1週間かけて行う斎戒は朝早い。
朝日が登り始めるころに目覚め、朝日を浴びながら体を洗う。
体を洗うのはスケイル山にある青湖だ。
その名の通り、澄んだ青い湖。湖面は穏やかで、身を清め力があると考えられている。
テントのそばにマゼンタとジャスミンが帯剣して備え、侍女達はそのそばで火を焚き、茶を淹れている。
シルバーは薄手のワンピースを着て、一人湖を泳ぐ。
香油を撫でた髪が濡れ、体に張り付いた。
湖面は木漏れ日を反射してきらめいている。
まるで、水害や政の問題などないかのような穏やかな世界だ。
神殿に仕える者達は皆こんな暮らしをしているのだろうか?
シルバーはそんなことを考え、頭まで湖に入り、そのまま両手で水をかく。湖の底には白い石、水草、体を反転させると太陽。
それら一切が別世界のもののように見えた。
ぱっと湖面に顔を出し、髪を洗う。
ふんわり漂う香油の花の香りが心地よかった。
髪をしぼるようにしながら湖からあがると、侍女がタオルを肩にかける。
夏とはいえ山の中、雪国であるバーチでは濡れたままでは寒い。テントに入りワンピースを脱ぎ、体を拭くと斎戒のための生成りの衣を身に纏う。
外に出ると、その場で朝食を摂るため敷物に座った。
用意されていたパンと果物類、バター、花びらのシロップ漬けが運ばれてくる。
皆は先に済ませて、それぞれの役目に集中するよう命じてあった。
「これを7日間続けます。あまり気を張りすぎないようにね」
シルバーがそう言うと、緊張した面持ちだった侍女が「は、はい」とやはり緊張した声で返事する。
「7日間も?」
シルバーが紅茶に口をつけると、ジャスミンがそう聞いた。
相手はマゼンタである。
「ええ。斎戒に7日、お祈りに7日、祭りは4日、そしてバーチ王都で宴会兼ねた締めくくりを」
「ここに3週間ほどいるのは聞いたけど……」
「長官はなんと?」
「女王さまとご一緒して欲しいって。詳しくは分からないって言ってたわね」
「祭りの内容、特にこちらでのことは部外者は知りませんものね。特に説明もなくお連れして、申し訳ありませんでした」
シルバーが声をかけると、ジャスミンは気まずいのか目をそらし、肩をすくめると「嫌だったとかじゃないのです、よ」と返した。
「楽になさって」
「はあ。でも、あたしは、その~、言葉遣いとか礼儀とかがあまりわかってないんですよ。宮中とか入ったこともないですし。だから長官はあまり話さなくていいって」
そういうジャスミンの顔はひきつっている。シルバーがマゼンタに目をやると、マゼンタは肩をすくめて言う。
「私も似たようなものだ。兄からはいつも注意されている」
「そうなの?」
「短気なのがいけないと」
「ふーん? かわいい顔してるのにねえ」
「か、”かわいい”?」
ジャスミンの一言にマゼンタは頬をひくつかせた。槍も剣も振り回し、颯爽と馬に乗り駆ける彼女をそう言う者はいない。
「と、ところでローズは?」
マゼンタは話を侍女にふった。彼女はカゴの水筒を取り出して言う。
「侍女長さまなら、本日はお休みです」
「そうなの?」
「はい。お城にいた時も捜査機関の方々とよくお話されていましたし、忙しそうだった上の長旅ですから……」
「疲れが出たのね」
シルバーはパンをさき、花びらのシロップ漬けをかける。
「殿下のおそばに花を欠かさないよう仰せつかっております」
「そう? そういえばこの頃、ずいぶん注意されたわ。どの花でも良いから香りのあるものをそばに置いておくようにって」
濡れた髪にタオルをかける。
肌のあちこちに出ていたミミズ腫れは薄くなり、今はじっくり見なければほとんど分からない。
悪夢も遠ざかっており、はっきりと残っているのはこの間薔薇のトゲで切った痕くらいだった。
「捜査機関の方とお話?」
ジャスミンは知らない、と肩をちょんとあげてみせる。
「ジャスミンは聞いていないの?」
