「王子!」
クレマチスが駆け寄り、ずぶ濡れのロータスの頬に手を添えた。
気を失っているのか、ロータスの反応はない。
「怪我は……怪我はない、のに」
黒髪の男はロータスを寝かせ、座り込んだクレマチスの膝に彼の頭を乗せる。
「意識を奪われたようです。取り返せなかった」
「どういうこと? 王子……!」
ロータスの頬にぽたぽたと大粒の涙が落ちていく。
クレマチスは彼の手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
「若旦那さま……」
「コー、まず火を焚け。王子殿下に着替えも用意して差し上げろ」
「えっ、王子殿下ですか?!」
コーは大変だ、と言いながらも着々と準備を進めていく。
シリウスもフェンネルも、シトリンも駆け寄り、ロータスを囲んだ。
顔色が悪いという風には見えない。
あくまでも眠っているような姿だ。だがまぶたが固く閉ざされ、サファイヤ湖のようなあの目が見えない。
「どうしたら良いの?」
クレマチスの声はか細い。彼女の方が顔色が悪いくらいだ。
「一体、何があったんだ?」
シリウスは、おそらく事情を知っているであろう黒髪の男を振り向く。
男は濡れた服を脱ぎ捨て、新しく用意されたものに着替えながら答えた。
「魔女にしてやられた。殿下は幻影の世界の中で、鏡を見つめ、それから意識を失ってしまわれたんだ。それから、プルメリアなる者も囚われている」
「プルも? 幻影?」
「詳しい話は後に。殿下はそのままでは体を壊してしまうぞ」
男はテキパキと指示を出し、あっという間にテントを設営させるとそこにロータスを移動させた。
真新しい乾いた服に包まれ、ゆっくり寝かされる。クレマチスはすぐにロータスの側に膝をついてその手を握った。
黒髪の男が皆を見渡し口を開く。
「改めて名乗らせてもらうが、私は帝国特殊捜査機関長官、オニキス・ヒソップ。彼は私の従者だ。ブルーの連れということは、ある程度事情は知っていると考えて良いのだな?」
「ああ。俺はシリウス」
シリウスは皆を紹介し、オニキスはそれを聞くと湖のことを事細かに説明を始めた。
「湖を通じて移動したと?」
「ああ。ブルーがいてもいなくても同じだ。あれでは護衛どころじゃない。……写すものがなければ使えないようだが」
「鏡が割れたから、こっちへ帰ってこれたということでしょうか?」
「どうかな。現実を写せれば良いのかもしれん」
特殊捜査機関の者達は話し合う。
シリウスはそれを遮った。
「プルメリアはその幻影の世界とやらにいるままなのか?」
「あの魔女がどこかへ連れ去ったかもしれん、捕らえられていることだけは確かだ」
オニキスはそう答え、コーに「ナギが届けたあれを持ってこい」と言った。
持ってこられたのは一枚の大きな紙だ。
簡易テーブルに広げられると、それが肖像画であるというのがわかった。
金髪の妙齢の女性。赤い薔薇の髪飾り、黒のレースのドレス。
見るからに貴婦人。
「この女がコネクションにいたことは確かだ」
「でも、年号が古すぎるのでは?」
口を開いたのはベリルである。
「その通り。百年前と思われる。アカシア王家の者なのだろう」
「アカシア王家ですって?」
「ああ……とにかく今は、王子殿下が目覚める方法を探さねば……」
オニキスは下唇を一瞬、噛むと、何かに気づいたように顔をあげシリウスを見た。
「……竜人族に伝わる知恵は? 国王殿下が病に倒れられた時、助けたのは竜人族の者だったはず」
「サファイアか……使えるかもしれん。彼女の秘薬の調合なら、あるいは」
「ならすぐに!」
クレマチスが立ち上がった。
「ダイヤモンド山に行くぞ」
シリウスはフェンネルとシトリンに言い、頷くのを確認するとすぐに準備を始めた。
「私も……」
「ダイヤモンド山は険しい。竜人族の脚に任せましょう」
ブルーがクレマチスを制止する。
「でも……」
「王子殿下のお世話を」
そう言われ、クレマチスは渋々ながら納得がいったようだ。
虹色の目は涙をたたえ、光を屈折させていくつもの色を浮かべている。まばたきするたびに涙がこぼれ、見かねたベリルが彼女を肩に抱いた。
「すぐに戻る」
シリウスがそう言うと、ベリルが振り向いて頷く。
外は曇りだ。
