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Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 小説

Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第4話 仮面の下は?

 7日目の授業を終え、オニキスを見送った後、シルバーはいつも通り図書室へ向かった。
 薬草学の本が面白い。毒をある程度抜けば薬になるという発想は目から鱗だ。
 シルバーは数冊借りて図書室を出る――曲がり角の向こうから聞こえてきた名前に足を止めた。
「ヒソップ家の令嗣がバーチ女王の教師をしているそうだな」
 オニキスのことだ。
 冷ややかな声の主は、つい先日皇子達との会食で聞いたもの。
 フィカス家の跡取りで皇后の実兄・カイだ。
「はい。掃除係の息子が大した出世です」
「親の七光りだろう。1代で成り上がった男の子だから、という勝手な期待だ」
「何代と続いた伝統を背負わず、気楽なものです。高貴な身分であるという責任感のない男ですよ」
「だが評判であろう」
「ええ、まあ……とはいえ、あの顔ですから。実績などなくても、ご婦人方さえ味方につければ世渡りは楽なのでしょう。しょせん、庶民の子です。カイ様のように身分に相応しいだけの素養と品とがないのです」
「それも噂か?」
「いえ、私の娘がそう申しておりました。なんでも皇后陛下の侍女と密会していたとか」
「では皇后の覚えもめでたいのだろうな。そして今度はバーチ女王か。授業といって、一体何を教えているのやら」
 話題がシルバーとのことになり、シアンが眉を寄せて前に出ようとした。が、シルバーは彼を制止し、更に注意深く聞き耳を立てる。
 どうやらカイ・フィカスの話し相手は貴族院にも名を連ねる男のようだ。顔はかろうじて知っている。結託していたのか。
「気になさる必要はありません。フィカス家は皇帝陛下の信頼も厚く、ご子息方も着々と要職についているではありませんか?」
「だがヒソップ家にあまり目立たれても困る。民草が期待を抱き、続々政界に入り込んでくる可能性があるからな。早いうちに潰してしまいたい」
 それが本音か、とシルバーは頷いた。
 しかし、誰が聞いているとも知れない場所でよくこんな話が出来るものだ。フィカス家は宮殿を自分のものと思っているのか、その後立ち去る時もずいぶん堂々として、まるで皇帝のよう。
「また女性の話……」
 後ろでマゼンタが呟いた。彼女は出かけた際、オニキスに食ってかかったことを叱られたばかりだ。小声で言った後に額を押さえている。
「ただの噂……としても、ずいぶん流布しているよう。オニキス殿を潰すため?」
「私には分かりかねます」
 シアンの返事ははっきりとしていた。
「皇后陛下の侍女ですって」
「はあ、そう言っていましたな……殿下?」
「話を聞いてみましょう」
「しかし、殿下」
「側にいる者の調査をしていないことに今気づきました」

 シルバーが見つけたのは、50歳を超えた皇后の着替え担当の侍女である。
「ヒソップ? グレイさんの事でしょうか? ああ、ご子息ですか。またですか……」
「うんざりしているようね」
「オニキス殿のことを聞きに来る女性が多いのですよ。あの子、顔が良いでしょう。顔だけじゃなくて、宮殿じゃちょっと珍しい性格をしてることもあって、女性からとても興味を持たれやすいんです」
 侍女はかわいそうに、と呟いた。
 シルバーは扇を広げ、彼女の近くに顔を寄せる。
「かわいそうとは?」
「親子そろってですよ。政治っていうんですか、何かと足をひっぱってやろうとする連中が多くて……グレイさんが体を壊したのもそれが原因。オニキス殿が名代として宮殿にあがったけど、彼は一匹狼なんです。お陰で白い眼で見られて……女性達はフラれたのを逆恨みするので、彼は味方がいないのです」
「あら……フラれたの?」
「ええ。オニキス殿は女性と関係を持とうとしません。それでフラれた女性達が腹いせに色々言ってるんです。中には彼は男色だ、とか……」
「それは初耳」
「オニキス殿は結婚していないでしょう? それも色々憶測を呼ぶようで……せめて女難さえなければねえ」
 侍女に話を聞き終わると、シルバーは自室に戻った。

