黄色の花が咲いている。
コー達が見つけたのは岩肌もむき出しな小高い山である。
今夜の野営地として良い場所だと考え、山に登ったところ見つけたのだ。
柵で囲まれ、山を舐めるように流れる水の恩恵を受けて可愛らしく咲いている。
図鑑の通りの見た目だ。微かに漂う甘い香りは覚えがある。
間違いない。
「近づかぬように。この香りは人を惑わす」
コーはつとめて冷静に、と自身に言い聞かせながら内心では胸が躍る気分を味わっていた。
(やはりあった! ここで人の手により育てられていたのだ。この管理者さえ分かれば、若旦那さまの無実の証明に繋がるものが得られるかもしれないぞ)
サン達はコーの表情と一致しない口調に首を傾げながらも頷き、テントを片付け始める。
「可愛い花ね」
「見た目はそうだが、これは毒があるのだ。決して香りを嗅いではいけない」
コーはそう言ってスカーフを取り出し、鼻を守ると柵に近づく。
管理者の名前はブラッド。
製紙工場と連絡を取り合っていた男と同じ名前だ。印鑑も同じ形、同一人物だ。
「ブラッド、ブラッド……どこかで聞いた名前だ」
「よくある名前だろう。それより、今夜はどうする?」
「陽が落ちれば調査はしにくい。本音を言えば行動したいが……」
「何を探しているんですか?」
「この花を育てている者だよ。そいつが……」
ナギの質問に答えてやろうとしたが、サンとジャスミンを巻き込んではいけない。
コーは言葉を飲み込み「とにかくこの花の行方を調べる必要がある」と返す。
「この辺りを移動出来る者といえば、誰だろうか」
「商人はやっぱり、それなりのルートを持ってるでしょ? あとは……あたし達みたいな荷運び。お抱えとか」
「お抱え。その筋はあるだろうな。……どこかにその荷札なり、あるいは包み紙なりあるかもしれん。それが見つかれば帝国のどこへ通じるか、分かるかもしれんな」
「花にずいぶん価値を見いだしているんだな……。これを管理する奴の家代わりがあるはずだ。ここは視界が開けている割に、そういった建物を探すのに難儀するよ」
サンはそういって辺りを見渡す。
広々とした大地は点々と緑が生えているだけ。地平線は遠く揺らめいて、距離感があやふやになりそうだ。
陽が沈んでいくため、その境界線はますます分かりにくい。
「ここにいると意識がぼうっとしそうね」
「花の影響はあるかもしれん。いや、この環境こそがこの花々を産んだのか……」
コーは調査の目標を定め、山を降りたその麓でその夜を明かした。
***
独断に走りすぎる、という意見が出た時、首を傾げたのは数人ではなかった。
オニキスは正式に裁判所で、裁判官をつとめる神官の前で不信任案についての詮議中である。
あの神官ではなく、今度はやせ形の神官だった。
法衣は濃紺、高位である。
聴聞衆は下級官吏まで、幅広く集められている。首を傾げこそすれ何も言わないでいるのは、発言権がないからだ。
貴族は特権があり自由に発言出来るものの、下級官吏の中には名字すら持たない庶民も多かったのだ。
「大臣の名代としてお勤めされ1年は経ちますが、その間に周囲が感じたことです」
「周囲では分かりませんな。どれほどの人数からでしょうか?」
「少なくとも20人」
そう声を挙げたのは裁判官ではなかった。
「20人ですか。思ったよりは少人数でした」
オニキスがそう言うと、一部から笑いが起きる。
「ふざけるのは感心しません」
神官がそう冷静に言い、オニキスは肩をすくめた。
「ふざけてはおりません。独断に走るということでしたが、具体的にはどういった事柄でしたか?」
「出世の目安に関する事案だそうです。あなたが決めたやり方では、勤続年数によって席を変えるということでした」
「ええ。何が問題なのですか」
「これでは実力のともなわない者が上に立つということになるのでは? そういう反対意見があったのですが、無視されたと」
