持っているドレスの中でも一番良いものを、とシルバーは古いものだがシルエットの美しい、なめらかな生地のドレスを選んだ。
オフホワイトのそれは純白のレースの縁取り、刺繍の銀糸はロウソクの火でちらちら輝く。
困ったのは、悪夢と共に増えていく赤い筋だ。首や胸元が露わなドレスでは見えてしまう。
「困ったわ……」
化粧をしてもごまかせない。
帝国からの使者を饗応するのだ、こんなことをしている場合ではないが、かといって情けない姿で顔を出すわけにもいかない。
しかも相手はオニキスだった。
その痕はなにか、と誤解されたくない。
ローズマリーは先に彼らを応待しており、相談出来ない。
結局シルバーは首元を覆うつけ襟を使い、手首をレースで巻いていくことにした。
「女王殿下のおなり」
廊下にローズマリーのはきはきとした声が響く。
慌てて来たせいもあるが、いよいよ扉が開かれる、となると心臓が飛びでそうなほど跳ねる。
「息が出来ないわ」
と小声で言うと、スズが促されてお酒を持ってきた。乳白色のそれを喉に流し込み、胸を張ると表情を引き締める。
ギイイッ、と蝶番が音をたてて扉が開かれた。
応接の間はロウソクの火でほっとするような明るさで満ちている。
それが作る陰影の中、奥の席に彼はいた。
目が合うと、胸をくすぐられたような心地になる。それをごまかすようにまばたきし、そのままローズマリーに先導させ一番奥の席についた。
オニキスとは角を挟んで隣だ。
皆もシルバーが座るのを確認すると着席する。
「大変お待たせしました」
そう言った声は自分でも冷たい、とシルバーは思う。
緊張で指先が震えてきた。オニキスの視線が横顔を撫でてくる。
「帝国特殊捜査機関の皆様、遠路はるばるご苦労様でした。ご無事でのご到着、何よりです」
「バーチ女王殿下の暖かいお言葉に感謝します。突然の来訪にも関わらず、このような席まで設けて下さり、重ねてお礼申し上げます」
オニキスは格式張った言葉を返し、メンバーの一人――確かオニキスの従者ではなかったか――に合図した。
彼は小さな飾りのついた木箱を取り出し、オニキスに手渡す。
献上品だろう。シルバーはそう勘づき、そちらに向いた。
「どうぞお納め下さい」
ローズマリーがそれを受け取り、膝をおって礼をすると別の侍女に預けた。
シルバーはそれを見届けると改めて彼らにむき直す。オニキスのことは知っているが、他の者は知らない。女性と子供の姿もあり、捜査機関といっても堅苦しい雰囲気はなかった。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
「お気になさらず。国政でお忙しい時期でしょう。分かっていながら訪れ、ご迷惑をおかけしました」
オニキスの向かいにいた青年が、そう柔和な笑みを向けてきた。
「いいえ。では、お食事にしましょう」
ローズマリーの指示で食事が運ばれてくる。前菜はジャガイモのスープだ。
自己紹介を兼ねた挨拶もそこそこに、まず口を開いたのはシルバーである。
先ほどの柔和な笑みの持ち主に対してだ。
「ラピス殿のお召し物を以前見た気がします」
「これですか? 父の物を借りてきたのです。お恥ずかしい話ですが、かつては名字を持つ身分でした」
「ああ、それでなのね。深い緑に金のボタンとなれば、名家だったのでは」
「宮殿に参ることもございましたが、もう昔の話です」
「蒸し返してご不快でしたか」
「とんでもない。今でもこうして、皇帝陛下や女王殿下とお話する機会を頂いております。全て恩恵によるもの、そんな方々からの質問に不快な感情など」
ラピスの返答は非常に丁寧なものだった。
「道中驚かれたことでしょう。中央とこちらではまるで風景が違いますもの」
「確かに、ここは中央とは違いますね。峻険な山々に抱かれているような……空気も涼しい」
「今の時期なら中央よりも外出しやすいわ。お仕事の最中、気晴らしに出かけてみて下さい」
シルバーは捜査機関について詳しく聞くつもりはなかった。
