アイリス王国と竜人族は、歴代永く不和の状態であり、戦争ほどの規模ではないものの多少の戦闘は続いていた。
この竜人族と王国ないしアッシュ帝国との仲を取り持っていたのはベリー家なる一族だったが、彼らは身体頑強な竜人族と結びつき、時の皇帝から帝位を奪おうともくろんでいる、と疑われ没落した。
おそらくこの時から竜人族との間に溝が生まれた。
現在ベリー家の残党は西方の「静かの森」という領地でひっそり暮らしているはずだ。
そして竜人族はアイリス王国にあるダイヤモンド山を変わらず居住地としている。
それでも当代アイリス国王は、比較的竜人族とは良い関係性だったと言える。
彼――ジェンティアナは若いころに病を得た。
死に至ると考えられていた病だったが、竜人族が与えた「秘薬」で命をとりとめたのである。
片目の視力こそ失ったものの、ジェンティアナ自身竜人族への考えを改め、ダイヤモンド山への入山、採掘権については竜人族へ許可を取るよう法律を定め、竜人族も鉱石類の一部を王国へ献上するなど一時的な蜜月となっていたのは確かだった。
ジェンティアナの代で大規模な戦闘状態になってしまったことは皮肉である。
ことの発端をロータスは報告でしか知らない。
聞いている限りでは、
【互いへの贈り物を交換する場で、竜人族が使者を攻撃、殺害。彼らは王国への攻撃の意志を見せており、更に贈り物に火をつけ、その火は草原を焼いた上近隣の農家を焼いた。武器持たぬ民に被害が及び、その死傷者数は20人にのぼる】
ということであった。
竜人族はこれを事実無根である、と説明したが、彼らのテントから使者殺害の剣を発見、武器庫から新たしい剣、槍、弓矢の類いも見つかり疑いは確信に変わった。
王国軍との戦闘で、竜人族の族長であったレディ・プラチナは矢に当たり死亡。
竜人族は散り散りに逃げおおせた。
今から1年前の話である。
兵士があげた報告では「銀髪の竜人族の男が一団を率いて移動した」とあった。
これを追跡しているのが現状であり、また竜人族の拠点を一つ見つけた、とも聞いているため近々王国軍は行動することだろう。
ロータスは父ジェンティアナや兄たちの住むアイリス王都のその宮殿から、領地であるウェストウィンドに戻ってきた。
華やいだ王都から馬車で一日半とそれほど離れていないが、風景はがらりと変わって農村地帯である。風がよく通る土地で、なだらかな丘陵、小麦の揺れるそこは秋には金色に輝く黄金郷とも言われていた。
今は晩夏、これから実りの季節を迎えるがロータスはその風景が遠いもののように見えた。
農夫達の挨拶を受けながら、馬車がたどり着くのは湖畔のそばの邸。
白い壁にからまるつるバラには蕾が出来ていた。
「王子、お帰りなさいませ」
柔らかい声でロータスを出迎えたのは婚約者のクレマチスだ。エプロンを身につけている。
濃い茶色の髪は艶やかで、小麦色の肌はいかにも健康的。大きな目は光の当たり加減でオーロラのように色を変える、不思議なものだった。
一つ年上の彼女とは幼いころからの付き合いであるが、この頃輝かんばかりに美しくなり、ロータスとしては焦るところである。
「ただいま。何か変わったことはあったか?」
「こちらは変わらず平穏です。王都はいかがでしたか」
「戦の話で持ちきりだ。竜人族が迫ってくる気配はないはずだが……」
ロータスはスカーフを取りハンガーにかける。ロータスを警護していた衛兵達に下がるよう言い、玄関を閉めると夕食の匂いが鼻腔に流れ込んできた。
「今日のディナーは?」
内容はなんとなく分かったが、ロータスはそうクレマチスに聞いた。彼女は料理が趣味だ。
エプロンの汚れから察して今日も台所に立っていたはず。
「カサゴの白ワイン煮込みです。ニンニクも入れておりますよ」
やはり、とロータスは頷いた。
「今夜お戻りだと聞いて……」
笑みを見せるクレマチスの頬に唇を寄せ、「私の好物をわざわざ?」とささやくように言うと、目の前の彼女の耳が真っ赤になった。
