黒い波の中にゆったりと光の粒が混じっている。
瞑想の最中、額のあたりで見えるその光や揺らぎは、日々増えていた。
斎戒を終え、神殿でお祈りのための日々が始まって4日経つ。
王城では軽微犯罪はあるものの、穏やかであるらしい。スプルスはオニキスを連れ出かけているようだが、基本的には目立った言動はないとのことだ。
伝令兵を下がらせようと口を開きかけたその時、彼が次の報告をあげた際には思わず目を見開いてしまった。
「アンバー隊長が四方将軍に任ぜられ、バーチ目指して首都を出られたようです」
「なんですって?」
伝令兵が言うには、現在残っている帝国軍と伝書鳩でやり取りがあったとのこと。
鷹は使わなかったようだ。
「では間違いないのですね」
「はい。軍の規模は拡大されます」
「わかりました。アンバー……将軍達がここへ到着するのはいつ頃?」
「道の状態が変わったため、予想より早いのではないか、と書かれておりました」
「では早めに彼らの宿営地を改めて設定せねばなりませんね」
シルバーは受け入れのための指示を出し、伝令兵がようやく役目を終える。
すぐそばに控えていたローズマリーを見やれば、彼女はすました表情でいた。
あまり眠れていないのか、彼女はどことなくいつもより静かである。
「ローズマリー?」
「あ、はい。殿下」
「どうしたの? アンバー隊長が将軍となってここへ戻ってくるわよ」
「ええ、とても、喜ばしいことです。頼もしいお方でしたから」
どうにもローズマリーの歯切れが悪い。
シルバーは扇を広げてまた閉じて、それを繰り返すと「そうね」とだけ返した。
寝室は城よりも狭いが、地面が近く、清潔感に満ちていて快適である。
シルバーは足の短いベッドに横になり、窓から三日月を見た。
月の明かりが少ないため、星がよく見える。
棚から小箱を取り出し、開けると無垢な純白の羽を見つめた。
オニキスが送ってくれたものだ。
指先で触れるととても柔らかく、しかし芯があって心地よい感触だ。
ペンダント状になっているため、それを首に下げる。
そのままベッドに横になると、ローズマリーが生けた花の柔らかい香りが肺一杯に入ってくる。
(ローズは一体どうしたのかしら)
マゼンタも何も言わない。彼女のことだから、ローズに怠けるな、と言いそうなものなのに。
そんなことをぼんやり考えながら眠りにつく。
満点の星空だった。
川は治まり、水面が星の光をうつしている。
子鹿達がその水面に口元をよせるため首を伸ばしていた。
平和な夢だ、とシルバーは思った。
裸足のまま歩いても痛くない。そのまま風が吹く方へ歩み続ける。
向かう先は裂け目、その奥、さらに奥。
背中を押すように風は吹く。
「この先は……」
行ってはいけないのでは?
そう言いかけた時、子鹿達がシルバーの先を駆けていく。
一頭が振り返り、頷いて見せた。
大丈夫、と言いたげに。
シルバーはそれを見ると眉を曇らせたが、ふっと息を吐いて彼らに続いていく。
裂け目は徐々に狭くなり、地面は次第に同じ色になってゆく。
誰かが言っていた、これは裂けたのではなく、元違う大地がくっついたのだと。
途方もなく昔の話だと、そう話していたのはあの知識ある老人だったろうか。
別々のものが結びついてゆくまでに、どれだけの時間がかかるのだろうか。
崖のようになっている裂け目の断層は色を変え、混ざり、押しつぶされ、そのために固く結ばれている。
風が鋭くなってきた。
道は細くなり、シルバーは体を横にして進む。
その先は裂け目の合流地点だ、洞窟になっており、中は暗い。
そこには生暖かい空気が流れていた。
目をこらすとわずかな光で濡れたように輝くものが見える。それがゆっくりと上下している。
「これは……」
子鹿達は洞窟の更に奥へ消えてしまった。
洞窟内はシルバーと、もう一つの呼吸音で一杯である。
「……お前が新たな王か」
洞窟内に響くのは、疲れたような声。
シルバーが顔をあげると、まばたきをする黄金色の目がすぐそこにあった。
***
ラピスが戻ってきたが、めざましい発見はなかったようだ。
これだけ探っているのに、コネクションや不正の証拠が見つからないとは。
シアンとともに行動していたレッドが眉根を寄せてため息をついた。
「なぜ証拠が見つからないのでしょう」
「スプルスの本宅はどうだ?」
「探したいが今は氾濫のためたどり着けないだろうな」
