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コキュートス 小説

【コキュートス -月下のバレリーナー】第15話

 

「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」

 

 保護のために用意されたマンションは単身者用で、旬果一人には充分だった。
 簡素ながら清潔感があり、何より警察の保護という心強いセキュリティーである。
 ただ不要不急の外出は慎むように言われている。
 出勤にも買い物にも「護衛」がつくということだった。
 元々夜遊びもしないし、泉との連絡も控えるようにしている。それほど苦痛ではないが、問題は期間だ。
 セーラに間に合うだろうか?
 それに何より、ネイサンのことが心配である。
 彼から贈られたネックレスを握り、夜になると迫ってくる不安を抱えて暮らす。
 高梨が言うには、ネイサンは帰還しないとのことだった。
 彼がイタリアでどう過ごし、何をしていたのか、詳しいことは知らない。
 だが彼には何か信念があるのだ、ヴィジョンというものかもしれない。
 信じることしか出来ないのだろう。
「……ネイト…………」
 彼の名前をつぶやくが、一人の部屋に吸い込まれて消えて行った。

 アウグストは行方をくらませていた。
 リヴィアのマンションから出て以来、うまく警察の目をごまかしたらしい。
 リヴィアが何か知っているのではないか、と彼女をマークしているがそれらしい情報は一切ない。
(さすがだな)
 とネイサンは思った。
 ネイサンのビジネスコンサルタントの仕事全てストップがかけられた。
 他の幹部も同様だ。ビジネスが一切出来ないようになっている。
 夜の街を支配するようにライトが光っていたあのカジノ・バー「イル・サント・デッラ・フォルツァ」も、今や光を失くした巨大建造物でしかない。あまりに静かで、その不気味さは街を覆う影のようになっていた。
 幹部たちはじわじわ追いつめられている、証拠が固まると一斉逮捕になるだろう。アウグストはその前に裏切者をあぶりだすつもりだ。
 そのため幹部たちに情報が漏れたことを伝えないようにしているのだ。
 ネイサンは日常を装うために自宅にいるべきかと思ったが、アウグストが部下一同を監視するためにはロッカ・ディ・ルチェにいなければならない。
 そして彼はどこにもいないのだ。
 足はオテル・パラディソに向かった。
 支配人は何も言わずにコーヒーを出した。
「アウグストは姿を消した……」
 ぼそっと言った声は自分でも驚くほど低いものだった。
 ほとんど唸るような声。しかし支配人はそれを気にせず応じる。
「彼を舐めてたのかい」
「そのつもりじゃなかったが、そうなった。……今のは言い訳だ」
「さすがに彼は過酷な環境で生き抜いただけあるよ。そう慰めても、無意味だろう?」
「ああ」
「何を求めている?」
「彼の向かう場所……目的地を。……彼は誰にも心を開かない。プライベートなことは一切知らないんだ」
「彼は君らの全てを把握しているのにね。モナコに行った、というのは聞いたが」
「そこも、彼の居場所じゃないんだ。リヴィアは……」
 死体で発見されたという。
 そこには警察に対してと思われるメッセージが書き残されていた。
【ロッカ・ディ・ルチェで会おう】
 ネイサンは口元を覆った。
「……行けばどうなるか」
「行かない選択肢はないのかい?」
 何度も考えたが、行かずに得られるものなどあるだろうか?
 彼に続く唯一の手掛かりは、ロッカ・ディ・ルチェにあるのだ。
「行かなければ、アウグストは俺たちと会う気を一切なくす……」
「そうなったら全て終わりか」
「なぜ捕まえられない?彼はどうやって監視をごまかした?警察内部に協力者でもいるのか……」
 そういえば、レオナルドが見つかった時にそんな話をしていた。
「チッ」
 忘れていた。そんな自分に思わず舌打ちし、髪をわし掴む。
「……一人だと出来ることは限られる。少し落ち着くように」
「支配人……アウグストのことを知らないか?彼の子供時代とか……」
「いいや、知らないよ。私が知っているのは、別の組織に属し、しかしそこのカポを殺した後、持っていた顧客リストと店を基にここで商売を始めたくらいさ」
 ネイサン自身はすでに顧客リストをレオナルドに渡し、保護を頼んでいる。彼らの安全は確保されたはずだ。
 しかし、アウグスト。
 彼が行くとしたらどこなんだ?
 彼にとっての安息の地は?
 彼のカネはどこへ流れた?
 まるで分からない。
「……行くしかない。ロッカ・ディ・ルチェに」
「そこしかアウグストとの接点がないのなら、仕方ないんだろう。今夜は、あの子が泊まっていた部屋を使うと良い」
 支配人はピンクのリボンがついた鍵を渡した。
 背中は重く、気は焦る。
 部屋に入ると、クチナシの香りが立ち上がる。
 彼女の姿が色鮮やかに蘇るようだ。ネイサンを見つめる目が、声が、肌のぬくもりが、笑顔が。
 ふっと心が軽くなる。

 ――私は愛を知った。でも、お前はまだだからな。これで良かったんだ。

「榎原さん……」
 まだ若い時分のネイサンを導いた警察官。
 彼は迷わなかった。彼の使命は「悪を討つこと」ではなく、「人々の笑顔を守る事」だった。
 彼が知ったという愛とは?薄々だが、わかる気がした。
「……旬果…………」
 ネイサンは腕を見た。
 氷の傷跡に、革と銀のブレスレット。
 今更気づいたが、留め具のチャームには炎が彫られていた。