シリウスはブルーから気の強い馬を借り、フェンネルとシトリンとともに走り出す。
ダイヤモンド山へ着く前、馬を村ごとに交換すること――ブルーの助言に従い、その通りにするとあっという間に目的地に着いた。
サファイア湖から3日という強行軍。耐えれたのは竜人族であるからに他ならない。
久々の故郷に感じる間もなく、集落に至る。
シリウスの帰郷を皆喜んだ様子で迎えたが、シリウス達がまとう緊迫感にすぐに状況を察したらしい。道を開け、長老が呼び出される。
「何があった?」
長老の青々としたサファイアブルーの目が陰る。
「王子を助けたい」
事情を説明し、数刻が経つ。
集落は騒がしくなっていた。秘薬は失われたというのである。
「なぜです?」
「戦争だよ。あれのせいで秘薬は燃え、調合法を記した書物が失われた」
「なくなっただけですか?」
「ああ。王国軍が持って行ってしまったのだ」
役に立ちそうな薬草を探るが、見つからないという。
静かの森ならどうだろうか? 薬草園を拓いたが、そこにあるものはほとんどここへ持ち帰っているという。
「……調合法さえ知れれば、サファイアの作った秘薬を再現出来るはずだ」
「長老、王国軍が持っていったというなら、まだ失われたわけじゃあない」
「どうするといいうのだね?」
「取り返しに」
シリウスに迷いはない。長老は目を見開き、息を吐き出すと両手を組んで下を向いた。
「危険なことだ」
その時、フェンネルがあっと声をあげる。
「そろそろ結婚式だ。その時なら警備も薄くなるかも」
「結婚式……」
「俺たちからも参列者が行く。竜人族が王宮にいてもおかしくないんだ。チャンスだよ!」
フェンネルの声は明るい。シトリンも続いた。
「お祝いの品も用意したし、丁度良いね! 行こう! やろう!」
勢いづいた二人を見ると、シリウスは視界が開けたような感覚になった。
「運が味方している。やらない理由はない」
***
シリウス達が出発し、3日が経った。
ここからダイヤモンド山は、普通ならどれだけ急いでも一週間はかかる。
クレマチスは眠り続けるロータスの側に控え、コーと共に世話を続けていた。
オニキスの指示のお陰で生活にはほとんど困らない、ベリル達も静かの森に連絡を取り、物資を運んでいた。
口移しでロータスに食事を与え、生きていると実感する一方、少しづつ痩せていく彼の体に不安も感じ始めていた。
そんな日の夕方のことである。
サンからの連絡が来た。
「ピオニー王女の結婚式……確かに、義姉のあなたがいないのはまずいわね」
ベリルが代読し、クレマチスはのっそりと顔をあげた。
「……参列するべきかしら」
「……私の意見ならば、Yesよ」
ベリルはそう言ったが、首を横にふる。
「あなたが決める事よ、いないならいないで、王宮ならそれらしい理由を考えるでしょう」
「妊娠したとか?」
「ありえるわ」
沈黙が降りる。
クレマチスはロータスの横顔を見つめ、それから周囲を見渡した。
コーがいるため、ロータスの世話は任せられる。オニキスの庇護下で彼らは無事に乗り越えられるだろう。
ベリルとルビーはクレマチスを見つめていた。
「……行くわ」
小さな声だが、確かに決意は乗っている。
クレマチスはロータスの頬を両手で包むと、いつかじゃれ合うようにしていたのとは違う、この一瞬に全てが宿るよう祈りを込めた口づけを贈った。
ブルーとイオスも同行を申し出て、5人で旅立つ。
外は雨だった。
王都へ入ると、ブルーは身なりを整え「ベリー家の郎党」と名乗った。
竜人族の橋渡し役であったベリー家にも招待状は来ていた。クレマチスは王宮へ入る前に、アジュガの宮を訪れる。
彼は病人である、と聞かされたため、以前のような怖れは薄れていた。イオスも護衛役として一緒にいたお陰かもしれない。
アジュガはクレマチスの帰りに気づいたが、目を合わせずすぐに出て行ってしまった。
挙式の準備だ。警備のため兵をまとめる必要がある。
結婚式は明日だ。
クレマチスは当日のドレスを確認し、それから衣服を着替え髪をまとめるとベリル達と合流した。
「サンが言うには、アゲート王子殿下も参列されると」
ブルーがそう言った。
「危険では?」
「流石に結婚式で暗殺は目立ちすぎます。危険はないはずです」
「なら、どこかで一緒に行動を?」