「思ったよりも根深い問題ねえ」
 シルバーはベッドに腰掛けた。言い換えると面倒な話、である。
 政治上の敵対勢力だけでも面倒な話なのに、それにプラスして女性達の逆恨み。
 どれが真実かは分からないものの、シルバーと接するオニキスは嫌味もあるが少なくとも正直で、授業ではシルバーの求める知識を惜しみなく与えてくれる。
 中身のない顔だけの男ではないだろう。
 マゼンタにワンピースのリボンを解いてもらい、脱ぐとローブを体に巻いた。
「以前の靴屋の女性……」
「逆恨みなのかもしれないわね。でも、そこは私生活だから踏み込んではいけないわ」
 シルバーは髪に櫛を通した。豊かな髪からふわりと香油の香りが立つ。
「夕食に誘われておりますが……」
「ああ、もう、誰?」
 マゼンタが招待状を手渡す。記されているのは貴族院に名を連ねる、良家の子息、子息、子息……魂胆が見え見えだ。
「結婚したとして、バーチに来る覚悟があるのかしらね」
 それを試してやるのも面白そうだ。
 シルバーは勝負服とも言える、銀糸の体の線が出るドレスを手に取り、ぬかりなく化粧を整えた。

***

 卒業生仲間と遅くまで話し合いが続いた後、せめて夕食を一緒に、と誘われ入った店で、オニキスはシルバーを見つけた。
 細い首がよく見える髪型、華奢な肩はむき出しで、腰の引き締まった体の線が出る銀糸のなめらかなドレス。豊かな乳房とお尻が際だって見える。
 ずいぶん挑発的なドレスだ。
 おまけに形の良い唇は鮮烈な赤で眼が釘付けになる。
「色っぽい女だ」
 連れの一人がそう言いながら彼女を見た。
 オニキスは彼を小突くと席に急がせる。
 彼女はいつも通りマゼンタと一緒で、途中現れた紳士然とした若い男に礼をすると個室に入っていった。
 その扉の前でシアンが背筋を伸ばして立つ。
 シアンはオニキスと目が合うと、気まずげに顎をしゃくってみせた。
(見合いか?)
 独身の女王だ。そういう相手を見つける必要はあるはず。
 しかし、彼女は誰かいるとかそういう気配を漂わせただろうか?
 見合いは仕方ないとして、そこに感情はあるだろうか。
 胸にもやがかったような感じがして、それを消そうと水を一息に飲み干す。
「オニキス、お前今、父君の名代なんだろ?」
「ああ」
「将来はこのまま政治に関わるつもりか?」
「いや、出来ればそこから抜けたい」
「本気かよ。お前が出世してくれれば、俺たちにもチャンスが出来るんだ。踏んばってくれよ」
 庶民から貴族へ。
 そして大臣となり国を動かす。
 父の築いた物語は学生達の間でも評判となっており、ある種の希望だった。
 オニキスはそれがどういうものか理解しているが、しかしそれでは何かが潰える気がしてならない。
 自分の将来、目標、それだけではない何かが。
「それは自分達でやってくれ」
 そう言うと席を立つ。
 いつからか友人からも「オニキス」ではなく、陛下から賜った名字「ヒソップ」家の令嗣として見られている。
 顔か、名字か、親の威光。
 オニキスの評判といえばそれらであって、本人に対する評価はないに等しい。
 だがうんざりする気分の原因は、それらを覆せないでいる自分自身への情けなさだ。
 話はもう済んだはず。
 オニキスは家に帰ろうと決め、学生仲間の待つテーブルへ――廊下へ戻った瞬間、細いが力強い手に腕を掴まれた。
 オニキスは流石に目を見開く。
「……マゼンタ?」
「失礼、オニキス殿。ご助力願いたい」
「一体何事だ?」
「この間のことは、大変失礼しました。つい、その、先入観があって……いや、今はそれどころじゃない。殿下のことだ」
 オニキスは表情を引き締めた。
 シルバーに何かあったのか?
 腕を掴まれたまま連れられた個室の前にシアンの姿はない。
 マゼンタは扉をやや強引に開いた。
「ああっ! 殿下!」
 マゼンタが悲痛な叫び声をあげた。オニキスはただ事でないそれにいよいよ眉を寄せ、中を見ると口をぽかんと開く。
 中ではシルバーが見合い相手と思しき男を足蹴にしていたのだ。
 彼女は優雅に椅子に座り、ヒールをぐいぐいと肩口に食い込ませている。
 一体何事だ。
「殿下!」
「あらマゼンタ、どこに行ってたの……」
 シルバーはオニキスの姿を認めると、これ以上ないくらい目を大きく見開いた。

