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Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 小説

Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第32話 王の日記

 黒々と輝く鱗が蠢いている。
 いつもの夢だ。
 シルバーは手にしているペンを握りしめ、どこへともなく逃げだそうとした。
「どこへ行く?」
 そう耳元で囁かれ、シルバーは小さく悲鳴をあげると腕を振り上げた。
「どこへ行っても無駄だ、ここは私の領域なのだよ。君が落ちてきたのだ」
 どこからともなく腕が伸び、シルバーの腕を絡め取るとそのまま後ろから抱きしめる。
 人の腕だ。
 人の体温。
 人の呼吸。
 男のものだと気づき、夢だというのにシルバーは血の気が引くのを感じた。
「離して」
「無理だよ、バーチの女王よ。私は君が気に入ったんだ。良い夢を見せてやれるというのに、なぜ拒む? 現実は醜く、苦しいことだらけだ。なのになぜ帰ろうと思うのだね」
 スピネルの手が顎を撫で、首筋を露わにさせた。そこに鼻が触れ、思い切り吸われる。
「甘い匂いだ……この頃強くなっている。いけないな……他の男を誘っているのか」
「誘う? もう離して、あなたの妻になった覚えはない!」
「相手のことは知っている。私の下僕が世話になったようだからな」
 シルバーははっとして振り返った。なぜオニキスのことを知っている?
 スピネルは一体、何者なのか。
「他人の妻に手を出すとは不届き者だな。少し思い知らせてやろうか」
 スピネルの呼気が強くなった。首に痛みが走り、目を閉じるとペンを思い切り突き出す。
「ぐぅっ」
 と、うめき声が聞こえたかと思うと気配が消えていく。
 シルバーはその瞬間に目覚め、不快な汗に濡れた寝間着を脱ぎ去る。それに血がついていることに気づいた。
 鏡で首を確認すると、赤く唇で吸われた痕、蛇に噛まれたような痕が残り、そこが紫色に変色していた。
 手にペンはない。
 指先が震えているのに気づき、鏡の自分の顔は青ざめていた。
「ローズ!」
 そう彼女の名を呼ぶ自分の声すら遠い。
 これは何なのだろう、と思った瞬間、目に入ったのは白々とした天井だった。

