うそとまことと 小説

第8話 逃げて、逃げて

 

 空はまだ白かった。
 熟睡出来たらしく、睡眠時間は短かったが琴はすっきりと目覚めていた。
 ようやく元の生活に戻る、と思うとこの空気が新鮮に感じられた。
 近くにショッピングモールが見える広々とした荒れ地、振り返れば寝相のすさまじい3人の女性の姿。
 琴は彼女らを起こさないようそっと着替え、部屋を出た。
 ホテルのロビーに行くと、まだ従業員もゆったりとして人数も少ない。
 コーヒーマシンを動かし、ノンカフェインのカフェオレを淹れてゆったりソファに腰掛ける。
 スマホを見れば6時だ。
 メッセージを送ろうか、もう少し後にしようか……そう考えていると、ブブッ、と振動する。
【今日帰りだと聞いた。どうか無事で】
 都筑らしい、飾り気のない文章。
 しかしそこには琴への気遣いが見て取れた。
 にまにまして、返事を送ろうと指を構えるが、何と打てば良いのか分からない。
 どきどきすると喉が腫れた感じがする。
しかし不快ではなかった。

***

 昼になっても琴からの返信はない。
 結局3日間、琴と何らかのコミュニケーションを取っていない。
(そんなものだ。仕方ない。彼女にとってはただの恋人のフリだ)
 はっきり惹かれていると口にすれば、不思議なほど気持ちが昂ぶる。
 単純に彼女が欲しいというような欲求とは違う、じわじわと、大切にしたいと心から思えるものだった。
 今どうしているのか。
 沖に迫られていないだろうか。
「先輩、けっこうスタジオも不安要素多いですよ」
「そうなのか」
「はい。こことか、カメラの死角だらけ。これ車の出入り口です。機材が多いし、ビル風もきつい。事故で通れなくなったらちょっとやばいかも」
「参ったな、警備から話が通れば安全は確保出来そうだけど」
「全くです。何かあってからじゃ遅いのに」
「何もないことに慣れてしまうんだろうな」
 警備員はスタジオ管理者と安全対策を話し合っているようだが、管理者はいい顔をしないそうだ。
 曰く、避難訓練が徹底されれば今は良いだろう、とのこと。都筑達が得た仕事など微々たるものだった。
 井上は苦々しい顔をした。
「他人任せな。命を預かってるっていう自覚、ないんですかね?」
 井上の言葉を都筑は頼りに思いながら、自身の髪を軽くかき上げる。
「そこから徹底的にたたき込んでやりたいな」
 都筑は時折辛辣だ。
 さて、この時都筑のスマホには返信があった。
 しかし彼はスマホを貴重品鞄に入れてしまったため、それに気づくのは後になる。

***

【無事に帰ります。都筑さんの都合が良ければ今夜、会えませんか?】
 琴は恥ずかしさから顔が茹で上がってしまうのでは、と思うほど頬を赤くしていた。
 隣に座っていたカリナが手で扇いだ。
「あはは。琴さん、真っ赤だ~」
「むぅ~。からかわないでよ~」
 バスの狭い車内では逃げられない。
 琴は自身でも扇いで頬を熱を取ろうと試みるが、どうにも都筑に送ったメッセージの内容を思い出すと次から次に恥ずかしさがわいてくる。
 ごまかすように頭を振って、カリナを向く。
「カリナちゃんが言ってた男装ですが」
「おっ」
「こういう感じでどうかなと考えております」
 琴が取り出したのは彼女の似顔絵、それを短髪にして紫を基調とした、あやしげな雰囲気の女性とも男性ともつかない姿だ。
 和装だが衣装は指定しないで、黒に塗った着物の襟だけ。おそらく衣装担当が選ぶのだろう。
 一番目を引くのは、真っ赤な目元のラインだ。
 カリナの目は大きく、しかしメイクで切れ長に演出している。これで彼女の瞳の輝きが引き立つだろう。
 長髪でも可。ただし紫色の濃い黒で、と書いてある。
「すごーい! こんなの描けるの?!」
「そっちじゃない……」
 カリナの感動は琴のイラストに向いていた。