「その方が良いでしょう。アゲート殿下もそのつもりのようです」
夕方、アゲートとサンがいるという場所へ向かった。
王宮の庭園だった。
「クレマチス。無事で良かった」
アゲートは大きく息を吐き、目尻を下げてクレマチスを迎えた。
「殿下……」
「ロータスは見つかったか?」
「はい。今は特殊捜査機関の方々とご一緒で……ただ意識を失ってしまわれて」
「意識を? 大丈夫なのか?」
「……きっと大丈夫です」
わかりません、そう言うつもりが、勝手にそう言っていた。
クレマチスはアゲートに対する不信感がなくなっていることに気づき、再び顔をあげて彼の顔を見て気づいた。
アゲートの顔色は悪い。
ロータスを心配しているのが明白だ。
「……アゲート殿下。私……」
「いい、もう何も言うな。君は何も悪くない、私が情けなかったのだ」
アゲートは顔色こそ悪いが、暗殺の事実を受け入れてなおしゃんと立っていた。
「王太子になったのなら、その危惧は当然持ち合わせていた。アイリス王国では仕方ないことだ」
そう言って。
「帝国からも皇子がいらっしゃる。警備は厳重に厳重を重ねている。問題は起きないはずだ。ただ気は抜くなよ、君も自分の安全を最優先にするんだ」
「……はい」
サンとブルーもそれぞれ報告しあっている。ナギもどこかに紛れて見守っているらしい、ルピナスは神官の立場を利用し、神殿での手伝いをしながら危険がないか調べているようだ。
ジャスミンはあの酒場で待機しているとのこと。鷹や鳩を通じて一番に連絡がいく。ロータスに何かあれば、彼女が報せてくれるだろう。
神殿にきらびやかな装飾が施されていく。
が、元々武骨で飾り気のない神殿だ。装飾は浮いてしまい、華やかさとはやはり無縁である。
王都も静かなものだった。竜人族はなりをひそめ、デモの動きもない。
クレマチスはアゲートとともに宮殿へ入る。
王座の間で待つジェンティアナは、どこかやつれた印象があった。
「いよいよ結婚式だ。ぬかりなく、つつがなく済むようにつとめよ」
アゲートにそう命じ、指を持ち上げる。
その指は弱々しく揺れていた。
「……父上?」
「帝都から皇子がいらっしゃっている。懇ろにおもてなしするよう……」
毒味を3人通して、そう言ったジェンティアナの声は掠れ、小さくなっていった。
今にも消えてしまいそうな声を辿り、アゲートが駆け寄る。
クレマチスもそれにならい、王座の前で膝をつくと、ジェンティアナの手が肩に置かれる。
ゴホゴホッ、とジェンティアナは咳き込み、慌てた様子で口元を押さえるが間に合わない。
ゴポッ、と鮮血が溢れ、はっと顔をあげたクレマチスの頬が濡れる。
「父上! 誰か、侍医を呼べ!」
アゲートの叫び声が王座の間に響いた。
ジェンティアナはすぐに治療室へ運ばれ、侍医達の治療を受け始める。
毒や怪我の影響はない、とのことだ。暗殺未遂ではない。
明日の結婚式は予定通り行われるが、ジェンティアナは意識を失ってしまい参列は不可能である。
アゲートは花嫁の父の代理をつとめることとなり、行動をともには出来なくなった。
「おそらく今夜が峠だ……」
「国王殿下までこんなことに……まだロータスとの和解も叶っていないのに」
「ああ。全く、呪われたようなタイミングだな。ピオニーには私から話しておく」
「トレニア殿下は?」
「いないんだ」
「えっ?」
「おそらく、夜逃げした。いつかは気づかなかったが、アイリス王国を見限ったんだろう。今となっては賢明な判断かもな」
トレニアの行方を知らなかったクレマチスは驚いたが、どこか納得してしまう。彼女は権力や地位にこだわらなかった。
「ご無事なら良いのですが……」
「時期を見て探すつもりだ。無事ならそれでいい」
アゲートは眉間に緊張感を漂わせながらも、しっかりとした口調で話している。
サンを振り返り、「すまないが、私のことを引き続き護衛して欲しい」と頼むと後方に控えていたブルー、イオスに視線をうつした。
「クレマチス達を頼んだ」
「アゲート殿下。必ずご無事で。ロータスもきっとそう願っています」
「ああ。ロータスには伝えないといけないことがあるからな」
アゲートを見送り、クレマチス達は宮殿を後にする。今すべきことは終わった。
酒場に入り、ジャスミンにサンのことを伝えると彼女はやはり冷静な態度を崩さず頷いた。
