「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」
無事に帰国して数日が過ぎたころ。
旬果は頭を抱えていた。スマホがなくなったのである。
それと、今回の出張で得た名刺と手帳。
これではネイサンとも連絡が出来なくなった。仕事や泉とはパソコンの方で何とでもなるが、ネイサンとはスマホだけで連絡先を交換するのみだった。
「……」
まさか、これで彼との縁は終わるなんて、なんとも呆気ない。
(夢のような日々だったと思って、現実に戻らないと)
唯一あの出会いを真実だと告げるネックレスを外し、引き出しにしまう。
これに触れていると、いつまでも彼のことを思い出してしまいそうだ。
全てを終わらせて帰る、と彼は言っていたが、それはいつ?そして、どこへ帰るのか?
その答えを旬果は持っていない。
首が軽くなった。
心にぽっかり穴が開いた気分だった。
「彼女の連絡先を知ってるだろう?」
レオナルドを”始末”した後、アウグストは抜かりなく確認した。
ネイサンは彼女の名刺を差し出す。
「これだけか?」
「個人用まで交換したら面白くない。アヴェンチューラ(恋の冒険)なのだから」
「ずいぶんロマンチックなことをするものだ」
ネイサンはスマホを取り出し、アウグストの側近に渡した。
GPSなどの機能はとっくに消しているが、アウグストはそれを暗黙の了解と見逃している。
しかしネイサンは通話履歴などは確認のため全て残していた。
そこには旬果との連絡先は一切残っていない。
側近は復元を試みるが、それも出来なかった。
「ありません」
「そうか。興味深いことをするじゃないか、ネイサン」
「駆け引きが必要だろう?彼女にとっても面白いゲームになったはずだ」
彼女の名刺に書かれているのは仕事先の連絡先だ。
「お前がパスワードを確認さえすればな」
「悪かったな、埋め合わせはするつもりだ。少なくとも日本に絵画があるなら、ここの警察は手出しできない。ある意味安全だ。それにコンサルタント業の顧客リストは俺のところにある。リヴィアの店も使えば、いくらでも新しいビジネスは出来るだろ」
アウグストはしっかり頷き、いよいよ解散が告げられる。
ネイサンはロッカ・ディ・ルチェを出た。
車を走らせ、山を後にする。
コンサルタント業の仕事をこなし、陽が落ちると革のジャケットにジーンズ、と服を変え、ゴミ運搬車を使って再び山へ入った。
要塞を逸れてくぼみに入る。
そこにあったのは黒のビニールでくるまれた物体である。
ネイサンは懐中電灯を取り出し、砂利を踏みながら近づいていく。
よく眠っているようだ。
ビニールを破ると、眼鏡の男――レオナルドの顔が現れた。
規則正しく寝息を立てていた。薬が回って数時間経つが、なかなかの熟睡ぶりである。
その方が都合が良い。ネイサンは彼を担ぎ上げ、車に乗せて山を下りた。
そのまま地元警察署の近くへ車を止め、レオナルドを下ろし――彼の胸ポケットにUSBメモリーを入れた。
ゴミ運搬車を林に乗り捨てると、用意しておいたバイクで去る。
オテル・パラディソの地下駐車場に入り、工具箱を開いた。
そこにはスマートフォンが一台。
旬果からのメッセージが数件。
返事をしたい思いに駆られたが、今はその時じゃない……ネイサンは彼女の番号ではなく、進藤に連絡を取った。
「はい、もしもし?」
すぐに応答がある。
「もうすぐヴィットリオと接触する。彼はどんな男だ?」
「スキンヘッド、身長は2メートルくらい、傷痕だけじゃなくて入れ墨があります。クロスと聖母マリアの。あとで画像を送ります」
「分かった。そろそろお前も帰国だな」
「はい」
「高梨さんによろしく」
「かしこまりました。ところで、ヤバイことになりました」
「なんだ?」
「青野さんです。スマホや手帳の類いがなくなったらしく、警察にも大使館にも遺失届が出されたんです」
「なんだと?」
「だから彼女に下手に連絡しない方が良いっす。……田中もあんなだし、絵画はあちこち、無事に素通り。高梨さんも大原綾香の事務所に連絡を入れようとしたんですけど、他の仕事が回ったらしくて。……田中は目先のことしか考えられないんすよ、長期的な仕事が出来ない。その分手柄も立てやすいから目立つんでしょうけど」
進藤の言葉の端々に嫌味が含まれていた。
絵画が素通り?
