火で色を変えた柱が幾重にも重なって倒れている。
夜空は皮肉なまでに澄んでいた。
まだ焦げ臭い匂いが風に紛れているものの、このあたりはスプルスの別宅である大きな邸を除いて人家はない。
王都は平穏な夜となったことであろう。
スプルスは発見されなかった。
バーチ兵たちは火を消すのに精一杯で、この日彼を救い出すことは諦めたようだ。
ルビセルは柱の下で這うようにする手を見つけ、そこにしゃがみ込む。
「ぅ」
と、小さなスプルスのうめき声はしゃがれていた。
「……まだ生きていたか」
そう声に出せば、手がぴくりと反応した。そのまま指先がひっかくように動く。
「助けて欲しいか?」
「う……う……!」
何度もうめき声が返ってくる。
ルビセルは深く息を吐き出し、その手を撫でた。指が助けを求めて握ってくる。
「まあ、生き死にはどっちでも良かった。どうであれお前はもう用済みだからな。ミントも役目を果たしてくれたよ……これで間に合う。いよいよだ……」
ルビセルはそのまま手を握り、ずるずると引きずり出す。柱ごと動かせる程度には力もついている。
それを試すのにもちょうど良かった。
これで神殿をやぶり、本体さえ解放出来れば、バーチを完全に支配出来る。
スプルスの体が夜気の中に現れる。
彼はひどい火傷を負い、息すら辛そうだ。
それにただれた目元。
「せ、んせい」
「うーん?」
「目、が、痛い」
「ああ。目がね……薬が切れたのだろうね。困ったな、私は持っていないよ……ここにあったものは燃えただろうし……」
「痛い……」
「治してやるから、対価を払うんだ。出来るね?」
スプルスは素直な子供のように頷く。
ルビセルは良い子だ、と呟くと、彼のただれた目に口をつける。
彼に与えていた薬――いや、毒は熟し、どろどろの血液となってルビセルに満足な結果を与えた。
「うぅん、これで良いだろう。スプルス、今までよく頑張った。これ以上の苦痛は不要だ。せめて楽に逝かせてやろう」
スプルスは首を横にふるが、ルビセルはお構いなしに自らの血を彼に流し込んだ。
口を通して一気に毒が流れていく。
スプルスは息する瞬間に絶命した。
「……さて。これで良し」
スプルスの死体をそのままにし、ルビセルは立ち上がり……後ろにいる男に気づいて目を向けた。
「カラスか。しつこいな、何用だ」
「一部始終見届けに。この国がどうなるか、興味がある」
「愉快犯め」
ルビセルが振り返ると、巨大な爪でひっかかれたかのような傷を顔に持つ男がそこにいる。
彼はスプルスを見おろし、首を傾げるようにすると口を開いた。
「アイリスへの良い道案内だったのだが」
「それは残念だったな。とっくに死んだよ」
「知ってるか? 魂は死んでから50日はこの世とあの世を彷徨う。ならまだ間に合うはず」
「悪趣味だな。死人など相手にしても、何も得られぬ」
「そうか? この世にこだわり続けるお前の方が、よほど滑稽だと思うがね」
カラスの男はスプルスの死体に近づくと、助けを求めるようにしていたその指先に触れた。
「最後に一仕事してもらおう」
そう囁きかけ、スプルスの手首に手をかざす。
カラスの男は目を閉じて数秒、深く息を吐き出すと「よし」と言ってカラスの姿に戻った。
「ではな、スピネル。しばらく会うまい」
そう言うと翼を広げて飛び立っていった。
ルビセル――スピネルは夜空に溶け込むような黒いカラスを見上げ、頭をふると目を閉じる。
ふわっと体がよろめき、脱力したかと思うとその場に倒れる。
あとにはカラカラにやせ細った老人の死体が残った。
その夜、かつて王城があったという沼地はボコボコと鳴り響き、社は赤黒く輝いた。
だがそれを直接見た者はいない。
***
赤黒く輝いた社の中に、何かある。
社なのだから、何かを祀ってあるのは当然だろうが、その何かが気になった。
オニキスは社に向かって弓を構えるが違和感を得る。
矢を持っていない。
これは何なのか、考えるまでもなく夢だと気づく。
(やはりあの社は気になる)
一度調査したい、と決めると夢から目覚める。
空は快晴、昨日の暴動など無縁の平穏さ。
ふと気になるのはシルバーのことだ。
シャムロックが飛んでいる。ブルーのもとに何か報告を届けるのだろう。
オニキスは身支度を整えると城へ向かった。
ラピス達も集まってくる。いないのはシルバーに同行させたサンとジャスミンだけである。
やはり昨日入手した資料との照合のためだ。
