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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第17話

2024-09-14

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 旬果が聞いたのは、ネイサンは捜査のためまだイタリアへ残るということだけだった。
 細かい情報などが入ってくるわけがない。
 マンションでの暮らしにも、進藤という「護衛」の存在にも慣れて来たものの、あれから一切ネイサンのことを知ることが出来ない状況にやきもきする。
 バレエの練習は続けているが、集中出来ていない。気持ちの整理がつかないままだ。
 そしてその情報がもたらされたのは、ほんの偶然だった。
「えっ、安東先輩が?」
 マンションから出ていく進藤の忘れ物に気づき、彼を追って外に出た時だった。
 安東といえばネイサンの本名、その名字である。それもイタリア語での会話。
 どきっとした旬果は、とっさに隠れて立ち聞きした。
「本当か? どこで? 容体は?」
 かなり緊迫した声に、内容。
「冗談だろ。一体誰が彼を撃ったんだ?」
「撃った?」
 思わず旬果は飛び出した。
 進藤は振り向き、見開かれた目で旬果を見た。
「どういうこと?彼に何があったの?!」
「お、落ち着いて下さい、青野さ……」
 目には涙が溜まってくる。
 いつからこんなに泣き虫になったのだろうか。
 進藤の顔が見えなくなった時、肩をぽんと叩かれた。
「落ち着いて、青野さん。一命は取り止めましたから」
 声と立ち姿からして、高梨だろう。旬果は振り返ると涙をぬぐう。
「撃ったって……」
「その通り。撃たれました。でも無事です、今は病院にいますよ。容体は安定していますから、そのうちに目覚めるでしょう」
「良いんですか?高梨さん」
「こうなったら話した方がお互いのためだと思うよ。彼女も関係者なんだし」
 二人はそう相談し、旬果に向き直した。
「話せるのは彼のことだけですが」
「はい……」
 高梨の話によると、ネイサンが撃たれたのは3日前。
 今は現地の病院に入院中で、意識は戻っていないのだという。
「そんなにひどい状態だったのですか?」
「3発撃たれたようです。いずれも致命傷は避けていましたが、いかんせん場所が場所でした。街はずれの教会で、救急車が着くまでに2時間近くかかる。出血量が多かったようです。ここまでは良いかな」
 旬果は血の気が引くのを感じたが、手をぎゅっと握ると頷いた。
「輸血も済んでいますし、もう心配することはないそうです」
「撃った相手は……」
「もちろん追っています。だが相手は神出鬼没です。プライベートが一切明かされないので、どこに潜むかすら特定出来ないでいるんです」
「危険なのでは……」
「そう、危険だ。だからあなたにはここで保護される理由がある。イタリアへ行くなんて考えちゃいけませんよ」
 旬果は喉を掴まれた感覚を持った。
 一瞬、その決意を固めてしまったのだ。
「私は足手まといに……」
「言い方は悪いですが、実際その通りです」
「ごめんなさい……」
「いえ、責めているのではありません。あなたが絵画を手に入れたことで、事件解決に王手をかけられたんですから。感謝していますよ。でも、だからこそ狙われているという事実がある、それだけなんです」
 高梨の説得はまるで不思議だ。淡々と事実を告げながら、人を安心させるものがあった。
 旬果が顔をあげると、高梨はまっすぐに見つめてこう言った。
「つまり……落ち着くまで、ここで僕たちに守られていて欲しいんですよ」
 と、どことなく甘い笑みを浮かべながら。
「……わかりました」
「彼は大丈夫ですよ。誰よりあなたが信じてあげないと」
「はい……」
 旬果はようやく落ち着き、体温が戻ってくるのを感じた。
 マンションの部屋に戻り、二人が警察署へ戻るのを見送る。
 疲れが押し寄せてきたが、首に下げたネックレスを一度だけ撫でる。
 今彼のために出来ることはない。
 なら目の前のことをやるしかないのだ。
 もしかしたら、それが彼に届くかもしれないじゃないか。
 今やSNSでも何でも、世界中に色んな情報が伝わる世の中だ。
 セーラの主催者はあのロレンツォだった。
 もしかしなくてもイタリアへ届くだろう。
 覚悟を決めた次の日、仕事先では、ダンテ神曲展の報告書をまとめ終える綾香が言った。
「罰を受ける煉獄を通り抜けたら、ダンテは敬愛する師、ウェルギリウスと別れるのよね。仕方ないわ、永遠に人の後を追うことは出来ない。人にはそれぞれ進むべき道があるものね」
「それぞれの……」
「そうよ。他人がまぶしく見えることもあるけど、でも真似ることは結局出来ない。あたしの選ぶ作品と、あなたが選ぶ作品は違う。あなたのバレエが唯一無二であるように、他の子のバレエも唯一無二よね。誰かに導いてもらったらハズレがない気がするけど、それだと行くべきところへは決してたどり着けない」