シアンはそう言って頭をかいた。
レッドは帰され、オニキスは彼を尾行する。
レッドと繋がっている誰かがその突破口にならないか? と思ってのことである。
彼は母親の待つ家にまっすぐ帰り、その後はシアンの部下が見張ることになった。
流石に行き詰まりを感じる中、オニキスはスプルスの招待を受け一人出かける。
邸の厩舎には脚の長い馬がいた。フェザーと体格が似ており、バーチの馬とはまるで背丈が違った。
斑模様だが白い毛の部分が美しい。
「バーチでは初めて見るな」
近くに寄っても特に怯えた様子を見せなかった。よほど人に慣れているのだろう。
「オニキス殿」
そう背中に声をかけられ振り向けば、くつろいだ格好のスプルスが、玄関扉に背を預けて立っていた。
「良い馬だ」
「ああ。アイリスの馬だ」
「アイリスですか?」
スプルスは表情を変えずに頷く。
「あそこには個人的に支援を送っているのでね」
「どうやって届けるのです? 小規模とはいえ戦ですよ」
「確かに盗賊におちた者もいるしな、安全とは言えないが……必要とするものを出してやれば、向こうも上客だと手出ししなくなる」
「ばらまきですか」
「そうとも言えるな」
スプルスは頬を持ち上げて笑って見せた。
「なぜアイリスに……あなたが支援している相手が誰かは知らぬが、なぜ肩入れするのですか?」
「単純な話だ。ビジネスだよ」
「こちらから何を送るのがビジネスになると?」
オニキスがそう言うと、スプルスは口の端をにやりと曲げた。
「必要なものさ」
オニキスはスプルスの邸に入り、改めてその室内を見る。
本宅ではないものの、広さは充分、部屋数も下働きの人数に合わせて8部屋、居間も厨房もある。
「バーチには移住者が多いと感じるのですが」
着席すると濃厚な色の紅茶が出された。香りはどことなく甘い。
「だろうな。疫病やら何やらで、毎年死者が出る。人を迎えねばバーチは運営出来なくなる」
「今年はどうなりそうですか」
「何人かは病に伏せっているが、死者は少なくてすみそうだな。博士とやらが女王殿下にずいぶん重宝されているようで、その働きあってのことらしい」
「帝国軍による道の舗装のお陰で、薬草が届いたとも聞きましたが」
「ふふん、なるほど」
「スプルス殿はどのように対処されているのですか? 毎年の水害、疫病。その後のビジネスの立て直しは?」
オニキスの質問に、スプルスはカップに口をつけながら目線だけ送ってきた。
よく見れば彼の目は片方、濁っている。皺の深さで気づかなかったが、患っていたのか。
「私はね、オニキス殿。人一人で出来ることなどたかがしれていると理解しているつもりだ」
カップが置かれる。
スプルスは左腕の肘をテーブルにつき、右腕をゆったり広げてテーブルの端に置いた。
オニキスの中で警戒するよう警告がなる。
懐柔されてはいけない。
「だからこそ有志を募り、彼らに最も相応しい場所を提供しているのだ。そうすれば物事はたちまち蘇る。そしてその礼を受け取っているだけなのだよ。水害はどうしようもない、だがその後のことは、意外とどうとでもなるものだ。帝国はそのことを理解していない。守護してやると言いながら、自分の都合の良いように書き換え、だが真髄は理解出来ないから今でも右往左往するのだろう」
「あなたの望むバーチの姿とは、なんです?」
「私が望む姿? フン」
スプルスはカップを再び手に取る。
その手が震えていた。
先ほどとは違う様子だ。
「あるべき姿に戻したいのだ。誰の支配も受けぬ、誇りあるバーチに」
「そのために王城を復活させたいとお考えなのですか?」
「その通り」
スプルスの濁った目と声は迷いがない。
手の震えはあるものの、感情のせいではないようだ。何か発作のようである。
しかしオニキスはそれに気づかないふりをした。
スプルスも隠そうとしていない。弱点をさらしていることに気づいていないのだ。こんな好機はない。
「王城を復活させるためには人手がいるはず。どのように人を集めるおつもりですか? 疫病の被害増加はまだ顕著でないものの、弱っている者は多い」
「疫病や年齢が問題だと思うかね。確かにバーチに働き盛りは少ない。だがそれは問題ではないのだよ」
「問題ではない?」
スプルスがカップを持ち上げた時、オニキスも同じようにカップを持ち上げた。
目が合うとスプルスはフン、と笑みを浮かべてオニキスを覗き込むようにする。
