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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第9話

2024-07-20

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 無事に帰国して数日が過ぎたころ。
 旬果は頭を抱えていた。スマホがなくなったのである。
 それと、今回の出張で得た名刺と手帳。
 これではネイサンとも連絡が出来なくなった。仕事や泉とはパソコンの方で何とでもなるが、ネイサンとはスマホだけで連絡先を交換するのみだった。
「……」
 まさか、これで彼との縁は終わるなんて、なんとも呆気ない。
(夢のような日々だったと思って、現実に戻らないと)
 唯一あの出会いを真実だと告げるネックレスを外し、引き出しにしまう。
 これに触れていると、いつまでも彼のことを思い出してしまいそうだ。
 全てを終わらせて帰る、と彼は言っていたが、それはいつ?そして、どこへ帰るのか?
 その答えを旬果は持っていない。
 首が軽くなった。
 心にぽっかり穴が開いた気分だった。

「彼女の連絡先を知ってるだろう?」
 レオナルドを”始末”した後、アウグストは抜かりなく確認した。
 ネイサンは彼女の名刺を差し出す。
「これだけか?」
「個人用まで交換したら面白くない。アヴェンチューラ(恋の冒険)なのだから」
「ずいぶんロマンチックなことをするものだ」
 ネイサンはスマホを取り出し、アウグストの側近に渡した。
 GPSなどの機能はとっくに消しているが、アウグストはそれを暗黙の了解と見逃している。
 しかしネイサンは通話履歴などは確認のため全て残していた。
 そこには旬果との連絡先は一切残っていない。
 側近は復元を試みるが、それも出来なかった。
「ありません」
「そうか。興味深いことをするじゃないか、ネイサン」
「駆け引きが必要だろう?彼女にとっても面白いゲームになったはずだ」
 彼女の名刺に書かれているのは仕事先の連絡先だ。
「お前がパスワードを確認さえすればな」
「悪かったな、埋め合わせはするつもりだ。少なくとも日本に絵画があるなら、ここの警察は手出しできない。ある意味安全だ。それにコンサルタント業の顧客リストは俺のところにある。リヴィアの店も使えば、いくらでも新しいビジネスは出来るだろ」
 アウグストはしっかり頷き、いよいよ解散が告げられる。
 ネイサンはロッカ・ディ・ルチェを出た。
 車を走らせ、山を後にする。
 コンサルタント業の仕事をこなし、陽が落ちると革のジャケットにジーンズ、と服を変え、ゴミ運搬車を使って再び山へ入った。
 要塞を逸れてくぼみに入る。
 そこにあったのは黒のビニールでくるまれた物体である。
 ネイサンは懐中電灯を取り出し、砂利を踏みながら近づいていく。
 よく眠っているようだ。
 ビニールを破ると、眼鏡の男――レオナルドの顔が現れた。
 規則正しく寝息を立てていた。薬が回って数時間経つが、なかなかの熟睡ぶりである。
 その方が都合が良い。ネイサンは彼を担ぎ上げ、車に乗せて山を下りた。
 そのまま地元警察署の近くへ車を止め、レオナルドを下ろし――彼の胸ポケットにUSBメモリーを入れた。
 ゴミ運搬車を林に乗り捨てると、用意しておいたバイクで去る。
 オテル・パラディソの地下駐車場に入り、工具箱を開いた。
 そこにはスマートフォンが一台。
 旬果からのメッセージが数件。
 返事をしたい思いに駆られたが、今はその時じゃない……ネイサンは彼女の番号ではなく、進藤に連絡を取った。
「はい、もしもし?」
 すぐに応答がある。
「もうすぐヴィットリオと接触する。彼はどんな男だ?」
「スキンヘッド、身長は2メートルくらい、傷痕だけじゃなくて入れ墨があります。クロスと聖母マリアの。あとで画像を送ります」
「分かった。そろそろお前も帰国だな」
「はい」
「高梨さんによろしく」
「かしこまりました。ところで、ヤバイことになりました」
「なんだ?」
「青野さんです。スマホや手帳の類いがなくなったらしく、警察にも大使館にも遺失届が出されたんです」
「なんだと?」
「だから彼女に下手に連絡しない方が良いっす。……田中もあんなだし、絵画はあちこち、無事に素通り。高梨さんも大原綾香の事務所に連絡を入れようとしたんですけど、他の仕事が回ったらしくて。……田中は目先のことしか考えられないんすよ、長期的な仕事が出来ない。その分手柄も立てやすいから目立つんでしょうけど」
 進藤の言葉の端々に嫌味が含まれていた。
 絵画が素通り?
「だが、素通りってどういうことだ?荷物検査は?」
「よくある奴っす。海外って管理がズサンなんですよ。あげく送り主・送り先は一緒だから良いだろうって、中身とタグが一致しなかったんです。それに、クソ田中は『黄金の……』までは聞こえたけど、そこからが聞き取れなかったらしくて」
「だったら聞き返せば……すまない、お前に言う事じゃなかった」
 ネイサンは眉をきつく寄せたが、とにかく指示を出した。
「……絵画の端だが写真がある。金箔か、金の塗料で描かれているのが特徴だ。あとで画像を送る」
「はい。女性の絵ですね?」
「ああ……黄金のベアトリーチェだ。正式名称ではないが、仮のタイトルはそのはず。頻繁に連絡出来るわけじゃないんだ、お前だけが頼りだよ、進藤」
「はい。しっかり、やります」
 通話を切り、ネイサンは思わず額を押さえた。
 旬果は連絡手段を失ったのだ。どこで?いつ?
 唯一の手掛かり、その大きなカギを彼女が握っていたというのに。