 

 ウェルギリウスは天国の一歩手前で姿を消した。
 彼には彼の楽園があるはずだろう、ネイサンはそう考えた。
 天国、極楽、神の国、色んな表現があるものだ。
 ネイサンはこれという特定の宗教を持っているわけではないし、神社の鳥居も、仏教でいう極楽往生も、教会の天国観もどれもなべて「そういうものらしい」と見ている。上下の別はない。
 だからウェルギリウスが消えても、彼には彼の行くべき世界があるのだろうというくらいにしか考えていなかった。
 だが榎原に対してはどうだろう?
 あの時、旬果と出会ったあの夜のバレエを見て、どう思っていたか。
 榎原を思い出し、ある種の罪悪感を蘇らせなかったか?
 自分を狙った逆恨みの凶行。
 なんということはないと思っていた、コンビニ強盗、その逮捕。
 出所後にまさか、殺人を考えるなど。
 怪我をした自分の代わりに、見回りを請け負った榎原。あと数年で退官というところでまさかの殉職。
 人を導いたウェルギリウスがパラディ―ソへ行けなかったように、彼もまた人を導いたのにあんな形で人生を終えるなど。
 彼は言った。運が良かった、と。これで良かった、と。
 ネイサンにはそう思えなかった、彼なら新人をもっと導ける。そのために必要なヴィジョンを持っていた。
「街行く人一人一人は、笑顔の裏にたくさんのものを抱えている。だからこそ守る価値があるのだ」
 と。
 決して自分の正義感に溺れて人を貶めるのではなく、人を守る為に行動するように。
 悪を追うのではなく、自分の良心を信じろ。お前はけだものじゃない……その意味が分かるまでに、ネイサンはこれだけの時間をかけてしまった。
 旬果との出会いがなければ理解出来ない感情だった。
 青臭い自分より、彼がいた方が、警察組織にとってどれだけ有益だろうか……。
 ここは夢の中だ、ネイサンはそれを知っていた。
 知りながら彼の背中を追う。
 白髪交じりの小さな背中。
 あれほど大きいと感じていた榎原の背中が、今は小さく見える。
 だがしゃんとして、迷いを見せないきれいな背中だった。
 彼に憧れていた。
 何も言わない榎原の後を追い、彼の足が止まると自分もまた歩みを止めてしまう。
 榎原が一度だけ振り返り、先を指さした。
 向こうへ行け、とばかりに。
 ネイサンは断ろうとした。だが、体は勝手に動き出す。
 あっちへ行かなければならない。
 すれ違いざま、榎原に敬礼する。
 そして前を見て、振り返らないまま進む。
 ネイサンを迎えたのはオテル・パラディソのあの部屋だった。

 

