――スピネルなる者が現れた。それによりバーチは救われたのだ。
違うバーチ王の日記にもそう書かれていた。
だがシルバーが見たところ、スピネルという者が現れた時期と、水害がひどくなった時期は重なるように考えられた。
日記を何度も読み返し、ローズマリーに手伝ってもらいながら年表を作る。
「スピネルとは一体、何者かしら。日記を読んでもまるで想像がつかないわ」
濡れた鱗を持つ、言葉を話す、呪術のようなものを使う、は虫類のよう、翼がある、美しい人間だった、などと様々な書かれ方をしている。
だが湖、もしくは裂け目に潜む竜は巨大なイメージだ。
それに対抗したようだが、このスピネルはまるでトカゲかミミズのような大きさと書かれていることが多く、違和感がある。
「ミミズですか。でも小さなものでもお腹の中に入ると恐ろしいものはありますね」
「お腹の中に……確かにそうね。だけど、なんだか神話のような、おとぎ話のような話だわ……まじないだってピンと来ないのに」
「でも神殿のことは現実味を帯びて感じてらっしゃるんでしょう?」
「ええ。だって、神殿って暦のようだもの。星座に合わせて建てられたみたいよ。まあ、それは良いわ。このスピネルという存在が気になるわ。もう少し詳しく書かれたものはあるかしら……」
案外、例の鉱山に行けば何かあるかもしれない、とシルバーは思った。
スズは解放されている城の図書室が気に入ったようで、避難暮らしの緊張を紛らわすためかよく訪れている。
間に合って良かったとつくづく思う。
「子供達の識字率もあがっています」
「博士達の意見を聞き入れて良かったわ。それで……レッド殿の様子はどう?」
ローズマリーは肩をすくめて見せた。おそらく何の報告もないのだろう。
仕方ない。今は避難民の安全確保を優先している、動きが遅くなるのは必然だ。
「雨期が終わり、エメラルド川がその蓄えた水を吐き出すまでは……でもスプルス殿も動けませんから、変な話平和です」
ローズマリーの一言にシルバーはそうね、と返す。
昼の間に日記を読むと、夕方に会議。
夜が来るとシルバーはようやく解放され、一人でベッドに横になった。
黒々とした何かが蠢いている。
いつか見た夢だ、シルバーはすぐに理解した。
だが体が動かない。
ぬめぬめと光る、黒い鱗が波打つように流れていく。
向こうに見え隠れするのは赤い目。
やはり同じ存在だ。
シルバーは以前よりも落ち着いていた。夢だと知っているからだろうか。
「お前は何……?」
そう声をかけると、黒かった世界がぱっくり開き、白い牙を見せつけるようにした。
カチカチとその牙が鳴っている。
「バーチに住む竜なの?」
手を伸ばせば、牙の奥の喉がガッと開かれ、赤黒い舌が伸びて腰に巻き付いた。
思わず息をのんで目を見開く。
飲まれる――そう思った瞬間、目が覚めた。
背中が冷えるのは汗のせいだ。シルバーは久しぶりの悪夢に疲れた息を吐く。
立ち上がり寝間着を脱ぎ、汗を拭こうと足を持ち上げ――内ももに覚えのないミミズ腫れのような赤い筋を見つけた。
翌日、外を見ると雲の様子が変わってきたのがわかった。
もうすぐ雨期は終わる――エメラルド川の本領発揮はこれからだ。
兵士に命じて水の流れを調査し、仕上がった地図を持って諮問機関と話し合う。
人工池を造るか、支流を造るか。
どちらであっても水の流れに合わせた方が良い。それは意見が一致した。
少しずつだが話は進んでいる。スプルスもある程度は身を乗り出して話すようになってきた。
根回しした甲斐があるというものだ。
博士達も崩れそうな山林をいち早く知らせてくれた。木材が流れてきたら再利用のため保存することを兵士達に知らせてある。