***

 シルバーが倒れたと聞いて、オニキスはすぐさま医務室に駆けつけた。
 彼女は気絶していたようだが、今は眠っているらしい。ローズマリーは他言せぬように、と釘を刺し説明する。
「毒にあたったようなのです」
「毒?」
「はい。あの、バーチには毒蛇の類いがいるのですが、どうやらその毒と似ていると」
「それで、どうなのだ。殿下のご様子は?」
「医師が言うには、薬草がよく効いているようだと。しばらくは安静が必要でしょうが、幸い毒も全身に回ったわけではないので後遺症も出ないでしょう、と」
 ローズマリーの説明にオニキスはようやく緊張を解いた。
 だが突然、なぜ毒にあたったというのか。
「中央で殿下は薬草学に触れたそうですね。買ってきた本が役に立ったそうです。オニキス殿の勧めだったと聞きました、ありがとうございます」
「私は何も……殿下がご自身で興味を持たれたようだから。ところでマゼンタ殿は?」
「彼女は今、シアン殿達と共に朝の訓練です」
 その時、ドアが開いて医者が顔を出した。
「どうぞ」
 と声をかけられ、ローズマリーとともに医務室に入る。
 医薬の神を祀る祭壇があり、清潔を保たれた白壁の中、天蓋でしきられたベッドにシルバーは眠っている。
 側で見れば、固く目を閉じたまま。起きる気配はみじんもない。
「やはり蛇の毒でした。マインサイトにいる蛇のものとほとんど同じでしたね。噛まれた痕もありましたし」
「なぜ蛇なんて……。殿下の寝所にそんなものはいなかったのですが……」
「こっそり飼われていたとか……あるわけないですか?」
「もしそうなら留守など出来ますか? でも、徹底的に調べる必要がありますね」
 オニキスはしばらくシルバーを見つめていたが、口を開いた。
「いつ頃目覚められるでしょう」
「毒自体はほとんど抜けたのですが、普段の疲労が溜まっていたご様子。いつとは申せませんが、しばらくは休む必要があります」
「そうですか」
 穏やかに寝息を立てるシルバーは、髪もおろしたままだ。いつか感じたように、おとぎ話の登場人物めいて見える。
 その細い首の生え際にまた、赤い筋が見えた。
「すみません。これは?」
 オニキスが指し示すと、医者が確認のためその首筋に触れる。
「これは……ミミズ腫れ? にしては膨らんではいないし……」
「傷痕でしょうか?」
「いや、何かで傷ついた痕にも見えない。鬱血の痕に近い気がします」
「ああ、それは……」
 ローズマリーは思い当たることがあるらしく、頷いた。
「殿下はしばらく前から、悪夢を見るとおっしゃっていたのです。その翌朝には必ずその赤い痕が出来る、と。気にしておられたのですが、体調に変わりはないし、職務を優先させておられたのです」
「悪夢ですか? でも、こんなものは見たことがない……」
 医者は困惑気味だったが、一応、と消毒を施す。オニキスはその赤い痕を見つめ、脳がぐるぐる記憶を辿るに任せた。
(どこかで見た。つい最近だ。バーチで? いや、その道中? そうじゃない。首都だ)
 首都で。薄暗い、ここと違って清潔とはほど遠い、自由のない場所。
 死を前にしながら、怖れの一切もなく濡れたような目でこちらを見てきた。
 ブラッドだ。彼の体にもこんな痕があった。
 だが、なぜだ?
 彼とシルバーには何の接点もないはず。いや、バーチにはコネクションが入り込んでいるのだ。
 彼のいう「主」がここにいるのかもしれない。
「……悪夢、悪夢か……」
「何か?」
 オニキスが呟き、二人が顔をあげた。
「いいえ。ただ、その痕を私は首都で見た……」
「え?」
 ローズマリーが眉を寄せ、「うぅん」とシルバーが呻いて皆の目を集めた。
 長いまつげが持ち上がり、翡翠色の瞳が見えるようになる。
 オニキスはほっと息を吐き、ローズマリーは抱きつかん勢いでシルバーの枕元に顔を埋めた。
「殿下ぁ。良かった」
「……ローズマリー? ここは……」
 シルバーはオニキスと目が合うと、目元をわずかに赤くして視線を逸らした。
「……どうしたの?」
「殿下、倒れてしまわれたんですよ! 覚えていないのですか?」
「倒れて? ……覚えていないわ。それより、夢見が悪かったわ……あれは一体、何なの」
「あれとは?」
 医者が訊き、シルバーは額を押さえるようにしながら続ける。
「大きな蛇……それに噛まれた夢を……変よね。気にしないで下さい」
「蛇に噛まれた夢を? 貴女は毒蛇にあたった症状が出たのですよ」
 医者は目を見開いたが、シルバーはまだどこかぼんやりしている。
「そうなのですか? ……はじめは竜なのかと思っていたわ。セッケイ岩の毒のせいかと……」
「お疲れでしょう。もうしばらく休まれては……」
 オニキスはそう言い、シルバーは頷いた。
「そうね……」
 シルバーは息を吐き出すと、再びまぶたを下ろす。ローズマリーは姿勢を正し、目尻を手で拭くと立ち上がる。
「長官殿、お呼び立てして申し訳ございませんでした」
「ああ。このことは誰にも言わぬ、心配せぬように……」
 オニキスが去ろうとしたその時、シルバーはきつく眉をよせ、何か呟いた。
「スピネル、スピネルよ……」
 その名を聞いた瞬間、オニキスは息をのみ、医務室を飛び出した。

