「コキュートス。ギリシャ神話の冥府に流れる川。裏切者を許さぬ氷地獄のこと」
その頃、ネイサンはコンサルタント業をこなしていた。
昼にはロッカ・ディ・ルチェに顔を出すことになっている。
今日のアウグストのボディーガードはヴィットリオ。
帰り道、銀行員風の変装をしたレオナルドがスマホを取った。
それと同時に彼は紙袋をその場に置く。
ネイサンはたっぷり1分待ってから通話に応じる。
「今日決行だろ」
「ああ。準備は整った。バレる前にやる」
「俺に出来ることは?」
「5分、注意をひきつけてくれ」
「わかった」
通話が切れたが、ネイサンはレオナルドがスマホを直してからさらに2分待ってジャケットに納めた。
彼が立ち去り、残された紙袋をネイサンは回収した。
中身はノートパソコン。
マッテオが残したあのノートパソコンそっくりに傷まで再現した、ダミーである。
ヴィットリオとネイサンが、それぞれのタイミングで小型カメラで写したものを基に作られたのだ。
ネイサンは休憩を取るため、オテル・パラディソへ。
やや気合が入り過ぎている。
気分を落ち着けなければ、焦ればミスをしてしまうものだ。
「コーヒーを」
「ここは喫茶店じゃないんだよ。客になりたいなら宿泊を」
支配人は呆れたように言った。ネイサンは彼にいつもこの表情をさせてしまう。
「失礼した」
「構わないけどね。ほら、座りな」
カウンターに案内された。いつもと同じ、奥から3番目の席。
喫茶スペースはいつも空席が目立っているが、隠れた名店なのだ。支配人の淹れるコーヒーは上品で、彼の性格をそのまま表したような繊細かつ力強い味。
「何やらいい顔をしている」
支配人はネイサンの目の周りを指先でぐるりと一周した。
「白目が青くなると、勘が冴えわたるというね」
「今の俺はそうだと?」
「ああ。男の顔だ」
「……支配人はよく見てるな。これでもポーカーフェイスには自信があったんだけど」
ネイサンは香り立つコーヒーに、少しだけ気をほぐした。支配人の人柄も手伝ったのだろう。
「何年、接客業をしてると思うんだい?私からすると、君も、アウグストも、ひよこみたいなものだよ」
アウグスト。
その名が彼の口から出ると思わなかった。ネイサンは目を見開いた。
「いいかい? アウグストがなぜこの街で帝王を気取れるか、賢い君なら分かっているのだろう」
「……ああ」
彼の事業は街の発展に欠かせなかった。それは確かだ。
道路を舗装し、店を作り、客を招いた。
全ての店に言えることだ、客がいなければ商売は成り立たない。彼は人の欲望を利用し、客を呼び込み、利益を傘下の店と街にもたらしたのだ。そして誰もが嫌がる汚れ仕事も請け負った。だがその方法は……。
「だが見過ごせない罪も……多い」
「その通り。善人は苦しめられ、女性は売られ、罪なく命を奪われた者は数知れず。彼の栄光もまた、犠牲者を生んだ。彼を哀れと思う一方で、もう救いようがない事実に誰もが呆れているんだ。彼も、彼の近くにいる者も、ただアリジゴクに自ら飛び込んだだけだとね」
「……」
「渦中にいる間はわからないのさ。そして人は自分の苦しみを正当化したがる。本当は小さな悩みなのに、大きく、複雑なものにしたがる。そうやって自らを「崇高な悩みに苦しむ帝王」にしてしまうんだよ」
「支配人……?」
彼は何を話そうとしているのか?
だが、途端に視野が広がった気がした。
そう、アウグストに囚われてはいけない。
自分自身にも囚われてはいけない。
「運命の女神は勇者に味方する。ネイサン、君なら大丈夫だろう。だが一つ思うのは、全てを背負う必要はないということだ。アウグストは自らインフェルノへ堕ちた、そこに同情は必要ない。同情は相手を貶める感情だ。今は君自身の使命だけを信じなさい」
ネイサンは彼の目を離さず見つめたまま、眉を寄せた。
「……なぜ?」
「君のことを知っているか?それは君、接客業を舐めちゃいけないな。匂い、目、姿勢、言葉。あらゆるものが君自身を自己紹介しているんだよ」
思わず髪をぐしゃりとかきあげる。思わぬところから得た深い理解に、ネイサンは一本取られた気分だった。
いっそ爽快である。
「……恐ろしいだ。あなたが捜査官になったら……」
「傍目八目、という奴だろう。渦中にいないから、わかるのさ」
アウグストへの同情。
どこかに沈んでいたその欠片。
支配人の言葉が、心の奥底に隠れていたその感情に触れた。アウグストに対するわずかな同情、そして自身の使命に対する疑念。それらが一気に表面に浮かび上がってきたのだ。
彼と自分は似ているかもしれない。
疑い深く、慎重で、簡単には心を開けない。
だが同じではない。
「彼を真似てはいけない。君が、君の、使命を果たすこと。それだけだ」
ネイサンは行ってしまった。
決意に満ちた顔。火花を散らすように燃える目。
「若いなあ」
と、支配人はつぶやいた。
ロッカ・ディ・ルチェにはアウグスト、幹部たち、側近たちとネイサンが揃っていた。