なかなか充実した3日間を過ごし、ベッドに入るとすぐに眠りについた。
すると、やはり同じ夢に引きずられる。
黒く波うつ鱗――角度によって虹色にあやしく彩られている。
触れると呼気すら感じた。胴体なのだろうか、大きさは巨木とどちらが大きいのか。
喉の奥を見せつけられるが、飲み込まれることはない。いつもその時点で目が覚める。
「一体、何?」
赤い目がぎょろぎょろとシルバーを見つめてくる。
流石に恐ろしくなり体を緊張させると、足首に蛇のような細さのものが絡みついてきた。
それにも黒い鱗がある。
「きゃっ」
と小さく悲鳴をあげると、引き寄せられた。胴体に体を押しつけられる格好になり、全身にドクンドクンと生き物の脈動と体温を感じる。
「や、やめて」
だがぐるぐると体に絡まってきて、離してくれそうにない。胸がつぶれて苦しいくらいだ。
その時、いつもの赤い舌がぬっと現れ、右頬を撫でるように舐めてきた。
「む、うう……っ」
「はは。思ったより良いメスだ。どれ、もう少し味わわせてもらおう」
「えっ?」
どこからか人間の男らしき声が響いた。シルバーが顔をあげた瞬間、胸の谷間に何かがぬるっと入り込み、次の瞬間に目が覚めた。
夢とは対照的に、小鳥が会話を楽しむような爽やかな朝だった。
朝のうちに湯浴みを、と考え湯殿で寝間着を脱ぐ。
髪を上の方で巻いて留め、肌を鏡の前にさらす――今度は乳房の下の方にミミズ腫れのような赤い筋が出来ていた。
「流石に気分が悪いわ……」
だがベッドにミミズ腫れの原因となりそうなものはない。
そもそも痛くないのだ。
「おかしな点はありませんね」
マゼンタは腕を組んで唸る。
「殿下の身に何かあったら……今夜からは私も部屋の前で待機します」
そうきりりと表情をひきしめ、マゼンタは言った。
「お願いするわ。でも、この頃考えすぎなのかしら。どこかでぶつけただけなのかもしれない」
「それならそれで良いのです。マゼンタ、よろしくね」
ローズマリーはそう励ましながら、いつも通り明るい笑顔を浮かべた。
「ええ。よろしく」
二人が話している間、シルバーは思い返す。
(それにしても夢とは思えないほどの感触だったわ。肌を舐められるなんて……)
生暖かい舌が体を這う。ぞっとして思わず腕を寄せた。
それに、あの声は?
男性のものだったが、どこか女性のような涼しさが混じる美しい声だった。
***
玉座の間で特殊捜査機関の設立が発表される。
皇帝の御前でオニキスはじめ、ラピス、コー、ブルー、ルピナス、サン、ジャスミン、ナギが跪いてその勅宣をうけた。
初代長官となったオニキスには、その証である北極星と獅子のマークが入った銀のブローチを、皇帝自らの手により首元に飾られた。
メンバーにもそれぞれ星のブローチが。
「やはり面白い者らを集めたものよ」
皇帝は並ぶ彼らの顔を見るとそう言って笑みを浮かべた。
ジャスミンが加わることに皇帝は一瞬顔をしかめたが、「捜査対象が女性の場合、同性がいた方が無難です」とルピナスの一言で納得した。
検査官でもある神官らしい説明だった。
「まあ、言うまでもなく理解しているだろうが、お前達は恨まれるのが仕事みたいなものだ。覚悟した上で正義を実行するよう。これから必要不要が出てくるだろうが、細かいことは軍か神殿に任せ、いち早くコネクションと公人の関係を洗うようにしてくれ」
「御意」
恭しく頭をたれる皆の姿に、皇帝は満足気に頷いた。
まず向かうのはバーチである、と皇帝からもお墨付きをもらった面々は、ラピスが率いていた隊からその資料を譲り受けた。
オニキスはオパールに面会を取り付け、夕方には皆で彼女のもとを訪れる。
オパールはグレイのもとで引き継ぎの指導を受け忙しいはず。だがオニキス達を迎え入れた。
