服を適当に引っかけ、一人でベッドに寝転べば感じる琴の残り香。
彼女の帰宅は明後日になった。
***
「ただいま」
琴は手土産のクッキーを片手に、朝に帰ってきた。
すっかり着慣れた黒のコートはよく似合っている。
髪もつやつやでメイクは濃く、どこかの誰かと感じるほどだ。
「おかえり」
短く言うと、都筑は仕事の支度を整えて玄関に向かう。
「あのね、普さん。今日は家にいるから、何か作ります。何が食べたいですか?」
「そうだな……作りやすいのでいいよ」
「はい、でも……」
「ごめん、遅れるから」
都筑は最後に振り返り、「行ってくる」と口づける。
香るのは家のものとは違うシャンプーのもの。
彼女は誰なのだろうか。
そんな違和感がいつからか芽生えていた。
「行ってらっしゃい」
彼女の照れたような赤い頬も、遠いドラマの中の人のようだった。
***
電気のついた部屋、美味しそうな匂い。
琴がいるのだ。
消毒を終えてリビングに行けば、ジュワジュワと揚げ物の音がする。
髪をまとめ、エプロンを身につけた琴が竜田揚げを作っていた。
「おかえりなさい」
すっぴんの頬はなめらかで、都筑はそれを見つめる。
どこか疲れたような目元、笑顔。
首元には都筑が送ったネックレス。
上等品のシャツ。
アンバランスな格好に都筑は興味を惹かれて、キッチンに入った。
「味見する?」
「いいや。琴」
「はい?」
都筑は細い肩に手をまわし、顔を向かせると唇を重ねた。
琴は驚いているのか体を固くし、都筑はそれに何か苛立ちを感じて角度を変えて深く口づける。
舌を求めて口内を好きにするが、琴は反応しないままだ。
「……」
都筑は唇を解放し、「悪い」と言うと寝室に向かった。
***
ベッドに入り、都筑を待つ。
琴はパジャマの前をぎゅうぎゅうにして、どきどきする胸を静めようとしていた。
足音が聞こえ、はっと息を潜める。
キイ、とドアが開かれ、都筑の気配がベッドに入った。
少ししてから琴は口を開く。
「ねえ、普さん……」
「ん?」
「あの……えーと……その……」
「ごめん、明日は早いから。出来れば早く言ってくれ」
「……」
琴は言葉をなくし、俯くと首をふった。
「ごめんなさい。なんでもないです」
「……そうか」
新しい下着を買った。
見て欲しい。
抱きついてもいい?
そんな言葉が頭の中から消え失せてしまう。
今日は一緒にいられるから、というのは、琴の都合だけの話だったのだ。
***
コートを着こなし、冬の夜を歩く。
明るい電飾、スマホでそれを撮る若い女性達。
去年はああして、都筑と二人で出かけてロマンティックを味わったものだ。
今は一人きり、クリスマスが近づく気配もどこか他人事のように感じながら、都筑の誕生日を祝うためにプレゼントを見て回る。
12月の終わりに彼は36歳を迎える。
出逢ってから1年と半年が過ぎる。
今年は新型ウィルスの影響で実家へは帰れないだろう。
新年は都筑と二人で過ごすことになりそうだ。
そう考え、ふと不安になる。
都筑はどこかよそよそしく、何があったのか話してくれない。
琴の仕事やプライベートにも口出ししない。
不満も文句も言ってくれない。
ただ背中を向けて眠るだけ。
近くにいるのに遠い人のようだった。
この誕生日をきっかけに、何か打開出来ないだろうか。
昔みたいに仲良く、とは思えない。
それが叶うと思うほど、琴も恋に憧れるだけの乙女ではなくなった。
ではどうなりたいのか。
それを考える暇もないほど仕事に追われ、ずるずると過ごしてしまったのだ。
ふと意識が外に向いて、見つけたのは腕時計。
都筑はここぞという日に決まってつける時計がある。
きっと気に入りの品なのだろう、ベルト部分がすり切れ、穴が緩くなっても使い続けていた。
「ベルトの付け替え……」