「当時、賄賂が横行してましてね。実力のともなわない輩が上に立ち、カネを持たない者達は出世かなわずにいたのですよ。法律をご確認になりましたか? 確かに席順は勤続年数によって決まりますが、給料に関しては技術力により、あるいは事業に貢献した者にはそれぞれ手当が支払われるという文言がついているはず。これで安心して家族を養える、という意見もありました」
「それで皆が納得出来るものでしょうか」
「無理でしょう。だがいきなり大きくルールを変えても混乱するでしょう。まずは賄賂が効かぬよう、かつわかりやすいように造り替え、そこから更に手直しする予定です。これは副大臣レディ・オパール、並びに上級・中級・下級官吏達も理解している話ですよ」
オニキスがそう説明すると、今回は出席しているオパールが頷いた。
「話は通されていたはず、とおっしゃるのですね」
「ええ。反対意見があったことは事実ですが、反対派は代替案を持っていません。既存のままではいけないと言うばかりでしたが……あなたならどうされていましたか」
オニキスが問うと、神官は静かに首を横にふってみせた。
「この場で議論することではありませんよ」
「そうでした。大変失礼しました」
「では国家のために尽くせるか不安がある、ということに関してはいかがですか」
「そう言われましても困りますな。それは周囲が感じることであって、私自身で評価を下せることではないでしょう」
「忠誠心はお持ちですか?」
「ええ。私自身の忠誠心を聞いて納得出来るなら、いくらでも声に出して申し上げましょう。だが心の内側を覗けるものではありますまい。目には見えぬものをどうやって披露するというのですか」
「オニキス殿。からかうような口ぶりはおやめに。神官殿がお困りだ」
そうからかうような口調で言ったのはカイ・フィカスである。
彼は白いものの混じった顎髭を撫でながら、オニキスを珍獣でも見るような目で見ている。
あれから、彼の視線はあからさまに敵意を現していた。
神官は彼を止めることが出来ない。神官としては高位でも、貴族に対して意見出来ない身分なのだろう。
「ホリーでの噂話を聞いたぞ。そこでも女どもとよろしくやっているそうではないか」
「よくご存じでいらっしゃる。ホリーのような田舎村、ご興味の対象でないと思っていましたが」
「この国に仕えているのだ、把握しておかなければ。何かあって民が困るのを見たくないだろう?」
「ならバーチのことはどうお考えなのです? 今現在、雨に苦しみ、そのあとにはエメラルド川の洪水によりまた壊滅的なダメージを受けるあの国は。エリカについても、あそこは教育が遅れ字すら読めぬ者が多い。そのお陰で非効率な肉体労働が続いている。紛争のやまぬアイリスは? 人口減少のウィローについてはいかがお考えなのでしょうか。私はまだまだ若輩者の身。年長であるあなたからぜひご教授願いたいものだ」
オニキスがつらつらと述べればカイは腕を組んで椅子に背をもたれさせた。
「よくしゃべる男だ。良いか? 各王国を導くのはそれぞれの王殿下達。私なぞただ末席の貴族に過ぎんよ。意見や考えなど、畏れ多くて口には出せぬ。一つ言うことがあるとすれば、バーチが荒廃したのは自然の猛威のため。ホリーで起きたことは人災。並べても仕方のない話だ。アイリスが戦続きなのは竜人族との不和のせい、これを仲介する者達が働かぬゆえ起きたこと。ウィローに関しては、あそこは時間の流れが緩く感じるのだよ。そのせいで気づけば歳をとり、子が出来ぬ体になっただけであろう」
「ホリーで起きたことが人災、と申されましたが、実際何が起きたのですか?」
「そなたが起こしたのだろう? 夜な夜な女達が接待に現れた、と。それこそ以前、兵士諸君が報告にあげたそうではないか」