「私に婿入りした後、首都に残りたいのですって」
 シルバーはオニキスの視線から逃げるように扇を広げ、そう説明を始めた。
「バーチ再興は私の夢でしょうから応援いたします、お邪魔はいたしません、でも子供は欲しいですね……とかなんとか」
「ずいぶんご都合主義ですな」
「オニキス殿もそう思う?」
 シルバーは共感を得られたのが嬉しいのか、ぱっと顔をあげたが、やはり恥ずかしそうに頬を赤く染めると扇で隠す。
「私と結婚すれば、ある程度生活も地位も保証されますから。ええ、税金でね。離れて暮らしたって何の不自由もありません。そもそもお互いは他人同然の仲ですから」
 シルバーはそこまで言って、ぶつぶつと何か呟き始めた。
 店を出て馬車が走る。オニキスはそのままシルバーと同乗し、隣で必死に体を縮める彼女を見つめた。
「それで腹を立てる貴女でもないでしょう。何があって、あのような……」
 場面を思い出し、オニキスは一人にやにやと笑う。シルバーが目だけを出して睨んできた。
「失礼を」
「忘れて」
「いいえ。殿下の武勇伝をここに焼き付けておきますよ」
 オニキスが自身の胸を指さし言うと、シルバーは扇を閉じてオニキスを見据えた。
「もう。意地悪ね」
「怒った顔も可愛らしい」
「ごまかさないで。忘れるのよ、いい?」
「それは命令ですか?」
 そう言うと、シルバーはつんと顎を持ち上げた。
「……私のことを哀れだと」
 そうシルバーはどこでもない場所を見て呟く。
「父の家は没落寸前、突然バーチのような国へ飛ばされ、お先真っ暗。彼の家はフィカスの援助を受けていますから、結婚すればあらゆる面で楽が出来るのですって。それに、バーチ再興は夢……女王の道楽か何かだと思っているみたい。いいえ、夢じゃない、義務です。女王としての生活の保証があるのは税金のおかげ。ではその分、いえ、それ以上に国家国民に尽くすのは、義務であり夢でも理想でもない」
 フィカスの名に、オニキスはふと納得がいった。自身の息のかかった子息を婿に入れることで、各勢力を引きつけておきたいのだろう。
 それにシルバーの話だ。
 出逢った時にした会話の内容を思い出し、オニキスは彼女の手を取ると詫びるように口づける。
「どうしたの?」
「貴女に謝らなければ。初代は家の宿命を受けていたか、と……大変、失礼な言葉でした」
「そう? 一理あると思ったわ、だから私もバーチ再興のため自分勝手をしようと決められたの」
「あなたが背負っているものの重さを考えていませんでした。そこから逃げずにいることも。やはり貴女は女王に相応しい」
 オニキスがまっすぐにそう言えば、シルバーは大きな目をぱちぱちさせた。その淡い色の瞳にオニキスの顔が映り込んでいる。
「……オニキス。聞きたいことがあります」
「なんでしょうか?」
 シルバーは神妙な面持ちでまっすぐに見つめてきた。やや首を傾げた後に出てきた言葉にオニキスの思考が停止する。
「あなた男色なの?」

 馬車が邸の前で停まり、オニキスは送ってもらった礼を言うと降りる。
 シアンが声をかけてきた。
「先ほどのことだが、殿下は……その、理由なく誰かを踏みつける方ではない、と……貴殿も知っているだろうが……」
 歯切れの悪いシアンに、オニキスは首をふってみせた。
「何かあったんだろう。忘れることにするから、そう殿下に伝えてくれ」
「いや、違うんだ。その、相手が勘ぐっていて……。つまり、殿下と、貴殿が、ふしだらな仲ではないか……と」
 その言葉に、オニキスは眉をぐっと寄せる。胸元からぐらぐらと怒りがわいたが、それを出すわけにはいかない。
「それで殿下に迫ったんだよ。愛人の一人や二人、いたって構わない、と。殿下は奴に鋭い平手打ちを……いや、これは言い過ぎだ」
「彼女は品行方正だからな。……これは俺に咎があるかな。殿下に謝っておいてくれ」
「いや、貴殿のせいじゃないだろう。忘れてくれればありがたいが、少なくとも殿下がご立腹なのにはそれなりの理由があったと、分かっておいてくれ」
 シアンは背を向け、馬車の前に座ると馬を走らせた。マゼンタが単騎で併走している。
 去り際、馬車の窓が開いて中の彼女と目が合った。
 思わぬ疑いをかけられたものだ。
 まさか男色とくるとは。
 にやりと笑って手をあげれば、シルバーは扇で口元を隠すも目元を和らげた。