「聞いていません。副長官と一緒だったからかな」
「私も知らないの。マゼンタはどう?」
シルバーが話を向けると、マゼンタは口を閉じて「いいえ」と言った。
「ローズのことですから、殿下のおそばにあがる者を吟味しているのでしょう」
シルバーはマゼンタのもっともな意見に頷いて見せた。
ローズマリーほどシルバーや城の内情に詳しい者はいない。
彼女に近づけば情報は簡単に手に入るのだ。
オニキスとしても得がたい存在のはずである。
「ところでジャスミンはどこで長官と会ったの?」
マゼンタが声をやや高く出し、話を変えた。
シルバーはその態度に不自然さを感じたものだが、あえて無視する。
ローズマリーとマゼンタが結託するなら、よほどのことがあるのだろう。そう信じるしかない。
「あー、その、なんていえば良いのかしらね……」
ジャスミンは豊かな髪をかきあげながら、決まり悪そうに話し始めた。
ジャスミンの話を聞いた皆は、さすがに厳しい顔をした。
シルバーは顎に指先をあて、コネクションなる組織がいかに帝国にはびこっていたかを知り、緩んでいた緊張感を取り戻す。
「やはり何とかしなければいけない問題だわ……」
シルバーが重く言うと、マゼンタが同意する。
「困ったことです。その人身売買の被害がバーチでもっとも大きかったなど……でもなぜ、把握出来ていないのでしょう」
「移住者が多いもの。でもその原因はアイリスの不穏そのものでしょう? 誰かを責めたら、その責めは帝国を一周回ってしまいそうね……」
「捜査機関が発足してすぐこちらに来たのは、そのためだったのですね。だが、オニキス殿も私達に隠していることがあるのでは?」
マゼンタがふと疑問を口にし、しまったと口を手で覆う。シルバーはちらりと彼女を一瞥し、扇を広げて侍女に声をかけた。
「ローズマリーをよく見ていて。でも見張ってはいけない。彼女の忠誠を疑わないように」
「はい。そのようにいたします」
侍女はカゴを片付けながら、そのまま青湖を後にする。
「サンという、あなたの相棒も同じように被害に遭った方なのね」
「彼のご両親がさらわれてきて……。詳しいことは話せませんが……」
「どうにもバーチからさらわれたように思うわ。そうでなければアイリスでしょうね」
「黒髪ですよ」
「アイリスにも黒髪は多いわ。でも、あの恵まれた体格に青い目、まじる亜麻色の髪はこちらの特徴だと思う。……こちらから調べましょうか。彼さえ良ければ話をしたいわ」
「本当に? 話してみますが……」
ジャスミンは眉を開いたが、すぐに考え込んだ。
「彼のことだから自力でなんとかするとか言いそうだし……余計なこと言っちゃったかな」
「被害の全貌を明らかにするのは女王としての義務ですから。私的な問題ではないので遠慮はいりません」
「うーん、そうなんですね……それならサンに話しておきます。でもお祭りでお忙しいのでは?」
「今は斎戒ですから、それほど忙しくありません。祭りになったらそういうわけにもいかなくなりますが……時間が許す限りつとめましょう」
シルバーが朝食を終えると邸に戻る。
静かなもので、色鮮やかな花々が一行を出迎えた。
邸の警護にあたっていたサンと目が合う。
存在感のわりに物静かな男だ、シルバーを見るや恭しく礼をする。
「後で話せますか?」
そう声をかけると、サンはぱっと顔をあげて「いつでもお呼び下さい」と返した。
「では昼食後に。応接の間で」
「かしこまりました」
朝の懺悔を終え、祭りの日程と内容を目に通す。昼食を終えるとマゼンタとともに応接の間に向かう。
サンはその部屋の前で待っていた。
「ジャスミンから話を聞いた?」
「はい。コネクションの実態を暴くために必要だから、と」
「今捜査機関の方々から頂いた情報をもとに、被害者の家や家族を調べています。何年も前となるとさすがに難しいけど。……さて、あなたの容姿はまるでバーチの血が入っているようですね」