「病院は今、警察官でいっぱいですよ。だから必要なものを集めてこちらに」
 ロッカ・ディ・ルチェ爆破からそれほど経っていないためだ。
 間を置かない入院に看護師もあきれ顔だが、そこには安堵の様子が伺える。
「すまない」
「全く、調子に乗り過ぎなんじゃないですか?」
 ずいぶん辛辣な女性看護師だ。
「それは……否定しないが」
「他にも患者さんいるんですよ。もっと穏やかに事件を追えませんか?」
「そうしたいのは山々……」
「自分が怪我したんじゃ、世話ないですよ!」
 看護師は叱りつけ、ネイサンの脚をぱすっと叩いて部屋を出て行った。
 ネイサンは参ったな、と首の後ろをかいた。
 続いて、廊下で待っていたらしい支配人が顔を出す。トレーにはコーヒーとホットサンド。たまらない組み合わせだ。
「死にかけたね」
「……はは」
「アウグストのことは何か分かったかい?」
「行く当てがないから自由なのだと。本当にそうなら、探しようはない」
「困ったね。でも、一つだけあるよ」
 支配人の言葉にネイサンは身を乗り出し……撃たれた腹部の激痛で声を失う。
「君だよ、君。彼は裏切り者を許さないからさ」
「だとしたら……」
「まあ、僕が分かるのはここまでだなあ」
 置いていくよ、とトレーがベッドサイドボードに乗せられる。
 生ハムの上にはトマト。その上のチーズはとろけ、程よく焼き目のついた食パンはバターを含んでジューシーだ。
 コーヒーは相変わらずかぐわしい。
 ずいぶん味を感じるようになった。
 これが油断なのだろうか?
 コーヒーに手を伸ばし、気が付いた。
 あのブレスレットがない。
 しかしもっと困ったのは、これから3か月間、アウグストの気配はごっそり消え去ることになることである。

 