***

 カリナはイラストが気に入ったようで、スマホカメラで何枚も撮っている。
 すでにバスはスタジオに着き、一度確認を取ったら現地解散という流れだった。
 すでに陽は沈み、琴は都筑からの返信がないのを気にしながらカリナと話す。
 夜の湿気を含んだ風がうなじにまとわりついた。
「楽しみだなー」
 カリナは疲れを見せず、無邪気にそう言った。
「こっちも楽しみ。男装メイクを練習するね」
「えっ、したら見せてよ」
「私の顔だよ?」
「いいよいいよ。むしろ見たい。琴さんも似合うだろうな……」
 カリナはずいぶん楽しそうだ。カメラマンのように琴の顔を見つめ、手で四角形を作るとそこから覗き込む。
「見せる、見せる。まあ、うん。見られるものには仕上げて参りまーす」
「やった!」
 解散が告げられ、カリナは辻とともに迎えのタクシーに乗っていった。
 ミクがスタッフ達と話していたが、やがて琴を手招いた。
「今日は琴さんも送っていけるから」
 しかし琴はすぐには返事をしない。
 都筑からの返信がないのだ。
「どうしよう」
「どうかしたの?」
「その……都筑さんに会えないかって……」
「ああ、そっか。連絡は?」
「まだ……」
 しかしスタジオ時間が迫る。
 琴はミク達に急かされ、マイクロバスに乗り込んだ。
 発進し、黒々した道路がどんどん流れていく。
 琴は窓に張り付き、ビルを見ていた。
 中から都筑が出てくる。
 目が合った。
 琴はスマホを取り、電話をかけ、都筑も同じようにして……繋がることはなかった。
 都筑の姿が見えなくなるまで見つめ続け、気づくとスマホに新着メッセージ。
【返信が遅れてすまない。何か話があった?】
 返事を打たねば、と思うのに、指は震え、何も思い浮かばない。
【いいえ! 大丈夫です。お仕事お忙しいみたい。ゆっくり休んで下さいね】
 結局そんな返事しか出来なかった。

***

 都筑は夜風に吹かれながら、琴の返信を見る。
 窓の向こう、彼女は身を乗り出し都筑を見ていた。
 何かあったのかと思うほど緊張したような面持ちで。
 都筑を気づかうような返信。
 何か送り返そう、そう思った瞬間、強い風が吹きつけた。

 翌日。
 琴はこの日から3日間、たっぷり休みである。
 琴だけでなく映画の演者・スタッフ皆だ。
 せっかく都筑への想いと自分の問題を理解したというのに、会いづらい状況になってしまうのか、と琴は項垂れた。
 どんな理由なら、ビルに行って会える?
 向こうは仕事だ。
 迷惑になってはいけない。
 休憩時間は?
 せっかくの休憩時間を割いてもらう?
 ぐるぐると考えが巡ってまとまらず、琴はスマホの前で頭を抱える。
 そうこうするうちにもうすぐ12時になろうとしていた。
 穏やかな初夏の太陽が室内を照らす。
 春の嵐の名残のような風が吹いて、カーテンを揺らした。
 ふと蘇る沖の言葉、あの画像。
 何かの誤解だろう。
 都筑が誰かを恐怖に陥れるはずはない。
 新たな仕事を得て喜ぶ暇もないはずだ。ビルのメンテナンス、管理人と技術者の仲介・監督で忙しいのだ。それどころじゃない。
 ではあの女性は?
 グラマラスな体つき、遠目からの画像だったが年齢は都筑と同じくらいだろうか。
 あのレストランのオーナーとはまた違う、どこか妖艶な女性。
「……」
 たとえ都筑に誰かいても、琴は何か言える立場にない。
 あくまでも沖の誘いをかわすためのフリだ。
 そして沖は琴を諦めると言った。
 ミクとおばさまスタッフの目の前で。
 都筑に報告しなければならない。
 そうしたら、フリは解消だろう。
 重いためいきが出た。
【昨日はタイミングが合わなくて、あんな感じになってしまいましたが、良かったら】
「削除」
【都筑さんとお話がしたく】
「削除」
【まともに連絡出来ず】
「削除!」
 琴はテーブルに突っ伏した。
(逢いたい。都筑さんに報告が。お仕事中に。伝えたいことが。……どれもダメだ……)
そう考えていたら着信音が鳴った。
「はい、もしもし!」
 1コール鳴りきらずにとったため、向こうが一瞬言葉に詰まったらしい。
 少し間を置いてから、
「一週間、お疲れさま」
 と、琴が聞きたかった、落ち着いた低い男性の声がねぎらいの言葉をかけてくれた。

