朝目覚め、鏡に顔をうつす。
顔に触れて、少し引っ張ってみると、痛みを感じる。
崎本は「過去の世界」と言った。現実と繋がった世界。夢ではないから気を付けるように、と。
では彼女は誰なのだろう?
現実と繋がって、だが沙羅はアレクと結婚した覚えはない。なら実在する女性なのか。
(この世界にいるサラという女性なら、私は彼女の体を借りているということなのかしら。崎本さんもこの世界に囚われているから、全てを話せないと……)
だが、沙羅には明確な目的があった。
アレクに何があったのか、知りたい。
彼のことを知りたくてここに来たのだ。
鏡にうつる「サラ」を見つめ、目を閉じると息を吐く。
「頑張るわ、サラさん。どうか力を貸してください」
岩が朝食の準備をしていた。沙羅は手伝いを申し出る。
「奥様は変わってますね。いつもお料理を手伝って下さる」
「そうなんですか?お料理は割と好きな方だから、やりたくて」
漬物を切り、魚を焼く。
炊き立ての麦ごはんをよそった頃にアレクがやってきた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
岩が下がっていく。
「一緒に食べないんですか?」
「お二人の邪魔はしませんよ。私は子供たちと一緒に」
岩の背を見送り、視線を移動させると新聞が目に留まった。
日付はやはり明治十六年。
7月だった。
「今日もお仕事ですか?」
「ああ。通訳・翻訳と、マナールールをまとめるのに急いでいる」
「翻訳ならお手伝い出来そう」
沙羅はぽつりと言ってしまった。
明治十八年ではアレクを手伝っていた。とても静かな時間。今にして思えば、とても幸せな時だったのだ。
「エゲレス語を?」
オランダ語から日本風に言った「イギリス語」のことだ。
「あ、ええ」
アレクは目を見開き沙羅を見た。
「そうなのか……知らなかったな。だが私の仕事だ。お前はゆっくりしていなさい」
「あの……」
「ん?」
「お出かけしても、良いですか?」
「もちろん。だが供を連れるように」
7月。太陽が土や草を焼く、夏のにおいが強くなっている。
セミが七日の命を燃やすように求愛に鳴いていた。
沙羅はまだ着物に慣れていないため、西洋風のシャツに袴を穿いて出かけた。
供をするのは岩である。
彼女の案内でエドガーがいそうな場所へ向かった。
宝石商が主な仕事のはず、ならば人の多い場所だろう。
そう考えて市場へ向かう。
人がかなり多く、汗のにおいと乾物、新鮮な魚、納豆、と食材のにおいが漂ってくる。
喧噪を潜り抜けるようにして歩き、多少通りが大きくなると岩が日傘を差し出した。
「今日は何にいたしましょうか」
岩は買い物に来たと思っているようだ。
沙羅は人の多い中、店と店の間までくまなくエドガーを探す。
(もしかしたら、前みたいに神社かも。お寺って可能性もあるかもしれない……)
市場にエドガーはいなかった。沙羅は近くに寺を見つけ、「休憩しましょう」と言ってそこに入った。
「奥様、どこへ行くんです?」
「探し物を」
「はあ。あら可愛い」
岩が何かに気づいてしゃがみこんだ。
沙羅もつられてそれを見る。ガラス細工だ。
それを売っているのは、頭をつるっとそり上げた小柄な男性――
「お目が高いねえ、ご婦人方。これは「いたりあ」で作られたガラスの小物さ」
腹から出るだみ声。
「……エドガーさん?」
そう名を呼ぶと、エドガーは顔をあげた。
ガラス細工のような水色の目を見開き沙羅を見る。
「へえ。俺を知ってる?」
「奥様?」
「お岩さん、私、この方とお話しないと……」
岩は首を傾げたが、市場で買い物を済ませてくると言った。
「エドガーさん、鏡の話です」
そう言うと、エドガーは目を見開き、眼光を鋭くした。
「鏡を正しく使うように、と崎本さんに言われました」
沙羅が説明すると、エドガーはうんうんと頷く。
「良いかい?あの鏡は最も強く、純粋な願いに反応する。こっちへ来る前、お嬢さんは何を望んだんだい?」
「”知りたい”と」
「知りたい?」
「はい。アレクに何があったのか。どうして売国奴と呼ばれ、暗殺を……」
「暗殺だって?アレクサンダーが?」
エドガーは両眉を持ち上げた。
「ありえん。なぜだ?」
「わかりません。だから、私、知りたくて」
エドガーは腕を組むと、はあ~とため息をつく。
「なんてこった。だが、わかったような気もする。だから彼女は後悔を……それでか……」
「エドガーさん?」
「いや、気にするな、君は君の願いのために行動しろ」
そんな簡単なこと?