「だが、素通りってどういうことだ?荷物検査は?」
「よくある奴っす。海外って管理がズサンなんですよ。あげく送り主・送り先は一緒だから良いだろうって、中身とタグが一致しなかったんです。それに、クソ田中は『黄金の……』までは聞こえたけど、そこからが聞き取れなかったらしくて」
「だったら聞き返せば……すまない、お前に言う事じゃなかった」
ネイサンは眉をきつく寄せたが、とにかく指示を出した。
「……絵画の端だが写真がある。金箔か、金の塗料で描かれているのが特徴だ。あとで画像を送る」
「はい。女性の絵ですね?」
「ああ……黄金のベアトリーチェだ。正式名称ではないが、仮のタイトルはそのはず。頻繁に連絡出来るわけじゃないんだ、お前だけが頼りだよ、進藤」
「はい。しっかり、やります」
通話を切り、ネイサンは思わず額を押さえた。
旬果は連絡手段を失ったのだ。どこで?いつ?
唯一の手掛かり、その大きなカギを彼女が握っていたというのに。
誰もいなくなった古城は、小さな物音ひとつ大きく響かせる。
石は空気に冷たくなっていた。
アウグストは一人腰掛け、脚を組むと胸ポケットからスマホを取り出す。
日本語の文字の羅列……組織の中でハッキングに長けた人物がいる。
彼はマッテオの技術には及ばなかったが、一般人程度のセキュリティーはすぐに解除できる。
日本語の文字の羅列は分からないが、すぐに明らかになるだろう。
空港へ向かうアートバイヤーを見かけ、急に思いついたのだ。彼女の情報を盗めばいい。
アウグストはすぐに部下に命じ、彼女のスマホを盗ませた。
「平和に暮らすウサギは狩るのも簡単なものだ」
ルルルルル……と固定電話が鳴る。これは特別な回線を使っているため、盗聴も記録も出来ない。
相手はリヴィアだ。
「ハーイ、アウグスト。あなたの声が聴きたくなったわ」
「それは嬉しいね。何か良い事でも?」
「まあね、面白いことになりそう。ところでカテリーナはどう?」
「ああ、よく勤めている。上客からも人気だ……さすが君の秘蔵っ子だ」
「フフ。あの子は特別よ。あなたも散々楽しんだでしょ?」
リヴィアは含みを持たせた。アウグストは意図を察し、声を落とすと彼女にささやくように言った。
「ああ……極上だよ。カテリーナは」
一瞬間があき、それからリヴィアのくすぐるような笑い声。
「ならいいわ。あなたは好みにうるさいから、気に入る子にしつけるのが大変なのよ」
「そんなことはない。美しく、賢く、品があれば良い」
「それが贅沢だって言ってるのよ」
「まあいい。しばらくは退屈しないで済みそうだからな。君のお陰だ」
「お誉めに預かり光栄だわ、私のご主人様」
耳を舐めるような蠱惑的な響きを持つリヴィアの声を聞きながら、手元のスマホを操る。
「悪くないウサギだ」
アーモンド形の凛とした目が気に入った。ネイサンは彼女の色んな表情をとっくに味わったのだろう。
「何か言った?」
「いいや……何も」
大原綾香の経営するアート事務所は紹介制だそうだ。顧客のプライバシーを守るためにも悪くない。
何より質のよい客を集められる方法だ。
だが今はそれが恨めしい。ネイサンからの連絡は一切無視されている。
こうなったら進藤達に頼るほかないだろう。
だが、旬果がスマホをなくすなど。
慎重な性格の彼女だ、このタイミングで失くすなど、あまりに都合がよすぎる。
あるとすればアウグストだ。部下に命じて盗ませた。ネイサン自身が彼女に渡した名刺もだろう。
でなければ、スマホに何らかの連絡がないのはおかしい。
残された彼女のメッセージはわずかだ。
『また会いたい。日本へ来るときは知らせて下さい』
控えめな文章。
額を支えるようにしていたネイサンは、深く息を吐きだした。
(進藤ならうまくやるさ)
だが、もし――ほぼ確定だが――アウグストが彼女のスマホを持っているのなら、情報はすっかり抜き取られているだろう。
トン、と音を立てて目の前にグラスが置かれた。
顔をあげればロマンスグレーの、黒ぶちの眼鏡をかけた老紳士。
オテル・パラディソの支配人だ。
「ずいぶん深刻そうだね」