***

「お、お疲れ様です。その……ええと……」
 電波の向こうで、戸惑ったような琴の声が聞こえる。いつも通りの彼女の声にほっとし、都筑は声には出さずに笑い、話しかけた。
「いや、昨日は何かあったのかと思って。俺に話があった?」
「あ、え、その。その……き、昨日はつまり……あっ、そうだ! お土産です。お土産を渡せるかなって。会えないと流石に、電波じゃ渡せないから」
 琴のたどたどしい説明に都筑は相好を崩す。
 今頃彼女の頬は赤くなっているのだろう。
「お土産か。そんな遠くへ行ったっけ?」
「県はまたぎました。何が良いか分からなかったので……その……ベタに温泉まんじゅうを」
「うん。和菓子も好きだよ。ありがとう」
「いえ。あ、そうだ。賞味期限があるから、やっぱり会いたいな。……お昼に休憩はありますか?」
「大変だろ? せっかくの休みなのに。取りに行くよ。あ、いや、君の楽な所を言ってくれればいいから」
 住所を聞くのははばかられ、都筑はそう付け加える。
 彼女の性格からしてビルまで行く、と言うのだろう。
「そんな。私の都合だし、やっぱりビルまで行きます」
 やはり、と都筑は首をふった。
 義理堅い彼女のことだ、下手に気を回せば余計に萎縮するかもしれない。
「わかった。せっかくだから……せっかくだからお茶でもしようか」
 都筑は誘うか否か迷ったが、この際はっきり彼女に告げておこうと考えた。
 下心を持ったまま接するのは、あまり得意でない。

***

 琴はいつものような動きやすい格好ではなく、かといって前のようなおしゃれをするでもない、中間の服を探す。
(どうしよう)
 どれならあからさまじゃないのだろうか。
 手にしたのはオフホワイトのとろんとした生地のシンプルなブラウス。前が着物の襟のような合わせ風のデザインで、下はすっきりとリボンで絞れる。デコルテが大人っぽく見えるものだった。
 下は……マーメイドラインの膝丈スカート。
 ダメだ、狙いすぎだ。
 琴はスカートをシンプルなものにし、靴はヒールのあるブーツを選んだ。
 髪型はハーフトップ、これならうるさくないだろう。イヤリングはやめて、ピンクゴールドのシンプルなネックレスを一本。
 残念ながらいずれもミクが撮影で着るような高価なものではなく、古着屋で安値で買ったものだ。
 新品中古らしく、気に入っているから良いのだが。
 メイクを自分の顔に施す。
 カリナが言った、自分の綺麗、を思い出す。
 だからそれが際立つよう、色を選んで。
 お土産を袋に入れ、琴はこの日、使い込んだリュックではなく、小さなショルダーバッグで荷物も少なく家を出た。