***

 見合い話が破談になったことはとっくに知られていた。皇后に呼ばれたシルバーだったが、反省の様子は見せずいつも通り顔を出した。
「話を聞いたわ。ずいぶん、ヒールの使い方がお上手ねえ」
「陛下。どなたからのお話です?」
「あなたのお相手」
 やはり、とシルバーは頷いた。
「肩にアザが出来て、かわいそう」
 言葉とは裏腹に皇后は肩をゆらしている。隠せていない笑い声が聞こえていた。
「あはは。もう、おかしいったら! 貴女って意外とお転婆なのねえ」
「お恥ずかしい。第一、あの男あまりに下品ですわ。そう、志もなく、人をなめ回すように見て、挙げ句の果てには……」
 3人でベッドで楽しめば良い、ときたものだ。
 ふしだらなのはお前の頭の中であろう、そう言った直後、彼の頬を張った。
「フィカス家と懇意だそうですね。どちらに訴えようかしら」
「まあ、まあ。落ち着いて」
 それは上手くやっておくわ、と皇后はシルバーをなだめて自らお茶を淹れる。
 ティーカップに鮮やかな赤茶色の液体が注がれ、薔薇のような香りが立った。
「事実、オニキス殿とはどう?」
「どう? どうもこうもありません。オニキス殿は……政治上の付き合いを好みませんのよ。皇后陛下が期待されるようなことは、何も」
「まあ。ストイックというか、警戒心が強いというか。シルバー、あなたせっかくの美女なのに、それで良いの?」
「私、子供を産むつもりがありませんの」
 皇后が目を見開いた。
「なぜ?」
「マインの家でしたら従兄弟がおりますし、問題ありません。私が子供を産んだらそこに余計な禍根を残しかねませんから」
「皆喜ぶでしょう」
「どうでしょうか」
 ただでさえ嫉妬の目で見られるのだ。
 皇女である母親の権威で父はマイン家の主役となった、と叔母達の嫉妬の目。
 彼女達は自力で何か成したか?
 そうでもなく没落していったのに、何かとこじつけて父と母を標的にして、お金を引き出していく。彼らはただ責任を果たしただけなのに、成功者だと揶揄されて。没落寸前の家がなんとか成り立っているのは誰のお陰と思っているのだろうか。
 その「成功者だから」の言葉の裏に「憎まれっ子世に憚る」という皮肉があるのをシルバーは知っていた。そしてその矛先は、徐々に娘であるシルバーに向き始めたのだ。「何不自由ない娘」に。
 万が一子供が出来れば、その子は「皇族の血の流れる子」として旗印にされるのか。
 そうすれば従兄弟達はどう思うだろうか。
 祝福と嫉妬、どちらが勝つ?
 シルバーは親戚との不和を皇帝や皇后に話すことはしていない。
 今回、首都へ戻ってきたが親戚に便りは一切出さないままだ。
 顔を合わせたら頭が沸騰しそう。
 不可解でお門違いな嫉妬ほど見苦しいものはない。
 もしシルバーが子供を産むとしたら、それは公にせずひっそりと、どこか安穏な場所で安全に。
 それが彼女の理想だ。
 シルバーは紅茶にはちみつを入れるとぐるぐるかき回す。
 紅茶の色が濃くなったが、味わいは深まる。
 見た目と中身が一致することもあれば、しないこともある。
 自分とオニキスもそうなのだろうか。
 シルバーは昨夜から続くもやもやに頭痛を感じ、こめかみを揉むようにすると紅茶を飲んだ。
「今日も授業なのよね」
「ええ。陛下もご一緒に如何です? オニキス殿のお話はわかりやすくて楽しいですよ」
「いえ、遠慮しておくわ。二人の時間を邪魔したくないものね」