「だからこそ、私にとってルビセル先生は重要な方なのだよ」
スプルスにいとまを告げ、夜になるのを待ってオニキスは邸に再び入り込んだ。
コーがナギを連れて行くよう言ったため、彼も同行している。連れて行くよう、の意味は扉を開ける際に分かった。
スプルスが病にかかっているなど聞いたことがないが、わずかな時間であのように手が震えるなどあるのだろうか。それにルビセルだ。彼を追えば、何か手がかりにつながるかもしれない。
スプルスの私室を調べてもそれらしいものは出てこなかった。
コネクションとの繋がりも、人身売買に関わるものも。
やはり本宅に重要なものを残しているのかもしれない。
そう考え、この日の調査を終えようとしたところ、地鳴りのような叫び声が聞こえた。
ナギが口を押さえてオニキスを見た。
「あれはスプルスの声のようだ」
そう小声で説明し、気配を押し殺し様子を伺う。
足音が厨房あたりに集まっていく。オニキスとナギは気配を押し殺し近づき、扉の隙間から覗いた。
両膝をつき、目を押さえるスプルスのそばにはカップ、こぼれた水。彼は草を手にして、呻きながら目をかきむしるようにしていた。
下働きの老人が下の者に指示を出している。
早く湯を沸かせ、薬草を煎じろ、ルビセル先生から頂いたものだ……そう聞こえてくる。
(ルビセル先生……)
医学に通じている、彼はと言っていた。ミントも働いているあのハーブティーの店。そこで処方されたものだろうか。
厨房ではカップを渡されたスプルスはそれを一息に飲み干し、しばらくすると目から手を離した。そこは爪でひっかいた痕が残っている。
あまりに痛々しい姿だ、下働きの青年が彼を支えて厨房を出て行く。
明かりが落ち、再び静かになった厨房へ、オニキスとナギは滑るように入っていった。
老人が指示した戸棚を開けば、中は同じ紙袋でいっぱいだ。
開いている一つを確かめれば、粉々になっている緑色の乾燥したものが出てくる。
鼻を近づければかなり酸っぱい匂いがした。
「若旦那さま」
ナギが周囲を見て裾をひく。
「ああ。もう出よう」
影に隠れるようにして邸を出る。
ナギが器用に鍵をかけ、何もなかったかのように去る。
夜風はひんやりと冷たくなっていた。
オニキスは翌日、さっそくルビセルを追うことに決めた。
同行を申し出たレッド、その見張りとしてシアンが一緒だ。
ミントを訊ねたが、彼は出かけているという。
オニキスはミントからルビセルの診療所の場所を聞き、そこを目指した。
博士のプラントと対をなすように、薄暗い森のその奥である。
オニキスは森に入り、あのかつての王城と同じ空気を感じた。
「シアン殿、かつて王城は別の場所にあったらしいな」
「ああ。今から100年ほど前だと聞いている」
「100年前……」
書き写しの年表に王の日記の一文が記されていた。
【小さな社を与えた】
オニキスは川の流れる音に気づいてそちらを見やる。
まさか、と思うが確かに近い。
あの沼に繋がっている?
オニキスはかぶりをふる。
今はルビセルを訊ねるのが先だ。
そう決め、森を行く。
レッドが気づいて奥の看板を指し示した。
「あれが診療所の……」
「よし。行くか」
シアンがレッドの背を叩いて先を行く。
オニキスは二人の後をついて診療所に入った。
陽の光が入りにくい場所なのか、昼前だというのに薄暗く、どこかじめじめとしている。
カラスがずいぶん多かった。
診療所をノックすると中から声が聞こえてくる。
「どうぞ。開いているよ」
相変わらず美しい声だ。
男か女かわからない、そんな絶妙な声。
ドアを開けると中には大きな目の麗人がいる。一目見ただけでは、やはり中性的でどちらかわからない。
改めて彼はさらわれてきた者達の証言とぴたりと合う。
「あなたは……」
レッドが声を固くして呟くように言った。
「な、なぜ」
「あはは。すっかり大きくなったものだ。私のことを覚えていたのだねぇ」
ルビセルは表情を固くするレッドに向かい、親しげな笑みを浮かべる。
友人を歓迎するかのように両手を広げ、レッドに近づくと彼をそっと抱きしめた。
「君のご家族を助けてあげたよ。その対価は君が大人になったら……その約束だったね」
「何をしている?」
オニキスが割って入ろうとしたが、ルビセルは意にも介さぬ様子で続けた。
「でも、今の君では対価は払えない……そうだろう? 仕方がないから、妹君に払ってもらうよ」