 誰もいなくなった古城は、小さな物音ひとつ大きく響かせる。
 石は空気に冷たくなっていた。
 アウグストは一人腰掛け、脚を組むと胸ポケットからスマホを取り出す。
 日本語の文字の羅列……組織の中でハッキングに長けた人物がいる。
 彼はマッテオの技術には及ばなかったが、一般人程度のセキュリティーはすぐに解除できる。
 日本語の文字の羅列は分からないが、すぐに明らかになるだろう。
 空港へ向かうアートバイヤーを見かけ、急に思いついたのだ。彼女の情報を盗めばいい。
 アウグストはすぐに部下に命じ、彼女のスマホを盗ませた。
「平和に暮らすウサギは狩るのも簡単なものだ」
 ルルルルル……と固定電話が鳴る。これは特別な回線を使っているため、盗聴も記録も出来ない。
 相手はリヴィアだ。
「ハーイ、アウグスト。あなたの声が聴きたくなったわ」
「それは嬉しいね。何か良い事でも?」
「まあね、面白いことになりそう。ところでカテリーナはどう?」
「ああ、よく勤めている。上客からも人気だ……さすが君の秘蔵っ子だ」
「フフ。あの子は特別よ。あなたも散々楽しんだでしょ?」
 リヴィアは含みを持たせた。アウグストは意図を察し、声を落とすと彼女にささやくように言った。
「ああ……極上だよ。カテリーナは」
 一瞬間があき、それからリヴィアのくすぐるような笑い声。
「ならいいわ。あなたは好みにうるさいから、気に入る子にしつけるのが大変なのよ」
「そんなことはない。美しく、賢く、品があれば良い」
「それが贅沢だって言ってるのよ」
「まあいい。しばらくは退屈しないで済みそうだからな。君のお陰だ」
「お誉めに預かり光栄だわ、私のご主人様」
 耳を舐めるような蠱惑的な響きを持つリヴィアの声を聞きながら、手元のスマホを操る。
「悪くないウサギだ」
 アーモンド形の凛とした目が気に入った。ネイサンは彼女の色んな表情をとっくに味わったのだろう。
「何か言った?」
「いいや……何も」