 次の日、警察車両がロッカ・ディ・ルチェに向かって走った。
 野次馬が何事かと顔を出し、危険だから帰るように、とスピーカーは告げる。
 まるでパレードのような状態の中、浮浪者のような恰好をした男が一人。
 背が高く、無駄のない体つき。まるで豹のようだった。

 

 ネイサンは現地警察官の制服を借り、レオナルドとともにロッカ・ディ・ルチェへ入った。
 主を失い数百年、今度はアウグストをも失った廃城。
 石造りの廊下を進む警察の足音が反響する。ネイサンは手袋をはめ直し、緊張した面持ちで周囲を見渡した。
 地図をもとに全ての出入り口に捜査員を配置したため、アリ一匹通れない。
 ネイサンはレオナルドとともに地下通路を通り、大広間へ至った。
 まるで何もないように、あまりに静かで人の気配がない。
 周囲には埃と蜘蛛の巣がかかり、かつての栄光を思わせる家具が無造作に散らばっている。
 爆破処理班が危険物を調べている中、大理石のテーブルの上にノートパソコンを発見した。
「アウグストがいないな」
 レオナルドは額に汗を結んでいた。
「ああ。ワナだとしたら、張った後があるはずだ」
 ネイサンはアウグストの席に立ち、そこから周囲を見渡した。
 ここから何が見える?
 モンテ・ルチェの街並み。
 そしてカジノ・バー「イル・サント・デッラ・フォルツァ」。
 彼が作り出した栄光の全てだ。
 だが、それだけか?アウグストは何を目指していた?
「総員、髪の毛一本も見落とすな!」
 勇ましい指示が出される中、ネイサンは仕込まれていたカメラを取り出す。
 それからレコーダー、監視カメラ、隠しカメラの映像も、全て揃っていた。
(おかしい……)
 あのアウグストが、こんな情報を置いていくか?
「事件の証拠になる。転送を」
 皆が浮足立ってきた。
 レオナルドも汗をぬぐいながら笑みを浮かべ始めた。
「すごいぞ、幹部たちの情報も完璧に……」
 皆の声が、ネイサンには別世界のもののように聞こえてきた。
 おかしい。
 直感がそれを告げ、大理石の上のノートパソコンに捜査員が手をかけた。
「それは罠だ――!」
 ネイサンの叫び虚しく、開かれるパソコン。
 画面からアウグストの嘲笑と、「開かなければ良かったのに」というセリフが大広間に響きわたる――次の瞬間、ロッカ・ディ・ルチェは爆破された。

 喉を焼く熱さと、嫌な臭い。
 長く城を支えていた石は粉々に吹き飛び、爆発の衝撃で壁や天井が崩れ落ち、古びた建物が一瞬にして瓦礫の山と化した。
 煙と埃が舞い上がり、白い煙が立ち込め視界が遮られる。
 騎士の像が盾になり、ネイサンは無事だった。
 耳鳴りがうるさいが、幸い致命傷はない。
 必死に瓦礫を掻き分け、なんとか体を動かす。
 無線を手に取り、声を振り絞るが、応答はない。周囲には瓦礫と静寂だけが広がっている。
 周囲を見渡し、無線がむなしくジジッとなるのを見た。
「レオナルド!」
 声を出すと喉が焼け切れそうだった。
 彼がこんなことで死ぬわけない……負傷した体を引きずりながら、ネイサンは崩壊したロッカ・ディ・ルチェからの脱出を試みる。彼の目には、まだ希望の光が消えてはいなかった。
「うう……」
 かすかにうめき声が聞こえる。
 ネイサンは声を頼りに瓦礫をかき分けた。
 眼鏡の割れたレオナルドが顔を出す。唇が切れていた。
「大丈夫か!? 今救急を呼ぶ」
「あ、あれが……起爆スイッチ……だったのか」
「多分な。とにかく、全員出してやらないと。レオナルド、生きてるなら手伝えよ」
「ハハハッ……お前、面白い奴だな……俺は肋骨がやられたんだぞ……」
「……じっとしてろ、意識を手放すんじゃないぞ。ドクターヘリも救急車も全部呼んでやる」
 むき出しになった青空は恐ろしいほど平和だ。
 爆破も何もかも知らないような青空。
 ネイサンは鳩が飛んで行くのを見た。
 その先にあるのはカジノ・バーの先。街でもなく、海でもなく、辺鄙な場所。
「ネイサン……いや、アンドー……」
 レオナルドが声を絞り出す。
「爆破の前、見たんだ……アウグスト、奴のカネの流れる先を……」
「何?」
「街はずれの教会さ……もう、僧侶も誰もいないってのに……」
「どこにある?」
「あっちだ……」
 レオナルドが指さす方向は、鳩が飛んで行った先である。
「イル・サント・デッラ・フォルツァ」よりも、まだ西へ。
 ネイサンは西日を真正面にしながら、その方向を見ていた。

次の話へ→【コキュートス -月下のバレリーナー】第16話

 

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