 真昼になるとオニキスがやってくる。
 執務室は始め埃をかぶっていたが、いつの間にやらすっかり空気を流し、部屋全体で呼吸しているかのようだった。
 機嫌が良いとは言えないシルバーだったが、それを顔に出さず彼を迎え、目が合うと何か胸のつかえが吹き飛んだようになって頬がゆるんだ。
「もうじき授業も終わりですね」
 オニキスがそう言って、シルバーははっと我に帰る。
 そうだった。授業がはじまって今、9日目。
 明日には終わってしまうのだ。
 再び胸の中で何かがしぼんでしまう。
「何か助けになれれば幸いです」
「ちゃんと活かします。せっかくの時間を割いて、つくしてくれたのだから」
「もったいないお言葉です。今日は水害が起きた後、その処理と土地の活かし方を」
 水害が起きた後、水は上下にひっくり返されて栄養をため込んだ泥が地上に溢れてくる。
 それを農業に役立てられるのではないか、という説を実際に試したレポートを見ながらだった。
 オニキスの学んだことはずいぶん生々しい。水分の多い土をどのように扱うか? どうすれば浄化・再利用出来るか、など、具体的な説明が書かれている。
 ウィローではどのように暮らして、どのように学んできたのだろう。
 授業が一通り終わると、シルバーは片付けをする彼にそれを聞いた。
「ほとんどが現地調査です」
「そうなの……実際、携わってどうでしたか?」
「やはりやりがいがありましたよ。ウィローは川の国ですから、これ抜きに生活出来ません。移動手段としても川は有効ですから」
「ウィローには船も多いのね?」
「ええ。山にも持ち込み、その先の川を渡るため使います。自然を克服するのではなく、共存するという考え方です」
 オニキスの言葉にシルバーははっとして顔をあげた。
「毒草は薬草にもなるのですって。だから消滅させてはいけない、と。それと同じね」
「同じでしょう。バカとハサミはなんとやら。……我々は自然の一部でしかなく、自然はそれぞれのために生きています。誰かの都合で振り回せるものではありません」
「それもウィローで学んだこと?」
「ええ」
 オニキスはふと懐かしむような様子を見せた。ウィローでの暮らしがよほど好ましいものだったのだろうか。
 シルバーは植物学の本を撫で、頷くといつものように彼を見送る。
 恭しく礼をして宮殿を出る彼の馬車を見送り、シルバーはなんとも言えない気持ちになった。
 彼には彼の生活があり、シルバーもまた自らの生活に戻らなければならない。

 その夜、シルバーはなかなか寝付けずにいた。
 目を閉じるとバーチの風景が浮かんでくる。
 カビの生えた湿地帯、その奥にある氾濫した茶色のエメラルド川。
 ぬかるんだ道に横転する牛車、人。
 避難のため城に集まってくる人々の刺すような目。
 だが霧の向こうに光が見える。
 そうだ、バーチは豊かな土地だった。
 白樺の樹が美しく、湖は青々と輝いて、鹿の群れが楽しげに森を走ってゆく。
 こんなバーチの風景を見たことがない。
 どこかで見た本か、風景画を思い描いているのだ。シルバーはそう自分に言い聞かせながら息をした。
 新鮮な香りが鼻腔に流れ込んでくる。
 甘い花の香りだ。
 それを楽しんでいると、やがて眠りに落ちた。

 約束の10日目となった。
 シルバーは何か聞き忘れたことはないか入念に調べ、しかし今の自分が知りたいことのほとんど全ては満たされたと知ると、満足感ではなく物足りなさを感じて肩を落とす。
 執務室で重いカーテンを開く。オニキスの姿が庭園に見えた。
 馬車から降りた所らしい。彼はこちらを見上げ、シルバーの姿に気づくと手をふった。
 シルバーも手を振り返す。
 彼が向かう先はここだ。
 そう思った瞬間、腰のあたりから熱がのぼるような感じがした。しかし、
「今日で終わり」
 そう呟くと、途端に体から力が抜けそうだった。
 オニキスがやってきて笑みを見せる。
 シルバーはそれに返したつもりだが、果たして不自然なものになっていないだろうか。
 今日のワンピースはかつて彼が選んだ、濃い紫色を想像しながら選んだ。シンプルで、腰には細いリボン。鎖骨が綺麗に見えるものを。
 それから礼も用意したのだ。
「今日はまとめです。おさらいをしながら、改めて質問があればどうぞ」
 オニキスはいつも通り、淡々と授業を進めた。