「私がそう指示したと報告にあったのですか?」
「それはない。だがそなたには領主としての責任があるだろう」
「兵士諸君の報告があったとおっしゃいましたが、なぜあなたが聞いたのですか?」
兵士の主は常に国家と今上陛下その人だ。
貴族は無関係である。
一瞬カイの表情が固まり、その場の者達の視線が彼に集まった。
「皇帝陛下はどうお考えですか?」
神官が問う。
「報告にあったのは事実だ」
皇帝はそう簡単に答えた。それ以外は何も言わずに再び裁判に戻るよう伝える。
神官は頷いて口を開く。
「当時兵士諸君を率いていたのはラピス殿でしたね。彼は今もコネクションに立ち向かっておられる。時間が合わなかったため、出席は出来ませんでしたが……」
「なぜ?」
オニキスはそう聞き返した。
「ラピス殿も証人ですのに。彼からは何も訊いていない?」
「……」
神官は隅に立っていた官吏に視線を向けた。官吏は首を横にふるばかりだ。
「訊いておらぬと」
神官は目つき鋭く官吏を睨むとそう言った。
「ずさんですな」
オニキスはそう言った。
「もっと事の子細を調べませんと。ホリーでのことでしたら、私も真実が知りたいと思っておりますし」
「姦淫についてはいかがなのです?」
「私に聞いても仕方ないのでしょう? 衛兵は何も言えず、侍女達はおしゃべりに夢中だ。私がいつ何時、彼女たちと関係を持ったというのか。その詳しい場所や時間をちゃんと調べればよろしい。言葉で信頼など得られぬ問題だ」
オニキスはそう言って口を閉じた。
神官は眉間に皺をよせ、何か考えるように顎に指をあてる。
「ここでこれ以上詮議しても仕方がない。これで仕舞いだ。みな、ご苦労」
皇帝はそう言って、一人先に退室する。
*
皇帝は裁判所を出て宮殿に戻った。
大股で歩いたため、宮殿にいた者達が驚いた顔で慌てて礼をする。
そのまま部屋に戻り、マントを脱ぎ捨てた。
確かにカイは兵士の報告を聞いたらしい。
どこで?
誰から?
そこにいた兵士と何らかの繋がりがあったとでも言うのだろうか。
それに国家と、各王国に対する意見。内情を知らぬままによく意見が出せたものだ。まるで自分が皇帝にでもなったかのような身振りで。
「陛下」
落ち着いた声が部屋に入ってくる。
振り返れば、カイと同じ髪色の、しかし目の輝きの違う皇后がそこにいた。
「陛下、どうされたのですか?」
「オニキスの事案だ。奴の話を聞くのも虫酸が走るわ。何様なのだ、あれは」
「兄上のことですね。どうか、怒りをしずめて下さいませ。きっと、必ず、彼の足下が崩れ去る時が来ます」
「そうなればお前はどうするのだ」
「離宮に移り、皇后の座は別の者に譲りましょう。皇太子もまだ決まっておりませぬゆえ、大きな問題にはなりません」
「それはだめだ。皇后が変われば国も周りも混乱する。そうなれば新たに企みを持つ者が近づいてくるだろう。今のバランスのままの方が、おそらくやりやすい」
皇帝はやや強めに息を吐き出した。額を抱え、息を吸い込む。
ふと思い出したのはオニキスの発言だ。
「そうだ。衛兵だ。それに貴族と庶民を一緒にすると、発言権の違いで結局貴族どもが得をする。これを変えていかなければならぬ」
「貴族達は国のあり方を造った、帝国にとって叔父叔母のような存在ですわ。変革により不満が出てくる可能性が……」
「そう。彼らは支柱だ。だが支柱が腐ってもいけない。面倒な連中だ、先祖の功績をなぜ腐らせる? それに勘違いも甚だしい、民らがおらねば結局貴族どもは楽は出来ん」
「衛兵や庶民にも発言権を、ということには賛成です。侍女達には私からよく話を聞いておきましょう。そう、階段から突き落とされたあの娘。父親が黙っているよう言ったそうですが、ついに本当のことを言いました。ただ見栄を張っただけだったのです」