グラスには、ネイサンの目と同じアンバーの液体が注がれていた。シングルモルト・ウイスキーである。
オテル・パラディソの喫茶スペースは夜にはバーとなる。ネイサンはここを気に入っていた。そして今夜、バーテンダーはいなかった。支配人と二人である。
「おごるよ」
「……ありがとうございます、支配人」
「あの子は良いのかい?」
「連絡が……出来なくなったんだ」
「慎重な君が、そんなミスを?」
と、支配人は目を見開き、呆れたように肩を持ち上げた。
「一体どうしたんだ?」
「俺が聞きたいくらいです。何とかなるはずだが……間に合うかどうか」
ネイサンはフーッと息を吐きだした。
警察と大使館に連絡をしているなら、彼女はメルアド等はすでに変更などの処置をしているはずだろう。
だが仕事先は?
アウグストが彼女のスマホを押さえてしまったなら、彼女とその周囲を保護せねばならない。
ネイサンは進藤にそれを送った。
彼女の事務所、仕事先……どこまで掴まれただろうか?
「全く……」
「よほど大事なのかい?」
「かなり……ここからじゃ動くに動けない」
「仲間がいるんだろう?信頼しちゃあどうだい」
支配人の言葉に頷く。
胸はざわつくが、焦りは禁物だ。
ネイサンはウイスキーを飲み干すと、自宅へ帰った。
森の木々が半分近く覆いかぶさっている、3階建ての中古物件だ。一軒家のため駐車場がかなり広く、Macelteや中古で集めたバイクが3台並んでいる。
中古のため多少寂れているが、造りは頑丈だ。外壁にはレンガが丁寧に並べられ、色は統一されている。当時はかなり金をかけたのだろう。
駐車場から生活スペースである2階へ上がった。
自宅はとっくにアウグストにより、盗聴器とどこかにカメラが設置されているだろう。
ネイサンはあえて外さないまま暮らしている。アウグストの信用を得るためだ。
ダークブラウンの木材の床の上に、ブラックの革張りソファ。そこに腰を下ろした。
腕を見れば彼女に贈られたブレスレット。
スマホには彼女からのメッセージ。
「……」
アウグストはすぐに解析を始めるだろう。そうすれば旬果との間にあったメッセージのやり取りも、通話も、把握されるだろう。
一つの嘘がバレたわけだ。
サイトを楽しめた方も、お礼特典が気になる方も、いつでもお気軽にどうぞ。
「OFUSEへのチップはクリエイター支援に特化していますが、支払方法はほぼStripeです」
何が手に入るのかはこちらをどうぞ↓
OFUSEについてはこちらをどうぞ。
From now on, the thank-you gifts for tips will become a permanent feature.
Unless there are events, you can get this password anytime.
Whether you enjoyed the site or are curious about the thank-you gifts, feel free to participate anytime.
"Tips on OFUSE are specifically for supporting creators, and the payment method is mostly through Stripe."
Here's what you can get.
Introducing the contents of the thank-you benefits for tipping.
Here's more about OFUSE.
OFUSE is a tool for fans to support their favorite creators with tips.
"Currently, 100 Japanese yen is equivalent to 0.66 USD. This rate fluctuates daily, so please use it as a reference."