***

 ビルの前で待っていると、琴が早足で向かってくるのが目に入った。
「お疲れ様です。あの、時間を取らせてしまって」
「大丈夫だよ。予定らしい予定もないし」
 琴はシンプルだがいつもより大人っぽい雰囲気に見えた。
 血色も良く、目がきらきらして見える。
 柔らかそうな唇は鮮やかなピンク色で、思わず見入ってしまった。
 都筑はそれをごまかすように腕時計を見て、時間を確認する。
 休憩は始まったばかりだ。
「気に入ってる純喫茶があるんだ。そこに行こうかと思うんだけど、君は大丈夫か?」
「はい」
「そう、じゃ、行こうか」
 少しだけ路地に入る。
 人家を抜けると小さい喫茶店があるのだ。
 レンガ調の壁にツタが這う。
 看板は黒く変色し、オープンの文字はかつて流行したデザインだ。
 カランカラン、と鳴るベルも嫌味なく錆びている。
「いらっしゃい」
 半月型の眼鏡をかけた、白髪のロングヘアをまとめた老人店主が背筋もしゃんとして二人を迎えた。
 中はコーヒー豆の香りがする。
 一歩入ると涼しさを感じる薄暗さだ。
 琴がきょろきょろと遊園地に来たかのように楽しげに見渡している。
「奥の席空いてるよ」
「わかりました」
 都筑は琴と店主の示した席へ。
 座り心地の良い、アンティークなソファに座ると疲れが溶けていくようだった。
「どうぞ」
 差し出された水とおしぼり。
 都筑がタバコをやらないのを知っているので、店主は灰皿を下げた。
 そういえば、タバコを吸っている客がいるが臭くない。
 空調・換気の良い席だったのだろう。
「すごいお店。都筑さんてどうやって見つけるんですか?」
「歩くのが好きだから、自然と目に入るんだ。気に入った?」
「はい!」
 琴は嬉しそうに目を細めて笑った。
 都筑はそれを見てほっと一息つく。
 メジャーなチェーン店の方が受けるだろうか、と思っていたのだ。
 琴は袋を持ち上げる。
「お土産です」
「ああ、ありがとう。君は食べたの?」
「はい。部屋に置いてあったので」
「旅館?」
「ううん。ホテルです。あ、でも元々は旅館だったみたいです。美味しかったですよ、生地がもちもちしてて……」
「分けようか。俺一人じゃ多いかもしれない」
「一人?」
 琴は首を傾げた。
 都筑が振り向くと、琴は不思議そうに目を見開いている。
「一人だけど……あぁ、井上にも配った方がいいか。それともオーナー?」
「ええと……それは、都筑さんが決めて下さい」
「……だよな」
 琴が一瞬俯いたが、顔をあげた。
 窓から差し込む光でその瞳がきらめく。
 そして窓の向こうの世界から風が叩きつけてくる。
「あの……連絡を急に切っちゃって……もしかして心配かけましたか」
「……かな」
 妙に居心地が悪い。
 探るような会話のトーンだ。
 二人が注文したコーヒーと紅茶が運ばれ、また会話が途切れる。
 風がガラスを叩く音が、やけにうるさかった。
 香りの豊かなコーヒーを口に含み、琴を見つめる。
 緊張したような面持ちだ。
 都筑を見ないようにしているかと思えば、じっと見つめてくる。
 都筑としては彼女に「惹かれている」と告げておこうと考えていたが、どうやらそういう空気にない。
「……あの……都筑さんは、お、おつきあいをされてる人は……もしくは、その……」
「……? いや、まぁ、つきあってる人はいないよ」
「好きな人とか……」
 琴の目がきょろきょろとする。
 都筑はそれを追いかけるように見つめるが、目が合わない。
 都筑も流石に気づいていたが、彼女はどうやら恋愛に疎いようだ。
 はっきりさせなければ、おそらく彼女には伝わりそうにない。
「……いるよ」
 都筑がそう言うと、琴ははっと背を伸ばした。
 今度はちゃんと目が合った。
「好きな人なら」
 逃がさないようしっかり見つめ、彼女の目が揺れながらこっちを見るのを見つめ――君が好きだ、そう言おうと口を開いた瞬間だった。
 スマホの緊急連絡用の着信音が鳴った。