「ありがとう。あなたの料理はどんどん美味しくなる、楽しみだ」
「皆の助言のおかげです」
「そうだったのか。出来上がるのはいつ?」
「あと数分煮込めば完成です。先に体を洗いますか?」
「そうしようかな……私がうろついては邪魔になるだろうし」
ロータスが料理を出来ないのは周知の事実だ。宮殿にいたころから、身の回りのことは大抵使用人がやるものだった。
毒味を挟むため冷めた食事ばかりしていたロータスだが、父王の命で婚約者の実家の領地であったウェストウィンドを治めることになってからというもの、彼女と彼女の使用人が作る温かい料理の虜になっていったのだ。
ならば、と自分でも挑戦してみたところ、台所に調味料や具材が散乱したことは記憶に新しい。
使用人にはこってりと叱られたものである。
ロータスは浴室に入り、さっと体を洗い流すとバスタブに身を沈めた。
ここに戻ってくるのは一週間ぶりだ。
宮殿で久々に兄たちと顔を合わせたが、変わらず美しい姉ピオニーの華やかさに圧倒され、裁判長をつとめる厳格な兄アゲートに心配とも説教ともつかぬ話をこんこんとされ、竜人族との不和に悩む父王がつくる宮殿内の重い空気で肩がこる毎日だった。
(確かに重大なことではあるが……)
竜人族は今のところ、反撃にまわる余力などないようだ。
警戒は怠らぬようにしながら、来る秋の収穫に備えることも必要なはずである。
これがなければアイリスに住む民は食っていけなくなり、中央への献上にも支障が出る。
何より兵糧を狙う竜人族の襲来があってもおかしくないのだ。
守るものの選択を、と意見すればなかなかに厳しい視線を受けたものである。
(私は王位への順位が最も低いしな。しかし、被害にあった民を忘れたわけではないが、戦闘に備えるばかりで農民を田舎に帰してやらないのなら、誰が作物を収穫するというのだろう……)
疲れを解かすようにふーっと息を吐き出せば、肩がじんわり軽くなったように感じる。頬にかかる髪は珍しい銀髪で、濡れると青っぽく輝く。
浴室から出て洗濯したての綿の衣服を身に纏う。ふわっと香ってくるのは何かの香草。
宮殿では姉がつけている香油に慣れている鼻だが、こんな飾り気のない柔らかな香りも良い、とロータスは感じた。
円卓につくと窓の外はすっかり紫色になっている。
この頃日が沈むのが早くなってきた。虫の声がちろちろ聞こえてくる。
結い上げられたクレマチスの豊かな髪の背中は細いものの、芯のある背筋に細い腰のラインは思わず手を伸ばしたくなってしまう。
(参ったな)
下心を封じ込めるようにしながら、椅子に座る。クレマチスは食器の位置を確認しながら煮込みを置いた。
ほわほわと油分を含む湯気が立ち上っていく。
「美味しそうだ」
「味見ではばっちりでした。王子、お酒は何になさいます?」
「弱いものにしよう。今日はもう、酔いそうだ」
「お疲れですか?」
「いいや」
ロータスは慌てて首をふった。
生来体の弱いロータスは、それこそ動悸や息苦しさなどに悩まされて育った。彼女もそれを知っており、咳に倒れるところを何度見せてしまっただろう。
成長するにつれ乗馬などで鍛えられ、多少は良くなったものの季節の変わり目には熱が出ることがまだある。
クレマチスが心配顔をするのは当然のことだが、彼女に世話をされるとまるで姉弟になった気分でたまらない。
ロータスの焦りの一因は己の体のことであったのだ。
「帰還されたばかりですし……」
「いや、体は平気だ。熱いうちに食べよう」
クレマチスに着席を促し、斜め隣に座る彼女に食前酒を注ぐ。とろりとした蜂蜜入りの果実酒は彼女のお気に入りだ。
カサゴと一緒に煮込まれた野菜を口に入れ、海鮮の深みある塩味に舌鼓をうつ。
ずっとこうして暮らせたら、そう思った瞬間に違和感が刺し挟まってくる。
ずっと?
このまま?
本当にそれで良いのか?