「ラピス! ラピスはいるか?」
 見張り塔に声が反響する。
 オニキスのただならぬ様子に、下働きの者達は道を開け、慌てた様子で出てきたコーが「どうしましたか?」と声をかけた。
「ラピスに話がある。大変なことだ」
「副長官殿? 先ほどシアン様とともに資料室へ……」
 聞くやいなや資料室へつま先を向け、早歩きで資料室を目指す。コーもついてきた。
「どうしたのです?」
「ブラッドだ。あいつと同じものがここにも……話を聞き出せなかったのが悔やまれる」
「仕方ありません。彼は拷問にも耐えたのですから」
「ブラッドはもう処刑されたな。もうしばらく生かしておけば良かった。いや、どっちにしても同じか?」
「若旦那さま、落ち着いて下さい」
「落ち着いている。ただ急がねばならん」
 資料室までの階段を二段飛ばしに登り、ようやくドアを開くとラピスの姿を探した。
 シアンと二人で話しているのを見つけ、「コネクションの影を見つけた」と言えば、ラピスはすぐに表情を引き締めた。
 シアンとそのまま4人、人気のない厩舎に行くと話を切り出す。
「ブラッドの体中に、赤いミミズ腫れのようなものがあっただろう」
「ええ。無数に」
「あれと同じ物を見つけた。誰とは言えないが……彼女は確かに『スピネル』と」
「なんですって? スピネルと言ったのですか? その人物は、スピネルと接触したということですか」
「かもしれん。だが、彼女は今話せる状態じゃない。それは待たねばならないが……」
「おいおい、なんだ、そのスピネルってのは?」
「コネクションを仕切る者の名です。ブラッドという幹部の男がそう言ったのですよ」
「コネクションの? おい、その彼女は誰なんだ? なぜ言わない」
 シアンの疑問はもっともだが、オニキスは答えられない。口を閉ざして首を横にふるのみだ。
「俺達のことが信用出来ないか?」
「そうではない。ただ、今は言えぬ。彼女次第だ、だから待ってくれ」
 オニキスがそう言うと、シアンは頭をかきつつ追求をやめた。ラピスが続ける。
「このバーチにコネクションの巣があるということでしょうか。だとしたらどこに……」
「彼女はセッケイ岩がどうのと言っていた。それから竜、と。セッケイ岩を知っているか?」
「マインサイトの鉱山で採れる、毒のある偽銀だよ。毒が何か関わるのか?」
「毒の中には妄想を促進させるものもありますから。コネクションが取り扱っていた商品の中にあってもおかしくない。一度持ち込んだ資料を読み返してみましょう」
 ラピスとシアンは立ち上がり、資料の確認を急いだ。
「セッケイ岩についてはどこで調べれば良い?」
 オニキスの問いにシアンが答える。
「詳しいことを知らせるため、殿下がまとめておられたはずだ。確か、今写しを作っていたはず……あそこにあるかな」
 シアンの指し示した記事を取り、オニキスはその場で確認した。
 カビが周辺の土を固めたもの。銀に似た色・硬度を持っている。毒素があり、肌に触れるとかぶれなどを引き起こし、過度に体内に入り込むと死に至る危険性がある。と書かれている。
「民間伝承などはあるのだろうか」
「それについてはまだ調べている途中だったはずだ」
「その鉱山は?」
「幸か不幸か、水害のため今は閉鎖中だ。これを銀と思い込んで採掘を続行したい連中がほとんどで、諦めてくれないんだよな」
「それは思い込みなのか? ラピスが言ったように、妄想を促進させる作用があるかもしれない」
「だとしたら、正直、腑に落ちる気はする。マインサイトからの避難民はどことなく……空気が重いんだ」
「憶測での判断は危険だが……」
 4人で資料室を出て、見張り塔で話し合う。
 捜査機関のメンバーも集まり、その場で話し合いが始まった。
「セッケイ岩について調べる者はコー、ナギ、ルピナス。橋の建造について調べるのはラピス、サン、ジャスミン、ブルー。私はスピネルについて調べてくる」
 オニキスがそう言うと、ラピスが首を横にふった。
「お一人でですか? せめて護衛役をおつけ下さい」
 シアンが手を挙げて提案する。
「橋のことを調べるなら俺が同行する。ブルーを残せばいいんじゃないか?」
「私は誰でも構わん。時間が惜しい」
 オニキスがそう頷けば、ブルーも頷いてみせる。
「よし、では行動開始だ。任せたぞ」