***

「スタジオに現れた?」
「……です、……てて」
 井上の声らしい、スマホの向こうから聞こえてくる。だが内容は分からない。
「すぐに行く」
 都筑は通話を切ると、表情を引き締め琴を見た。
「ごめん、緊急だ。すぐに戻らないと」
 琴が何か言う暇もない。彼は万札をテーブルに置くと走って行ってしまった。
 琴が持ってきたお土産も置いたまま。
 琴は仕事なのだ、仕方ない、と自分に言い聞かせ、しかし彼らの仕事で緊急なら、きっと大変なことが起きたのでは、と気が気でなく、紅茶も残したまま都筑の後を追うように店を出た。
 ブーツが食い込んで痛いが、風の吹く中をスタジオ目指して早足で歩く。
 やっぱりいつものスニーカーにすれば、と思ったが後悔しても遅い。
 なんとかスタジオが見え、都筑の姿を探した。
 赤信号の向こう、警備員が警戒しているような雰囲気で、遠くから見るのがやっとだ。
 何があったのか、と周囲もざわめいていた。
 信号が青に変わる。
 琴は足早になって、ざわめいていたスタジオの車出入り口をのぞいた。
 誰かがいる。女性だ。
 足が長く、すらりとしているのに不自然なグラマラス。どこかで見た、と琴は感じる。
 警備員が慌ただしく移動している。
 都筑の姿が見えたその時。

 風が吹いた。
 強い風だった。
 琴の視界にそれはスローモーションに見えた。
 風に倒れる多くのガンマイク、三脚、ライト。
 それら機材の向かう先は先ほどの女性。
 都筑が駆けつけ、彼女を庇うように覆い被さり、「先輩!」と心臓に響くような井上の声が聞こえたと思ったら、機材の倒れる騒々しい音が琴の鼓膜に響いた。

***

「先輩! 大丈夫ですか!?」
 井上はすぐに機材をどかし、都筑の声をかけている。
 警備員が電話をかけていた。
 救急車を呼んでいるのだろう。
 琴は足を震わせ、力をなくした指先はお土産を落とす。
「都筑さん……」
 弾かれたように走り、膝がすれるのも構わずにコンクリートについて、井上が機材をどかすのを手伝う。
 細いが重い棒をどかせば、ようやく都筑の顔が見えた。
 都筑は背中に機材を受け、両腕でしっかりと先ほどの女性を守っている。
 彼女は気を失っているのか目を閉じたままだ。
「都筑さん!」
「先輩!」
 ようやく全てをどかすと、救急車のサイレンが聞こえてくる。
 都筑が目を開いた。
「……か」
「え?」
「先輩、話さない方が」
「……彼女は、無事か?」
 都筑が女性をのぞき込み、井上が彼女の鼻先に手をやって確認する。
「無事です。血も見えません」
 それを聞くと都筑は頷き、一瞬だけ琴を見た。
「よかった」
 そう言って、都筑は目を閉じた。
救急車がそばに停まり、救急隊員がストレッチャーに都筑を乗せた。もう一台も女性を乗せる。それを見ていると、井上が振り向いた。
「上原さん、俺現場にいないと。都筑先輩と一緒に行ってくれませんか?」
「え、あ」
「恋人のフリしてるって知ってます。でも多分、知り合いがいた方が良いと思うし、何かあったら先輩のスマホから俺に連絡いれて欲しいんです。先輩の血液型は……」
 井上が早口に言った。
 彼も心配なのだろうが、プロとしての自覚から現場を放り出せないのだろう。
 琴がそれを理解出来たかは分からないが、何度も頷いて救急隊員に促されるまま乗り込む。
 命をつなぐための機材が所狭しと並ぶ車内に、ストレッチャーに寝かされた都筑は服をハサミで切られ、消毒と同時に傷口を確認されていた。
 琴は口元を押さえて泣きそうになるのをこらえるのに必死だった。
「頭部、左肩に裂傷、心拍異常なし。意識不明」
 救急隊員が手早く確認し、琴を振り返る。
「患者様の事をお訊きしても良いですか?」
 隊員の質問に答え、やがて救急車は走り出す。
 機械音が聞こえる中、向かう病院の名が車内に響く。
「大丈夫ですよ、見た目ほど大きなケガではありません」
 隊員が琴を安心させるように言った。
「はい」
 琴は返事しながらスカートをきつくきつく握りしめ、都筑を見ていた。
 彼女のその手は色を失っている。
「○×病院へ搬送、患者の容体は――」