シアンも現れ、レッドはミントの様子を見守るため来れなかったと言った。
「ミントに何かあったのか?」
「どうも目覚めないらしい。顔色も悪いようで、ずっとうなされてるとか……」
「昨日、あんな騒ぎを起こしたせいか?」
「かもしれん。そういえば、今朝方バーチ兵がスプルスの死体を発見したそうだ」
「なんですって?」
ラピスが顔をあげた。
「死因は焼死……顔色がやたら悪かったらしいが、まあ、あの火だからな……油入りのビンに火をつけ投げ入れ、奴の酒蔵に火をつけ、だ。逃げられないさ。そういや、帝国軍の宿がやられた時と似た手口だった」
「では、何か不満を持っていた連中の仕業だったのか」
「そうだろうな。レッドが詳しく知っているはずだ。その内わかるさ。それからもう一人……老人の死体も発見された。ただ、こっちは焼けたような痕がなかったらしくてな」
「ルビセルについては何か報告はあったか?」
「いや。……一切ない」
シアンは腕を組んで、不快なことでもあるように鼻を鳴らす。
「あんな奴がいたなんて、知らなかったぞ。スプルスの知り合いなんだろ? それに診療所……誰もそんな話は」
「把握してなかったと?」
「そういうことだ。情けないことだが……」
シアンは首をかいた。
オニキスは首を横にふると話題を変える。
「とにかく、スプルスがいなくなればまた厄介なことになるだろう。労働組合の長が死んだんだ。それに乗じて動きがあるはず」
シアンはそうか、と眉を開くと頷いた。
「そうだな。俺たちはその隙をつくか」
「ああ。私はルビセルを追うから……」
「長官、大変だ!」
ブルーが声を荒げた。その腕にはシャムロック。
「女王殿下のいる神殿が破られたと!」
「何だって?!」
***
これは明朝のことである。
まだ空が白み始めたころ、シルバーは目覚めた。
外では鳥が騒がしく飛び立っていく。
「何かあったの……?」
寝起きの頭は重く感じる。シルバーはゆっくり立ち上がってカーディガンを羽織った。
その時、マゼンタが部屋に滑り込むように入ってくる。
「殿下! 今すぐここを出ましょう」
「え?」
「まだ私とジャスミンしか気づいていませんが、神殿が破られたようなのです。ジャスミンが皆を起こしに行きましたから……」
マゼンタのただ事でない様子にシルバーは一気に目が覚める。
サンダルをはき、すぐに部屋を出る。マゼンタはシルバーの腕を取り、細く短い槍を構えて静かに神殿内を歩いた。
「一体どうしたの?」
「わかりません。ただ、祭壇から音がして見に行けば穴が開いていて……」
マゼンタの跡を追うようにし、神殿の外を目指す。
途中バーチ兵、サンと合流し、事情を聞けば何かが這いずるような音が聞こえた、という。
玄関に近づくと、ローズマリーが髪を乱したままジャスミンに連れられてやってくる。
青い顔をしていた。
「ローズマリー! どうしたの?」
「巨大なミミズが……兵士が一人、飲み込まれて……!」
「えっ?」
シルバーが聞き返した時、ズズズッ、と巨大なものが這いずるような音がした。
柱の向こうだ。
「あれはっ?!」
「逃げるぞ!」
サンが皆を急かし、背に庇うように立った。
「マゼンタ嬢、前を切り拓け!」
「分かった!」
マゼンタはサンの言った通り前に躍り出て、ドアを開ける。柱がきしむ音がした。
このままでは神殿が崩れてしまう――シルバーは一度だけ振り返る。
人一人は丸呑み出来そうな巨躯の、ミミズのごとき怪物が鹿の王の聖域を犯すのを見た。
マゼンタの先導で山を降りてゆく。
先ほどの怪物は追ってこない。ただ神殿が崩れていく音だけが聞こえる。
シルバー達を気づかってか、サンが止まるよう言った。岩陰に身をひそめると、サンは手早く鷹を飛ばす。
「長官に救援を頼みました」
「ここまでは時間がかかるわ」
シルバーはそう言うと、声が掠れているのに気づいて息を整える。
「急げば一日半でしょう。とにかくここから離れて……」
ローズマリーはそう言って振り返る。
神殿の柱がまた折れた。倒壊の耳をつんざくような音が山に響く。
シルバーは震える手で耳をおさえ、喉がひりつくほどの鼓動にまた息を乱す。
「あれは何なの……?」
「少なくとも良い奴じゃなさそう……逃げないといけないわ」
ジャスミンの言葉にサンが頷く。
「馬は麓だな。動きが遅いは救いだ」
「弓を射かけますか?」
兵士がシルバーに指示を求める。ここでの将はシルバーとなるためだ。
「いいえ。居場所が知れたら……あんな大きいのなら、弓矢では効かないのでは?」
