ハッと目が覚めると、そこは自分の家だった。
アイボリーのカーテン、白の壁紙、淡いグリーンのラグ。
見慣れたはずのそれら。
自分の家だ、現実に戻ってきたのである。
沙羅は目じりに流れる涙に気づき、それを指先で払った。
「アレク……?」
彼の名を呼ぶが、返事があるわけがない。
スマホが光って朝を知らせ、2024年6月……と日付を知らせた。
鏡に向かい強くなりたいと願った、その翌日だった。
(なら、あれは、夢だった?)
ズシッ、と響くように背中が痛む。
昔の銃はよく分からないが、とにかくそれを受けたのだろう。だが背を撫でても傷痕らしいものはない。
その瞬間の彼の必死な目と、名を呼ぶ悲痛な叫びを思い出してしまった。
ちりっと胸が痛む。
沙羅を見つめる紺色の目、熱を持って沙羅を見つめる瞳、拒絶に揺らいだまなざし、そして最後に見た、痛々しい目の光。
「……夢……?」
エドガーは夢ではないと言っていた。
でも、と沙羅は頭を振る。その時気が付いたが、沙羅は右手にしっかりと何かを握っていた。
銀のかんざしだ。しっかりと重みがあり、チェーンがしゃらしゃらと鳴った。
手が震えてくる。
「夢……じゃない……」
沙羅はいつも通り、仕事に向かった。
だが何かが違う。
皆が沙羅を見ると、さっと道を譲るのである。
以前は気づかれもしないことすらあったのに。
前から理子がやってきて、沙羅を見ると目を見開いていた。
「おはよ、理子ちゃん」
「おはよう……どした?なんかすっごい雰囲気変わったね?」
「え?」
理子は腕を組んで沙羅をじっくり見る。
「なんかきれいになった。いいじゃん、髪型も似合うよ」
服装はいつも通りのスーツ姿だ。
アレクに言われた通り、自分に似合うように、と髪型を編んでアップにし、メイクに気を付けたのは確かである。
だがそれだけだ。
「そう?ちょっとだけ頑張ってみたの……それより、昨日はごめん……じゃない、ありがとう」
「ああ、良いよ。てか木本も石井もガキだよね。あれあんたの気を引こうと思ってやってんのよ」
「気を引く?」
「からかって遊んでんの。もう相手にするの、やめな」
「理子ちゃん、ありがとう。もう分かったから手伝わないわ。石井くん、私に面倒ごと押し付けて自分は女の子と遊んでるだけだったの」
「サイテー」
理子は笑ったが、沙羅を気づかわし気に見る。
どうして気づかなかったのだろう?理子はちゃんと沙羅を見ていてくれたのだ。
石井や木本に気を取られるより、もっと大事なことはたくさんあったのだ。
デスクに向かい、いつものようにコラムをチェックする。
【日本は弱小国家なのか。おかしいと思ったことはないか?これほどの国に囲まれながら、2000年以上もの間その独立性を守ってきた。強気な姿勢だけが強さではなく、時として柔軟な姿勢が全てを守ることもある。戦う事だけが勇敢さではない。相手を知り、礼を尽くし、受け入れることが何より強い力を発揮することもある。その柔らかさと戦うことも辞さない覚悟のバランスが、日本を守ってきたのではないか――】
これもやはり、1年以上前の記事である。それから新しい記事はない、だが連載は続いている。
筆者は塚原織衛(つかはら おりえ)。
女性のような名前だが、確か男性だったはずだ。どことなくレトロな雰囲気のある名前で、文章も固い。
沙羅は彼の文体から、体格の良い武士をイメージしていた。
元々仕事の出来る沙羅である。
集中してやればあっという間に仕事は終わった。
後輩がミスをし、それを手伝う。彼女は真面目な性格で、何度も「すいません」と頭を下げていた。
「皆で仕事をしているわけだから、大丈夫。私もミスは今でもあるの」と言い彼女の背中を押す。
給湯室では石井が「めんどくせえ」と女性社員と愚痴を言いあっている。
「また守屋に……」
押し付けるつもりだ。
沙羅はそうと気付き、石井が名前を出した瞬間に扉を開けた。
笑われないように、自分を守る為に、毅然とした態度を。
彼と女性社員の目が沙羅を見ると丸くなった。
「あ、お話し中にごめんね。お茶を飲もうと思って」
沙羅の堂々とした態度に、石井と女性社員がこそこそ何か言いながら給湯室を出ていく。
「ねえ、私の話をしてなかった?」
石井の背中に質問をぶつけると、彼は「いや?いつも守屋に手伝ってもらって悪いよな~なんて……」とごまかす。
「そうなんだ。そんなに気にしないで。その代わり、もう無駄に声かけないでね」
石井と女性社員は「何だよ……」と小声で言いながら出て行った。
デスクに戻ると、情けない声が沙羅を迎えた。
「せんぱーい……」
理子がいない時を見計らい、木本が声をかけてきたのだ。