今は饗応の場であり、込み入った話をする場ではない。
気まずいものを感じてオニキスの目を見られなかった。幸か不幸か、彼も冷静につとめている。
が、ラピスが視線を配り、水を向けた。
「女王殿下は長官とはお知り合いと伺いましたが……」
一瞬、シルバーはオニキスを見た。視線がぶつかり、口を開く。
「ええ。その……」
「いや、単なる……」
同時に言葉が出て、再び目が合った。
オニキスが失礼しました、と口元に手をやる。
「ええ。そう、初春に首都へ参った時、陛下に教師を紹介してもらって……治水に関して色々教わったわ。その節は大変、お世話になりました」
「いえ。殿下は聡明であられる。本があれば指導は必要なかったのではと思いました」
「そんなことはありません。どこから手をつけて良いか、それすら分からない状態だったもの。あの……」
シルバーはテーブルを見渡す。
オニキスもラピスも話すものの、どこか漂う緊張感は何だろうか。
「そういえば、大臣職はどうなさったの?」
「父が復職したのですよ、それで名代は不要となりました」
「色々あったんだよな……」
ブルーという男がぽつりと呟いた。呟き程度だったのだろうが、応接の間は静かだったためシルバーにも聞こえてしまう。
オニキスとラピスが彼を見て、ブルーは明後日の方向を見ると「失礼しました」と言う。
「色々?」
シルバーがオニキスを見ると、彼は珍しく決まり悪く眉を寄せる。
「その話はまた……ここで話すことでもありますまい」
「中央でのことが本当に伝わらないのですね……」
ラピスがそう言い、腕を組んだ。
「ええ。雨期が終わって初めて来た使者があなた方ですから。詳しい話はまたお聞かせ下さい」
シルバーが言うと、ラピスが首を横にふった。
「かいつまんでお話しますが、庶民の女性がオニキス殿の後釜になるのですよ」
「えっ!?」
ラピスの一言にシルバーは思わず声を大きくした。
「そんなことが……でも、どうやって? つまり、あの、他の貴族達は」
「その政策を認めざるを得ないものがたくさん出てきたのです。これが我々の機関が設立された一番大きな要因ですから、やはり詳しい話はまた……となりますが……」
シルバーは口をぽかんと開けていたことに気づいて、ごまかすように咳払いする。
「それは……予想していませんでした。陛下は大胆な方だとは思っていたけど……。その女性に名字を与えるの? 爵位は?」
「いえ。庶民のままです」
「それを認めざるを得ないことがあったとは。……フィカス家は確かにやり過ぎでしたものね。もしかしてオニキス殿も巻き込まれたのでは?」
シルバーは幅を利かせているカイの顔を思い出し、その時得た不信感をそのまま口にした。
何があったにせよ、フィカス家が右と言えば右、左と言えば左だったのである。彼の意見なしにそんな法案が通るわけがない。
貴族政治で一番得をしているのは彼だったのだから。
そしてそんなカイ・フィカスの陰口を思い出し言うと、皆の目が一斉に向いた。一様にシルバーを見ている。
「……なぜそう思われたのです?」
しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いたのはオニキスだ。
「なぜ? ヒソップ家が活躍するほど、追い込まれるのはフィカス家でしょう。庶民が期待し、政界に入り込むのを避けたがっていましたから。早いうちに潰したいと話しているのを聞きました」
「そんな話を? 殿下がおられた時に?」
「ええ。でもオニキス殿、あなたも悪いのよ。女性を勘違いさせるようなそぶりをして」
「それはあくまでも悪い噂です。まさしく私が追い込まれた理由だ。第一私がそんなに色好きに見えますか? 街でも見たでしょうに」
「追い込まれたってどういうこと? ああ、マゼンタの前では話さぬように。彼女はそういう話が苦手なのよ」
「彼女は確かにそうだ。私を目の敵にしている。参ったな、殿下も私をそんな風に見ておられたとは」