違和感は疑問となってロータスの頭の隅を支配した。
”結婚前の男女同衾すべからず”
アイリス王国では不吉だとされる行為だ。
ロータスはクレマチスの寝室へ彼女を送り、細い指先をとらえた。
「……おやすみ」
「お休みなさい、王子」
クレマチスの目元が優しく細められるのを見て、指を放した。
木製のドアがパタンと閉まる。
使用人もいるとはいえ、こうして一つ屋根の下で暮らすようになって半年が経つ。
婚約したのはもう15年前のこと、お互いに5つ6つの子供だった。
ロータスが10歳の時学院に通うため中央に留学し、再会したのは2年前だ。成人式をお互い乗り越え、大人になってからの同居である。
だというのに肝心の結婚の話は進まない。
(彼女のご両親もあまり気にしておられぬようだが)
一方長兄アゲートは見合いから3日で結婚してしまった。
王位継承順位1位のアゲートが優遇されるのは当然だが、あまりにとんとん拍子で話が進むのには驚いたものだ。
相手はウィロー王国のご令嬢だという。
更に気がかりなのは姉ピオニーのことだ。
アイリス王国絶世の美女、と謳われる彼女が誰かの妻になる、となれば、騒ぎとなるだろう。数多の男が泣くことになる。
(大変なことになりそうだな)
クレマチスの寝室に背を向け、廊下を踏み出したその時、ガチャッ、と勢いよくドアが開き、振り返るとクレマチスが胸に飛び込んできた。
「クレマチス?」
名を呼ぶと、彼女は顔をあげる。大きな目が見上げてきて、きらきら輝いた、と思った瞬間に唇に柔らかいものが触れてきた。
唇だ、と理解した瞬間に体がぽっと熱くなる。体が離れていくのを止めるように細い腰に手を回した。
「……不吉だよ」
「同衾はしてませんもの」
と、したり顔で言うクレマチスに笑って見せ、頬に手を添えると顔を寄せた。
唇が再び触れあうと、じんじんと痺れるような互いの熱が混じる。
ようやく帰ってきた、という実感がロータスを満たした。
***
アイリス王国西方、静かの森はその名の通り、葉の擦れあう音以外はほとんどひっそりとしている。
木漏れ日は清々しく、陰湿な空気はないが根のむき出しの道はなかなか歩きづらい。
竜人族は普通の人間と比べれば頑強で、活火山のダイヤモンド山でも裸足で歩ける。
今もそうしているが、歩き方のリズムが違うのだ。岩を歩くのと根を踏むのではやや勝手が違った。
シリウスは目深に外套のフードをかぶり、目立つ銀髪を隠していた。
後ろを歩くのは仲間のジャスパーである。焦げ茶色の髪は短く、不機嫌そうな目は鋭い。
身長のある二人と共に、小さな体でついてくるのは竜人族の少女・プルメリアだ。
フードがめくれ、ふわふわの金髪が体の動きに合わせて揺れている。その中にちょんと小さな角が生えている。シリウスは彼女に手を伸ばした。
「肩に乗れ」
「自分で歩くもん」
プルメリアは頬を膨らませる。6歳になり、生意気ばかり言うようになった。
「疲れてしまえば明日は動けなくなるぞ」
シリウスはそう言うと彼女を抱え、肩に乗せた。
「何よう」
「もうすぐ日暮れだからな」
「野営地に良さそうな所を探しましょう」
ジャスパーは周辺を見渡した。耳をすますよう目を閉じると、道を外れて南の方向を指さす。
「あっちに小川があるはずです」
シリウスは頷いた。彼は耳が良い、竜人族の特徴の一つだ。感覚が優れている。
シリウスは視力に優れ、上空の鳥の姿を捉えられるなどあり、どの感覚が鋭くなるかは個体差があった。
小川を目指して根を越える。あるのは獣道で、馬車や馬が通った形跡はなかった。
西日が黄色くなりゆく木の葉を黄金色に燃やしながら沈んでゆく。
シリウスは小川の側の一際大きな木のそばに腰をおろし、プルメリアを解放した。
「静かすぎるな……ここにお貴族様が住んでるというが、本当か?」
ジャスパーは川をのぞき込み、そう呟く。
「ベリー家は帝国から疎まれて以来、大人しくしているそうだからな。本当なんじゃないか」
「大人しくしているのも度が過ぎますがね。我らと帝国側の”調停役”ではなかったか」
「”橋渡し役”だ。どっちにしてももはやその役割すら果たせないほど、落ちぶれたのか」
「名ばかり残ったというわけですか」
「そう言うな。ベリー家の事情とやらを俺たちは知らないのだから」
シリウスがそう言えば、ジャスパーは首をふってごまかし口を閉じた。