 オニキスは医務室へ向かい、シルバーに付き添うローズマリーを訊ねた。
 夕方になるが、シルバーはまだ目覚めていないらしい。オニキスはブルーを外で待たせ一人医務室に入った。
「先ほどはどうなさったのです?」
「殿下がおっしゃったことはコネクションと関わりがあるかもしれない。それを伝えに行ったのだ。何か助けになることがあれば、と思い……」
「え、でも、殿下がそんな怪しい者と会う機会なんてありません。私かマゼンタ、スズが必ずお供しておりますが、そんな話は一切……」
「どこからどのように入り込むか分からぬ連中だ。とにかく、殿下のご様子が変わった時期など、分からぬか?」
 オニキスの問いに、ローズマリーは顎先に指をあてて視線を逸らした。真剣なまなざしは過去を鋭く見ているようだ。
「……中央からご帰還あそばした頃は、むしろ調子が良さそうだったわ。それから……各地に見回りに出られて……セッケイ岩を持ち帰って……」
「持ち帰ったと?」
「ええ。でも、しっかり包んで厳重に保管しています。殿下は手にも触れていませんし……その、石が何かあるのですか?」
 ローズマリーは首を傾げている。オニキスはコーにも話すよう彼女に伝え、もう一つ気になることを訊いた。
「スピネル、と殿下はおっしゃっていたが、その名前に聞き覚えは?」
「うーん……ええ、その……」
 ローズマリーは眉を寄せ、オニキスから目をそらした。何か知っているようだが、聡明な彼女のことだ、言うべきかどうか迷うのだろう。
「帝国特殊捜査機関は中立的な立場だ。だが何か不手際があれば、軍か神官より罰せられることになっている。私の行動に不審な点があれば、遠慮なく訴え出てくれて構わないのだ。その上で頼む、その者について知っていることを教えてくれ」
 オニキスがそう言えば、ローズマリーは視線を持ち上げて目を合わせた。
 信じるべきか否か、探るような目だ。
 オニキスは一瞬も目を離さず、彼女を見据える。ローズマリーがほっと息を吐いて口を開くまで、たっぷり30秒はあっただろう。
「何かあった時、私どもが守らねばならないのは王ではなく王家なのです」
「ああ」
「……嫌なことを言いますが、このまま殿下がどうかなってしまっても、次がいらっしゃる。そうなった場合、私どもは殿下のことではなくその方を守らねばなりません。それから、歴代の王の……その伝統と名誉が汚されないようつとめる。それが使命なのです。その上で先ほどの長官殿の言を信じるならば、私がすべきは一つ」
 ローズマリーは目を閉じ、深く息をすると目を開けた。
 そこに迷いはなかった。