***

 都筑の怪我は大きな物だったが、命に別状はなく数時間経つと意識を取り戻した。
 事故から2日経った。
 都筑は気づいたら病院にいたという、タイムスリップを味わった。
 頭に包帯が巻かれていたが、どうやら異常はなかったようだ。
 強く打った左足、左肩はしばらくまともに動かせそうにないが、骨折には至らず、不幸中の幸いといえそうだった。
「上原さんに同乗を頼んだんですよ」
「そうなのか?」
「はい。青白い顔になって、泣きそうだったけど隊員にちゃんと説明してくれました。あの子見た目よりしっかりしてるんですね」
 その後ちゃんと連絡もくれたし、と井上は付け足す。
「そうか……全く面倒かけたな」
「そうですよ。ちゃんとお礼したげて下さいね」
「お前が言うのか」
「良いじゃないですか、デートに誘う口実になったでしょ」
 おどけて言う井上を都筑は半眼で睨む。
 井上はしかし、都筑が動けないのを知って余裕の表情だ。
「スタジオが治療費とか諸々出すって」
「なんでまた……」
「アドバイスくれたのに活かしてなかったからだそうです。それと危機管理も頼みたいって」
「遅い」
「ですよね。まあ、やらない気づかない考えないよりマシですよ」
「……司さんは」
「ああ、無事です。気絶したのはいつもの……アレです。ケガとかなかったって。今は元の病院に戻ってますから」
「そう」
 井上はそれを報告すると荷物を手にした。
「悪いな、休憩時間なのに」
「いいっす。何回もおごってもらってますし、これくらい普通ですよ」
 井上はそう言うと部屋を出て行った。
 大部屋だが4人分のベッド、荷物入れに机、椅子、そして思ったより広いスペースとなかなか設備は良かった。
 腕を動かすと傷口がじんじんと痛む。
「全く」
 そう呟き、右手を伸ばして水を取った。
 昼食が運ばれ、都筑は身を起こす。
 彩り鮮やかなものだった。
 特に食事制限のない都筑は病院食が豪華なのに驚いた。
 白米に鶏肉の塩焼き、人参とブロッコリー添え。味噌汁はわかめ、副菜にはサラダ、野菜ジュースとデザートに小さなカップ入りプリンだ。
 てっきり塩分も少ない、修行僧に対するような食事が出るものだと思っていたのだが、味付けもしっかり。メニューも中華、フレンチと幅広い。
 が。
 物足りない。
 冷たくてもきっちり詰められた、あの弁当が懐かしい。