「私は事実だけでなく真実を見たいの。あなたがそんな男でないのは知ってるわ。そうではなくて……」
「どうかな。実際、殿下は時々つれなくなる」
「時々? 会っている時間を合わせても、ひと月にも満たないのに」
「よくおっしゃる。私のことを食えない奴と言っていたのはこの口では……」
オニキスがそう言いつのり、シルバーはつい唇を尖らせた。
するとオニキスはぷっと吹き出してしまう。
「子供みたいに」
「良いですか、オニキス。この数日、帝国から使者が来ると思って息が詰まる日々だったのよ。彼らがバーチをどれだけ見下しているか、知ってる? 泥だらけの道を指して『だから予定に間に合わない』と言うのよ。バーチへの道が悪いことくらい知っているはずなのにね。お陰で舞踏会では笑いものだったわ。だから今回、どれだけ心を砕いてきたか……」
「殿下!」
「殿下。オニキス殿も」
アンバーとローズマリーから同時に声をかけられ、シルバーは皆の視線を集めていると気づくと顔に熱をあげた。
「……失礼しました」
「失礼を」
手で顔を仰ぎ、運ばれてくる食事に目をやる。
メインの羊肉のステーキ、人参の付け合わせを口に運ぶ。ようやく味がはっきりわかってきた。
ローズマリーが新しいワインを注ぎつつ言う。
「お二人が良いご関係だったのは分かりましたわ。首都で得るものが多かった理由も。そろそろお部屋の準備をいたしますから、これで失礼します。ごゆっくりお食事をお楽しみ下さい」
「宿はこちらで取るつもりです」
ラピスがそう言うと、ローズマリーは口をすぼめて注意するように言った。
「民衆の中には、中央の者をよく思っていない者達がいるのです。城で寝泊まりなさった方が安全ですし、こちらも安心ですから」
「ローズマリー、お願いね」
「はい。殿下」
ローズマリーは去り際にウィンクしてみせた。
勘の鋭い彼女のことだ、オニキスこそシルバーが関係を持った相手とすぐに気づいたのだろう。
恐ろしい女だ。
「頼りになる侍女殿ですな」
オニキスがそう言ってワインを傾ける。
琥珀色のワインは見た目どおり香りが高く、甘みもあってかなりキツい酒だ。だが彼らが飲まれている気配はない。
「帝国の使者の態度が悪いのは問題ですね」
ラピスの話にシルバーは額を押さえた。
「仕方ありません。初春にこちらへ戻る時、さすがに悪路続きで気が滅入るのは分かりましたもの」
「道の舗装に関してはどうなっているのですか?」
「話し合いの途中です。ただ大きな街道となれば商店を開く者達にとって良い稼ぎ場だし、でも入り込んで欲しくない者達もいる。今朝から会議をしておりましたが、根本の問題がいつもすり替わって結論が出ないわ」
「根本の問題とは?」
オニキスが訊いてきた。
「エメラルド川のことです。この川がもたらす水害から命を守ることが最優先なのに、気づけば金銭の絡んだ生活環境の話になってしまう。まず生き残らなければ稼ぐことすら出来ないでしょうに、と言いたいのだけど、どうにも労働組合は徒党を組んで発言させないようにしてくるのよ。林業や農業に関わる者は、流石に水害の脅威を知っているから賛成してくれますが」
シルバーが説明すると、オニキスは頷いた。
「労働組合か。首都でレディ・オパールが見つけてきましたが、利用している法律が古いのではありませんか? 慣例に継ぐ慣例の中で、見直しが必要な部分を見落としている可能性がある」
「具体的には?」
「ああいうのはほとんどがコネでしょう。地主、店主、商品の仕入れ。それを息のかかった部下に引き継がせる。そうすれば労働組合の上にいる者達は仲介料を延々手にすることが出来るし、コネのない者はあぶれていく。あぶれた者の中にはやり手もいるでしょうが、彼らを救済する術がない」
そうならばコネを得るため、皆必死になるのだろう。
スプルスの顔色を伺うのはそのためか。機嫌取りはすなわち生きるためだったのか。