沙羅は彼を見る、手元にはUSB。
「何?」
「その……なんていうか……」
「私、用事があるの。早く言って」
「あの、資料作成を手伝ってもらえたらなぁ……なんて……」
「まだ4時30分じゃない、30分もあるわよ。なんなら残業も出来るし」
「俺だけだと締め切りに……」
「間に合わないのはどうして?」
「……」
木本は引き下がった。
沙羅は仕事を終え、まだパソコンを睨みつけている部長に定時退社を告げた。
「皆まだ残ってるぞ。こういう時は君、手伝うもんだ」
「皆って誰です?」
「皆は……皆だ」
「私はずっと手伝って手伝って、他人の分までやってきました。それに、部長の仕事のサポートもしてきました。結果どうなりましたか?」
今まで黙って従っていた沙羅だったが、この日は引き下がるつもりはなかった。
仕事の出来る人達が残業続きで、石井や木本は仕事をこなさず遊んでばかりいるのだ。
「結果?結果って?」
部長はおろおろと視線をさまよわせた。
本来彼が部下を引っ張らなければならないはずである。
部長は以前、沙羅にとって畏怖の対象だったが、まるで小動物のように見えてしまった。
「残業が伸びて深夜まで仕事をする社員が多いんです。どこかで誰かがはっきり帰宅時間を定めないと、だらだら時間だけが過ぎて作業効率が下がります。会社の電気代もその分かかるんですよ。経費削減、質向上の目標はどうしたんですか?」
声は震えたが、沙羅はぐっと拳を固めて続けた。
「君、エラそうに言うんじゃないぞ。皆が苦しんでるのに、一人だけ楽するなんてダメだろう?」
「なぜ苦しんでいるんですか?」
「な……なぜ?」
「苦しむのは仕事が出来ないから。仕事が出来ないのは仕事の仕方を分かっていないからです。彼らを思うならなぜ指導しないのですか!」
沙羅が言い切ると、理子や先輩がこそっと拍手をした。
が、部長は顔を真っ赤にし、沙羅を指さした。
「き、君、俺に恥をかかせて……冗談じゃない!クビだ、クビ!もう明日から来なくて良い!」
「恥をかいたのは部長自身です、私がかかせたのではありません」
沙羅は背を向け、廊下へ出た。ドアが閉まる前に部長の声が響き渡る。
「は、ハラスメントだ!なんちゅう生意気な……君、坂本!人事にかけあえ、今すぐだ!」
沙羅はその足で崎本の店を目指した。
千代田区、帝国ホテル。その近辺の通りから路地裏に入ればあるはずだった。
「あれ……?」
店なんてどこにもない、シャッターどころか、そこにあるのはテナント募集のかすれたステッカーが貼られた虚ろな空間である。
間違えた?と思い、別の路地裏にも入ったが、店がある通りではない。
どこにも崎本の店はなかった。
「うそー……一体どうして?」
だがその時、奥の方で影が動き、起き上がった。
薄い茶色の髪、小柄なその体つき。
「エドガーさん!」
沙羅が声をかけると、エドガーは目を大きく見開いて言った。
「その名前を知っているということは……俺に会ったんだな?」
表通りのコンビニで弁当と飲み物を買って、エドガー――この時は崎本と名乗った――に手渡す。
彼はものすごい勢いでそれをたいらげ、茶を飲むと説明を始めた。
「あの鏡は女性の願いに反応するんだ」
「エドガーさんもそれを」
「そう。だから、君が向こうから戻ってきたということは、願いが叶ったということだ。何を願ったかは言わなくて良い。とはいえ……」
崎本は沙羅をじっくり見ると、渋面を作る。
「願いが叶った割りには、辛そうだな」
「……大切なものを残してしまった感じがします。向こうって、夢ではないんですか?」
「夢とは違う。そうだな、鏡が作り出した過去の世界とでも言おうか」
「でも現実と繋がっている……そうですよね?」
沙羅はかんざしを取り出し、崎本に見せた。
「その通りだ。タイムトラベルにも似ている」
「似ている?」
「似て非なるものということだ。仏教で何と言ったかな……」
余計に頭がこんがらがりそうだ。だが崎本は丁寧に説明をしてくれる。
「お嬢さん、君がここであの店に入った時に分かった。あの鏡から俺達を解放出来るのは君だけだと。鏡を正しく使ってくれ、じゃないと彼女のようになって……」
ぐらり、と崎本が体をおって頭を抱えた。
「崎本さん。病院へ……」
「いいや、大丈夫。彼女の機嫌を損ねたからだ。良いかい?お嬢さん。鏡は必要とする者の前に現れる。決して偶然じゃない。俺もまた鏡に囚われているもんで、話せるのはここまで……」
崎本はそう言うと、気絶するようにその場に倒れ、そして消えてしまった。
沙羅は今見たものに目を見張ったが、後には車の音が聞こえてくるだけだった。
次の話へ→【鏡中夢幻】 第6話 ※官能シーンあり