「だろうな。そんな見栄のために、あやうく死にかけるなど……突き落とした方はどうなった?」
「宮殿から追い払われれば、良家との縁は切れます。彼女は絹工場で働くことになったようで、ほとぼりが冷めるまでは結婚も難しいでしょう」
「全く……」
簡単に侍女を追い出すことも出来そうにない。
そうなれば彼女達の実家から、皇帝、もしくは皇后への苦情が出てくるだろう。
まるで糸で出来た橋を歩いている気分だ。
貴族どもは皇帝が落ちる時を今か今かと待ち構え、落ちたその時、自分の言うなりになる者を皇帝に推すだろう。
ふと各王国のことが頭をよぎった。
各国が無事に再興すれば、帝国は地方から蘇る。折良くシルバーがそれを申し出た。
バーチへは信頼のおける者達を送った。彼らに後援者がないのは確かだが、その方が後腐れがない。
恩を返せと言われる心配がないのだ。あとは適当な名目をつけて支援すれば良い。古里への支援を惜しまないという者達も見つけた。
そう考えていた矢先、コネクションなどという厄介なならず者が現れたのだ。
オニキスがそれを引きずり出すキッカケとなった。だが今、そのオニキスがまるでワナにかけられたように矢面に立っている。
「まるで表と裏が手を取り合って動いているようだな」
「陛下……以前、舞踏会で香油を使いましたね」
「ああ。それがどうかしたのか?」
「あれは嫁入り道具の一つでした。ここぞという時に使うよう、念を押され……」
皇后は記憶を辿るように視線を横へ流した。
「陛下が少し前、オニキスが香油の中毒について関心を持っていたとお話されたでしょう。あれから考えていたのです。確か、中毒の症状は妄想、夢遊病……それらを繰り返すようになると」
「大変ではないか。舞踏会で使ったのはそれなのか?」
「わずかであれば問題ないのです。中毒が起きるのは常用しているか、もしくは一度に大量に使用したか。私たちはその注意点をよくよく守るよう言われました」
「それはわかった。だが、それが何かあるのか?」
「実は……」
*
一方、ルウの花を発見したコー達は、その近くの林で家を見つけた。
やはり面倒を見るため、長く住める住居が必要だったのだろう。
家の持ち主はバニラ神官。
覗くと少年の絵が飾られており、製紙工場にいた彼と同一人物だと知れた。
彼はこちらにはあまり帰っていないのか、家の壁、玄関のドアにツタが絡まっており、そして足跡らしきものは見つからなかった。
こんな乾燥地帯でこうも植物が生えるとは。
「他にも家はあるようだが……」
サンはそう言い、ジャスミンと様子を見に行った。
戻ってくると二人は「もぬけの殻」と言う。
「やはり紛争の影響かもしれんな……」
「もったいないわ、植物はあるのにね」
「他に候補がないなら楽だ。ここを調べてくる」
コーはそういってサンとジャスミンに外で待機するよう告げた。
ドアは押しても引いても錆びが固まっておりビクともしない。サンが変わってくれたが、ドア全体がきしんで却って開閉が難しくなりそうだ。
「窓は開かないか」
こちらも鍵がかかっていた。
割ろうと思えば割れそうだ、とコーが考えていると、ガチャガチャと音がして振り返る。
見ればナギが細い棒のようなものを操って、窓の隙間から鍵を開けようとしていた。
「ナギ?」
「こういうの慣れてます。窓を開けて、そっから入って盗みを……」
ガチャン、と音がなった。開いたのだ。
ナギは窓を開き、中に顔を突っ込むと顔をしかめた。
「くっせぇ……」
コーも窓に身を乗り出し、中を確認した。
確かに異様な匂いだ。
カビと腐敗臭がまざったような……見れば花瓶や鉢が並び、そこに枯れて黒くなった植物が頭を垂れたまま植わっている。
「ずいぶん管理がなっていないな……」
サンも眉を寄せていた。
コーはスカーフを取り出し、鼻から下を覆う。涙目になりながらも3人に外で待つよう言い、窓から入った。
