「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」
彼女を乗せた飛行機が飛んでいく。
それを見届けるとネイサンは呼び出されるまま、車で古城「ロッカ・ディ・ルチェ」へ入る。
山の中腹に立つこの古城は、入口が分かりづらく中も迷路状態になっている。
それもそのはず、ここは要塞なのだから。
跳ね橋を越えると、ネイサンは車を止め、そこから歩いて城内へと進んだ。
石造りの壁に囲まれた廊下は影が伸びて薄暗く、足音が響く。
廊下を進むと、豪華な装飾が施された大広間にたどり着いた。
平たい一枚岩、それを囲うように細工された石が規則正しく並べられた床。
柱はギリシャ神殿を思わせるもので、騎士が彫られている。
ここはかつて、王が訪れた時騎士たちが御前試合をするため使われた広間だ。
だからなのか、今でもその剣戟の音が聞こえそうな緊張感が漂っている。
ここで彼を待っていたのは、アウグストとその側近たちだ。
アウグストはいつも変わらず隙のない佇まいである。品のあるブラックのスーツ。黒のシャツに滑らかに光沢があるネイビーのネクタイ。
その威厳ある姿はまさにこの城の主に相応しいものだった。
揃いのブラックスーツを着た側近たちの腕には、男女問わず例の切り傷があり、それがクラネ・ジェーロ、ひいてはアウグストへの忠誠を示している。
ネイサンは腕まくりをした。そこには、彼らと同じく3本の線。真ん中がやや長く、氷を連想させるものになっている。
ブレスレットが揺れ、傷痕を叩いた。
「一応、聞いておこうか。首尾はどうだった?」
ネイサンは彼を見据えるとスマートフォンの画像を彼に見せる。
「顧客のパーティーに部下を忍ばせただろう? おかげでぶち壊しになるところだった」
「ああ。奴か……何かヘマを?」
「その通りだ。顧客どもは上流階級の人間だぞ。ホテルで何かあれば一気に警察が駆け込み、俺も、俺の部下も捕まるところだった」
「フン。それで、奴はどうしたんだ?」
「救急車に乗って静かにムショ行きだ」
進藤に指示した通り、彼は警察に連絡し、そこから救急車を寄こしてもらってアウグストの部下を逮捕させたのだ。
こうすれば騒ぎは小さくなり、事件性はなくなる。
「考えたな。お前のそういうところが気に入ってる。だが、あのベアトリーチェはどうしたんだ。あれがないとこのパソコンは開かない。このままじゃ、仕事もままならない。警察に見つかれば、私たちは終わりだ」
アウグストはデスクの上のノートパソコンを指さす。
幹部であったマッテオの持ち物だ。
彼はクラネ・ジェーロの顧客情報、今まで関わった事件、武器密輸、犯罪行為、裏帳簿、とありとあらゆる情報をそこに記録していた。しかし彼は裏切りを工作し、警察にその情報を売る代わりに便宜を図ってもらおうとしたのである。
裏切りに気づいたアウグストは彼を始末したまでは良いが、肝心のパスワードは隠されてしまった。
盗聴器を確認したところ、彼が最後に通話した相手は警察官。
「パスワードは絵の裏に書いた!もうすぐ殺される、早く助けてくれ!」
と、恐れに震える声が残されていたのだ。
運が悪く、マネーロンダリングのため絵画を売りに出すタイミングだった。
数枚の絵が売りに出され、その中の一つがあの金箔のベアトリーチェである。
マッテオが倒れていた位置と、売りに出されたタイミングから、あの絵こそがパスワードを隠すものだと知った時には日本人アートバイヤーの手に渡ったと知らされた。
「……完全に失敗だった。船便の出るタイミングを読み違えたんだ」