サンは自らの手を開き、それを見ると指を曲げてふっと息をついた。
「母の肌は殿下のように白いものでした。殿下は首都の出身だったはずだが、つい思いだし……ぶしつけに見つめてしまい、大変失礼しました」
「それは構いません。白い肌だったのね。私も首都の出身ですが、バーチで暮らすようになってから白くなったのは確かなの。そうと思うなら、母君はこちらの方だったかもしれない。何か、他に思い出せることは?」
サンは口もと手でを隠すと渋面を作った。
「幼いころに別れたので……はっきりとは」
「もしかして不快な思いをさせたかしら」
「いいえ。私自身、両親のことを知りたいと考えておりましたので、不快など滅相もない。ただ、はっきりとは覚えていないため、話すことで誰かを惑わせたくないのです」
「正しいことだけを選ぶことは誰にも出来ません。間違いなら間違いで、無数の可能性から一つの選択肢が消えたということ。より正解に近づくのだから、無駄ではないはずでしょう」
シルバーがそう言うと、サンはシルバーをちらりと見た。
ついさきほど、身を清めるため入った青湖のような青い目。
深い海のような青い目。
不思議に美しい目だ。
「……そう、母はよく歌を。”あわれ我が子よ、よく眠れ”そんなような歌だったと……」
「あわれ……」
シルバーは顎をひっかくように爪でなぞり、その一文を繰り返した。
(あわれ。かわいそう、という意味?)
サンの境遇を思えば、確かにあわれだ。
奴隷の子として産まれ、奴隷として育てられた。
あわれと思うのも無理からぬことのように思える。そしてそう思っていたのなら、彼女にはサンに対する愛情があったのだろう。
だが本人の威風堂々とした姿にあわれな感じはない。
「……子守歌の一種かしら」
「おそらく、そうだと思います。あまり好きではなかったが……」
「バーチにそんな歌があるかどうか、調べてみるわ」
「ありがとうございます」
サンはようやくくつろいだ表情を見せる。
他に覚えていることはないか訊いてみたものの、やはり遠い過去のこと、とサンは思い出せないようだった。
父親のこととなると黒髪で、と話すくらいだ。
応接の間を出ると、心配だったのかジャスミンがサンを出迎える。
なんともお似合いの二人だった。
その背中を見ていると、先ほどの侍女がやってきて耳打ちをする。
「侍女長さまは、何か隠れて作業をしていらっしゃいます」
「作業? 具体的には?」
「書き物をなさっているようなのです」
ならば日誌かもしれない。
だがそうならば隠れる必要はないだろう。
シルバーは畳んだままの扇を顎にあて、数秒考えると彼女に話す。
「そのまま、彼女を見ていて。何かあったら、私に言うように。彼女を問い詰めてはだめよ」
「はい」
素直に命令を聞く侍女を解放し、シルバーはその場をあとにした。
午後は芳香浴の中で瞑想をするのだ。その準備に入らねばならない。
***
シルバー達が王都を離れて4日が過ぎた。
オニキスはスプルスに招かれ、彼の邸に入った。
重厚な色合いの調度品はどれも一級品。バーチの職人が50年前に作ったものだという。
応接室にある棚は、細かな傷はあるものの、丁寧に手入れされているのがよくわかる。
綺麗なつやが出ていた。
「これだけ大切にされていれば、職人も喜ぶのでしょうな」
「かもしれん。かつて面倒を見てやった連中だよ」
「面倒を?」
「私がじゃないがね。彼らは時の王に仕えていたが、ある時城をおわれた。そこで労働組合がこっそり仕事を回していたのさ。その礼なのだと」
「なぜ役目を?」
「詳しくは知らんよ」
スプルスはまだ少年だったころの話である。
彼は琥珀色の蜜酒をオニキスのグラスに注いだ。
「初めて見る酒です」
「アイリスのものだ」
「アイリスの? あそこは紛争続きで、こんなものを作っている余裕などないと思っておりましたが」