 3か月が過ぎた。
 イタリアでの捜査も終了。ネイサンは持てる全ての情報をレオナルド達に渡した。
 高梨からも帰国を考えてはどうかと言われている。
 クラネ・ジェーロの幹部やメンバーは皆逮捕された。
 例外はヴィットリオで、彼は妻とともに帰国。その後家族とも再会し、協力の礼として家族も合わせて新しい職場を得ている。
 順調な空気が流れていた。
 旬果に贈られたブレスレットを失った手首を撫でる。
 そうだ、この傷痕ももう必要がない。
 ネイサンはずっと貼り続けていた人工皮膚を剥がした。
 アウグストへの忠誠の証である、六方向に伸びる傷痕はきれいに消えた。これでネイサンはもはやクラネ・ジェーロの支配から逃れたといえるだろう。
 それを見ていたオテル・パラディソの支配人はこう言った。
「女性の愛というものは、見たり、触ったりすることによって燃やし続けなければ、どれほども続かない……ダンテの受け売りさ」
 彼女の元に帰りなさい、という事だろう。
 旬果はクラネ・ジェーロ完全解体を機に保護期間が終了したようで、元の住居へ戻ったようだ。
 結局旬果には正体を明かしていない。高梨か、進藤が告げたのは間違いないが、どんな顔で会えば良いのだろうか。
 そんなことを考えながら、アウグストの銃弾を受けたあの教会を訪れた。
 錆びついた鉄骨、朽ちた木のドアは、年月の経過を物語っている。
 壁に飾られたかつての子供たちの写真。
 少女が多かったようだ。彼女たちももうすっかり大人になっているだろう。
 孫がいる可能性もある。
 なぜアウグストはここに?
 その疑問が解けないまま、薄い青の目の少女の写真を入れた、ロケットペンダントが目に入った。
 祭壇の中に、大切に祀るように置かれていたのだ。
 引き寄せられるようにそれを手にする。
 教会の影にあったためか、ひんやりと冷たく、氷のよう。緑青が浮かぶほどさびている。
 手に乗せると金属の芯のある重みが感じられた。
(似ている……)
 髪の色はやや濃いが、青白いほどの肌の白さ、薄い青の目。
 アウグストに似ている。
 写真の雰囲気から言って3、40年前。
 アウグストに姉妹がいたら、彼女のような容姿だろう。そう思うほどに似ていた。
 バサバサッ、と潜んでいた鳩がカラスに追われて飛び立つ音に、ネイサンは思考を止めた。
 それを戻すことも忘れ、ジーンズに入れたまま日々は過ぎる。
 そして四日後、ネイサンはいよいよ故郷へ飛ぶ飛行機に乗った。
 当然ながらアウグストが気にかかる。
 彼を追うべきだ――そう思う一方で、彼が目指すのは自分自身だ、ということもネイサンは理解し始めている。
 下手に旬果と会えば、危険かもしれない。
 そう考え、彼女に帰国を伝えることが出来なかった。
 今一歩、進むことが出来ない。
 どこかでアウグストが見ている、そんな気がしたのだ。
 久々に見る警察署は妙に小さい。
 高梨達の歓迎を受け、表彰すると約束された。
 3年も留守にしていた、一人で暮らしの官舎に戻る。
 そこは盗聴器の類もない、見張りのない自由な空間。そのはずだった。
 明かりのついていないリビングに入った瞬間に、勘というものが働いた。
(何か違う)
 空気が違う、張りつめた、冷たいものが流れている。
「……いるのか?」
 返事はない。
 その代わりに風が動き、ネイサンの視点を操った。
 スマートフォンだ。
 テーブルの上に置かれた無機物のそれは、シンプルなホワイトの手帳風のカバーがつけられている。
 旬果のもの――そう気づいた瞬間、嫌なものが背筋に走った。
 アウグストが来たのだ!
 窓から外を見るが、そこには誰もいない。
 旬果のスマホが音を立てた。
「!」
 振り返ると着信を知らせるため、画面が明るく光る。
 薄暗い室内の唯一の光。そして軽やかな音楽。
 ネイサンはスマホに手を伸ばす、が、触れないままに画面に彼の顔が映された。
 プラチナブロンド、青白い頬、薄い青の目。
「アウグスト……」
「これは録画だ。もう一度言う、これは録画だ。ネイサン、言っただろう。楽に死ねると思うなよ、と。お前は私の全てを奪った。私もお前の全てを奪ってやろう。ここがどこだかわかるか?ん?」
 アウグストは視点をずらした。街並みが映し出される。
 そこには漢字とひらがなを使った看板、自動販売機、コンビニ……日本の風景だ。
 全身が総毛立つ思いである、彼は日本にいるのだ。
 一体、いつから?
 パスポートの偽造などいくらでも出来る彼だ。出られないわけがなかった。
「ここでセーラが行われるらしいな。ロレンツォとかいう男が率いる、モダンバレエ団の。演目はダンテ神曲だそうだ。日本の将来有望なバレリーナをスカウトに来たのだと。そうそう、今回その演目にとある女性が立つことになったよ。ローザンヌコンクールにも出場した、可愛いウサギだ。バイク事故に遭って脚を折ったそうだが。哀れだな、脚はバレリーナの命だろうに。挫折したバレリーナがこの舞台で復活するのだと、ファンの間では噂になっているよ」
 アウグストはショッピングモールに貼られていたポスターを映し出した。
 そこにはイタリア男性と、日本人女性の姿があった、そう、旬果の。
「なあ、ナテオ。彼女はベアトリーチェを踊るそうじゃないか。感動的だな。夭折したが、地獄に堕ちた恋人を救うために天国で待っていた健気なヒロイン。彼女にぴったりだと思わないか?」
 ネイサンは息を荒くした。彼の狙いが手に取るようにわかる。彼は――
「挫折から復活するバレリーナ、爆破事故により落命。センセーショナルなニュースになるだろう。だが、ベアトリーチェは元々死んでダンテを待っていたんだ、なあ、彼女にぴったりだよ」
 ブツッ、と動画が切れる。
 ネイサンは部屋を出ながらスマホを取った。
「進藤、進藤!アウグストは日本にいる!セーラを狙って事件を起こすつもりだ!」
 着の身着のままバイクに乗り、そのまま夜の東京を走り抜けた。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第18話

 

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COEIROINK:黒聡 鵜月

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  • この記事を書いた人

深月カメリア

ライター:深月カメリア 女性特有の病気をきっかけに、性を大切にすることに目覚めたXジェンダー。以来、性に関して大切な精神的、肉体的なアプローチを食事、運動、メンタルケアを通じて発信しています。 Writer:Camellia Mizuki I am an X-gender woman who was awakened to the importance of sexuality by a woman's specific illness. Since then, I've been sharing an essential mind-body approach to sexuality through diet, exercise, and mental health care.”

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