指示通り、ヴィットリオはネイサンの顔すら見ずにアウグストの背後を守っている。
ボディーガードは6人。
なんということはない、カメラはすでに細工済みだ。清掃員でもあるヴィットリオは仕事のふりをしてカメラ前に小さな小さな写真を張り付けたのだ。
今は、隙をついてノートパソコンを入れ替える。それで終わる。
大理石のテーブルの向こうでアウグストが口を開いた。
「仕事は順調か?」
幹部たちはそれぞれに報告をあげる。
ネイサンはビジネスバッグから書類を出した。新規顧客のリストだ。
そしてバッグの中、黒い布をかぶせたものがある。ダミーパソコンだ。
ネイサンはバッグを奥の椅子に置いた。
「悪くない」
アウグストはそう言ったが、一人の幹部に冷たい目を向ける。
「ずいぶん売り上げが落ちたな」
「悪い、カポ。車の事故が減ったんだ」
「だったら起こせばいい。何のための修理工場だ?」
アウグストのお小言が続く。彼の静かな怒りにその場の者は緊張感を高めた。
そこにネイサンのプライベート用……としてヴィットリオに持って来させたあのスマホが鳴った。
ネイサンはヴィットリオに一瞬だけ視線を寄こす。
「なんだ?」
アウグストがいらだちを隠さずネイサンを見た。
「すまない。デートの誘いだ」
「シュンカ・アオノか?」
「いいや……」
アウグストに笑って見せ、幹部たちも口をゆがめてネイサンの失態を笑う――その時だった。
ドォーン、と大きく響く音。風圧が起き、ロッカ・ディ・ルチェまで揺れるかのような爆音が響いた。
(ずいぶん派手だ)
ネイサン達は窓に走る。
見れば爆破により砂煙が起き、詳細がつかめない。
「何事だ?」
大広間に混乱が起きた。
そして停電が起きる――作戦通りだ。
ネイサンは振り返り、ヴィットリオは猫のように物音立てずに行動した。
わずか10秒程度の停電。すぐに復旧すると皆一斉に話し始める。
「花火工場か?」
「いや、待て、パトカーが走ってる!」
「クソ、カポ、逃げましょう!」
ボディガードが彼を立たせようとしたが、アウグストは静止したままだ。
「動けば見つかるぞ」
「アウグストの言う通りだ。ここまでは入ってこれない」
ネイサンは静かに言った。ロッカ・ディ・ルチェは要塞だ。通路は入り組んでいる。
そこにも様々ワナが仕掛けられているのだ、地図がなければわずかな時間では攻略できるわけがない。
「何だったんだ?」
「方角から行って、花火工場です」
「事故か」
「あとで調べますが、事件を起こす予定はありませんでしたから、事故の可能性が高いはずです」
幹部は冷静に説明し、アウグストは頷いた。
「花火ね。ホテルでのパーティーでも使われていたな。夜空に打ち上げれば美しいが、こんな形では見るも無残だ」
アウグストのあくまで落ち着いた姿に、幹部たちも徐々に落ち着きを取り戻した。
彼の姿に敬服するようなため息をもらす者までいる。
ネイサンはちらりとヴィットリオを見た。
彼はネイサンを見る代わりに、鼻を二度こすって見せた。
成功、の合図である。
ずいぶん早かった気がするが。
「アウグスト……そういえば、パスワードは良いのか?」
「それより気になる事がある」
アウグストの声は誰にも有無を言わせないほど、強く響いた。
皆の視線を集めると、彼はようやく続ける。
「つまらん裏切りだ。レオナルドの一件で落ち着いたかと思えば、このところまたその兆候が見られるぞ。どこの誰かは知らないが、覚えておけ。裏切者はこうなると」
アウグストは写真を取り出した。
かつて彼が殺したという、組織の裏切者たちの写真だ。
「部下をコントロールしておけよ」
そう言うと、アウグストは席を立った。
翌日、ヴィットリオは日本へ渡った。
彼の血縁の家族はイタリアだ。だが警察の保護下で移住し、妻は日本で待っている。安全だ。
ヴィットリオがネイサンに渡したのはマッテオが残したノートパソコン。
これで事件は解明に向かう。
スマホが鳴った。レオナルドだ。
「どうだった?」
「花火工場は盲点だった。良い目くらましになった」
あの時スマホが鳴ったのは、レオナルドからの発破予告である。
「パソコンは手元にある。……後はパスワードだが……」
「ああ。日本のアラタ・シンドーからの連絡待ちだ」
「パソコンを回収してくれ。俺の自宅は見張られてる。オテル・パラディソの一室に置いておくから……」
「分かった」
ネイサンはヴィットリオの思ったより早い仕事に驚いたが、棚には鍵がかかっていなかったのだ。
彼も「ラッキーだった。時間がかかると思ったけどよ」と興奮気味に話していたくらいである。
用なしとなったキーピックをネイサンは回収した。
疑い深く、慎重で、隙など見せないアウグスト。
誰にも素顔を見せない彼が、ようやく見せた小さな隙。
「……ラッキーだ。本当に」
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