「結果組合長に近ければ近いほど得をして、遠いところから腐敗が進んでいるということ?」
「そういうことです。コネや賄賂が効かぬよう、中央の仕事に関する法律は手直しし、今もまた更新する予定です。だが各王国は報告を見る限り刷新は出来ていない。中央に権力が集中するよう、フィカス家はじめ彼の傘下が次々有力者と結びついていきましたからね。中央の手落ちとも言えますが……」
「コネが全て悪いわけでもありませんよ。中には信頼出来る者を紹介されることもあります。サンやルピナスがそうですね」
「それもそうだな」
ラピスがそう言って、意見の幅を広げた。この二人は異なる観点、意見をうまく取り入れているようだ。長官・副長官に任命された理由がわかる気がする。シルバーがそう感じ入っていると――
「難しい話になってきたわねえ」
奥の席に座っていた美女がそうぽつりと呟いた。
「男ってこういう話が好きよね」
「仕方ない。俺の主もそういう所があった。そういえば、オニキスが言ったようにアイリスから呼ばれた家だったらしい。権力のためだったんだな」
「そうなの。あなたも苦労したわね」
ふと話が止まり、黒髪の大男と美女に目がいく。
オニキスとラピスも彼らを見ていた。
「……食事は楽しまなければね」
シルバーは気持ちを切り替え、立ち上がってグラスを持ち上げる。
「改めて、捜査機関の方々のご活躍を祈って」
カンパイすると、皆いよいよ食事に集中し始めた。バーチは雪国のため、根菜を使った料理が多い。中央とは違う食事に皆も興味をそそられたようだ。
そうしているうち、シアン達が到着したと知らせが入る。
応接の間に通すと、兄妹には珍しく正装だ。
シアンは舞踏会でも着たジャケット、マゼンタもこの時ばかりは令嬢らしく、若草色のドレスを着て髪を夜会巻きにしている。
「ローズの姿がありませんが……」
マゼンタが辺りを見渡し言うと、シルバーは「彼らの部屋を整えているところよ」と説明した。
兄妹はシルバーから離れてラピスの隣に座り、オニキスの顔を見ると両極端な反応を見せる。
「久しぶりだな、オニキス殿」
シアンはそういって笑みを見せた。
「ああ。ご壮健なご様子、何よりだ」
マゼンタは表情を崩さずにいる。どうもオニキスとは相性が良くないようだ。
「使者と聞いて、戦々恐々としたものだが貴殿で安心した。こちらは?」
「副長官のラピス殿――」
「ああ、そうか。少年時代のことですが、一度お会いしましたね。賢そうな方だと思っていましたが、やはり実力で宮殿に召し抱えられたようで嬉しく思っています」
「シアン・リーフ殿。隣におられるのが妹君?」
「先ほどは大変、失礼しました。いち早く使者殿の様子をお伝えしようと焦ってしまって」
マゼンタはラピスに微笑みかけられ、慌てて姿勢を正す。
「いえ。こちらこそ……ご兄妹お二人で女王殿下をお支えしておられるのですか?」
「畏れ多くも、その通りです」
シアンの役目は城下で秩序が保たれているか、見回りを兼ねて調べてくることである。オニキス達とは良い協力関係を結べるだろう。シルバーはそれを伝えた。
「それは心強いな。来たばかりで土地には明るくない」
「なるべく案内するよ。だが、権限の及ぶ範囲が違うだろうが……」
「難しいところだな。アンバー隊長にもお話したが……」
「そういえば、俺たちどんな身分で動くんですか?」
ふと幼い少年の声があがった。
赤茶色の髪が目立つ、ナギという少年である。
オニキスが指を鳴らして「それを忘れてた」と言った。
「確かにそうだ。帝国から堂々とやって来ておいて名がないのはおかしい。明らかに捜査機関だと言えば、後ろめたい者は隠れてしまう。適当に肩書きを用意せねばならんな」
「手引き書に新しく書き込みます」
コーがペンを取り出し、紙に書き出し始めた。
(ペン。そうだ、ペンが汚れてしまったのだわ)
ふとそれを思い出し、悪夢と通じる赤い筋を指先でおさえる。
「出来たばかりの機関なので。手探りなのです」