「ずいぶん薄暗い通路だな」
 ブルーの声が反響し、わんわん響く。
 マゼンタを加えた4人分の靴音が響くのは石で作られた、背の低い通路だった。図書室の隠し扉から入ったが、最近も使われたのかそれほど埃っぽくはなかった。
 申し訳程度に松明が置かれ、火を点けると蜘蛛の巣が張っているのがわかる。
 美しく規則的な蜘蛛の巣にいる、こちらの様子を伺うような蜘蛛たちの目が刺さるようだった。
「こちらです」
 ローズマリーは慣れた様子で分かれ道を歩く。一方からは水の音が聞こえ、よく見れば舟が浮いているのが見える。何かあった時の逃げ道だろう、とオニキスは気づいた。
 ローズマリーの後を追うように、舟を横目に更に細い道を通る。そこにあったのはまた扉だ。
 入るとそこは、本棚が無数に並ぶ、一級品の資料の保管庫だった。
「ここは……」
「歴代の王の日記など、個人的なことが多く保管されています。私物などもあるのですが、殿下がお読みになっていたのは日記でした。そこに何度か『スピネル』の名が登場するとおっしゃっていたのです」
 歴代の王の私物、また個人的な日記となれば、名誉に関わる。下手をして改ざんなどされれば大変なこと。過去の歴史をねじ曲げられれば未来までねじ曲がるものだ。
「ローズマリー殿、ご協力に感謝する」
 オニキスが日記の数に圧倒されながら言うと、ローズマリーはマゼンタに目をやった。
「マゼンタが長官殿を信頼してるみたいですから。彼女は誰より不正を嫌いますもの。ならば、信じて良いのでしょう」
 オニキスがマゼンタを見ると、彼女は唇をわずかに尖らせて明後日の方向を向いた。
「あの子はすぐに顔に出るのが玉に瑕ですが」
「ローズ!」
 言い合う二人をさておいて、オニキスは日記を眺める。
「どれから手をつけるべきか……」
 なんせ帝国は14代続いているのだ。400年近い歴史の中、バーチ王は短命であることが多く、皇帝よりもその代数は多い。
「シルバー殿下が21代目だが……日記はずいぶん多いな」
 日記は1冊で終わらないこともある。辞書のように分厚い日記そのものと、議事録、また補足分など合わせて100冊超えている。
「殿下が読んでらしたのはこのあたり」
 ローズマリーが指さしたのは10代前からの日記だ。
「ですが、スピネルという名はバラバラに登場するので、はじめがどれかは分かっていません」
「最初から読むか」
「それしかないねぇ」
 オニキスとブルーはそう覚悟を決めた。
「しかし、殿下はなぜ歴代の王の日記を?」
「水害の対策について、学ぼうとしたのです。何か知恵はないものかと……その流れで竜だとか、それを退治するためにスピネルなる者の力を借りた、だとか……それから殿下の夢見がどんどん悪化していった気がします。日記を読んでも収穫がなく、落ち込まれたせいかと。あの、スピネルという者は首都でどんなことを?」
 ローズマリーの疑問はもっともだが、オニキスとてよく知らない相手だ。
 一つ言えるのは、コネクションのおそらく主だということのみ。
 だが歴代の王に関わっているなら、もう100年以上生きていることになる。同一人物であるかさえ疑わしい。
 襲名だろうか。
 それに、あのアザは?
「共通点があるからといって、早合点の可能性があるな。殿下に皮膚病は?」
 ブラッドは健康体だったと聞くが。
「いいえ。殿下は首都からの移住にも負けぬお肌でした」
「そうか……」
「まぁまぁ、とにかく目の前のことに集中しましょうぜ。スピネルってのを探せば良いんですよね?」
 ブルーがそうはっきりとした声で言い、オニキスは意識を目の前に戻した。
「ああ」
 ラピスの提案通り、一人でなくて良かったのだろう。思考にとらわれないで済んだ。
 オニキスは自身の頬を軽く叩くと、初代バーチ王の日記、その第1巻を開いた。