沙羅は呆気に取られてしまった。
「でも……」
「でももへちまもない。知りたいんだろう?アレクサンダーに何があったのか。願いは単純でも、叶えるのは骨が折れる。だがやるしかないんだ」
沙羅は顔をあげた。確かにその通りだ。ぐっと気持ちが引き締まる思いである。彼は暗殺されるのだ。
ただ事ではない。
「エドガーさん、さっき、なぜありえないと?」
「そりゃお嬢さん……うっ」
エドガーは突然呻き、額を押さえた。
「悪いな、お嬢さん。彼女が言うなってさ。俺は崎本の一部なんだが、この世界に囚われて思うように動けない。お嬢さんが頼りなんだ、しっかりやってくれ」
「そんな……大丈夫ですか?」
「余計なことを言わなければ、大丈夫だ」
エドガーは息を整える。
「私に何か出来ますか?」
「俺のためにか?だったらこの世界を終わらせてくれ」
「え?」
思わぬ言葉だ。
「ど、どういう意味?」
「ここは願いと過去とが重なった世界だ。気を付けないと大変なことになる。時間が過ぎるほど、囚われて向こうでの肉体が弱っていくんだ」
「そんな……」
現実逃避の末に植物人間になるということだろうか?そのはては目覚められずにただ死を待つだけ?
「本末転倒だろ?だから、お嬢さん。君の願いを叶えろ。願いが正しければ道は開かれるはずだ」
「私が不純な願いをしてしまったら?」
「例えば?」
「アレクが私を想ってくれるようにとか……」
「いや、鏡といえど他人の心までは操れないさ。それが出来るなら彼女はとっくに願いを叶えてる……おっと、彼女に気づかれそうだ。頑張れ、お嬢さん。君がこの世界を解くカギかもしれないんだからな」
エドガーはこれ以上は話せない、と沙羅を行かせた。
ヒントらしいヒントは得られなかったが、とにかく「知る」こと、と沙羅は思い新たに市場へ向かう。
岩と合流し、必要なものを買うと館へ戻った。
夜にアレクが帰ってくる。今日は酔っていなかった。
「お帰りなさい」
そう口に出すと、胸のあたりがむずむずとくすぐったくなった。胸に花が咲くような気分である。
(サラさん、ごめんなさい。私、あなたの体を借りて……)
そう罪悪感が顔をもたげてくるが、沙羅はアレクのことを知るためだ、と彼をしっかり見据えた。
「昨日の今日なのに、まるで別人のようだ」
「え!?」
まさか、もうバレてしまったのか?沙羅は体を硬直させたが、アレクは身をかがめて沙羅を見つめるとふっと笑う。
「子鹿の成長は早いのだな」
バレたわけではないようだ。よほど「サラ」と沙羅は似ているらしい。
「子鹿……」
そういえば、前の時にも同じことを言われている。
夕食を終えると、アレクが切り出した。
「サラ、今日はビッグニュースがある」
「何ですか?」
「柴田閣下がお前を鹿鳴館に連れてくるよう仰せだ」
時間が一瞬止まった気がした。
「え?」
「エゲレス語を話せるだろう。お前の話が出た時に、それを言ったのだ。そうしたら、エゲレス語を話せる婦人は少ないので、ぜひ、と。大英帝国の婦人を見習うためにも彼女たちをよく観察して欲しいとのことだった」
とんでもない大役ではないか。鹿鳴館といえば、外交の華である。賛否両論あったらしいが、少なくとも本物の外交が行われた現場なのだ。
「すまない。お前を利用するつもりはなかったのだが……」
「い、いえ。でも……」
「身重かもしれない、と伝えようか」
沙羅は顔を真っ赤にした。
だが一方で、これはチャンスなのでは、と気付く。
売国奴として狙われたということは、政治に関係しているのだろう。
ならば彼の職場である外交の場へ行くのは大きな収穫があるのではないか。
「……行きます」
「そうか?無理をしなくて良い」
「アレクは私を行かせたくないのですか?」
「ああ。危険だ」
はっきりとアレクは言った。
「鹿鳴館は金がかかった。そうまでして異人をもてなさなければならないのか、と今でも非難が多い、それに、連日連夜のばかげた夜会に見えるのだろう。日本の国力を示し、大英帝国に”従わせるのは簡単じゃない”と思わせるためではあるが、確かに行き過ぎた感はある」
「日本を守る為のことなんですね」
「何事にも良い面と悪い面はあり、何が幸いするかなど分からない。見方によっては大英帝国にしっぽを振っているように見えるのだろう。お前が彼らの非難の対象になるのは避けたい」
やはり彼は売国奴でもなんでもないではないか。誤解があったのだ、それを知るために沙羅は来た。
ここで怖がっている場合ではない。
「アレク。私は行きます」
「サラ……」
「あなたが守ってくれるでしょう?」
「……」
アレクはテーブルに両手を置き、顔を伏せると頭をふった。
「私は心配しすぎなのかもしれない。お前は思っているよりずっと気丈だ」
「なら……」
「ああ。一緒に行こう」
寝室へ入り、アレクの寝顔を見つめながらふと思う。
(そういえば、なぜ奥多摩に”サラ”がいなかったの?)
