灰は雨に濡れ、重みと暗さを増して落ちてくる。
クレマチスは王都に積もる灰を見ていたが、足下の揺れが大きくなっているのに気づいて目を見開いた。
「来る……! ベリル姉様!」
ベリルも気づいていたらしい。
「ここも危険かもしれない。避難しないと」
「良いところがあるわ。ついてきて!」
投薬を終えた竜人族は方々へ駆け出し、王都に残っていた者達を助けるため動き出す。
その時、一際大きな揺れが起きた。
***
元来た道ではなく、天井に空いた穴を目指してロータス達は動いていた。
シリウス達も合流し、ひたすら上を目指す。
地揺れは大きくなり遺跡は滅び始めていた。
お陰で足場が出来ている。
とくに身軽なフェンネルは先に行き、道を見つけて先導した。
雨を含んだ灰が頬を打つ。
ロータスは上空を見た。
重い雲の中に翼を広げる鷲の姿。
その影の向こうに陽が見え隠れしていた。
***
鷲の足に体を掴まれ空を行く。
スティールは眼前の羽まみれの体も、その向こうに見える太陽も他人事のように見ていた。
結局敵わなかった。
そんな思いでいっぱいである。
彼はいつも背中しか見せないのだ。
追いついて、負けを認めさせ、屈服させる。
そうすれば何かようやく、自分を認めさせることが出来るはず……そう思っていたのに、彼は結局、いつも違うものばかり見ていたのだ。
そしてそれがスティールには分からない。
理解出来ないままだった。
鷲の動きはゆっくりになった。
てっきり巣にでも運ばれ、体を啄まれるのかと思ったが、そうではなかった。
下を見ればダイヤモンド山である。
ぐつぐつと煮えたぎる、魔女の大鍋の中のような溶岩が見えた。
明るすぎるオレンジは白い。
流れ出た溶岩でダイヤモンド山の木々は押し倒され、集落は見る影もない。
あの溶岩にどれだけの仲間が飲み込まれたのか……スティールはそれに気づくと、背筋に凍った針が流れた気がした。
眼前にしてようやく、死が恐ろしいと思う。
「……寒い」
溶岩の熱気すらスティールを慰めることはない。
鷲が火口で足を開いた。
掴もうと本能的に手を伸ばしたが、シリウスに切られた傷口が痛み、手を止める。
あっと思った時には、体は真っ逆さまに落ちていた。
***
遺跡の奥に階段があった。
地震で崩壊していく遺跡から逃れ、階段を登り続けた。
無限に続くと思われた階段の先に光が見える。
小さな穴だった。
人一人の腕ほどの大きさだ。
ロータスは外に続いているその穴に手を入れ、土をかき出すように広げる。
シリウスが追いついてそれを手伝った。
外は見えている、もうすぐだ。
やがて一人が通れるほどの大きさになった時、視界は急に暗くなり、次の瞬間には引っ張り出される。
竜人族と王国軍だ。
「王子殿下!」
「シリウス!」
名前が呼ばれ、ようやく地表に上がると視界は急に開けた。
丘の上にいる。
いつかクレマチスに「必ず帰る」と約束した、あの丘だ。
灰が王都を隠すように積もり、地震が起きる中、ロータス達はようやく戻ってきたのだ。
皆の帰還を喜ぶ声が響く中、ロータスは周囲をぐるりと見渡す。
丘を目指して避難を続ける民衆のその先頭に、彼女を見つけた。
「クレマチス!」
その名を呼ぶと、彼女は顔をあげて手を振った。
駈け出せばクレマチスもまた、足取り軽く丘を登ってくる。
「ロータス!」
涙混じりの笑顔が出迎え、抱きしめるとクレマチスも背中に手を回し、これ以上ないほど強く抱きしめた。
***
地震と灰で王都はぼろぼろの状態である。
クレマチスの案内で丘に避難し、再び治療のためテントを建て始めたころ。
一人の少年が南の方を指さした。
シリウスはそれに習って目を凝らす。
見えたのはダイヤモンド山、その東の方だ。