「せっかく無罪が証明されたというのに……」
オパールはオニキスの顔を見るなり、きりりとした眉を曇らせた。
「仕方ありません。陛下のおっしゃるとおり、どうであれ私は大臣などに向いていないのです」
「新しい機関の初代長官というのはお立場としては悪くないのでしょうが、完全に裏方仕事ですわ。それでは名誉回復も遠いのでは……」
「私のことは気になされるな。あなたこそこれから大変なことになります。捜査機関として裏から支えるつもりではありますが」
「それって、私が間違ったことをした時は容赦しないということですね」
オパールはそう言って首を傾げて見せた。
「ええ」
「あなたなら容赦しないのでしょうね……だからこそ選ばれたのでしょうね」
オパールはそう言って立ち上がり、棚からバーチの資料を取り出す。
「これが帝国と労働組合のやり取りです。不足であればお送りするようにしましょう」
「感謝します」
ナギは雑用らしくそれを鞄に入れ、しっかりと抱きかかえた。
「あまり大事そうにするとスリに狙われるぞ」
ブルーがからかうように言って、ナギは顔を赤くすると鞄を解放する。
「でも、本当にバーチへ行くのですか?」
オパールは念押しするように言う。オニキスは彼女の冬の夜空を思わせる瞳をまっすぐに見た。
どういう疑問なのか。
「コネクションとのつながりが確認出来ている土地ゆえ。なぜ気にするので?」
「いえ……」
オパールは言葉を濁し頭をふった。
「バーチ女王とあなたはお知り合いですから、ひいきがあるのかしらと思って」
公の立場としてそれはまずいだろう。オパールの心配の種がそれと知り、オニキスは頷いた。
「ひいきは……ないとは言えないな。女王殿下の花のかんばせを見つめていたい気はする」
「そうやって冗談を……そういう口ぶりが誤解を産むのですよ。バーチ女王とあなたが教師生徒の関係だったと誰もが知っています。気をつけなければいけませんよ」
「確かにそうですね。肝に銘じておかなければ……レディ、重ねて感謝します」
軽口を挟みつつ話を終え、執務室を出る。
「これで捜査に必要なものは揃ったか」
「ええ。後は支援のための物資、我々が当面生活するための道具類……そうだ、軍も雨が止めば近くまでは移動出来ます」
ラピスはそれを確かめるよう口に出しながら頷く。ブルーが口を挟んだ。
「アンバー隊長も一度帰還されるんじゃありませんか?」
「そうですね。軍との往来も増えるはず……しかし捜査にどれほどの時間を割けるか分からないな。アンバー隊長とはしっかり話がしたいものですが……」
「入れ違いはさけたい。何か連絡手段を講じなければ」
オニキスが言うと、ブルーは「それなら問題ありません」と笑った。
ブルーの案内で入っていったのは薄暗い小屋だ。中には乾燥した植物が敷き詰められ、獣の匂いがする。
人が入ってきたため、中で羽音が一斉になった。
鳥だ。
それも猛禽類。強い風があちこちで巻き起こったが、じきに止んだ。
「シャムロック、こっちだ」
名前を呼びつつ、ブルーは足首にベルトを巻いた一羽の鷹を腕に乗せた。
シャムロックという鷹はブルーに連れ出され、夕陽に影を伸ばしながら外に出る。
「鷹か……」
「軍で連絡手段として飼われています。久しぶりだな、元気にしてたか?」
ブルーはシャムロックをあやすように指先で撫でている。シャムロックも気持ちが良いのか目を閉じて体をブルーに近づけていった。
「君の鷹か?」
「いや、軍のですね。面倒見てたのはほとんど俺だけど」
「では連れ出してはいけないのでは……」
コーがもっともなことを言うと、ブルーはコーを見おろして人差し指を口元にあてる。