***

 見舞いに来た琴だが、勇気が出ない。
 つい先ほど井上が病院を出るのを見かけ、とっさに隠れてしまった。
 事故当日の数時間後に都筑は意識を取り戻し、怪我のせいか汗をびっしり浮かべていたが、琴を見つけると大丈夫だと知らせるように頷いた。
 それを思い出すと泣きそうになり、息を整えると足を動かした。
 都筑が入院している303号室につくまでの間、どうしても気になってしまうのはあの女性だ。
 沖が見せた画像の彼女だ。
 そう気づいたのは昨日だ。
 危険も顧みずに助けるほど、大切な人なのか。
 ――いるよ、好きな人なら
 喫茶店で都筑はそう言ったのだ。
 視界が暗く見えるのは、伏せたまつげのせいなのか、気分のせいなのか。
 都筑は怪我人だ。
 心配させてはいけない。
 頭をふって顔を整えると、琴は病室を訪れた。
 カーテン越しに挨拶し、都筑がどうぞと言ってから入る。
 この2日、同じようにしている。
「こんにちは」
 笑顔を作って顔を出すと、都筑が頷いた。
「ああ、こんにちは」
 琴は都筑の水筒の中を入れ替え、見舞いに持ってきた軽食を差し出す。
「せっかくの休みだったんだろ? 病院に通って終わりは申し訳ないよ」
「良いんです。こっちに友達いないし、遊びに行くお金はないので」
 ここなら定期使えるし、と琴はカードを見せる。
「病院は見舞客の方が疲れるものだろ。君はちょっと……」
「ちょっと?」
「お人好しだな」
 都筑は軽口でそう言った。
 彼の髪はシャワーを使えないため適当に櫛を通しただけ。
 髭も生えて、雰囲気がかなり違う。
 それでも話すと都筑は都筑だった。
 琴は内心ほっとしつつ、わざとらしくむくれてみせる。
「良いです、お人好しで。目の前で知人が怪我したのに、ほっとくのは気が引けるし」
「そう。分かった、言い換える。君は……」
「私は?」
「……」
 都筑が言葉を切り、口も閉じてしまう。
 にらみ合う格好になり、やがて都筑がぷっと吹き出した。
「ごめん、ごめん。つい」
「なんですか、ついって!」
「可愛くて、つい見てた」
「かわ……」
 琴は思いがけない都筑の言葉に心臓を跳ねさせ、顔を真っ赤にした。
「な、なんですか。なんなんですか!」
「しーっ」
 都筑が人差し指をたてた。
 琴は周囲を見回し、声を落とす。
「都筑さん、暇だと人をからかうんですか?」
「暇? ああ、かもしれない。君は反応がいいから、つい」
「ついって……もう」
 琴が唇を尖らせると、都筑は表情を和らげた。
「退院はすぐだよ。傷口がふさがったらだそうだ。だから、もう心配いらない」
「すぐ? 良かった」
「ああ。ありがとう」
 会話が途切れ、琴は視線を落とした。
 何か気になるのか、ちらちらと都筑を見る。
「何かあった?」
「あの……一緒にいた女の人は……」
 琴がそう言うと、都筑は表情を固い物にした。
 ややあって都筑は口を開く。
「彼女は……無事みたいだ。別の病院にいる」
 なぜかこれ以上は踏み込まないでくれ、と言われたように感じる、どこか固い声だった。
「そうですか。無事なら……」
「上原さん。君に話しておこうか、悩んでいたけど……」
 琴はどきりとした。
 その女性が好き?
 もうフリは終わりにしたい?
 聞きたくない。
 そうだ、沖が自分を諦めると言った、それを報告するのを忘れていた――琴は都筑が言う前に、口を開いていた。
「そうだ、あのね。沖さんがもうしつこくしないって。諦めるから、普通にスタッフとして映画を作ろうかって。それにもうすぐ撮影も終わりますから、都筑さんにもう、面倒をかけないで済むかも……いえ、済ませます。私、ちゃんとするから……」
 琴は一息に言って息を吸い込む。
 目が熱くなった。
 これで都筑といられる口実を失ったのだ。
 都筑は目を見開いて琴を見つめていたが、視線を外すと「そう」と言った。
 沈黙が耳に痛い。
 琴は泣いてしまう前に、と立ち上がり、都筑に頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました。その、また、改めて、お礼をさせて下さい。それから、退院の日が決まったら、教えて下さい。ちゃんと来ます」
「……ああ。わかった」
「じゃあ、私、これで……ゆっくりして体を大切に……」
「うん」
 琴は逃げるように病室を出る。
 トイレに駆け込んで、洗面台で顔を洗う。
 顔から落ちる滴は水なのか涙なのか、わからなかった。
 わがままな自分が、憎らしかった。

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