「ではどこかに身を潜めて……」
ひそひそと話し合う中、木々がなぎ倒されてゆく音が近づいてくる。
怪物が近づいてきている。
まっすぐにこちらに向かってきている。
そうと気づくと、サンが立ち上がった。
「サン!」
「良いから、殿下を連れて山を降りるんだ」
ジャスミンはシルバーの手を握り、サンを見上げた。その目が潤んでいる。
「時間を稼ぐ。衛兵達はついてこい。君は殿下と一緒に」
彼はマゼンタを向いてそう言うと、腰の剣を抜いた。
その勇ましい姿に、衛兵達も習う。
「サン。必ず無事で……」
ジャスミンがそう言って、サンは振り返る。
「ああ。すぐに追いつく」
彼はそう言うと目元に笑みを浮かべた。
「俺たちはおとりになればいい。無理に立ち向かうな!」
サンの鋭い檄を背中に、シルバー達は走り出した。
草で素足を切ってもお構いなしだ。一人の悲鳴が聞こえた。
滑るように泥の混じる斜面を下り、獣道に入る。
マゼンタが背の高い草をなぎ払い、道を作っていった。
侍女達も泣きながらも頑張っている。振り返ってももうサン達の声も剣戟の音も聞こえない。
怪物の気配も遠くなっていた。
「このまま山を降りて、馬を走らせ……ダメだ、馬車は使えない」
マゼンタがぽつりと呟く。
「どうしたの?」
ジャスミンが息を整えながらマゼンタに向く。
マゼンタは凜とした表情のまま、額の汗をぬぐうと言った。
「皆で馬を走らせては、馬は疲れて王都まで持たない。それに乗馬出来ない者もいる。とてもじゃないが、庇いきれない」
「そんな……」
侍女の一人がか細い声で言って、ローズマリーに肩を抱かれてついに泣き出した。
「私たちが残るから、マゼンタ、ジャスミン、殿下をお連れして」
「ローズ?」
「殿下、それしかありません。御身第一に考えられませ」
ローズマリーはいつもより毅然とした態度だ。有無を言わせぬ迫力に、その場にいる者達は改めて姿勢を正す。
しかしシルバーは頷かなかった。
「殿下……」
迷っている時間はない、自分でもそう理解している。
だがここで諦めて良いのか?
眉間に力が入り、思わずそこを手で押さえる。
ピーン、と耳鳴りに似た音が耳の奥で聞こえた気がした。
思い出すのは夢。
子鹿の跡を追いかけた先のことだ。
「……」
どこからか水の音が聞こえる。
どっちにしてもイチかバチかなら、諦める前にあがいてみようか。
そう思いつき、シルバーは顔をあげた。
「まだ諦めるのは早いわ」
シルバーはそう言うと、水の音がする方へ進む。獣道すらないような、腰より高く伸びた草が生い茂る方へ。
「殿下、どこへ行くのです?」
マゼンタが慌てて追いつき、シルバーの腕を掴んだ。
「水の音が聞こえない? まずはそこへ向かうのよ」
「……せめて私が先に参りましょう」
「分かったわ、あっちよ」
シルバーはまっすぐの方向を指さし、マゼンタが先ほどと同じように草をなぎ払い進む。
シルバーは振り返らなかった。きっとローズマリーは怒っているだろう。
シルバーが自ら覚悟を見せなければ彼女はきっと、自分を犠牲にする方を選ぶはずだ。振り返れない。
草の茂る斜面を越えると、白樺の群生する場所にたどり着いた。
水の音がはっきりと聞こえてくるものの、川は見当たらない。
マゼンタを見れば、彼女の手や腕は草で切った痕でいっぱいになっていた。
「消毒しないと」
「今は安全なところへ行きませんと……あら、あれは」
マゼンタがふと何かに気づき、つま先立ちになり眉を開く。
「あそこにあるのは湖?」
マゼンタが指し示したのは、一際大きな白樺のその根元だ。
規模は小さい湖のようだ。近くに行けば、透き通る水の中に小石が溜まっているのが見える。
手で掬うとかなり柔らかい手触りで、匂いもない。
飲んでみるとひりついた喉に染み込むようだった。
「殿下。せめて私が最初に口をつけますから」
ローズマリーがようやく呆れたように言った。
「つい」
「毒があったらどうするのです」
「大丈夫よ。美味しい水だわ。マゼンタ、腕を出して」
その場で一時的に休息を取ることになった。ジャスミンが周囲を見て、虫や鳥がいるのを確認したからだ。
ジャスミンは白樺の根元に腰をおろす。
シルバーは彼女のそばに膝をつく。ジャスミンと目が合った。
「ジャスミン、面倒をかけたわ。貴女は帝国に属する身、私たちのことを必要以上に気にかけることはありません。このまま離脱して」
そう言うと、ジャスミンはふいっと視線をそらし、耳に豊かな髪をかけると頷く。