「借りるだけさ。ばれやしないって」
そう言ってウインクし、鶏小屋を離れる。
「シャムロックがアンバー隊長に知らせる役目を。向こうも軍の鷹だと知れば無視しないでしょ」
「それは良いな。私も伝書鳩でも育てようと思ったが……」
「お貴族さまがそれをやっちゃあ謀反の疑いが出る……案外楽じゃありませんねぇ」
ブルーはそう言ってからかうように笑った。
オニキスは首を支えるように押さえ、ラピスも肩をすくめた。ラピスも同じ事情がある。彼の方がいざとなれば疑いは濃いかもしれない。
ブルーは軍を離れ、サンとジャスミンも同じように物流の現場から離れる。一時的にヒソップ家が皆の住居ということになっていた。
ラピスは家があるが、なるべく話し合いを密にして関係を深めておきたい。ルピナスも今夜は神殿ではなく邸に呼んだ。
元々邸に人は少ない。
グレイも理解しているのか、何も言わなかった。
「お騒がせします」
ラピスがそう言うと、「何か困ったことがあれば言いなさい」と言って自室に戻っていった。
「静かな家ね」
「父は華美なものを好まない」
「長官殿は?」
「私は一時帰宅のつもりだったからな。あまり私物は置いてないんだ」
時期を見て首都から出るつもりだったのだ。ところがあれよあれよという間に表舞台に立っていた。
リビングに案内し、ソファに腰をおろす。
捜査機関の行動についての話し合いといっても、ひな形は出来ている。あとはこれから仕上がっていくものだ。
そのため今から始まるのは親睦を深める宴になるのは必然だった。
「まずは捜査機関の設立を祝して」
オニキスはワインを開け、それぞれのグラスに注いでいく。
「良いねえ。長官殿は案外話がわかるじゃねぇか」
なみなみと注がれた淡い琥珀色のワインにブルーは目を輝かせた。
サンは腕を組んでそれを見ているのみ。ジャスミンはブルーと同じようにしている。
ラピスとルピナスは量が飲めないらしい、舐める程度に控えた。
コーは飲まないつもりらしいが、オニキスはそれを無視してグラスに注ぐ。
「ナギは飲めないな」
「果実酢を割りましょう」
「あの、良いんですか?」
「今日からは従者ではなく仲間になる。遠慮せぬように」
「でもコーさまは?」
「私は良いのだ。若旦那さまの従者という立場は変わらぬままお供する」
「???」
ナギは首を傾げたが、ジュースを差し出されるとそれを珍しそうに見つめた。
しゅわしゅわと泡立っているのが気になるのだろう。
「これって石けん?」
「炭酸水というものだ」
コーは説明してやっている。隣でグラスを開けたジャスミンが口を開いた。
「でも、よく考えたら皆のこと何て呼べば良いの? あたし達、教養とか礼儀とかがあるわけじゃないのよ」
「好きにすれば良いが、公の舞台では私のことは長官だな。ラピスは副長官だ」
「へえ。ところで俺はブルーだ。よろしく」
ブルーはジャスミンににっこり笑って見せた。それをサンがギロリと睨む。
「怖い怖い。で? あんたは?」
「サンと言う」
「サン。よろしくな」
年長であるブルーは早速アニキ風を吹かせ始めた。元々気さくな人柄だったのだろう、ルピナスにも絡み始めている。
「もう一つ気になるんだけど、皇帝陛下ってあたしのことをよく思ってないみたいね?」
「君のことが、ではない。昔軍内で色々あったんだ。男女が一緒にいれば起きる問題はある。それを危惧されたのだろう」
「ま、けっこうな話でしたね。完全に男を食いに来たような女だった。……俺は会ったことないけど、10年くらい前かな」
ブルーがそう言うと、ラピスも記憶を辿って話す。
「所属していた隊の全員と関係を持ち、妊娠。ろくに働かないまま退職して今でも年金暮らしでしたか。結局父親が誰かわかっていない」