もし沙羅がサラとして存在しているなら、あの時アレクが自ら自己紹介をしたのはおかしいだろう。
その時点ではとっくに彼の妻のはずだ。
だがそうではなかった。
それに、彼は今度こそ守る、と言っていたのだ。
(サラさんはいない?どこかへ消えてしまったとか……)
3年の間に何が起きたのか。
アレクは府内(当時の東京都)に住む理由がなくなったと言っていた。
それを知れば、沙羅は現実へ戻れる。
(だけどそれでは、アレクの暗殺を防げないのかな……)
正しく願う、はあまりに難しい。
自分に果たせるのだろうか。
もしアレクに生きて欲しいと願って、それが間違っているとしたら?
彼はあそこで死ぬ「さだめ」だったのだとしたら?
(……それを変えようなんて、願っちゃいけない)
ぐっとかけ布団を手に握った。
翌日から沙羅はアレクと一緒に鹿鳴館に出ることになった。
馬車に乗り、今でいえば帝国ホテルの場所へ。
たどり着いた先は特にイギリスを思わせる西洋建築。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが作ったのだから、それもそのはずか。
煉瓦造りの屋根、白い壁。2階建てで、バッキンガム宮殿を”小さく”した感じだ。
それでも沙羅からすれば充分に立派で、確かに金がかかったのだろうと容易に想像出来た。
前庭は灯篭とガス灯が並び、手入れされた緑が道を作っている。
(イングリッシュ・ガーデン風だなぁ)
欧米に習わんとした時代に、ここまでの物を造った。生半可な覚悟ではなかったのだろう。
刀・弓の時代から銃の時代へ。船に積まれた大砲がどれほど脅威だったことか。
そしてジョン万次郎が導かれるように漂流し、アメリカで言葉と文化を学んできた。彼がいなければ日本はどうなっていたか分からない。英語も理解出来ぬままでは簡単に乗っ取られていたかもしれないと考えると、全く不思議な運命だったと言えよう。
そして鹿鳴館でもこうして形には見えない防衛戦か、あるいは海外との連携を図っているのだ。
現実世界でイギリス人男性とそんな話をしたが、彼のいう事はかなり大きな意味を持っていたのだ。
――昔の日本人、未来を見据えて世界にドアを開きました。それをバカにするのはダメですね。
賛否あるのは仕方がないが、批判ばかりするものでもないのだろう。
事実日本は大英帝国の植民地支配から逃れているではないか。
(とはいえ何が正解か、なんて分からないけど……)
馬車を停め、アレクと共に中に入る。
艶々した西洋風の階段の手すり。
沙羅からすればアンティークなランプ。
レッドカーペットを歩いて2階の奥へ行けば、その室内に柴田大使が待っていた。
肩幅の広い白髪交じりの男性で、背筋の伸びた紳士。西洋風の制服に身を包んでおり、口ひげもイギリス人のように形を整えている。
確かに”真似”と言われても仕方ないいで立ちだ。
「君の奥方か」
「はい。弓削家の娘で、九州より参りました」
「エゲレス語を話せると聞いたが、そうなのかね?」
柴田の鋭い目が沙羅を捕らえる。
沙羅は一瞬身をこわばらせたが、人を小ばかにするような部長とは違った真剣なものだった。だからか沙羅も緊張はすれど怖れることなく向き合えた。
「はい。ビジネス……申し訳ありません。日常会話なら」
この時代にビジネス用語は無用だ。おそらく誰も理解出来ないだろう。
「そうか。それは心強い。知っていると思うが、大英帝国にもフランスにも侮られている節がある。そればかりか、日本国内からも批判が殺到しているのだ。きちんと言語を理解し、同等にやり合えるという姿勢を見せたい。そして日本を守り、欧米に後れを取らぬよう進化を推し進めるのだ」
柴田の態度は飲まれそうなほどの覇気である。
沙羅は背中に汗が流れるのを感じた。
(大変なことになってしまったのかな……)