 本を何度も読み返したため、シルバーは授業の内容をほとんど暗記していた。つつがなく授業は終わる。
 片付けをするオニキスの背を見つめ、シルバーは無意識にため息をついた。
「殿下、お飲み物をお持ちしましょう」
 マゼンタがそう言って、シアンの腕を引いて部屋を出て行く。
 ドアがパタン、と音を立てて閉じられた。
 二人きりになったのは初めてではないか。
 そう思った瞬間、オニキスがとても大きく見えた。それと同時にシルバーは自分がとても小さくなったように感じ、思わず床に視線を落とす。
「慌ただしい兄妹ですな」
 オニキスがそう言った。二人になったせいか、彼の声がよく聞こえる。体に響く、さざ波を引き起こす声。
 シルバーはとたんに足が浮くような感覚がして、ごまかすためにドアの方に目をやり、扇を広げた。
「彼らとは、打ち解けました?」
 シルバーがそう言うと、オニキスはふふっと笑って首をふる。
「どうでしょう。少なくとも、シアン殿とはまともに話をしましたね」
「そう」
 思わず冷たい返事をしてしまった。何故なのか、喉が腫れたように熱い。重い。苦しい。
 オニキスの目がシルバーをまっすぐにとらえてくる。
 扇がなければどうにかなってしまいそうだ。
「今日はつれないですね」
 対してオニキスはずいぶん余裕な態度だ。出逢った時からそうだが、彼はシルバーに対して遠慮をしない。嘘もつかない。だがつかみ所がない。
 全く食えない男だ。
「つれないというか……そうね……今日で……今日で終わりなのだな、と考えて……。そう、だから、ささやかながらお礼の品を用意しました。受け取って下さる?」
「物品の受け渡しは賄賂になりかねません」
 非常にはっきりとそう断られてしまい、シルバーは所在なく項垂れた。
「そうでした。私ったら、浮かれていたわ……」
 皇女達に贈るのと同じように考えていたのだ。
 シルバーは扇をぱたぱたと仰ぐ。
 どうしたものか、と考えていると、オニキスが一歩近づいてこう言った。
「では、仮面舞踏会の続きを下さい」
 オニキスはシルバーの顔を覆う扇に手をかけ、そっと下ろした。
 近い距離で目が合うと、黒々としたぬばたまの瞳が、濃いくらいにシルバーを映し出す。
「続き?」
「ええ。貴女をお誘いしようと思っていたところ獅子のような男に奪われ、相手になれませんでした」
「陛下のこと? そういえば馬場でもそんなことを言っていたわね。あなた、皇帝陛下のことをそんな風に言うなんて命知らずだわ」
 とはいえ不思議に親近感のある言い方だ。皇帝自身も笑って受け取りそうだが。
「命か……お嫌なら、誰かのように平手打ちを食らわせれば良い」
 オニキスはシルバーの腰のリボンをするりと解いた。
「えっ、ちょっと?」
「仮面ですから。身分は関係ない」
 紫色のリボンが目元に迫り、あっという間に視界が暗くなる。オニキスの腕が耳もとをかすめ、体温が近づく。頭の後ろでリボンがきゅっと結ばれる音がした。
「オニキス殿……!」
「名前は知らないはず。私も、貴女を、少しも知らない」
 腰に手が回り、手を取られる。視界に頼れない以上、オニキスのリードに身をゆだねるしかないのだ。シルバーは緊張なのか怖れなのか、よくわからない感情でいっぱいいっぱいになった。
「危ないことはしません。このまま、私に全て任せて」
 耳元に彼の息づかいすら聞こえる。
 シルバーは背中がカーッと熱くなるのを感じ、戸惑いを隠せない手が彼の腕を強く握りしめる。
 一歩、オニキスが後ろへ。
 シルバーもそれにならう。こけないよう気をつけると、オニキスの手が体を支えた。
 このままゆだねて良いのだ、そんな安心感がわいて緊張が抜ける。
 オニキスのリードに任せてステップを踏む。シルバーはダンスが苦手で、足下がふわふわ浮いてしまうクセがあった。
 それを直そうとすると、ぎこちなくなってしまう。
 オニキスはそれを察したのか、膝あたりをそっと撫で、軽く軌道修正をする。
「下手なのが伝わったみたい」
「貴女にも苦手なものがあるのですね」
「ええ、もちろん。あなたはどう?」
「数えればキリがないほどに」
「それは冗談? 謙遜?」
「本当のことですよ」
 オニキスが手を伸ばし、シルバーはそれに合わせてくるんと回転する。