「それだけでなく、若い新人女性軍人をおもちゃにした連中もいる。男女ともにどっちもどっちだが、問題の根本は人間性だけだ。色だけでなくカネや酒に溺れる奴もどこにでもいる」
それ以来、軍においては女性の働き場は限定されている。
そういう事件がなくても男性に比べて女性は肉体的な限界があり、危険地帯であれば女性は入隊禁止だ。
だが一方、警護対象が女性なら、同性でなければ難しい部分もあり、重宝されているのも事実である。
オニキスはあっさり言って終わらせたが、ジャスミンは眉を曇らせたままだ。
「嫌な話ね」
「それを追うのも私たちの仕事になりそうだ。欲望は希望にも絶望にもなる。それを心に留めておくのが支えになるだろうな。良い機会だ、捜査機関の信条を思いついたら書き起こしていくか」
「そうね」
「オニキス」
サンが重々しく口を開く。オニキスが見ると、彼は顔を真っ赤にしていた。
「どうした?」
「水をくれ。倒れそうだ」
「あら、大変」
サンは顔をあげるのも辛そうだ。水を差し出されると、一気に飲んで頭を押さえる。
「なんだこれは」
「ただのワインだが……酔ったのか?」
「訳が分からん。なんでこんな……よく飲めるな、お前ら……」
サンは見るからにふらついてきている。しばらく見守っていたが、彼はそのまま机に倒れ込むようにして寝入ってしまった。
「意外です……」
ラピスがそう呟いた。
やがてナギも眠りにつき、コーが寝具を取りに部屋を出た。
ワインはすでに何本か空いているが、ブルーは酔った様子を見せない。かなりイケる口のようだった。
「なぜ引き受けてくれた?」
そう疑問を口にすると、ブルーは振り向いた。その目元がわずかに赤くなって、目尻が下がっている。が、口調ははっきりしていた。
「第二の人生ってやつを考えてたし、丁度良いかなと。この歳で一兵卒に落とされたんじゃ厳しいしね。隊長を殴っちまうと他の隊に加わるのが難しくなるんですよ」
「反抗的に見られるというやつか。相手の隊長殿は相当素行が悪かったんだろ? 理解してくれる者は?」
「いるにはいましたよ、遠巻きにはね。……だがそれで巻き込まれて、食いぶちをなくすわけにはいかないでしょ。仕方ないんじゃないですか」
「そうだろうが、それで上官ばかり得するのも考え物だな」
「密告ってのも結局身元がバレてはぶられます。密告するような奴は信じられないとか何とか……いや、もうやめましょう。酒が不味くなる」
「口に合ったか」
「そりゃもう。こんな味の深いワインは滅多に飲めない。ホリー産は有名だけど、庶民にゃ縁遠いですからね」
「貯金すれば買える」
「いやいや、そこはほら、出来るだけ楽しい時間を増やしたいんですって。あー、ここに可愛いねえちゃんがいれば……」
ジャスミンが半眼で睨んだ。ブルーは頬をひきつらせて頭をかく。
「失礼」
「ジャスミン、そう睨むな。男には女性に癒されたい時があるだけだ」
オニキスがたしなめると、ジャスミンは呆れたと言わんばかりに息を吐き出す。
「男ってそればっかり。さっきも何よ、あのおばさんとの会話。バーチの女王さまを見つめていたいとか何とか。それに教師生徒って何よ?」
オニキスは流石に具合が悪くなり、首を撫でると目を閉じる。
「仕方ない、美しいものは目の保養だろ。君の舞踏だってそれが商売だ」
「あたしのは芸術、あなたのは下心」
「バーチ女王って今上陛下の姪御さんでしょ、そんなに別嬪なんですか?」
ブルーがラピスに聞いているが、ラピスも会ったことはない。そもそもラピスは奥手で有名なのだ、学生時代から花街に誘われても顔を赤くして逃げ出したという。この手の話は苦手である。
「私は知りません」