 大原綾香の経営するアート事務所は紹介制だそうだ。顧客のプライバシーを守るためにも悪くない。
 何より質のよい客を集められる方法だ。
 だが今はそれが恨めしい。ネイサンからの連絡は一切無視されている。
 こうなったら進藤達に頼るほかないだろう。
 だが、旬果がスマホをなくすなど。
 慎重な性格の彼女だ、このタイミングで失くすなど、あまりに都合がよすぎる。
 あるとすればアウグストだ。部下に命じて盗ませた。ネイサン自身が彼女に渡した名刺もだろう。
 でなければ、スマホに何らかの連絡がないのはおかしい。
 残された彼女のメッセージはわずかだ。
『また会いたい。日本へ来るときは知らせて下さい』
 控えめな文章。
 額を支えるようにしていたネイサンは、深く息を吐きだした。
(進藤ならうまくやるさ)
 だが、もし――ほぼ確定だが――アウグストが彼女のスマホを持っているのなら、情報はすっかり抜き取られているだろう。
 トン、と音を立てて目の前にグラスが置かれた。
 顔をあげればロマンスグレーの、黒ぶちの眼鏡をかけた老紳士。
 オテル・パラディソの支配人だ。
「ずいぶん深刻そうだね」
 グラスには、ネイサンの目と同じアンバーの液体が注がれていた。シングルモルト・ウイスキーである。
 オテル・パラディソの喫茶スペースは夜にはバーとなる。ネイサンはここを気に入っていた。そして今夜、バーテンダーはいなかった。支配人と二人である。
「おごるよ」
「……ありがとうございます、支配人」
「あの子は良いのかい?」
「連絡が……出来なくなったんだ」
「慎重な君が、そんなミスを?」
 と、支配人は目を見開き、呆れたように肩を持ち上げた。
「一体どうしたんだ?」
「俺が聞きたいくらいです。何とかなるはずだが……間に合うかどうか」
 ネイサンはフーッと息を吐きだした。
 警察と大使館に連絡をしているなら、彼女はメルアド等はすでに変更などの処置をしているはずだろう。
 だが仕事先は?
 アウグストが彼女のスマホを押さえてしまったなら、彼女とその周囲を保護せねばならない。
 ネイサンは進藤にそれを送った。
 彼女の事務所、仕事先……どこまで掴まれただろうか?
「全く……」
「よほど大事なのかい?」
「かなり……ここからじゃ動くに動けない」
「仲間がいるんだろう?信頼しちゃあどうだい」
 支配人の言葉に頷く。
 胸はざわつくが、焦りは禁物だ。
 ネイサンはウイスキーを飲み干すと、自宅へ帰った。
 森の木々が半分近く覆いかぶさっている、3階建ての中古物件だ。一軒家のため駐車場がかなり広く、Macelteや中古で集めたバイクが3台並んでいる。
 中古のため多少寂れているが、造りは頑丈だ。外壁にはレンガが丁寧に並べられ、色は統一されている。当時はかなり金をかけたのだろう。
 駐車場から生活スペースである2階へ上がった。
 自宅はとっくにアウグストにより、盗聴器とどこかにカメラが設置されているだろう。
 ネイサンはあえて外さないまま暮らしている。アウグストの信用を得るためだ。
 ダークブラウンの木材の床の上に、ブラックの革張りソファ。そこに腰を下ろした。
 腕を見れば彼女に贈られたブレスレット。
 スマホには彼女からのメッセージ。
「……」
 アウグストはすぐに解析を始めるだろう。そうすれば旬果との間にあったメッセージのやり取りも、通話も、把握されるだろう。
 一つの嘘がバレたわけだ。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第10話

 

 

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  • この記事を書いた人

深月カメリア

ライター:深月カメリア 女性特有の病気をきっかけに、性を大切にすることに目覚めたXジェンダー。以来、性に関して大切な精神的、肉体的なアプローチを食事、運動、メンタルケアを通じて発信しています。 Writer:Camellia Mizuki I am an X-gender woman who was awakened to the importance of sexuality by a woman's specific illness. Since then, I've been sharing an essential mind-body approach to sexuality through diet, exercise, and mental health care.”

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