ルピナスという青年がそう言った。シルバーはそれを見つつ、ならばと口を開く。
「治水の専門家とその技術者と名乗れば良いのでは?」
***
月が夜空に昇っていた。
酔わない程度に、と心がけていたため皆口調ははっきりしている。
夕食を終えると応接の間を出る。
侍女の案内で2階に、とつま先を向けたその時、シルバーに呼び止められた。
オニキスは彼女にむき直し膝を軽く折って礼をする。
「いかがされましたか」
「……」
目が合うと、シルバーは言葉をなくしたように下を向いた。
「ごめんなさい、大したことじゃないの。頂いたペンだけど、……」
シルバーの言葉は不自然に切られ、下を向いたままの表情は深刻そうだ。
何かあったのだろうか。
「ペンはお気になさらず。使えば汚れることもあります」
「正しいことならね。何と言えば良いのかしら……やっぱり、いいわ。呼び止めてごめんなさい。ゆっくり休んで下さいね」
「殿下?」
シルバーは額にかかった産毛を指ではらい、戻ってきたローズマリーと共に応接の間に戻る。
マゼンタが一歩遅れて彼女達についていくのを呼び止めた。
「何かあったのか?」
「……殿下がお話にならないのなら、私からも言えません。ただ……この頃悪夢を見ると……」
「悪夢?」
「ええ。体調不良が露呈すると周りを不安にさせます。他言せぬように」
「わかった」
マゼンタとわかれ、部屋に向かう。
応接の間をちらりと見れば、アンバーと話しているシルバーの横顔が見えた。
彼に対してかなり信を置いているらしい。
アンバーは歳はいっているが、働き盛りでまだ現役。道中、隊員からの尊敬や信頼を感じた。
おそらく良い男なのだろう、シルバーの彼を見る信頼に満ちたその目が気になった。
一人一部屋、城内だが離れの見張り塔の部屋である。
来る時に見たのは刺すような外観の塔だったが、中は案外広く、玄関にある織物の敷物は色柄もので暖かみがあった。
ギギッ、と不器用な音を立てて赤煉瓦色に塗られた木製のドアが開く。
中は丸くでっぱった窓際の壁は白く、他は木材の壁、床が仕上げられている。
天井が高く狭さは感じないものの、邸と比べれば狭い室内、ベッドが存在感を強め、申し分程度に棚と一人分の机と椅子がある。
いすれも年季がいっているが、ベッドと椅子にかけられた赤茶色の織物は真新しい。
ウィローへの留学の日々を思い出す広さだった
「何かご不便があれば、なんなりとお申し付け下さい」
侍女が離れていくと、オニキスは部屋を出て階段の踊り場にあった出窓に腰掛けた。
「オニキス」
丁度、サンが通りすがる。彼は礼装を早々脱いでいた。
「ああ。そっちの部屋はどうだ?」
「悪くない部屋だ。窓からは城下街が見えるな」
「今は明かりが多い。が、避難民が去れば減るのだろう……急な引き抜きの話で悪かったな。受けてくれて助かったよ。感謝する」
「それは構わん。荷運びも悪くないが、どことなくつまらなさを感じていた」
サンは不敵に笑うと腕を組んだ。
バーチの夜はどこか刺すような冷たさがある。それを感じていると、サンはふと表情を引き締めた。
「実際は俺のためだ。母親がここで産まれたかもしれないのなら、見てみたかった。そうすることで母が浮かばれるとまでは思っていないが……悪いな、これを職権乱用というのだろう」
「かもしれぬ。だが、被害者の気持ちが一番よくわかるのは君らだ。同情は禁物だが、忘れてはならないものはそういう所にもある気がする」
「遠回しだな」
サンは呆れたように息を吐き、腕を開くと廊下の方を見た。
「もっと単純で良いだろうに。そう言いたいところだが、上に立つ者の責任は、俺たちでは想像もつかぬほど重いのだろうな。女王もあんな細い肩で多数の命を預かっている。不公平、不平等、と自称弱者は言うが、これではどっちが弱者かわからん」
「自称弱者ね。気に入ってるのか」
「的を射た言葉だと思う。本当の弱者は別として。環境のせいにして嘆くのは簡単だったが、お前や副長官も、軍人という職を得たブルーも、皆何かと背負うものがある。一歩間違えれば誰もが地獄行き。それは変わらない」