「なぜ、なぜあの時のまま……もう30年近く昔なのに……」
「ああ、それは、人の身であれば30年は確かに長い。これでも苦労したのだよ、他の生き物よりは環境に適応しやすかったんだけど……なかなかいい体は見つけにくかったかな……」
ルビセルはレッドを放すとその目を見つめた。
「全く、困ったことだ。一部計画が乱れたのだから……まあいい」
「おい、あんた何なんだ」
シアンはルビセルを睨みながら、腰の剣に手をやる。
「何かって? ここで医学を教えているルビセルだ。そうと知ってここに来たんじゃないのかね」
「シアン様、こ、この人は、私達の移住の仲介をした……」
「そうそう、その通りだ。君たち、よくバーチを調べ回ったことだ。女王もバーチ復興を掲げたようだが、遅かったのではないかな……ここはとっくに私の王国なのだよ。奴隷に相応しい者達も見つけた。後は私の本体を取り戻すのみ……うるさいな、カラス! 望みのものを得たならとっとと去れ!」
ルビセルは突然声を荒げ、上に向かって睨みつけた。
大きな羽音がなり、すぐに静かになる。
「とはいえ、このままでは私も分が悪い。そうだ、オニキス。君の目に興味がわいた。その目は一体、何を映すのだろう? 私に見せておくれ」
ルビセルは大きな目をオニキスに向け、その後何か細い針のようなものを放り投げた。
シアンはレッドを庇いよけ、オニキスはとっさに体を庇うため左腕を前に出すが、針は服すら貫通してしまう。
「っ!?」
ちくっ、と軽い痛みが走り、それだけだった。
走り去る音が聞こえ、構えを解いて針を抜く。
ルビセルはすでにいなかった。
「なんなんだ、一体?!」
シアンが診療所、窓、と探すが首を横にふって戻ってくる。
「意味不明だ。奴が移住の仲介者? なら人身売買に関わっていたと? だが被害者の証言には合うな。男か女かわからない……」
「年を取っていないようでした……」
「母親の代から、と言っていたが、あれは嘘か。しかし、こんな一瞬で姿を消すとは、……!」
オニキスは左腕に走る激痛に顔を歪めた。
「どうした?」
シアンが駆け寄るが、オニキスは先ほど針の刺さった場所を押さえるが、すぐに治まったので「大丈夫だ」と答える。
「それより、奴は確かに移住の手伝いを認めただろう。証拠があるんじゃないか」
「探しましょう」
レッドは頷き、診療所を探し始める。手分けして棚を調べ、天井裏を探し、としていると、レッドが戸籍らしきものを見つけた。
人身売買の被害者の名前だ。
オニキスとシアンと、三人で確認する。
そこにスプルスの名前はなかった。
「彼は関わっていなかったのか」
「そのようだ……では、ルビセルがコネクションと繋がっていただけなのか……」
オニキスは左腕をさする。
痛みかゆみはないが違和感がある。
もっと詳しく調べねば、と口を開いた瞬間、ドオン、と爆発音が聞こえた。
「何事だ?」
「あっちです。王都の近く……スプルスの別宅のあたり!」
「何だって!?」
診療所を出て馬を駆る。
スプルスの邸からは黒煙があがっていた。
遠くから見てもひどい火事である。
石畳で馬をとめ、先に駆けつけていたバーチ兵とシアンの部下と合流した。
中にはコーとラピスの姿もある。
「何があった?」
「暴動です。何でもスプルス殿に騙されていたとか……」
「はっ……」
そばでレッドが大きく息をのむ。その顔は先ほどよりも強ばっていた。
「あれは……!」
レッドが邸に走ってゆく、その先にいたのはミントであった。
彼女は松明を手にしている。
「ミント!」
「に、兄さん」
ミントは立ち止まって振り返る。周囲には同じく松明、ビン類を手にしている者達がいた。
「何をしてるんだ!」
「だって、兄さん! みんなあの男に騙されていたのよ!」
「騙されて……いや、でも!」
「良いから、放して! スプルスこそ私たちの人生をめちゃくちゃにした張本人でしょ!? ルビセル先生がさっき、そう教えてくれたわ!」
「先生……!?」
ドオン、とまた爆発音が響き、火の粉が散ってくる。
オニキスは左腕にまた走る違和感に眉をよせ、火をつけたビンを投げつける彼らを見ていた。
バーチ兵が彼らを抑えに行く。
頭上でカラスがギャアギャア騒いでいた。
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