「俺も行きます」
ナギがコーを真似てスカーフを巻いた。
「待っておれ」
と止めるが、ナギは身のこなしも軽くあっという間に部屋に入ってしまった。
「大丈夫です、余計なことは聞きません。探すのを手伝うだけです」
こういう時のナギの目はまっすぐで澄んでいる。いかにも素直で少年らしい輝きに満ちて、コーはつい信じたくなるのだ。
「……分かった。植物のことではなく、人の名前なり、判子なり印鑑なり、あるいは包み紙のようなものを見つけたら見せてくれ」
「はい!」
ナギは返事すると、棚を開けて「何もないじゃん」と呟いた。
部屋の中には家具こそあるものの、神官の生活拠点にはなっていないようだ。
あるのは空の家具ばかり。
テーブルも簡素なもの。コーは床板を外して見るが、下には何もなかった。
だがペンとインクがあった。インクの量は減っており、開けてみるとさらりとして使える状態だった。
連絡をするためにはここを使っていたのかもしれない。だが部屋の汚れ具合から見て、長く留守のようだ。
コーは少年の絵をひっくり返してみるが、何か挟まっているということもない。
「何もないな」
「もう一度製紙工場を調べますか?」
「それも覚悟した方が良さそうだ。お、そうだ。上をまだ見ていない」
屋根裏部屋があるようだ、天井に小さなドアがある。しかし取っ手はあるが、それを引っかけるものがなかった。
それにはしごも見当たらない。
「俺が行ってきます」
ナギは棚に足を引っかけると、あっという間にドアに手を伸ばす。
そのまま引っ張って開き、棚から器用に飛び移って屋根裏部屋に吸い込まれるように入っていった。
「何かあれば、全てこっちに渡してくれ」
「はい!」
ナギのこもった声が返ってくる。
それからしばらくすると、ずりずりと何か引きずるような音がして、ナギが顔を見せた。
「大きい箱を一つだけ見つけました!」
「割れそうなものはあるか?」
「いいえ。中身は本とか木片とかです」
「よし。ソファを下に置くから、そこに落とせ」
「はい」
ナギの返事のあと、酒類を入れて運ぶような頑丈そうな箱が見えてきた。
コーはソファを設置し、「よし」と合図する。
埃を巻き上げながら箱が落ちてきた。
「大変なことだ……」
コーは思わずそう声に出し、手が震えるのを止められずに立ち尽くした。
「どうしたんですか?」
ナギに声をかけられたが、とっさには反応出来ない。ゆっくり振り返ると、首が錆び付いたかのようにギイギイ鳴った気がした。
見つけたのは、花の栽培法方を書き記したノートであった。
それから荷札。ジャスミンが言った通り、お抱えの荷運びがいたようだ。
それに使われていた判子はフィカスの葉を象徴としたもの。
ルウの花を栽培、利用していたのはフィカス家だったのだ。
(なぜこれがフロンドのもとに……いや、考えればすぐにわかる。マーガレット嬢とオニキスさまが結ばれれば、フィカス家は自然ホリーを手中に収められるのだ。だがそれが失敗に終わった。だからフロンドはあっさり手のひらを返した。フロンドはとっくにフィカス家と手を組んでいたのだ……)
ホリーは隣町へ行けば川を利用して移動出来、そこから草原を行けばエリカ、川を使えばウィロー、と交通の要衝である。
そして肥沃な農地。
ここをもっと上手く利用すれば瞬く間に資金は潤沢、領主となった者は当面は困らない生活が出来る。
フィカス家としても今後の活動資金のため、手に入れたい土地だったのかもしれない。
「これは、この、確たる証拠を、確かなものを得れば、若旦那さまのお立場も、旦那さまのことも、何もかもを救える……」
コーは手が震えるのを止められない。
思わず目頭が熱くなったが、それはすんでの所で耐えた。
喜ぶにはまだ早いのだ。
***
オニキスは流石にブラッドを一人で追うことはしなかった。