「わかりました。ところで、長官からはまだ何も報せはありません。それと皇子殿下がこちらにいらっしゃるので、それだけお伝えしておきますね」
「えっ? 皇子殿下が?」
「皇帝陛下は庶民の雰囲気も味わわせたいとおっしゃって。ここなら皆いるし、イザという時離脱も簡単だから」
「そんなこと言って、本当は宮殿の不穏な空気を知ってらっしゃるからだろ」
ブルーの返しにジャスミンは両肩をあげて唇を尖らせた。
「ところでジャスパーは?」
ルビーが聞くと、ジャスミンは「ルピナスと一緒にスカイを追ってるわ」と返事する。
「皇子殿下が。一体、どんな方なのかしら」
ベリルが呟いた。
帝都から皇子が到着したのは結婚式当日である。
ジェンティアナの危篤の報せは間に合わず、皇子は面食らった様子だったがすぐに使者に伝えるよう指示を出したという。
まだ若い、19歳の青年である。
栗色の髪が太陽にきらめく。それ以上に印象的なのは、歯を見せるその笑顔だ。
人好きのする笑みに周囲は空気を和ませた。
アゲートからそれを聞いたクレマチスは、挨拶のため準備をしていた。ベリルにより化粧が施される。彼女もこの日は正装である。
緑色のドレスがよく似合っていた。
「ある意味勝負よ。何があっても背筋を伸ばして、気後れした様子を見せないで」
「スティール殿相手に?」
「それだけじゃない。彼一人で王国をひっくり返せるわけない、協力者がいるはずよ。ピオニー王女とかね」
「どこに敵が潜んでいるか分からないと言いたいのね?」
「その通りよ」
ベリルの手がクレマチスの髪の毛を結わえていく。三つ編みを巻いて、後頭部でまとめる。
「髪の色は私たちと違うわね」
隣にいたオウルにベリルはそう話しかけた。
「そうだの。父親の血かもしれん」
「おばあさまは参列するの?」
「この頃、色んな気配に対し弱くなってしまったよ。人が多いとどこから悪意が流れているか、特定は難しい。その前に私が負けてしまう。……参列はしないが、裏から潜り込んでおくよ。何かあれば報せるゆえ、そのつもりで」
「うん」
「ベリル、そなたも気をつけてな。そなたは張り切りすぎるきらいがある」
「……肝に銘じておく」
準備は整い、男装したルビー、ブルー、イオスと共に酒場を出る。
クレマチスは表向きアジュガの宮に入り、彼と共に生花が飾り付けされた馬車に乗った。
アジュガは苦しげにのど元を緩め、窓を開ける。
話すことなどない、とクレマチスはベリルの言ったとおり背筋を伸ばす。
と、アジュガが話しかけてきた。
「どこを泊まり歩いているんだ?」
「……友人のところを」
「へえ。王都にお友達が? 知らなかったな」
「知る気がなかった、の間違いでは? ところで体調はいかがですか?」
「悪くない」
アジュガはそう言うが、先ほどから落ち着かない。額には汗が浮かび始めていた。
「殿下?」
「何でもない。おい、あれは見つかったのか?」
アジュガが声をかけたのは隣を乗馬する従者だ。
「いいえ。一つも見つかりません」
「クソッ、なんだって言うんだ。なぜあれだけなくなる? 盗人風情が……」
アジュガは機嫌悪そうに眉を寄せた。
クレマチスはイオスの言ったことを思い出す。彼は病気なのだ、と。
それで甘い態度を見せてもいけない、クレマチスはやはり背を伸ばし、それ以上アジュガを相手にするのをやめた。
アイリス王国第一位の大神殿の前に到着し、クレマチスは馬車を降りる。
薄いスカートが幾重にも重なり、風に広がる。ピンクに近いうす紫色のドレスだ。ベリルが化粧と髪型を整えてくれたお陰で、いつもより大人びて見えた。
ヒールはやや歩きにくいが、それほど問題ではなさそうだ。クレマチスはいざという時のため、と渡された短剣を太ももに佩いているが、出番がないのを祈るばかりである。
神殿を見上げれば、白い石に彫られた女神の鼻筋が取れているのが気になった。
補修する余裕もないのだろうか。
ベリル達は席が遠い。クレマチスは形だけとはいえ、王子の正妻なのだ。
一度だけ彼女たちを振り返る。
目が合うと、ベリルの力強い目が勇気づけるように光を宿した。
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