「怖いことを言うものだな」
「怖い、と知っておかねばならないのだろう」
「かもしれん。そうだ、荷運びの件でも世話になった。お陰で追い落とされずに済んだよ」
「ああ」
サンはようやく笑みを見せた。
全く不思議な男だ、貴族のもとにいたというだけで身につく品性ではないだろう。
元々の人格が良かったのかもしれない。
流石に疲れが出るだろうと思っていたが、皆緊張からなかなか解放されないようだ。
ジャスミンとルピナスも顔を見せ、便所から戻ってきたブルーと合流するとナギとコーの二人部屋に入る。
飲み直しだ、とブルーはアンバーからもらったという酒を取り出した。
「いやぁ、太っ腹な隊長さまだな~。俺も所属出来りゃあ良かった」
「ブルーが話すと賑やかになるな」
サンがそう言えば、ブルーはそうだろう、と自らの胸を叩く。
「これでも良い兄貴分で通ってたんだぜ」
「お調子者の間違いではないですか? 先ほどもアンバー隊長にこっそり……」
ルピナスが横目でブルーを睨み、ブルーはジャスミンの視線から逃げるようにしながら彼の口を覆う。
「むぅっ」
「言いっこなしだぜ、兄弟。俺には必要なんだよ」
「今ので大体、分かったわ」
「ほら見ろ、おっかないねえちゃんがいるんだからよ、もうちょい気を利かせてくれよ。ま、今日は女王殿下のお顔を見ながらだからな、美味い酒だったし満足したさ」
「呆れた。エラい方なんでしょ。それにまじめそうじゃないの、そんな人をそんな目で見てたって言うの?」
「綺麗なものを綺麗って言って何が悪いんだよ。滅多にお目にかかれないお方なんだから、たまに来る人生の誉れという美酒に酔ったってバチは当たらねえよ」
「言い得て妙だな」
サンが同調すると、ジャスミンははっと眉を寄せた。
オニキスはつい吹き出しそうになり、コーに呟いた。
「あの二人はどうなんだ」
「どうもこうも、奥手過ぎますよ、二人揃って」
「そうなのか? まったく情けないな。時間は有限だというのに」
「そんなことを言う……オニキスさまはフラれる者の気持ちが分からないのですよ!」
コーがそう言うので、オニキスは何のことやらと鼻を鳴らす。
「フラれるのは、根回しが足りないだけだろう」
「根回しぃ?」
ブルーが食いついてきた。肩に腕が回され、一歩間違えば首を締められそうだ。
「いやぁ、ぜひ聞きたいね。長官殿が女性を口説くその術!」
「大したことじゃない。空気というものがあるだろう、空気というものが。相手のことをよく見ておけば分かるものだ。無理そうなら無理強いしなければ良いだけで」
「それってつまり気遣いってやつ? ラピス殿があのお嬢様にしてみせたような?」
突然話題が向けられ、ラピスは顔を赤くした。
「は?」
「お嬢様に対して優しーく微笑んでさ。ああ、やっぱ優しい男が良いのかね。女の子ってのは」
「そこは好みがあるだろう」
「何の話ですか? 私はただ……」
ラピスは慌てた様子で首をふってみせる。ブルーとオニキスは「おや」と思い、追求をやめた。
「ところで、女王さまと仲良いね? 長官殿は」
「そうですよ。ずいぶん馴れ馴れし……親しげなご様子で」
ルピナスは慌てて濁したが隠せていない。
「ルピナス、隠せてないからな」
「失礼しました」
そう殊勝に謝ったかと思うと、
「食えない奴とおっしゃっていたな」
というサンの一言にルピナスは肩を震わせた。
「食えない奴……」
「食えない奴ぅ」
「確かに、食えねえ」
と、ブルーとジャスミンまで笑う始末だ。ラピスも口元を隠しているが、目元はごまかせていない。
そんな中、ナギがそれを不思議そうに見ながら首を傾げた。
「若旦那さま、何か好き嫌いがあるのですか?」
と、あまりに無邪気な一言が投下された。
次の話へ→Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第31話 捜査開始