フィカス家と、コネクションの幹部。
いかにもな取り合わせ、ラピスに報告すると彼は目を輝かせた。
「花街で見かけたということは、そこに何かがあるのでしょう。他に何かありましたか?」
「大神殿の神官殿が、ハニートラップにひっかかったようです。それにより揺すられ、私の前の裁判官として表に出てこさせられたのでしょう」
「裁判官をつとめた神官……ですか?」
ラピスの顔が険しいものになった。オニキスは顔をあげ、水を向ける。
「何かあったのですか?」
「彼は帝都周辺の森で自殺したのです」
あまりの一言にオニキスは息を飲んだ。
「……なぜ、と訊いて良いのでしょうか」
「彼の遺体のそばに遺書がありました。罪を背負うことに耐えられなくなったと。この遺書ですが……見つけたのはたまたまなのです。そばと言っても樹上でした。彼は木登りなど出来るのでしょうか? それに遺書は何か鋭いもので突いたような痕がありました。不可解な点はありましたが……」
樹上、と聞いてオニキスはかつてのカラスを思い出した。まさか、と内心でそれを打ち消し、ラピスの話に耳を傾ける。
「内容はこうです。一つには彼自身が姦淫の罪を背負ったと。もう一つには無実の者を牢獄に入れることへの恐怖心から。……ただ、彼自身にもかつて同僚を追い落としたことがあったようで、それが大きな罪悪感となっていたようですね」
「追い落とした……」
「ええ。何でも性的倒錯者がいると密告したのです。神殿に参った少年を自室に迎え、そこで酔わせたあげく行為に及んでいたと」
「それは密告しても良いのでは?」
「そこまでなら、そうでしょう。続きはこうです、その部屋からはいつも甘い香りがしていた。その香りは今ならわかる、自分も花街で嗅いだのだ、と。彼は元々清廉な人物だったようですね。だから一杯盛られたという感覚で考えてしまう。そのかつての同僚が自ら使用したとは想像出来なかったのでしょう。ルウの花の中毒は妄想を引き起こす。神官は加害妄想をしたのかもしれません」
「その少年愛の神官は自ら使用したのでしょうか。あれは……特別なルートでなければ手に入らない」
「神殿内ですよ。花街であれば酒席でいくらでも他者が盛ることが出来る。だが神殿内の自室となれば、いくら高位の神官であっても立ち入れないでしょうから」
ラピスがここまで言うのなら、確証を得ているのだろう。オニキスは頷き、重く感じる息を吐き出すと自身の頭を撫でた。
「ブラッドは花の存在を知っているのだろうか……」
「花街では噂になっていますからね。ああいう連中はカネになることに対しては異常な嗅覚を持つ。知っている可能性は高いでしょう」
「ではフィカス家も……いや、なぜあの男がフィカス家の馬車に? ブラッドとは何者だ?」
「オニキス殿、このことに関してはあなたは追うべきではない。その容姿は目立ちすぎます。それと、花街の調査は神官に任せましょう。コネクションの幹部らしき男が出入りしている、となれば彼らが動く大義名分として充分です」
ラピスの注意にオニキスは頷いた。
「ええ。ここまで様々なものが絡まってくるなら、私の行動が却ってあなた方の邪魔になるでしょう。……しばらくは大人しくしておきますよ。使者の件もそうだが、本来の仕事もある」
オニキスがそう言うとラピスはようやく頬を緩めた。
「そうそう、ラピス殿……不思議なカラスが出るのですよ。まるで人を誘うような……これによりあるきっかけを得られましたが、気を許せるものとも思えない。ご注意めされよ」
「カラス……ですか? そういえば、遺体の近くに羽が落ちていたような……」
ラピスがそう呟くように言い、オニキスは顎をわずかにあげて首を傾げた。
「あのカラスは一体……?」
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