あそこはいつもなら海が見えるはずだが、今は違っていた。
「島……?」
王国軍の望遠鏡を借り、もう一度確認すると、やはり島が隆起していた。
地震の影響かもしれない。
「ロータス、島が出来た」
「え?」
ロータスに望遠鏡を渡し、見せると彼も「本当だ」と言う。
現在、遺跡から帰還し3日が過ぎている。
帝国軍の迅速な行動のお陰で、ウェストウィンドの民は船に乗りバーチから帝都を目指す道行きにあるという。
静かの森の住民も移動を始めたと報告があり、アイリス王国はかつてない大移動の時代を迎えた。
灰の雨と地震の被害を調べる必要がある、と捜査機関はすぐに帝都へ連絡を入れたようだ。
「……これから大変だな」
サンが腕を組み言ったが、シリウスは首を曖昧にふる。
「いいや。きっと良い時代になる」
「そうか?」
「ああ。ほら」
シリウスが示した先では、竜人族と王国軍が確かに協力し、共に行動しているのが姿があった。
「皆を結びつけるのは、共通の敵より共通の目的だ」
「なるほど」
サンは微笑んで頷いた。
捜査機関は休暇期間を得ると、それぞれ自由になったらしい。
ブルーはしばらくアイリスに留まりたいと申し出た。
彼は竜人族と馬が合うらしい。
サン、ジャスミン、ルピナス、コーとナギは帝都へ帰るようだが、オニキスはそうではないらしい。
「長官はバーチへ行くんですよ」
と、コーはこっそりシリウスに耳打ちする。
「へえ。なぜだ? ああ、避暑とかいうやつか?」
バーチの夏は涼しいと聞く。今の時期ならまだ帝都より過ごしやすいはずだ。
「逢いたい方がいるんですよ」
「……なるほど」
シリウスはそれと気づき、思わず笑ってしまった。
当の本人が気づき、珍しく決まり悪そうな顔をしながらコーを後方へ押しやる。
「コー、余計なことを言うんじゃない。シリウス殿、貴殿はどうするつもりなんだ?」
「竜人族を安住の地へ導かねば……と思っていたが、案外どうとでもなりそうだしな。ロータス達と連繋を取って、アイリスの復興に尽力するよ」
「帝都からもサポートが得られるはずだ。遠慮はしないように」
「ああ。ありがとう」
シリウスが手を差し出すと、オニキスはそれを取りしっかりと握手する。
これがこの時の彼との別れとなった。
捜査機関の者達がそれぞれの道へ戻っていくのを見送り、シリウス達はアイリスへ目線を戻した。
これから忙しくなるだろう。
灰はその量を減らし、曇天が去り太陽が祝福するように輝いた。
***
噴火か、地震の影響でか、新たな島が出来た。
調査のため、と船を出せたのはそれから1ヶ月後の話である。
島の規模は一地方ほど……ウェストウィンドより大きいくらいかもしれない。
まだ岩が出たくらいの地表だが、ぽつぽつと緑が見えていた。
ロータスは島に降りたち、潮の匂いを胸一杯に吸い込んだ。
かなり良い空気が流れている。
「帝都から使者が来て、人が住める環境か調査される」
「そうなるとどうなるの?」
同行していたクレマチスが聞いた。
「王国か、竜人族の土地か……両者の土地にしても良いと思うけど、どちらにしてもはっきりさせないとな。子孫が困ることになる」
「境界をはっきりさせることも必要だと?」
「今は。盗人や不法占拠を食い止め、皆の土地であるとしておかないと。だけど、所有することは誰にも出来ないからね。いずれはこの世を去る……でも島は残る」
「……そうなのね。確かに、心ない人はいるものね。誰かが島を守ることは必要なのかも……ロータス、ところで今日は、どうしてここに来たの?」
「ああ、うん。……シリウスやプルメリア、オウル殿と相談したんだ。これを」
ロータスは腰に下げていた袋から、あのダイヤモンドを取り出した。
