「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」
他の絵画の号は正式にデータとして確認できたが、旬果が提出したベアトリーチェの絵の号は唯一照合されない。
それに油絵に慌てて書かれたようなその文字の羅列はやはりボールペンで、比較的新しい時期に書かれた可能性が極めて高かった。
パスワードを確認できるのは3回まで。そして2回はアウグストが試してしまったため、もうミスは許されない状態である。
進藤がパスワードを告げ、レオナルドはノートパソコンに打ち込んだ。
ついに開かれる――
「すっげえビッグデータでした」
進藤はそう話した。
ネイサンは冷静を保ち頷く。
「それで、どうだった?」
「解析を進めた結果、クラネ・ジェーロが関わった犯罪の証拠がごろごろ出てきましたよ。邦人の名前も特定出来たようです。今から逮捕に向かいます」
「分かった。それと、青野さんとその周囲の状況は?」
「彼女はこちらでマンションを用意し、そこで生活してもらってます。ご家族やご友人、仕事先はそれぞれ地元の警察署が面倒見るって。大原さんも協力してくれたんですけど、緊張が解けたのか夏風邪ひいたらしいです」
「滅多にない話だしな」
さらに上官が交代になった。
今回のことでかつての上官――田中は左遷され、高梨がネイサン達を率いることになったのだ。
「はい。でも一つ気になることがあります」
「なんだ?」
「リヴィア……本名はカテリーナですけど。が、失踪したんです。惜しい事をしました」
「……ああ」
「驚かないですね」
「彼女が逃げ込む先は一つだ。……レオナルドが追っている」
「そうなんですか?じゃあ、そっちへ?」
「ああ」
――リヴィアはイタリアへやってきた。
アウグストに会うためだった。
ロッカ・ディ・ルチェに入った彼女を一同で出迎える。
黒のパーカーにカーゴパンツという、ストリートダンサーのような恰好で現れた彼女をアウグストは迎えた。
「もう少しでパスワードを手に入れられたわ。なのにあんたの手先が邪魔したのよ」
彼女は嘘で切り出した。
冷たい大理石のテーブルの向こうで、アウグストは無表情に返した。
「なぜその話を知っている?」
リヴィアの表情が凍り付いた。
彼女はここでの会議に出席しておらず、マッテオのノートパソコンのことは一切知らないはずである。
アウグストはネイサン達に解散を言い渡し、二人で大広間に残った。
ネイサンは帰り際盗聴器を仕込む。二人の対話が聞こえて来た。
「あなたのミスをカバーしようと思ったのよ」
「その結果、より状況は悪くなったわけだ。全く余計なことをしてくれたな。君がいなければ、あんなウサギ一匹、仕留めるのは簡単だった!」
「絵を手に入れないといけないのよ。彼女を殺せばそれも無理になったわ。あんただって焦ってミスをしたくせに、自分は何も悪くないというわけ?」
「恩着せがましいことを言うなら、完璧に遂行してからにしろ」
ダンッ!と大きな音がし、リヴィアのうめき声が聞こえた。
「なあリヴィア、分かってるんだ。分かっていたが、見逃してやったんだ。君がいつか私を裏切るつもりでいたことをな。あの小娘はどうだ?カテリーナ、君の本当の名前だな。その名を与えたあの小娘。君に情報を流していた二重スパイだ」
リヴィアの荒々しい息遣いが聞こえてくる。
アウグストに首を絞められたか。
裏切りを許せないアウグストだ。放っておけばリヴィアは殺されかねない。
その場合、彼自ら手を下すことだろう。他の女性なら別でも、リヴィアに関しては。
次の瞬間にはジッパーを下ろす音と、衣服を裂くような音が聞こえてきた。
「……! やめて、やめて!」
「なあ、なぜ裏切る?君を独房から救い出し、大金を稼がせてやった。店も与えてやった。ああ、そうだ。最後に君がもっとも望んでいたものをやろうか?」
「いや……!」
「嫌?よく言う、画面の向こうで私の名前を呼びながら快楽に溺れたじゃないか。求めていたものを与えてやる。これで最期だからな。せめてもの”はなむけ”だ」
アウグストの激しい息遣いと、リヴィアの泣き叫ぶ声。ほとんど悲鳴だ。
ネイサンはさすがに気分が悪く舌打ちをしたが、かといって何も出来ない。
やがてアウグストのくぐもった声と、リヴィアのすすり泣きに変化した。そのままかき回すような水音がして、対話が続けられた。
「嫌がる割にはずぶ濡れだな。おっと、私のが垂れて来たぞ。これが欲しかったんじゃないのか?全て飲み干せよ、売女」
「もうやめて……やめてよ……裏切るつもりじゃない……」
「じゃあなんだと言うんだ?」
「ねえ、おかしいと思わない……?あのタイミングで、私も、あんたの暗殺者も、邪魔されたのよ……」
ぴたり、と音が止まった。
リヴィアは息を乱していたが、そのまま続けた。
「組織内に……本当の裏切者がいるのよ……ねえ、カテリーナと私は……あなたともっと楽しもうって思っただけ……裏切るわけないじゃない……」
「……本当の裏切者だと」
「そうよ。私の家に、あなたのいる場所をうつす、監視カメラがあるの知ってるでしょう……。見ればわかるわ……」
リヴィアの声に甘いものが宿ってくる。やがて耐え難い欲情を現した、獣のような喘ぎ声に変わっていった。
ネイサンはすぐにレオナルドに連絡を入れる。
『リヴィアの家だ。監視カメラを確認するつもりだろう』
それから、二重スパイだというカテリーナだ。
ヴィットリオは、金髪で、背の高い賢い女だと言っていた。ネイサンももちろん彼女を知っている。
だが、どこにいる?
