「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」
爆破事故から数日が過ぎた。
警察側の死者は3名、怪我を負った者がほとんどで、ネイサンも負傷している。動けるため断ったが、病院側はネイサンの治療を強行した。
レオナルドは肋骨を折り、何度目かわからない生死の境をさまよったということだ。
意識ははっきりとしており、見舞いに行くと大げさなほどのため息を吐いて見せる。
同僚たちも初めて会うネイサンに次々挨拶をしてから出ていった。
「情報はいくつか転送に成功してる。あとはすぐに分かるだろ」
レオナルドはそう切り出した。
「幹部の情報すら罠にしたんだな。奴は一体、なんなんだ?リヴィアも……」
「誰も信じちゃいないんだろう」
「そういう世界で生きて来たからか?」
「いいや……そういう世界も人それぞれだよ。中には愛されたくてたまらないヤクザもいたんだ」
「へえ。お前、よーく見てるんだな」
「しっかりしてくれ。アウグスト近辺の連中を逮捕したら、この街の治安がどうなるか……チンピラが調子に乗らないとも限らない」
「それはそうだ。あんたの帰国もあるし、しっかりしないとな。しかし、よく気づいたな。あのノートパソコンが罠だと」
「……アウグストの行動はよく分かるんだ。似てるからだろう」
ネイサンがぽつりと言うと、レオナルドは目を丸くし、ついで吹き出した。
「似てない!全っ然だ!」
病室がレオナルドの笑い声で満ちる。
今度はネイサンが目を丸くする番だった。
「お前みたいなロマンチストが、あの無感情男と似てるもんかよ!」
その頃、刑務所に来客があった。
浮浪者のような恰好、豹を思わせる体つき。目深にまぶったフードの下は薄い青の目。
彼は一人の受刑者の前で止まると、そのフードを取った。
プラチナブロンドの髪、整った顔立ちに刻まれた細かい皺。
「カポ……」
ホテルに忍び、可能なら旬果を拉致するよう指示されたクラネ・ジェーロの下っ端。
ヘマをしたため警備員に見つかりそうになり、ネイサンはひそかに逮捕させたと言っていた。
彼が最後の答えを持っているかもしれない。
「裏切者がいる……そう言ったな」
アウグストの声は鉄格子に冷たく響くようである。
かつての部下は体をびくつかせたが、アウグストの足元にすがるように体を低くした。
「ああ、言った。言ったよ。裏切者がいるんだ、カポが最も忌み嫌う重罪人!」
「それは誰だ?」
「言う、言うよ、もちろん。だからここから出してくれ!カポの一言とカネさえあれば出られるんだ、そうだろ?」
部下の手がアウグストの足首を掴んだ。
アウグストはそれを許せず、彼の首を掴むと持ち上げる。
「今ここで生きるか死ぬかだ。カネ?ヘマをしたお前に誰がカネを出すというんだ。さあ、言え。裏切者の名を!」
突き放すようにすると、部下は喉を押さえてせき込んだ。目には涙が溜まっている。
「言うんだ」
もう一度命じると、部下はうんうん頷いて、忠誠の証である傷痕を見せて来た。
「もちろん……カポ、言うよ。奴は……」
「奴は?」
「奴、奴の名は……」
――ネイサン・ブラックモア
アウグストの中で、全てが調和するような響きがあった。
ネイサン。
彼が旬果を逃がし、パスワードを奪い、そしてパソコンを奪った。
完璧ではないか。彼はまんまと成功している。
それだけか?
あの怖がりなマッテオはどうだった?
ヴィットリオは?
そしてすいぶん上手く動くようになった警察。
もしあの時、ネイサンがレオナルドを助けたとしたら?
全てのつじつまが合う。
「ネイサン……」
「そうだ、ネイサンだよ!あいつ、ずっとカポを裏切ってたんだ!日本の警察官に書類を渡してるのを俺は見たんだ」
部下の声はもはや届かない。
全てが一致した。
アウグストは目に力が入るのを感じる。
そのまま立ち去れば、部下だった男の怒号が背中にぶつけられ始めた。
「なあ!俺はヘマなんかしてないんだ!あいつは俺を見るなり殴りかかって……蝶ネクタイで口をふさがれたんだよ!なんのミスもしてないんだ!おい、カポ!アウグスト!テメエこそ人を奴隷みたいに使いやがって!!!ここから出せよぉ!!」
事件は次から次に解明され、警察内のクラネ・ジェーロの協力者も暴かれた。
街をひっくり返すがごとき大規模な掃除が起きたようなものである。
誰もがひそひそと噂し、やがて静けさが降りて来た。
いつもの日常が始まり、どこか軽やかな気配さえ漂い始める。
ネイサンは自宅にあったカメラと盗聴器を全て取り外した。
肩の荷が下りたような快感と、久々に自由を得た気分。
だが鳩尾に一抹の不安が残っている。
【クラネ・ジェーロ解体!カポのアウグストはどこへ?】
新聞の一面に書かれたそれこそ、ネイサンの本心を現していた。
彼はもうこの街で活動は出来ないだろう。
マフィア系の店はなくなるか規模縮小し、健全に働いていた者たちが日の下を歩き始めたのだから。
レオナルドが言った、教会。
ネイサンは一人そこを訪れた。
西日が最後に照らす場所。
すでに壁の一部はぼろぼろと朽ちており、植物が侵食し始めている。
錆びた鉄骨が見える扉を開き、穴の開いた木の床板を踏む。
ネズミが慌てて逃げだした。
(こんなところにカネを?)
腐った板は柔らかく、これ以上踏めば穴が開いてしまうだろう。
ぐるりと周囲を見渡す。
最低限あったらしい調理器具も、金属製のものはさび、木製のものは腐って欠けている。
だが匂いはマシだ。空気が洗った後のようだ。
踏める板を探しながら、奥へ進む。
壁には写真が飾られており、いずれも孤児のようだ。
養子縁組をしている教会だったのか。
「探し物は見つかったか?」
低い声が背中にかかり、振り返る。
薄い青の目と目が合った。
「アウグスト……」
「なあネイサン。残念だよ、あんなことになって……歴史も案外、もろいな」
「……今までどこにいたんだ?」
「行く当てなど、ないから自由なんだ。知ってるか?土地への愛は自らを地獄に縛り付けるそうだ。いや、土地だけじゃない。全てにおいて、愛は人を弱くする。お前もそうだろ?あのアートバイヤーがお前にミスをさせたんじゃないか。パスワードを奪い取れなかった……」
「リヴィアはどうしたんだ?」
「彼女は裏切り者だろ。まあ、良い。充分役立ってくれたよ。なあ、ナテオ」
アウグストは感情のない声で、ネイサンのニックネームを口にする。
彼は知ったのだ。ネイサンが裏切者だったと。
「残念だ。お前のことは好きだったが、仕方がない」
構えも一切見せないまま、アウグストは呼吸するようにネイサンに引金を引く。
軽い音が3発。
抵抗する暇すらなかった。
熱い血が胸から流れていくのを、ネイサンは他人事のように見下ろした。
息が苦しくなり、その場に倒れ込む。
アウグストがこちらを見下ろしながらスマホを手にした。
「ああ、病院か?人を撃ったんだ。放っておけば数時間で失血死する。迎えに来てやってくれ」
アウグストは淡々と場所を言い、そのスマホをネイサンの体に投げた。
「楽に死ねると思うなよ」
と、やはり感情のないアウグストの声がふりかかる。
やがて視界は真っ暗になった。
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【クレジット】
COEIROINK:黒聡 鵜月
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