***

 目が覚めると白い太陽光がやけにまぶしく感じた。
 いつもより早く目が覚めたらしい。
 シルバーは辺りを見渡し、私室に戻ってきたのだと理解する。
 医師の説明によれば、マインサイトの蛇が持つ毒が回ったような症状だったという。
 蛇を飼っていたわけではないし、入り込んだ形跡はない。
 唯一心当たりがあるとすればあの夢だ。
 鏡を覗けば頬の青白さはなくなり、健康的な肌色に戻ってきていた。
 大きく息を吐いたが、ため息ではなく安堵に近い。
 ずいぶんぐっすり眠った気がする。
 朝の支度を整えたころ、ノックの音が聞こえてきた。
「殿下、お目覚めですか?」
 扉越しに声をかけてきたのはマゼンタだ。
「ええ。どうぞ入って」
「はい。失礼します」
 マゼンタは相変わらず動きやすそうなパンツスタイルだ。手にしているトレーには医師が煎じた薬湯が乗っている。
「そろそろ毒も抜けたのではないかしら」
 薬湯を鼻に近づければ、苦い植物の匂いが鼻を突き抜ける。
「そうならば幸いです。でも、もうしばらくは体のために、とのことです」
「そうね……」
 あの後、首都で手に入れた薬草学の本と博士の言をもとに、医師はセッケイ岩の近くに生えている植物から薬湯を煎じた。
 毒を持つものの近くには、その毒に対抗する毒を持っていることがある。
 幸い、その植物は博士のプラントでも栽培されており、はちみつと混ぜれば薬効効果だけが人体に残るという優れものとなった。
「これを量産してマインサイトに送りましょうか」
 シルバーがそう言うと、マゼンタは苦い顔をして首を傾げた。
「目覚めてすぐにお役目のお話ですね。もう少し、お心を休められてはいかがでしょうか……」
「嫌でやってるわけじゃないのよ、大丈夫」
「承知しております。ですが、明日には諮問機関と会議です。英気を養わないと」
「そうだったわ。オニキス殿が出席して下さるようだけど、どうなさってるの?」
「ええ。……ずっと働きづめです」
「何かあったの?」
 マゼンタには珍しく、オニキスに対して敵意を見せない。
「……調べなければいけないことが、思ったよりも深いようです。ローズも手伝っておりますが……時間も気力も必要ですから」
「では会議にまで顔を出すのは無理かもしれないわね……休める時には休むよう、伝えないと」
 薬湯を飲み終え、シルバーは立ち上がる。
 王座の間で朝礼を終え、報告を聞く。
 帝国軍の帰還はこの日の昼である。
 アンバーは引き継ぎのためあと1週間残るが、副隊長はじめバーチで長くつとめてくれた彼らの帰還は、やはり寂しいものがあった。
「無事で帰れよ」
 アンバーはそう声をかけ、部下達を見送るため外へ出て行く。
 シルバーは王座の間から出ることはない。
 ただ静かに見送るのみだ。
 王座の間の扉は荘厳だが、この時ばかりは決して出られない牢屋の印象を与えてくる。
 軍靴の音は遠ざかってゆく。
 入れ替わるようにローズマリーと、オニキスが連れていたブルーという男が王座の間に現れた。
 二人は恭しく頭をたれる。口を開いたのはローズマリーだった。
「報告いたします」
「どうぞ」
「これまでの捜査の結果、バーチにもやはりコネクションの影響があることが判明しました。まず人身売買の規模ですが、およそ200人の者がこちらに連れてこられたことがわかりました」
「200人……思ったよりも多いのですね」
「はい。これは中央から持ち込んだ資料と照らし合わせたところ、今から21年前から行われてきたようです。主にエリカやアイリスなど、頑丈な男が買われていたようで、そのほとんどが肉体労働のため狩り出されたようです」
「彼らの名前や、元の住所などは?」
「現在調査中です。中には現地の者と結ばれ、生活の基盤をこちらに移している者もおります」
 ブルーの説明を受け、シルバーは頷いて答える。
「わかりました。彼らの意向を聞きつつ、取るべき処置を取りましょう。では、コネクションから彼らをもらい受けた不届き者は分かったのですか?」
 これにもブルーが答える。
「何人かは。多くは代理として名を貸しただけ、と話しております。調べたところ、バーチの民がカネに困り、名を貸す代わりに金銭などを受け取っていたとのことです。代理を立てた黒幕の正体はまだ掴めていません」
「……確たる証拠を得なければいけません。そのために焦る必要はありませんが、決して取り逃がすことのないようお願いします」
「はっ」
 ブルーは力強い返事をすると、顔をあげた。
 無精髭こそ丁寧にそられているものの、目の下は青黒くなっている。
 彼自身、各王国を点々とする部隊にいたと聞く。体は強いはず、ならば今の役目はそれほど過酷なのだろうか。
「……よく休めている? もし不足があれば、遠慮なく言うのですよ」
「ああ、いや。ここでの暮らしに不足なんてありませんよ。なんなら家より揃ってるし……なんというか、今は無理する時なんですよ~ってやつ……」
 ブルーはくだけた笑みを向けたが、頬をかいて視線を伏せた。
「つまり問題なしです」
「そうなのですか? でも、捜査機関の人数は役目のわりに少ない気がするわ。あまり無理をなさらないように。……長官殿はどうしていますか」
「長官殿? 元気ですよ。あの人見た目より体力あるみたいだし、やる気もありますし」
「なら良いのですが……」
 ふう、と息をつくとどこへともなく視線を向ける。
 ブルーというこの男、少し危険な気がする。
 開放的な性格がうつってしまうのか、つい気が緩みそうになるのだ。

次の話へ→Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第33話 薔薇園の夜

 

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