 背中にオニキスの体温がある。
 肩から背中に手が添えられ、シルバーはつい手を伸ばしてオニキスの服を掴んだ。
 オニキスの手がその手を取る。
 驚くほど温かい手だ。脈動まで感じる。
 ぴたっ、とダンスが終わった。
 見えない視界のまま彼を見上げ、触れられないかと手をそっと伸ばした。
 髪に触れたのだろうか、芯の強そうなそれを指で辿る。
 彼の黒々と輝く髪。
 目に焼き付いて離れない、はっきりと思い浮かぶ、不思議な色だ。
 指先で弄んでいると、オニキスの手がそれを絡め取った。導かれるままにしていると、頬とは違う柔らかな部分に触れる。
 唇だろう。
 指先をちゅっと吸われた瞬間、シルバーの体がぴくりと反応した。
「ふふ。可愛らしい」
 そんな声が聞こえ、シルバーは耳が焼けたように感じた。
「……よく考えたら私だけ仮面よね?」
「不公平でしたか?」
「ええ。してやられた気がするわ……」
「だが、貴女は隠すくらいが丁度いい。その瞳で見つめられたら男は猛獣になりますよ」
 お気をつけ下さい、とオニキスは熱い耳にささやきかけた。首筋がびりびりする。
 シルバーはふと思う。
(あなた自身はどうなの?)
 その疑問は扉の向こうから聞こえる誰かの足音で消えてしまった。
 リボンが解かれるとシルバーは息を整え、ようやく開放された目でオニキスを見る。
 背後に立って見おろしてくる男はやはり余裕を保ったまま。
 ふと腰の手が肩に登り、するっと撫でてくる。
「っ……」
 肩が震え、まばたきをするとオニキスが濃い瞳のままじっと目を覗き込んできた。
「贈り物をするよう、陛下は招待状に」
「……書いていたわ」
 オニキスは内ポケットから白い羽を取り出した。いや、よく見れば彫金のペン先がついている。キャップにまで同じ模様が彫られ、かなり手の込んだものだとすぐに分かった。
「これをお渡しするつもりでした」
「気に入った方に?」
「ええ。もしいれば、のつもりでしたが」
 オニキスは羽ペンをゆっくりと移動させる。羽が耳をかすめ、顎をなぞってゆく。
 くすぐったいどころではない。なぞられた部分がそろそろと熱に浮かされるようだ。
 シルバーは早鐘のようになる心臓を他人事のように感じていたが、羽ペンの先が胸元から谷間へ進入してきた時にはさすがに息を乱した。
「賄賂だと思われてはいけない。隠さないと」
 オニキスはペンを更に深く差し込んでいく。熱が胸の頂きに溜まっていく。シルバーはそれを目で追い、乳房に埋まってゆくペンの感触に喉の渇きを覚えた。
「オニキス……」
 そう名前を呼んで振り返れば、しっとりと濡れたような唇が約束事のように触れあう。食むように、吸うように触れあう。
 こうやって彼に惹かれ、彼にフラれ、彼を逆恨みするのだろうか?
 そうだとしても、もはや関係ないのかもしれない。シルバーはじきバーチに帰り、彼から遠く離れる。
 それならただの思い出に出来るのかもしれない。
 唇が離れると体ごと彼と向き合い、彼の胸元を撫でて頬をすり寄せる。
「やはり、受け取って」
「貴女も招待状に書かれた通りにしたのですか?」
「ええ。でも、誰にもお渡ししていません。香りが辛くて、あのあとすぐに出たの」
 顔をあげたシルバーの、その目元をオニキスは覆った。
 手のひらの温もり。シルバーはせり上がってくる息を吐き出した。
「……名前も知らぬ貴女からなら、受け取りましょう」
「なら……」
 シルバーがそれを取ろうと体を離すと、オニキスの手がそれを止めるように腰を抱いた。
「舞踏会の続きですから、夜半に、受け取りに参りましょう」
「え……?」
 眉を顰めるシルバーの手を、オニキスはそっと持ち上げて手の甲にキスを落とす。
 それから手をひっくり返し、手のひらに、手首に。
 オニキスの試すような目がまっすぐに目を覗き込んでくる。
 その視線に込められた熱が伝染ったのか、シルバーは体全体が熱くなったのを感じ、手が離れるとそれを撫でた。

次の話へ→Tale of Empire -白樺の女王と水の貴公子ー 第5話 一夜の恋 前編*官能シーンあり

 

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