男性の店員の視線を感じ、琴は店内に誘われるように入っていった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。ベルトだけの販売はしていますか?」
「もちろんです。一流の職人が手がけた一点ものから、気分によって付け替えられるセットなどもございます」
「そういうのもあるんですね」
彼はカウンターにベルトを並べる。
革で作られた飴色のつやめくもの、色が3種揃ったものなど。
ステッチの違い、バックルのデザインも多く、琴は迷ってうーんと口元を押さえた。
店員の彼が見かねて話し始める。
「どういった時計をご使用ですか?」
「えーと……あの、私のものではなく、彼のものなんですが、文字盤は白、針は少しアンティークな感じ……時間だけが確認出来るシンプルな」
「フレームはシルバー?」
「そうです。マットなシルバーで……あ、秒針と同じで、白っぽいシルバーです」
「文字の色などはいかがです?」
「文字の色は、濃いブラウンだったかな……お仕事でも大事な時とか、あとはレストランとか、少しかしこまった時につけてるので、そういう場面でつけられるものがいいです。文字盤の大きさは……」
店員の彼はメモを書くと奥に入り、数分後に戻ってきた。
出てくると手にしていたのは黒の艶めくベルト、飴色のベルト、濃いブラウンのベルト。
「こちらなら違和感なくつけかえられるかと思います。黒は一本あると礼装にも使えるので便利ですよ」
「なるほど……あの……時計のプレゼントって、嬉しいものですか? ベルトが少しはげていたからどうかと思ったんですが……」
琴の質問に、店員の彼は一瞬目を丸くしたが、そうですね、と考えるようにすると頷いた。
「時計そのものとなると、少し身構えますね。ずっと身につけるものですし。状況によるのでなんとも言えませんが、大事にしているものならベルトなどの消耗品を渡してもらえると嬉しく思いますよ。その……デザインさえ外さなければ」
「デザイン……」
都筑はごてごてしたものをあまり好まない。かといって何もなければいいと思っているようでもない。
いわゆる「機能美」というのが好きなのではないだろうか。工場夜景も好きだと言っていた。
それを伝えると、店員の彼は棚からもう一本を取り出す。
琴はそれを見た瞬間、ああそれだ、と気づいた。
「こちらはいかがでしょうか」
「はい。それでお願いします」
***
都筑はスーパーに寄り、家に帰る。
琴は仕事のようで、書き置きがあった。
「遅くなりそうです、か……」
呟くと冷蔵庫に買ってきた食材を詰め込んでいく。
仕事道具の手入れをし、料理を作って一人で食べる。
ウィスキーを入れ、飲みながらユーチューブで職人の動画を見て過ごす。
時間を見ればもう11時46分だ。
都筑は36歳になった。
今更祝う気にもならない年齢ではあるが、この年まで何とか生きたことには、それなりに思うところはある。
琴はホテルに宿泊だろう。
このところ「遅くなりそう」は、すなわち帰れないということだった。
風呂に入って髪を乾かしていると、ガチャガチャ、とドアノブのから回る音がした。
まさか、と思ったが次には鍵を取り出す金属音が聞こえ、都筑は咄嗟に身構えた。
静かにドアが開かれる。
入ってくるのは聞き慣れたヒールの音だ。
「ただいま……」
と、彼女の小さな声は元気がないのではなく、押さえたものだと分かる。
都筑はほっと息を吐き出すとカップに口をつけた。
軽い足音が近づき、リビングのドアが開かれると、真冬にも関わらず額に汗をかいた琴が見えた。
「普さん……良かった。まだ今日?」
今日はいつでも今日だが、琴の言いたいことは理解出来る。
都筑は頷いて、「まだ今日だよ」と言うと、琴はほっとしたように笑った。