「ほーう、失敗だったと。ハニートラップを仕掛けるから彼女を殺すのはやめろと言ったお前が」
「日本の警察は優秀だ。事故に見せかけての殺人はすぐに見抜くさ。外国まで敵に回せばさすがに厄介だろう」
「それはそうだ。だから任せたんだ。実際ずいぶん仲が良さそうだったじゃないか?ナテオ、そのエキゾチックで魅惑的な容姿で、女一人手懐けるのは容易だと思ったのに、なぜ、絵画一枚、奪えない?」
アウグストの目が厳しい光を宿す。
ネイサンは言葉の代わりに、視線を返した。ただ静かに彼を見据える。
沈黙が降り、側近たちがそわそわと体を揺らし始めた。
やがて側近がアウグストに耳打ちする。
その間、二人は一瞬も目を逸らさなかったが、ついにアウグストが口を開いた。
「……そうそう。ホテルに忍ばせた奴だが、裏切者がいる、と最後に言い残したんだ」
アウグストが脚を組み換え、知的な額を軽く撫でた。
「ナテオ、お前、心当たりはあるか?」
ネイサンは返さない。ただ彼の一挙手一投足を逃さず見ている。
「……フン、まあいい。女に現を抜かすなんて、らしくないな。ナテオ、失敗を償え。始末しろ」
通常下っ端の仕事だが、ネイサンは静かに頷いた。
連れてこられたのは会計のレオナルドだ。
ひょろっとした眼鏡の男で、どんくさく無害そうな男である。
「警察官だそうだ。奴らの世話もしてやってるというのに、とんだ裏切りじゃないか」
アウグストは側近たちに目をやった。皆アウグストに合わせて渇いた笑い声を立てる。
「皆が皆、そうじゃない……俺たちを舐めるな!」
レオナルドの声は意外なほどはっきりと力強い。
ネイサンは彼を見た。
「警察連中への見せしめだ。いくらでもわめけば良い。どうせすぐインフェルノに行くのだから」
「お前こそ!」
レオナルドは言い返し、アウグストに唾を吐きかけた。
アウグストの頬にそれがかかる――アウグストはハンカチを取り出すとそれをふき取り、レオナルドに近づくと彼の口にそれを突っ込んだ。
「なかなかいい根性をしている。惜しい人材だったな」
レオナルドは顔を真っ赤にし、目を充血させた。このままだと窒息死だ。
「アウグスト。死因はごまかせないぞ」
ネイサンが静かに言えば、アウグストはフッと笑ってハンカチを取り出した。
「これが死因じゃつまらない、見せしめだからな。ナテオ、任せた」
中庭に出る。アウグストと幹部たち、側近が大広間の窓から見おろす中、ネイサンは椅子に縛り付けられたレオナルドを前にした。
レオナルドは涙目にこそなっていたが、落ち着いている。
「ネイサン、最後に一言言わせてくれ」
「好きにしろ」
銃弾を込める。
一つ、二つ、三つ……。
「せめて最後にリヴィアを見たかった」
「冗談だろ?警察官がそんなことを言うのか」
リヴィア、はクラネ・ジェーロの幹部の一人だ。妖艶な美女で、年齢不詳だがアウグストとの付き合いは古いらしい。
今はモナコに住んでおり、ここへは滅多に顔を出さない。……直接には。
「関係ないんだ、彼女のあの目、あの腰……全て美しい。女神ヴィーナスのようだ」
(女神……)
ネイサンはふと旬果を思い出す。
膝の上で裸身をくねらせる彼女の姿は、どんな女神像よりも美しい。
恋をすれば皆似たようなものか、と納得し、ネイサンは頷いた。
「分かったよ。リヴィアに伝えておいてやる」
「本当か!?」
「熱烈なファンがいた、と」
レオナルドは大きくため息を吐く。死ぬ前だというのに、ずいぶん落ち着いている。元から覚悟を決めての潜入捜査だったのか。
「レオナルド。今更だが、お前を好きになった」
そう言うと、ネイサンは引金を引いた。