「戦争になればなったで儲かるところはあるものだ。それにコネはある」
「コネですか」
「あそこに人足をやることもあるのでね。こういった付き合いは大事なのだよ」
スプルスの話しぶりは落ち着いていて、嘘や誇張があるようには感じられない。
オニキスは注がれた蜜酒を、真相を求めるような気分で見つめた。
「ところで今日は、なぜ私を招待されたのですか?」
「紹介したい方がいる。彼が自ら会いたいと言ったのは珍しくてね」
「彼?」
スプルスが手を鳴らして合図する。
入ってきたのは若々しい美青年だった。
中性的な顔立ちで目が大きいのが印象的である。
濡れたように艶めく髪色は黒にほど近い……ようだが光の当たり具合で紺にも紫にも見えた。
細身でオニキスより背は低い。
彼は手を差し出すと、薄い唇を開いて「よろしく」と言った。
その声。
ミントの家で聞いた、あの声ではないか。
オニキスがはっと彼を見ると、彼はそれを知ってか知らずか艶然とした笑みで受け止める。
差し出された手を握れば、冷たく、細い、女性のもののような感触だ。
「我々の相談役をつとめている、ルビセル先生だ。先生、こちらがオニキス殿だよ」
「治水の専門家がいらしたと伺い、お会いしたかったのです。これからぜひバーチを正しい方向へ導いて欲しいものです」
「相談役といいますと?」
「私の母の代から、医学を通じて様々な助言をしております。移住される方の中には、長旅で体が弱っていたり、こちらの寒さで耐えきれなくなったりしますからね。そのケアと、病状に合わせた仕事の斡旋などを行っております」
「それは結構なお役目ですね」
手が離れる。オニキスは一瞬、静電気のようなぴりりとした痛みを感じた。
「エメラルド川の氾濫は鎮まりそうですか?」
ルビセルは特に何も感じなかったのか、涼しい顔のままそう訊いてきた。
「時間はかかるでしょうが、改善は出来るでしょう」
「ほう。改善……ですか」
「自然が相手ですからね。雨量や森林、山の状態、管理いかんで状況は変わります。それに、今ある知識、知恵、技術は、これからどんどん発展していくでしょう。後生の者達にゆだねるしかないところもあります」
オニキスが静かにそう説明すれば、ルビセルは薄い口元に笑みを浮かべ、納得したかのように頷き、
「確かに、永遠に生きることも支配することも、誰にも出来ないことですからね」
と言った。
オニキスが違和感を覚えてルビセルを見ると、彼は瞳の奥に赤いものを滲ませてこちらを見た。
(何者だ?)
そう思ったその時、スプルスが窓の向こうを見て言う。
「もうこんな時間か。夕食でもご一緒にいかがかな。先生もせっかくいらしているのだし」
スプルスは下働きの青年を呼びつける。
そんなスプルスにルビセルが立ち上がって言った。
「結構。私はもう帰ることにしますよ。噂のオニキス殿にも会えたのだし……これからまた会うこともあるでしょうから」
「それなら護衛をおつけしますよ」
「はは。心配をおかけしたかなぁ。大丈夫ですよ、お構いなく」
ルビセルはスプルスの肩を、友人にでもするかのように気安くぽんぽん叩いた。そのまま応接室を後にする。
やはり細い背中だ。
見ようによっては女性に見える。
男か女かわからない――そんな話を聞いたな。
そんなことを考えた。
ルビセルと再び会うことになったのは、その2日後のことだった。
オニキスがルピナスとともにミントを追っていると、彼女のつとめるハーブティーの店の前で妊婦らしき女性が倒れていたのだ。
彼女を介抱するため駆けつけ、そこにルビセルが現れたのだ。
ルビセルとミントにより妊婦は意識を取り戻し、貧血のようだから、と薬を処方されるとそのまま帰された。
「またお会いしましたね」
と、ルビセルは柔和な笑みを見せる。
「オニキスさま、お知り合いですか?」