そう考えるが、隣に立つアレクをちらりと見て頷く。
「はい!」
アレクは沙羅を紹介する際、「弓削家」と言った。九州の生まれらしい。
(サラさんのことが少し分かったのね。でも、アレクのことは……)
鹿鳴館の中をこまごまとアレクに案内される。
各室内から見える、ベランダの欄干は緑、丸みを帯びた棒が並んだもので、昔のイギリスの映画に出てきそうだ。
だがやはり日本の雰囲気がそこかしこに残っており、土の気配がする。
2階中央に至り、アレクが言った。
「ダンスホールがここだ」
鹿鳴館外交のメインだ。ガチャっ、とドアが開かれると、中はホテルの会場のように広く、シャンデリアがいくつも天井高くに吊るされている。
窓を飾る額縁のような彫刻に、ドレープたっぷりのレースカーテンに、赤いベルベットのカーテン。
床は模様の入ったレッドカーペットだ。
「どこからこんなに調達したのかな……」
思わずつぶやくと、アレクはちらりと見て笑った。
「外交努力だ」
「いつも外交って評価されない仕事ですよね……」
「”いつも”?」
沙羅はしまった、と思ったが、アレクは「愚痴を聞かせてしまったな」と苦笑いを浮かべた。
「何とも言えないな。民衆には外国に金が流れているように見えるのかもしれない」
「結果日本にも良いことが多いのに」
「その通りだ。だが時間がかかる。そうだ、ここに来るのは老婦人が多いから、気を付けるように」
「何をですか?」
「ご婦人方にとって若い女性は”説教したくなる”存在だ。話が長くなるよ、捕まらないように」
アレクのジョークだったらしい。沙羅は頬を持ち上げた。
「そういえば、私……弓削家にはどれくらい帰っていないのかしら」
「弓削のご実家へは2年ご無沙汰している。正式に結婚し、やっとこっちへ来てまだ2年か」
2年。22歳で結婚したということか。この時代なら遅いのかもしれない。
「アレク、何歳になったんですか?」
「私か?もうすぐ30歳だ。もう、あまり若くない」
そうなのか、と沙羅は改めてアレクを見た。
現実なら29歳はまだまだ若い。
だが地位と環境のせいなのか、アレクはかなりしっかりして見える。
「ダンスは?」
「え?」
したことなどあるわけない。
だがよく考えたら鹿鳴館はそういう施設だ。
「私たちも皆まだまだ下手だ。影で笑われているよ」
アレクは沙羅の手を取ると、簡単なものだが、とステップを踏んだ。
「外国では夜会や社交の場でダンスが欠かせないらしい。そうだ、それと……」
アレクは沙羅を引き寄せると、耳元で忠告した。
「なぜ老婦人ばかりが参加していると思う?皆、妻や娘を異人に連れて行かれたくないんだ。だから私も、本当ならお前をこんな席に出したくない。異国の男が声をかけても、ついていかないでくれ」
「えっ……」
「長崎では遊郭に入り浸る異人の商人もいる。日本人に限らず、どの国でも女性は目をつけられやすい。一部の男は外国人と関係を持ったという優越感に浸りたがるしな」
「ま、まさか。私は地味ですし」
アレクは身を離すと、サラを見て肩を撫でる。
「お前は美しい。だから気を付けておきなさい」
アレクは沙羅の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、続けた。
「だが、私はこのダンスというのは気に入っているよ。呼吸を合わせてようやく完成するものだ。どちらが欠けても成立しない。一つ間違えれば怪我をするが、上手く行けばとても美しい。正直に言えば、紳士淑女手に手を取って調和する彼らのダンスへの憧れもある」
その夜に開かれた舞踏会をこなし、沙羅の鹿鳴館デビューが果たされた。
バシャッと大きな音を立ててカメラがシャッターを切る。
沙羅がアレクと館に帰ったのは月も傾いた夜遅くの事だった。
次の話へ→【鏡中夢幻】 第8話 ※官能シーンあり