「そうなのか……いやあ、職替えすると意外な出会いがあるもんだなぁ。まさか皇帝陛下に直接お目にかかれるとは……大将軍って感じだったなー」
「大将軍……言い得て妙だな」
オニキスはジャスミンの視線から逃れるように言った。が、そのブルーがオニキスの肩を掴んでしまう。
「いやいや、オニキスさま。そっちのことに関しちゃ武勇伝の多い我らが長官殿。もそっと楽しい話を聞かせて下さいよ。教師生徒って何なに? そんな美人の女王さまとどんな授業をしてたの?」
「そっちに関して武勇伝? 覚えがないが……」
「もう考えらんない。先に寝るわ」
ジャスミンはご立腹のようだ。立ち上がると寝転んでいるサンをたたき起こし、リビングを出て行ってしまった。
「……行ったな」
ブルーはジャスミンの背中を見送るとオニキスを離す。
「わざとか?」
「そりゃ、あのお姉さんがいたんじゃ話が盛り上がらねえ。これから場所を移動しませんか? いい店があるんだよな……って今度は神官殿か」
「ルピナスです。良いですか、カネを払っているからといって無体をしていいわけではありませんよ。大体酔っ払った勢いで長官の肩など組んで、少し図々しいのではありませんか」
「良いかい、お坊ちゃん。これは親睦会なんだよ。皆で仲良くしましょうねって。お互いにどんなクセがあって、どんな趣味があって、どんな性格してるのか把握する。そうすることでこれからのお互いの行動がより掴みやすくなるってなもんだ」
「連繋が取りやすくなると言うのですか?」
「そういうこと。物わかりの良い子は好きだぜ。第一俺だって相手は見てるさ。ほら、長官殿は誰より立場が上で美形で腹黒。とっつきにくい。そんな相手の防御をある程度崩せば、君らだってやりやすくなるだろ。遠慮してたらこれから辛くなるぞ」
「腹黒とはなんだ、腹黒とは」
「腹黒というよりサディストです。オークション会場で現場を仕切っていた男にしていたことを思えば……」
ラピスが説明しだし、ブルーは「やるねえ」と酒の肴に聴きいっている。ルピナスなどは目を丸くして「勉強になります」などと言っている。
「冗談じゃない。私はサディストじゃない……はずだ」
いや、どうだっただろうか。シルバーに対して何をした?
脳裏によぎる、その前に軌道修正を試みた。
「……誤解だ。タバコが好きなのだろうと思っただけだ」
「咥えさせたまま身動き取れなくさせることがですか? 正直見物でしたね」
「そんなことを言うなら……」
「いやあ、楽しみだな。バーチに行けば噂の女王さまにお目通り叶うかもしれねえのか。長官殿の言ったとおり目の保養だな」
シルバーに会う。
オニキスは思わずあの夜のことを思い出し、咥えさせたまま何をしたか脳裏によぎって頭がふらつくのを感じた。
「流石に飲み過ぎた」
「しかし実際、バーチの女王殿下はどんなお方なんです? バーチでお会いするならその人となりを知っておきたいところです」
ラピスは普段以上におっとりと話す。彼も酒が回ってきているのだろう、目元が撫でられている猫のようになっていた。
「殿下は……」
その時ドアが開いて、両手に寝具を持ったコーが現れた。ルピナスが駆け寄って枕を受け取る。
「今日はもう寝るか」
オニキスがこれ幸い、と立ち上がる。コーが声をかけてきた。
「若旦那さま、もうお休みですか?」
「皆酔っている。お前も適当に休めよ」
コーの肩を叩いてリビングを後にすれば、廊下の冷えた空気が頬を撫でてきた。
窓に目をやれば、澄んだ夜空にきらめく星々が見えてくる。
「もう夏になる……」
雨の気配は消えていた。
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