ルピナスは長官と呼ばずそう訊ねる。オニキスは頷いた。
「スプルス殿の紹介で知り合った。医学に精通してらっしゃるとのこと」
「なるほど。それで、さきほどの方は救われたのですね」
ルビセルは襟元の汚れに気づくと、その場で広げて確認するそぶりを見せた。
オニキスはその動きに目が行き、彼の肩口にある痕をとらえる。
赤々とした宝石のように固まる血塊のような。
何かの傷痕だろうか、古傷ではなさそうだが、新しいそれにような生々しさはない。
(誰しも無傷で生きられるものではない)
と思ったが、やけに目立つ。
オニキスは首を伸ばすようにして下を向き、息を軽く吐き出すと店の中を見た。
「ハーブとはこれほど種類があるのですね」
「はい。更に産地によって良し悪しもありますし、ブレンドして名前を変えたものもあるんです」
ミントが答えた。落ち着いた声はまろやかで、いたって健康的である。
「ブレンドですか」
「それによって得たい効果を増したり、あるいは不足しているものを補ったり。たとえばこれは、消化を促す一方、肝臓の機能を高めてくれるんです」
ミントは手を伸ばして棚から一袋取り出した。
袋の中からミントの小さい手のひらに、乾燥した細切れのものが出てくる。
ふわっと漂うのは青い草の香り、それから柑橘系のような、すっぱいような香りだ。
「エリカ産のグラス、帝都産のレモンですよ」
「かなり広い範囲から送られてくるのですね。いい香りだ」
「そうでしょう。薬と違って、健康な方でも使えるものですから安全なんです。今お淹れしましょう」
ミントは慣れた手つきでヤカンを操り、火にかけた。
乾燥した草とレモンをティーポットに入れ、湯を入れ……甘酸っぱくも苦そうな香りが店に広がっていく。
「美味しそうですね」
ルピナスがそう言い、ルビセルはにっこり笑った。
「彼女が淹れると美味しくなるんですよ」
「彼女が?」
「私は下手なんですよね。どうも苦くなってしまう」
「先生はせっかちなんですよ。お湯を少し冷ませば良いって言ってるのに」
「それはすまないね。でも少しの加減が難しいんだよ」
ミントとルビセルはいかにも仲むつまじい様子で言い合っている。
「いいじゃないか、君が淹れたものの方が美味しいのだし」
「もう、そうやっていっつもごまかすんだから……」
と、雰囲気が甘いものになった時、ルピナスの咳払いにミントが顔を赤くした。
「失礼しました。そろそろいい具合だと思いますし」
と言って、ティーポットからカップに茶が注がれる。
爽やかな香りに頭が冴えるような気分だ。
そのまま味わい、ルビセルとミントの二人を見ていた。
店で適当にハーブティーを購入し、ミントの見送りを受けながら通りを歩く。
そこまで送る、とルビセルが人好きのする笑みを浮かべて言い、オニキスに追いついた。
ルピナスが馬の準備のため駆けていき――ルビセルが右腕をくいっと引いた。
「何です?」
「……一言言っておかねば、と思いまして」
ルビセルはつま先で立つと、オニキスの耳に口元を近づけた。
「私の女に手を出すな」
オニキスは一瞬だけ眉をよせ、彼を見る。
大きな目、光の入り具合によって黒にも紫にも見える瞳の、その奥に。
血のように赤いものが混じっている。
「……まさか」
そう返すと、ルビセルはオニキスの手を離して顎を持ち上げた。
「ふふっ。冗談、冗談。では、お気をつけて」
ルビセルがきびすを返し、入れ替わるようにルピナスがやってくる。
馬に荷物をくくり、オニキスは愛馬フェザーの首を撫でた。
「長官、どうかしたのですか?」
「いいや……彼は一体、何なんだ?」
「お医者さまでは?」
ルピナスのもっともな返事にオニキスは腕を組みつつ頷く。
だが腑に落ちない。
彼からは魔性のものを感じるのだ。
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