王国側の誤解で、竜人族は彼らと戦うことになったが、シリウス達は戦闘を望んでいない。
今は王国軍の侵攻で住む場所を失った仲間達を、平穏に暮らせる場所へ導くのがつとめだとシリウスは考えていた。
散り散りに逃げた仲間達を探し、今はかつての人数の3割ほどを集めたはず。戦闘の犠牲になった者達をゆっくり弔う時間も必要だった。
その頃からジャスパー始め、多くの仲間がシリウスを「リーダー」と慕い始めている。
プラチナ亡き後、族長の証であるダイヤモンドの槍は失われたため正式な族長にはなれない。
シリウスはそれでも良いと思っていた。
とにかく今はやるべきことをやるだけだ。
そうしていつか、王国との誤解が解けたらダイヤモンド山へ皆を連れ帰る。
そう心に固く誓っていた。
「ベリー家の人はあたしたちを助けてくれるの?」
プルメリアが携帯食料をかじりながら訊く。
シリウスは火をつけた後、両手を組んで足の間にだらんとさせ答える。
「そのはずだ。盟約さえ忘れていなければ」
「めいやくって何?」
「友達との約束ってとこだよ」
シリウスの返答にプルメリアは小首を傾げた。
竜人族とベリー家はかつて一つの盟約をした、と互いに言い伝えられているはずだ。
シリウスが知る限りでは
【互いの存亡の機には必ず助けること】
である。
かなりシンプルなこの盟約は、ベリー家が帝国中央から追われた際にも発動した。
竜人族は彼らに衣食を提供、アイリス王国とも話し合い、この静かの森を領地として与えることを約束させた。
「盟約も期待は出来ませんよ」
ジャスパーはそう言って、短剣に刺した魚を目の前に突き出す。
「グッドだ」
「わーい」
魚を焼けば、油まじりの煙があがってきた。
陽は落ち空はどんどん暗くなる。
肌が冷え始めてきた。竜人族は寒さに弱い体質の者が多かった。
「早いとこ住む場所を確保しないとな……」
「冬が来る前に」
シリウスの呟きにジャスパーも頷く。
食料の問題もある。放浪の旅が長引けば、いくら頑強さに恵まれた竜人族でも不調を訴える者が出てくるだろう。
(いっそ帝都に出て、皇帝に謁見出来ないか?)
シリウスはそれを視野に入れて考え込んだ。
食事を終え、外套に身をくるんで腕を枕にする。仲間たちは今頃、エリカとの国境近くにテントを張り、シリウスたちの帰りを待っていることだろう。
あそこは人の往来も少なく、渇いた平野に突然現れる草地があるのみ。
その風景を思い出しながら寝返りをうつ。
木立の間から星が見えた。
あの青白い大きな星。今日な薄い光だ。
ふっと息を吐き出したその時、パキッ、と音がした。
ジャスパーとプルメリアは気づいていないようだ。
シリウスは気のせいかと思ったが、息をひそめて待つ。
カサカサと落ち葉を踏むような音。小動物かもしれない。だが気配を消すように慎重に歩いているような……。
夜目の利くシリウスは視線を巡らせた。小川の向こうに影がある。
人のものだ。それも弓を持っている。
シリウスはそばにあった小石を取り、ジャスパーに投げた。
彼は何事かと振り返り、シリウスが顎で指した方向に目をやると足首に巻いた短剣に手を伸ばす。相手はひっそりとした足取りで近づいてきた。
矢筒に手を伸ばすのが見え、シリウスも短剣を持つとさっと上体を起こした。
「誰だ?」
つとめて穏やかな声でそう言うと、相手は一瞬動きを止めて弓の弦をひく。
「あなた達こそ、誰なの? ここがどこか知っているのでしょうね?」
若い女の声だ。そしてその話しぶり、森の住民に違いない。
シリウスはジャスパーに目配せすると短剣をしまい両手をあげた。
ジャスパーはプルメリアをそっと抱き起こす。
シリウスはフードを下ろした。銀髪がわずかな月光を反射しきらめく。女はそれを見て目を心持ち見開いた。
「ベリー家の領地、静かの森。私は竜人族のシリウス」
名乗ると女は弓を下ろし、ややあってから返事した。
「王国の使者を襲ったともっぱらの噂だけど」
「ただの噂だ。真実じゃない」
「何をしに来たの……なんて、愚問ね……。武器を置くなら入って良いわ」
女はそう言うと矢を戻し、木立から一歩出る。
月光に照らされた金髪が風に揺れた。
「私はベリー家の当主代理、ベリル。何もない森だけど、あなた達を歓迎するわ」
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