「それって……」
「竜人族をずっと導いてきた、ダイヤモンドの槍、その穂先だ。あなたの本当のご先祖であるベリー家、そして竜人族族長の魂を封じたもの……でも今はもう、魂は解放され、元の流れに戻った。私たちは先達の導きを失ったようなものだけど、でもこれからは違う流れに入れるはずだから」
いびつに溶けたダイヤモンドは、最後に魔女の髪を焼いて浄化した。
それから太陽の光を入れることはなくなり、月の光を反射させることもない。
不思議なものだった。
「……これからは自分達で自分達を導かないと」
ロータスは目を閉じて息を吐き出すと、新たな島の、その奥の奥にダイヤモンドを埋めた。
土に帰り、いつか海に溶ける。
そう信じて。
一気に緊張が溶けた気分だ。
ロータスはその場に座り込み、海に溶けていく夕陽を見た。
「……色んなことが終わった」
そう呟くと、何やら寂しいような心地になった。
道しるべを無くした気分だ。
「……そしてまた始まる」
ぼうっと休めるのは今だけかも知れない。
隣に座るクレマチスを見ると、彼女の目はやはり夕陽に色を変え、緑に青に、ときらめいている。
「これから忙しくなる。クレマチス、今日はゆっくりしよう」
「……はい」
ゆったり微笑む彼女の肩に手を回し、顔を近づけると唇を触れさせる。
髪に指を入れ、首筋に顔を寄せると花のような甘い匂いが鼻腔に流れ込んできて、たまらない気持ちになった。
吸い寄せられるまま耳にキスをして、肩を露わにする。
くすぐったそうにするクレマチスだが、その頬は赤く、決してくすぐったいだけではないのだと物語っていた。
***
ダイヤモンド山の噴火は止んでいそうだった。
灰はもう降らなくなり久しい。
シリウスは山の麓にやってきて、溶岩で固まった入り口を見ると額をおさえた。
思った以上に被害の規模は大きい。
「集落は壊滅的だろうな」
「静かの森も灰の被害が出ていると」
ジャスパーが付け足した。ベリー家の者達も一緒にいるからだ。
「ああ……どこから手をつけたもんかな」
髪をかくようにすると、プルメリアが袖をひいてきた。
「石がいっぱい、生まれたよ」
「そうだな……」
火山の産物ともいえる鉱石は、今度の噴火でまた大量に生じたはずである。
当分仕事には困らないだろう。問題は、石の類いはコネクションに狙われやすいというところか。
「自警団を急ぐぞ、それから居住地の選定だな」
「了解」
「はーい!」
シトリンがジャンプしながら返事する。
変わらず元気な姿に場の空気は明るくなった。
「あっ、あそこ……」
ベリルが何かに気づいて指さす。
そこにいたのは二頭の鹿だ。
親子のようだ。一頭は小さく、まだ模様が目立っている。
「動物が戻ってきているなら、安心ね」
「ああ。ところで、ベリル……」
シリウスはどう言ったものか、と頭をかいた。
「……今まで世話になった」
「ああ、そんなにかしこまらなくて良いわ。迫ったのは私だものね。それに、予言は成った。実際にダイヤモンド山は復活したわ」
「……確かに」
シリウスは足下に落ちていた石を拾った。
ダイヤモンドの原石である。
この世に永遠のものなどないのかもしれないが、連綿と受け継がれていくものはあるのかもしれない。命と同じように。
「離縁するからといって、関係がなくなるわけじゃない。ベリー家と竜人族は友人だもの、それで充分よ。それに、ロータス殿下とクレマチスがいる。思っていた以上に、この縁は色んなものを繋いだ。私一人で焦らなくても良かったみたい」
「きみの責任感のお陰で、俺たちが救われたのも事実だ。ありがとう、これからもよろしく」
シリウスがそう言うと、ベリルは頷いて微笑む。