コートも脱がないままソファに座り込んだ琴のために、白湯を作る。
鍋を火にかけながらちらりと見ると、琴は怪我をしたのかティッシュをつま先に当てていた。
「どうした?」
「なんでも……」
というが、救急箱を目の前に置いているのだからなんでもないはずがない。
都筑は彼女の足もとに膝をつき、足を持ち上げた。
「自分でやりますから」
琴はそう言ったが都筑は返事をしない。
どうやらヒールの狭いトー部分で押された小指が、血を滲ませているようだ。
「走ってきたのか」
「だって、歩いてたら間に合わないから……」
「気にすることじゃないのに。夜遅く出歩く方が危ない」
都筑がそう言うと琴は俯いた。下唇を噛んで、視線をそらす。
都筑は消毒をして、絆創膏を張ってやるとキッチンに戻った。
白湯をカップに注ぐ。
目をやれば、琴はコートも脱がないままうずくまっている。
「琴っ……」
不調なのか、と駆け寄って見れば、唇を薄く開けてまぶたを閉じている。
体は規則正しく上下し、体温の高さに眠っているだけだと気づく。
都筑はため息に似た息を吐き出す。
コートを脱がせ、ストッキングも脱がせる。
ブラのホックを外し……その拍子に首元に光るダイヤを見つけてはっとする。
都筑の誕生日に間に合うよう、走って帰ってきたのだろう。
そうとすぐに気がついて、しかし嫌味に似たことを言ってしまったことを悔やむ。
琴はぐったりと脱力し、かなり深く眠っているのがよく分かる。
膝に手を入れて抱え、寝室に入ってベッドへ寝かせる。
布団をかけて、しばらく見つめていると、無邪気な寝顔になぜか頬が緩んだ。
「ん……」
琴が寝返りをうち、都筑は立ち上がってリビングへ――くん、と服がひっぱられ、振り返る。
「……琴?」
「普さん……」
薄暗い寝室で、表情はよく見えないが琴の目がうすく開いていた。
起きているのだろうか、と思い手をかざすが、琴はそれを気にしない。
寝ぼけているのか。
それなら話すのはよくない。
立ち去ろうとするが、琴の指が服にひっかかり、どうしてもふりほどけない。
「琴」
指先を包んで服から剥がした時、再び名前を呼ばれた。
「普さん……どうして何も言ってくれないの?」
琴の問いに、都筑は呼吸が止まるような心地がした。
振り返ると琴の目がきらきらとして、それが嬉しいものではないとすぐに理解出来る。
泣いている。
琴は滅多に泣かない。
少なくとも都筑がそれを見たときは悔し涙が多く、彼女はそういう時も我慢しようとしていた。
都筑は首を横にふった。
「何を言うんだ、俺が」
「……ずっと、怒ってる。私に」
琴のその一言に都筑は目頭がぼうっと熱を集めるのを感じた。
ごまかすように視線を巡らせ、ふっと息をつくとその場に座り込んだ。
握りしめる琴の手が温かい。
「怒ってない」
そう言えば、すっと腹から芯が通る感覚があった。
都筑は琴のそばに顔を埋め、顔をあげると、再び深い眠りに落ちた彼女に呟くように言った。
「君を失いたくないだけだ」
――ほっといて下さい!
都筑の脳裏に、必死な顔をした琴の、拒絶の声が蘇る。
琴の仕事への情熱や、その意義を理解しているつもりだ。
彼女の仕事で誰かが喜ぶ。
余裕をなくして、誹謗中傷を受けながら無理をしていたころとは違う。
誰からも歓迎され、成功をおさめているのだ。
なのにどこか作ったような笑顔に見えるのは気のせいなのか。
何かが抜け落ちてしまったように見えるのは気のせいなのか。
答えは出ず、探る間もなく彼女はあっという間に遠い存在になってしまったと感じていた。
気づけば不器用に拍車がかかっていたらしい。
都筑は彼女にどう接すればいいのか、分からなくなっていた。
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