「お給料分は働かないとね。商売で一番大事なのって、お客からの信頼なんです。ここであなた達を見捨てたら、あたしも運から見放されるわ」
「命あっての物種でしょう」
「かもしれない。でも、ここで逃げちゃサンに笑われるわ。女王さま、あんな変な奴に襲われたっていうのに、落ち着いてますね」
「……どうでしょう」
この頃伝説の類いを調べていたせいだろう。シルバーは悪夢のこともあってか、免疫がついている思いである。
「……きっと悪夢みたいなものよ」
そう言うと、ジャスミンは歯を見せて笑った。
「ふふふっ。トップがこういう人なら大丈夫そう。肝が据わってるのはオニキスと似てますね」
「オニキス?」
ジャスミンがそう呼び捨てにしたのが気になり、目を見開く。
「まあ、女王さまの言うとおり、夢だと思ってやってみましょうか。体力には自信があるから、多少は役に立って見せますよ。マゼンタ、槍の他に何か持ってないの?」
マゼンタが振り返り、ナイフを取り出す――その瞬間だった。
湖からは離れた白樺がきしんだ音を立て、バキバキと枝を折りながら倒れてくる。
突然のことに鳥達も慌てて飛び立った。
「来た?!」
「分からない、静かに下がって」
マゼンタが駆けつけ、ジャスミンと二人で前に立つ。
ぬっ、と大きな影が立ち上がり、湖一帯を黒く覆ってしまった。
頭上にはさきほどの怪物が現れる。
牙のようなものはなく、筋肉質でぬめぬめとした胴体がぼこぼこと呼吸するように動く。
真っ赤に腫れたような色はどこか生々しい。
「気持ち悪い奴ね」
と、ジャスミンが言い放つ。
「サン殿は……」
「多分、無事」
「どうして分かる?」
「女の勘!」
ジャスミンの手がシルバーを逃げろ、と押した。シルバーは走り出し、はっと気がついて白樺の群生地に向かう。
「こっちよ!」
そう声を張り上げて叫べば、ジャスミン達が怪物を見つつ後退してくる。
一人、侍女が違う方向へ行った。
怪物の影が迫る。
「危ない!」
そう叫んだものの、彼女は口を開けた怪物に飲み込まれてしまった。
「殿下、見てはいけません!」
ローズマリーの一言に我に返り、シルバーは喉に違和感を持ちながらも走る。
白樺の中を、風が背中を押す方へ。
夢のような平和なものではなかったが、これで良いのだと直感は告げている。
「殿下! この先は裂け目ですよ!」
マゼンタがそう言う。
「それで良いのよ! 裂け目の奥へ行くの――!」
***
シルバー達が祭りのため向かったのはスケイル山だという。ここから急ぎ向かえば1日半。フェザーの脚ならもう少し早く着くはずだ。
シアンが同行を申し出、強健な馬を選んできた。幸い、道は出来ている。
「見たこともない怪物だと」
ブルーはサンから送られてきた紙片を見返し、表情をきつくした。
バーチ兵がやられた、丸呑みにされたと記されている。
あのサンが冗談でこんなものを寄越すはずもない。
「大抵の生き物は火を怖れるはず。酒でも油でも、持てる限り持っていきましょう」
ラピスは冷静に指示を出し、オニキスは弓矢の具合を入念に確かめた。
張り詰めた空気が漂う。
「ルピナス、ナギ、二人は待機だ。コー、荷物を持てるだけ持て」
「俺も行きます」
ナギがそう手をあげた。
皆の目が彼を向く。
「何を言う。ここに残れ」
オニキスがそう言うと、ナギは目の前にやってきてまっすぐに見てきた。
「一緒に行きます。荷物持ちでも何でもやる。絶対、足手まといにはなりませんから」
「お前の非力な腕で何が出来ると? サンですら逃がすのに精一杯だったのだぞ。ここで言い争って時間を無駄にしたくない。ルピナス、ナギを押さえておけ」
オニキスは非情に言ってナギの体を押した。
ナギの細い体はすぐに体勢を崩し、非力さを理解したはず。しかし彼は食い下がる。
「でも、だったらおとりくらいにはなれる。いざとなったら一人ででも山を降りるから」
「バカ言え。無鉄砲なのと勇敢であることは違うのだぞ。皆、行くぞ」
オニキスは装備を整えると矢筒を背に、城を出る。そこでは異様な光景が広がっていた。
人々が青白い顔をして、自分の体や足をひきずるようにして城下町を徘徊していたのだ。
オニキスは左腕に走る痛みに似た感覚に顔をしかめ、腕をまくる。
そこは青白くなっていた。
次の話へ→Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第41話 昔話