そっと顔を近づけて「ジャスパーはきみに夢中だ」と耳打ちすれば、ベリルは顔を真っ赤にして目を丸くした。
「そ、そんなこと、意識してなんかないものっ」
わかりやすくうろたえる彼女の態度に思わず笑えば、ジャスパーが目を見開いた。
「何を言ったんだ、シリウス」
「いいや。頑張れよ、ジャスパー」
「はぁ?」
意味がわからない、とジャスパーは肩をあげた。
夜、草原に火を焚いて、星空に煙が登っていくのを皆で見ていた。
鎮魂の炎。
祈りの炎。
プルメリアとオウルが歌を歌い、それに合わせて竜人族が炎を囲んでダンスする。
その中に、白い炎で包まれた彼女達の姿をシリウスは見ていた。
強かったプラチナ。
肉体を失った彼女は、最も優れていたという24歳当時の姿をしている。
容姿が特別優れているわけではなく、だが確かな愛嬌と溌剌さが彼女を誰より美しく見せた。
彼女に憧れ、追いかけるように戦士になった。
今にして思えば、あれがシリウスの初恋だったのだ。
いつか光に溶ける魂は、今はわかりやすい形で会いに来てくれている。
彼女の魂と目が合う。
笑みを浮かべて手を振れば、プラチナは歯を見せて笑い、「よく頑張ったね」と言って白い光となって消えた。
久々に目頭が熱くなる。
炎が昇っていく先には満点の星々。
いつか逃げるシリウス達を導いた星は、今度は彼らを見守るように優しくきらめいている。
王国にもその光は届いているのだろう、誰の頭上にも。
今島にいるはずのロータス達にも。
アゲートや、トレニアにも。
シリウスは腕を枕に寝転び、星を数えた。
プルメリアがやってきて、甘えるように腹に乗る。
「どうした?」
「お父さんに会った」
「……そうか。どうしてた?」
「喜んでたよ」
「そうだな。良かったよ」
「シリウス」
「ん?」
「シリウス、また旅に出るんでしょ?」
プルメリアの一言にシリウスは目を見開き、起き上がる。
プルメリアの方がきょとんとした顔をしていた。
「いいや。なぜだ?」
「そうだって言ってるから……シリウスの竜が」
「俺の竜が? 旅に? 出るわけない、ここで復興のために働くんだから」
「そのために行くんだって言ってるよ。もうすぐシリウスを呼ぶ声が届くから、準備してって」
「なんだと?」
プルメリアはまっすぐにシリウスを見ていた。
シリウスは考えを巡らせ、視界を一周させる。
「皆を置いて? 行けるわけない」
「そんなことない。皆は大丈夫」
「そりゃ……そうだろうが」
シリウスは参ったな、と頭をかいた。
再び星を見れば、旅人を見守る星がきらめいていた。
「……まあ、流れに身を任せるとするか」
***
テントの中で眠るクレマチスの顔を見ると、ロータスは外に出た。
夜風は穏やかで、満点の星空がこれ以上なくきれいに見える。東に目をやると、徐々に白み始めていた。
永い旅がようやく終わり、新しい朝が来たのだとロータスに知らせているのだ。
ふわっと風が吹き、銀の髪をくすぐる。
靴をはくのも面倒でそのまま歩き出すと、裸足がずいぶん心地よい。
まるで竜人族のようだな、と独りごちる。
振り返るとクレマチスと目が合った。
「良い朝だよ」
「……そうね」
クレマチスはロータスの隣に立ち、手を取り合う。
「ロータス、これからどうするのですか?」
「兄上を助ける。でも、そうだなぁ。正直言うと王都へは戻りたくないかもしれない」
「そうなの? なら、どこへ行く?」
「うーん。……流れに任せてみようか、なんて」
「良いな。私も一緒に行って良いでしょう?」
「もちろん」
ロータスは彼女の手をぎゅっと握りしめる。
「ずっと一緒だ」
クレマチスは頷いて微笑むと、指を絡める。
太陽が顔を見せ青空を作り出した。
終わり。