しばらくカテリーナを見ていない。
モナコの高級マンションの一室でアウグストが見たものは、カメラに気づいていない様子で踊りながら掃除をするスキンヘッドの男だ。
彼がタオルでカメラとその周りを乱暴に拭いた直後、部屋には誰も映らなくなった。
おかしい。
彼がマジシャンだと言うなら別だが、掃除道具も全てごっそり消え去るなど。
「……ほう」
思わず声が漏れた。頬が勝手にひくつくのを感じる。
「……これではっきりしたでしょう?」
リヴィアは甘えるように言うと、アウグストの肩から胸元へ手を伸ばす。
繊細な指が体中を撫でた。
「……奴はヴィットリオとか言う男だったな。そういえば、最近姿を見ていない……」
「彼が裏切り者よ。でも、一人でここまで思いつく?」
「奴はカジノ・バーで乱闘が起きた際、私を守った……それすら寸劇だとしたら……」
「協力者がいるのよ」
リヴィアの指が首から顎を撫でた。
パスワード……それを盗んだ次は?あのパソコンがなければ、パスワードなど無用の長物だ。
アウグストは持ち込んだノートパソコンの電源を入れた……すぐに応答があり、びっくり箱から飛び出る黄色のおもちゃの映像が映し出された。
「……クソが!」
オテル・パラディソの地下駐車場にネイサンはいた。通話相手はレオナルド。
「二人を確認、引き続き監視するつもりだ」
チームから報告があった、とレオナルドはネイサンに報告した。
「パソコン奪取に気づいた様子だったらしい」
「奴の行動をつぶさに監視してくれ。手負い猪ほど予測できない者はない。進藤からロッカ・ディ・ルチェの地図は送ってもらってるよな?」
「ああ」
ホテルでのパーティー。
コンサルタントの顧客が誘った、予定外のイベント。
あれほどのチャンスはなかった。
その時に進藤に手渡したのはクラネ・ジェーロの名簿と古城ロッカ・ディ・ルチェの地図だった。
こればかりは履歴の残るパソコンでは書けない。手書きの書類を直接渡したのだ。
だがチャンスはピンチでもある、旬果を一人にするわけにもいかない。彼女を何としてもホテルに誘わなければならなかった。
レオナルドが続けた。
「……ロッカ・ディ・ルチェか。あそこは迷路みたいだったぞ。だが捜査のためには必要だからな」
「アウグストは用意周到な奴だ。一筋縄じゃいかない……すまないが、俺もワナがあるかまでは確認できていないんだ」
「わかってる。だが奴の犯罪歴から言えば、爆発物も取り扱ってるようだ。爆弾処理班を連れて行く」
「……無事にな」
「ああ。お互いに」
レオナルドとの通話が切れると、次は進藤だった。
だが声は彼のものではなく、より柔和なもの。
「どうも、初めまして。高梨です」
「……あなたが高梨さん」
「こんな形でのご挨拶で何ですが、ご苦労様です。武器密輸に関わった男とテロ首謀者を今朝逮捕しました」
「それは良かった……」
そのためにネイサンは3年間も潜入していたのだ。武器密輸の量は大きく、テロが起こすつもりかもしれないと言われた、そんな事件である。
「ええ。ですから、安東くんの役目は終わりました。帰還許可を出せます。もうパソコンは押さえたわけですし、そちらに任せても良いのでは、と」
「……」
帰還?
ネイサンはすっかり忘れていた。潜入捜査の目的は果たしている、と。
だが……
「いえ、まだ……」
「しかし、3年間ですよ。長期間による潜入は大きな負担になったでしょう。マッテオを抱き込み、裏切らせたのは妙案でした。彼は残念な結果になりましたが、お陰で捜査は進展。そちらにも貢献されたでしょう?青野さんも事情を知り、お待ちになっていますよ」
「彼女とは……」
「さすがに分かってますよ。利用したわけではないんでしょう?それについてはお咎めなしです」
胸がすくような感覚があった。
そう、もう終わったのだ。ネイサンが帰国しても誰も咎めることは出来ないだろう。
ネイサン自身を除いては。
「高梨さん……」
「……なんでしょう」
「……私はまだ帰れない。いえ、帰りません。奴を見届けるまでは……」
アウグスト。彼の思考、精神に一番近いのは、おそらく自分なのだ。
職権乱用かもしれない、あるいは、私情が挟まっているかもしれないが、彼を追うのは自分にしか出来ない、とネイサンは気づいていた。
高梨はたっぷり沈黙した後、言った。
「そう言う気がしました」
「彼女には……」
「分かってます。こちらからも出来るだけバックアップしますよ」
「ありがとうございます」
「まあ、そうだろうと思ったんですよね……」
「探りを?」
ネイサンが思わず笑うと、高梨も笑った。
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